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2009年10月 8日 (木)

武田勝頼(2)

 長篠の敗戦後、武田不敗伝説は消え去り(実は信玄は何度か村上義清などに負けているのだが)、高天神城も落城した。そして1582年、木曾衆が裏切り、穴山梅雪も裏切り、織田・徳川の侵攻の前に常勝軍団であったはずの武田軍はもろくも崩れ去る。

 侵攻の前に兵はみな逃げ去り、1万人以上いた武田の兵のうち、勝頼に最後まで殉じたのはわずか10数名であった。
 勝頼に真田昌幸は、真田の城である上州岩櫃城は天然の要害であり、兵糧の備蓄もあり、上杉景勝とも連携がとりやすい(当時武田と上杉は同盟していた。形の上では上杉景勝が降伏した形)ので、そちらに落ち延びるように説得したが、甲斐出身でない真田昌幸を信用しない武田家累代の家老達の発言や、小山田信茂が、北条と連携して郡内岩殿城に落ち延びれば勝機はあるという説得をしたが為に勝頼は小山田信茂の城に行くことを決定するのである。
 これが勝頼の運命を決めた。

 1人だけ武田の滅亡に際して徹底抗戦したのは仁科盛信である。彼は武田信玄の五男(確か)で、仁科家を継いでいた。
 南信濃の高遠城に籠もり、城兵ことごとく抗戦し、上臈もなぎなたを取り戦い、武田武士の意地を見せつけたのである。

 勝頼は小山田信茂の郡内岩殿城に行こうとするが、小山田信茂は巧みに自らの人質を取り返すや、柵を設けて勝頼一行に対し鉄砲をうちかけてきた。彼もまた武田を裏切ったのである。
 戦後、信茂は織田信長により斬首されているが、新田次郎は武田家滅亡の際のこの現象を「人間のなだれ現象」といい、なぜこのようなことになったのかについて考察しているが、それは(3)の考察に譲りたい。

 勝頼を追う織田軍の追撃は厳しく、滝川一益の手のものにより勝頼は天目山手前の田野にて自刃し、首を取られ、ここに武田は滅んだのである。16歳の武田信勝も、自刃して首を授けることとなった。享年37歳。

 勝頼が酷評されているのは、長篠の戦いのほかに、北条との同盟を破棄してまで、上杉景勝と結んだ外交策の失策、武田家滅亡のあまりにもあっけない幕切れのためであろう。
 しかし、これらは本当に勝頼だけが責任を負うべきことかは、また別物であり、新田次郎はいい観点で武田勝頼を描いているといえる。
 

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