2018年6月22日 (金)

スイカ

 昨年いくつか割合甘いスイカができたので、今年も庭のプランターでスイカを作っている。

 2つほど、大分大きくなってきた。
 父親が、スイカが落ちないよう、傷つかないよう、ネットで保護してくれたようである。
 甘いスイカができるとよいのであるが、さてどうであろうか。
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2018年6月21日 (木)

読書日記「未来の年表2」

 講談社現代新書。落合雅司。
 未来の年表を読んで衝撃を受けたのだが、その続編ということで購入。
 これを読んでいると、年金は絶対にもらえないだろうし、長生きしても仕方がないという気にさせられる。
 人手不足という声が聞かれるが、人手不足ではないどころの騒ぎとなることは間違いなかろう。

 ネット通販も、それを運んでくれる人がいるから成り立つのであるが、どこまで現在の状況が続くのか、暗澹たる気持ちにさせられる一冊である。 
 ただ、知っておかないといけないので、一読をお勧めする。

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2018年6月20日 (水)

意識しないで予定を入れた結果

 意識しないで予定を入れた結果、先週の金曜日は名古屋に泊まりで会議、19日は東京で訴訟、22日は泊まりで仙台で会議、25日は終日東京で日弁の会議、27日は尋問に出ないといけないという状況となっている。

 常々若手に、「先を読んで予定を入れるべし」と言っているのだが、お恥ずかしい状況である。
 この間を縫うようにして、準備書面やら書いているので、現時点でかなり疲弊している。
 そして地震で交通機関のマヒである。
 弱り目に祟り目とは、昔の人はよく言ったものである。
 地震でお亡くなりになられた方には、心からお悔やみを申し上げるとともに、これ以上災害が起きて欲しくないと思う日々である。

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2018年6月19日 (火)

読書日記「サハラに死す」

 ヤマケイ文庫。上温湯隆。
 サハラ砂漠をラクダで横断しようとして、サハラ砂漠で亡くなった著者の物語である。
 著者の日記から構成され、亡くなった以降は編者が時系列でその死を描いている。

 何度も死にそうになりながら、無謀な計画で、たいした装備もなく、なぜ彼はサハラに向かったのだろう。
 彼の死は多くの若者に衝撃を与え、その後サハラを目指す者も多数出て、そうした若者からはバイブルとされた。
 彼の踏破距離は当時では考えられない距離であった。
 私は冒険に出ようとは思わないし、過去にしたこともないが、こうした作品を読むのは好きである。
 自分ではできないことを、現実に行った人の記録を読むことで足りないものを埋めているのかもしれない。
 願わくは、著者がサハラ砂漠を横断した記録を読みたかった。

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2018年6月18日 (月)

リラックスしてるワン

 口を少し開けて舌を出している表情は、犬がリラックスしている表情だそうである。

 ある日の二代目小次郎であるが、そんな顔に見える。
 梅雨で雨が多いですが、今週も頑張っていきましょう。
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2018年6月15日 (金)

ジュリーになった私

 先日、サッカーでボールを持っている敵の内を切った。普通は内を切ると、縦に蹴るか、後ろに戻すしかないのである。

 しかし、相手の選手はなぜか私を目がけて蹴ってきたのである。普通はしないプレーなのだが。
 とっさに左に避けたが、避けきれず、右目にまともに当たってしまった。
 避けなければ、鼻にまともに当たっていたであろう。
 これを書いている時点で、まぶたが紫になっており、昔のジュリーのようである。
 以上です。

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2018年6月14日 (木)

読書日記「アンデスの黄金」

 上下巻。扶桑社ミステリー。ジェームズ・ロリンズ。
 アンデスで発見されたミイラの頭部に詰められていた未知の物質の正体は何か。

 ミイラが掘り出された遺跡は爆破され、発掘に携わっていた学生達は地下に閉じ込められてしまう。黄金のヘビとは。悪魔の血と呼ばれるものの正体は何か。
 インカの神話に基づいて物語はどんどん展開する。
 筆者は神話と科学を融合させて物語を展開する超一級のエンターテナーであり、映画のような展開と知的好奇心を満たしてくれる。
 時々はこうした息抜き的作品を読まないと、読書も重いものになる。
 インディージョーンズ的な話が好きな方にはお勧めである。

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2018年6月13日 (水)

読書日記「裸足で逃げる」

 at叢書。上間陽子。

 沖縄の夜の町で虐げられて、それでも強く生きていく少女たちの物語である。ノンフィクションである。

 筆者は、夜の町で働く少女たちからヒアリングを行い、この本を書いた。
 
 壮絶過ぎて、読んでいて心が痛くなるエピソードも多数である。
 多くの女性は早すぎる結婚をして、離婚していたり、未婚のまま子どもを産み、父親からは養育費をもらえていない。子どものために、無理をして夜の世界で働く少女たち。
 重度の障害を負う子どもと生きて行く少女。男性から重度の暴力を受ける少女。
 深い闇に閉ざされたような世界で、しかし、少女たちは生きている。
 筆者自身が判断をすることなく、ただひたすら少女たちの話を聞き、そしてそれを記録した。
 これは、もっと世に知られていい一冊である。
 

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2018年6月12日 (火)

子殺しと量刑

 漢を建国した劉邦は、項羽に敗北して逃走する際、馬車に乗ろうとした子2名を馬車から蹴り落としたことがあった。夏候嬰という武将はこれに気づいて子を拾い上げ、劉邦は蹴り落とすことを3回繰り返したという。

 儒教においては、子は親を生かすために、むしろ自ら馬車から降りないといけないとされるので、劉邦の行動は親としては当然ともされる。確か、司馬遼太郎の項羽と劉邦(新潮文庫)で司馬がそのように述べていたぼんやりした記憶がある。
 子は枝葉であり、幹である親が生きている限り子は生まれるが(現代日本ではそうも言えないが)、親が死ねば子は生まれないからである。
 保護責任者遺棄致死罪、あるいは子に対する傷害致死、子殺しの量刑が軽いのは、こうした江戸時代の儒教の影響が未だ残っている可能性があるのではないかとも思われる(元々尊属殺人の法定刑が重かったのも同様の流れであろうと思っている。違憲とされたが。)。
 調べた訳ではないので、あくまで私の個人的考えであるが。
 親族の間の殺人の場合、被害者参加がされる事件もあるだろうが、子殺しの場合、その子の無念さや親の理不尽さを、遺族として法廷で伝える役割をする者がいない場合も多いのではないか、と思われる。
 配偶者の一方が他の配偶者が知らない間に殺めてしまったような場合は、犯人ではない配偶者が被害者参加する可能性はあり得るが、両方の親が子殺しに関わっているか、積極的に加担せずとも静止することもできなかった場合は、被害者参加することもないであろう。
 孫がかわいかった祖父母の参加はあり得るかもしれないが、犯人は自分の子であるとすれば、これもあまり期待できないように思われる。
 亡くなった子どもの声は、誰が裁判官に伝えられるかというと、検察官しかいないことになるが、裁判官に直接被害者からの被害感情の峻烈さが伝わらない、伝える術がないという事件では、それが量刑に響かないということもあり得るような思いでいる。
 遺族がいないか、あるいは居たとしても前述のような理由で、被害者である子のために裁判官に伝える者がいない事件では、依頼者がいないことから、被害者支援をする弁護士としても義憤にかられることがあったとしても、できることがない。
 また、女性に連れ子がいる場合では、女性の中には母であるよりも女であることを選択してしまい、男性側についてしまう場合もあるようにも思う。
 離婚事件でも、時に母であるよりも女であることを選び、子を捨てて不倫相手の男性の下に走る事件を今まで幾たびか見てきた。
 子どもは親が大好きである。どんなに虐待されても、親からの愛情に飢えている。
 目黒で5歳の子どもが虐待され死亡した疑いで両親が逮捕されたが、心からこのお子さんの冥福を祈るとともに、わずか5年で死ななければならなかったその事実に心が痛み続けている。

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2018年6月11日 (月)

挟まれたワン

 足の間に入ってきたので、挟んでやったのだが、特に慌てもせず、挟まれたままでいる2代目小次郎である。

 梅雨がやってきそうですが、今週も頑張っていきましょう。
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