2020年4月 2日 (木)

読書日記「日出ずる国の工場」

 新潮文庫。村上春樹。

 村上春樹が日本各地の工場を訪問するエッセイ。
 工場といっても、人体標本を作る工場、結婚式場、牧場、アデランス、CD製造工場等と、中には「工場なのか?」というものも入っている。
 人体標本の工場は京都にあり、現在も幅広い商品を製作されている模様である。
 アデランスの裏側が面白く、過去にそういえばカツラのクレジット契約が成立したかどうかの事件で勝訴したことを思い出した(当然私は消費者側である。)。その事件はしばらくある裁判所で起案の題材となっていたそうである。アデランスではなかった記憶であるが。。。
 故・安西水丸さんの絵も素晴らしい。
 だいぶ前の本であるが、今読んでも面白い一冊であった。

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2020年4月 1日 (水)

新年度

 弁護士会も今日から新年度である。
 私自身は、平成8年4月1日に弁護士として働き出したので、今日から25年目ということになる。

 未だ若手のつもりでいるのだが、月日の経つのは早い。
 私が弁護士になった時、25年目の弁護士といえば、超ベテランという印象であったが、自分自身がなってみると、さほどでもない。
 また、60期はまだまだ若手かと思っていたら(私は司法修習48期)、登録して13年も経つ。
 懇親会などの費用の傾斜も見直していかないといけないと最近思っている。

 初日は、弁護士会の各委員会の1回目が20分ずつあり、委員長など役職を決めたり、手続的なことのみを決める。
 私は、法律相談センター運営委員会、消費者・サラ金被害救済センター運営委員会、災害対策委員会、弁護士偏在問題検討委員会、犯罪被害者支援委員会に所属しているが、日弁連の公設事務所・法律相談センター委員会の委員長をしていることもあり、法律相談センター運営委員会以外はほぼ出られておらず、メーリングリスト上で意見を述べるなどにとどまっている。

 気持ちを新たに、今年度も頑張っていきたい。

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2020年3月31日 (火)

桜のつぼみ

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 庭の桜のつぼみが膨らんできた。
 何回か書いたが、盆栽の15㎝くらいの桜を買ったものが成長し、今では2メートル近くある。
 毎年花をつけてくれるので楽しみにしているが、今年は新型コロナウィルスのため、花を見て喜んでいる場合ではなくなってしまった。
 一日も早い終息を祈るばかりである。

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2020年3月30日 (月)

今週の小次郎

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 元気に遊ぶ二代目小次郎である。
 もうすぐ3月も終わるが、いつになれば新型コロナは終息するのであろう。
 今週も頑張っていきましょう。
 

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2020年3月26日 (木)

ゲームがなかった頃の昔の遊び

 外で子どもが遊んでいると、叱られるというような報道を読んだりしている。
 コロナの影響で自宅待機はつらいであろう。
 子どもの頃は外で遊んでばかりいた。

 ゲーム機が出てきたのは、小学校の途中だったように記憶している。
 オクトパスというゲームがあったが、これはただひたすらタコの足をかいくぐって宝を取って戻るという単純極まりないものであった。
 だんだんタコの足が速くなるのである。しかも何種類もゲームは入っていなかった。

 たまに喫茶店に父親にご飯につれて行ってもらった時にやる据え置きのゲーム機でのゲームが楽しみであった。もちろん、直ぐにやられるのだが。。。ギャラガというゲームなどであった。
 金持ちの家に遊びに行った時に、自宅内にゲーム機が置いてあり、お金を入れなくても無限にゲームができるということを知り、驚愕したことを覚えている。

 ゲーム機がなかった頃は、外で遊ぶしかなかったり、ゲーム機も普及するまで時間がかかったので、外遊びをしていた。
 ドッチボール、色鬼、ろっくん、名前呼びん、ベッタンなどなど。細かい内容は割愛。

 あの頃は外で遊ぶしかなかったのだが、最近は外でそうした遊びをしている子どもも見かけない。
 
 オリンピックも延期となったが、一日も早く事態が終息することを祈るばかりである。

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2020年3月25日 (水)

読書日記「戦国時代」

 講談社学術文庫。永原慶二。
 戦国時代について様々な角度から戦国時代の黎明期から終焉まで検証した一冊。
 マニアック過ぎる内容で、一般人では全く読む必要はないであろう。
 しかし、戦国マニアの私はこういう本も読むのである。
 一箇所歴史的に見て明らかな間違いが記載されているのが気になった。
 ほとんどの人に参考とならない読書日記である。

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2020年3月24日 (火)

信念の裁判官

 「死亡被害者の命の価値は駅頭で配られるポケットティッシュのごとくに軽い」
 平成8年、私が弁護士になった時に京都地裁で交通事故の死亡案件で、求刑を超える量刑を言い渡した際の藤田清臣裁判官(当時)の量刑理由の中の言葉である。これは私は何ら関わっていた事件ではないが、当時は新聞などでかなり報道された。
 
 藤田裁判官は前記の判決からも分かるように、信念を持たれた裁判官であったと思っている。
 私は今は被害者支援の関係から、刑事事件は原則として引き受けないのだが、若い頃は国選刑事弁護も担当していたので藤田裁判官の担当部の事件もさせていただいたことが何回かある。
 その中で思い出深い事件があった。
 執行猶予が確実な事案であったが、通常は、判決言渡は2週間後である(ちなみに、内容自体は人を死傷させたような重篤な事案ではなかった。)。
 この事件は、私のミスで弁論要旨を事務所に忘れてきたため、うろ覚えで汗をかきかき弁論を述べ終わり、被告人が最後に謝罪をしたところ、突然「今から判決を言い渡す」と言われてその場で執行猶予付判決をもらった。私は呆然。被告人も呆然。
 「もう二度とこんなことしちゃダメだよ。かわいい奥さんとお子さんがいるんだから」(うろ覚えの記憶)とニヤリと笑いながら言われて(これもうろ覚えなのでひょっとしたら笑っておられなかったかもしれない)、さっと法服を翻して戻って行かれたことを記憶している。その姿がものすごくかっこよかった(月並みな表現ですいません。正直、しびれたのである。)。
 情状証人で、奥さんがベビーカーを押して雨の中カッパを着て法廷に出てきていたのであった。

 終了後、書記官に聞いたところ、「部長は執行猶予事案では、身柄拘束を無意味に長引かせないために即日結審して即日言渡されます」ということであった(もちろん、現在の刑事訴訟法の改正前である)。
 様々な場面で、信念の人だと感動させていただいたことを覚えている。勝手に敬愛していた裁判官のお一人である。

 藤田部長は、現在は大阪で弁護士をされているようである。
 藤田先生、勝手に書いてすいません。
 私も信念をもった法律家であるよう頑張ります。

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2020年3月23日 (月)

今週の小次郎

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 一粒だけご飯を残しているのに、「いや、もう全部食べたし」という感じでオヤツを主張する二代目小次郎である。
 この点についてだけは主張が強い。

 先行きが見えない情勢ですが、今週も頑張っていきましょう。

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2020年3月19日 (木)

読書日記「裁判官も人である」

 講談社。岩橋達哉。

 裁判官のリアルに対して迫ったノンフィクション。
 私は司法試験に合格した時は任官希望で出していたのだが、修習が始まって少し経過した時に「裁判官は自分には合わないな」と思って弁護士志望に転じた(元々検察官→弁護士→裁判官→弁護士と志望がコロコロ変わっていて、修習の間に、裁判所からも検察庁からもお誘いがあったが、いずれも断った。)。
 これを読むと、裁判官でありつつも自分の信念を貫くことがいかに難しいことかと分かる。
 よく知っている裁判官もたくさん掲載されている。

 私の知っている裁判官は、出世に興味がなく、しかし世の中のあり方を変えるような判決を書いているが干されたりはしていないが、そういうことは希有な例なのかなと思った一冊であった。
 裁判所内部がこんな状態では、多くの裁判官はいい判決など書けないよな、とより思わせられた一冊であった。

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2020年3月18日 (水)

悩みのある判決

 判決の劣化のところでも少し書いたし、過去にも書いたこともあるのだが、いい判決というのは、「悩み」がある。
 負ける方の主張や証拠に対して、「なるほど、これこれの主張と証拠からすれば・・・」として負ける方の主張や証拠に対しても一定の紙幅を割いて検討した後、「しかし、これこれの証拠からすると、敗訴側の主張は認められない。その理由は・・・」などとして続く。
 こういう判決は、負けても控訴理由書が書きづらいし、勝った時も控訴審で覆る可能性が低くなると思える。
 先日、こういう判決を一つもらった(勝ったからいうのではないが)。

 その一方で、悩みのない判決は、「これこれこうである。」「だから主張は認められない」とだけ言い切りで書いてあって、「いや、あれだけ証拠も出して、主張もしたのに、それで終わりかい」という判決である。書きやすい判決というか、裁判所が書きやすい方向の証拠だけ採用して、採用しなかった証拠や主張には触れることがない。
 こういう判決は負けても控訴理由書が書きやすいし、勝ったとしても控訴審では不安が残るのである。
 最近はこちらの判決の方が増えていて、判決を読んでも納得できないことが多い。

 もっとひどいのは思い込みによる判決である。最終準備書面で証拠について詳細に書いたのだが、証拠を見ないで、「きっとこうだった」というような思い込みだけで判決を書くのである。過去に地裁支部でもらった判決は、控訴審で完全に覆った。証拠関係からしたら、地裁支部のような認定はどうやってもできないのである。高裁の裁判官も、「一審判決はさすがにひどいと思いました。代理人が丁寧に証拠評価を書いているのに、全くそれを読んでいないとしか思えないですね。」と和解の席で言われていた。

 裁判所が忙しいのは分からないではないのだが、代理人も必死で準備書面を書いて、証拠も提出しているのだから、三行半のような判決はやめて欲しいと思う今日この頃である。

 

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