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2009年10月 6日 (火)

武田勝頼(1)

 今新田次郎の「武田勝頼」を読んでいるのだが(本屋で新装版が平積みになっていたので3巻まとめて買ってしまったのである)、新田次郎の武田勝頼では、長篠の戦いは一方的に武田軍が鉄砲でやられたのではなく、柵際で華々しく戦い、織田軍にも相当の損傷を与えたとある。
 長篠の戦いは、8時間という長さに渡って行われた戦いであり、8時間中、突撃を繰り返すという馬鹿な攻撃をしたはずがないというのであるが、正にそのとおりであろう。
 黒澤明の影武者では、鉄砲の前に突撃し、なすすべもなく打ち倒されて行く武田騎馬隊が描かれているが、あそこまでいくと、武田軍はタダのアホであるが、さすがに名将揃いの武田軍が愚直に突撃を繰り返したとは思われないからである。
 その一方で、新田次郎が取る説ではないが、信長は武田軍の馬を驚かせるだけでも鉄砲の効用はあったとする説がある。どこで読んだのか忘れたが、武田軍にはそれほどの鉄砲はなかったから、1000丁の鉄砲が交代に3連続で射撃される音というのは、武田騎馬隊にとっては初めての経験であり、馬は驚き、武田軍得意の騎馬突撃が出来ないというのである。
 ただ、この説だと、武田軍は騎馬突撃が出来ないだけで、武田軍の名だたる武将がみな討ち取られたという理由にはならない。
 現実の戦いでは、戦いのさなかではなく、退却戦の時に追撃されて討ち死にが多かったから、数の少ない武田軍が踏ん張って戦っていたが、退却に向かった時に討ち取られた武将も多かったのではないかなどと考えたりもする。
 甲陽軍艦は、全く史料としてはアテにならないので、信長公記の記述からはどのようにも取れるのである。

 武田軍が長篠で信長と家康と戦ったからには、武田軍には勝算があり、勝頼1人の決断ではなく、宿将や穴山信君などの大物親族武将も同意していたと新田次郎は描くが、これも真実であろう。勝頼だけが悪いわけではないのである。
 勝頼は勝頼の息子が長じるまでの後見人に過ぎず、信玄は跡目をはっきりさせず死んだこと、勝頼には、武田家の代々の名乗りである「信」の字がなかったことから、軽んじられていたのである。
 世間が考えているよりも穴山信君の権力は大きかったことも描かれているが、これもまた真実である。信君は、駿河一国の国主であったのであり、一個の戦国大名であったという見方も出来るからである。

 ただ、新田次郎の描く勝頼像にも問題はある。信長が非人道主義者で、勝頼はヒューマニストのような描き方をしているが、これは新田次郎が武田家に仕えた武将の末裔(だったはず)という思いが影響しているであろう。
 前にも描いたが、勝頼は大釜で罪人の親族に罪人を煮る火を焚かせて親族の前で罪人を生きながら煮殺したという史料があるし、そもそも武田軍は非情である。
 占領した城の婦女子は値をつけて競り売りにしたこともある。
 この描き方はやや勝頼を美化していると思われる。

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