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2009年8月 5日 (水)

読書日記8月5日

「キラー・イン・ザ・レイン」レイモンド・チャンドラー。ハヤカワ文庫。
 チャンドラーの短編集の1。他でも訳されているが、新訳ということで購入した。
チャンドラーは短編・中編のプロットを使い、あるいは改編して長編に焼き直したことで知られる。後のマーロウものの原型がここにある。マーロウを主人公にしたものもあるが、これは元々はマーロウではなかったようである。
 横溝正史もこれをよくやっていて、昔はこういう小説作法は珍しくなかったようである。

「トライ・ザ・ガール」も読んだ。これは短編集の第2巻。「さらば愛しき女よ」の原型がトライザガールである。ただし長編になる時に、大幅に改編されている。
 マーロウが「金魚」という作品で登場しているのはうれしいが(これも元々はマーロウではなかったようである)、訳でマーロウが自分のことを「俺」といっているのはよくない。やはりマーロウは「私は・・・」で始まる、「私」という訳がふさわしい。
 やたらみんなウイスキーを飲むので、何となくウイスキーが飲みたくなってしまう。

「司馬遼太郎が考えたこと 7」司馬遼太郎。
 6巻が私の自宅の机の上で行方不明になったため(途中まで夜にちびちび読んでいたのだが)、7巻を読んだ。司馬のエッセイがさえ渡る。中では、山姥であると称して、夫と別れて一人で自宅を文字通り建てて、一人で出産をし、自らを「バンジン」と呼ぶ女性の逸話が印象的であった。そのような「バンジン」の彼女も、自らの息子を自らの所有物と考えていて、息子に恋人が出来たとたんに、精神に変調を来したという逸話である。
 明治までは成人した男子は公のものという思想があったのであるが、昨今の思想の変調に「バンジン」までが同化されられていたのかという司馬の嘆きなのかなんなのかわからないが、司馬が書きたかったことであろうかと思う。
 巻末のエッセイでは、司馬作品の限界というような第三者によるエッセイが掲載されているが、司馬の作品は小説であり、小説である以上、そこに作者の解釈や自由度が入ることは当たり前であるから、史実を前提にどう書くかというところに焦点を当てるべきではなかったろうかとも思ったりした。

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