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2009年10月 9日 (金)

武田勝頼(3)

 武田勝頼が後生で酷評されている理由について考えてみたいが、
1、長篠の戦いで宿将たちの反対を押し切って開戦し、鉄砲の前に騎馬隊を突撃させて壊滅的な敗退をした。
2、上杉謙信の死語、御館の乱で北条氏から出ている上杉景虎に味方せず、上杉景勝と同盟をし、北条氏まで敵に回した。
3、1582年に武田家を簡単に滅亡に導いた手腕のなさ。
 がその主な理由としてあげられるかと思われる。

 しかし、1は勝頼だけの責任でないことはここまで述べてきたことで明らかであろうし、2についても、上杉景虎に味方していれば、越後まで北条氏の領土となり、北条氏が武田家に敵対した場合には、さらに強大な敵を作ってしまうこととなるから、織田氏との北陸での緩衝地帯として上杉氏を生かしておいた方がよいという考え方もあり得るし、実際、北条氏政は、徳川氏に通じている疑いもあったのである。
 北条氏は上杉景虎からの派兵依頼に対し、越後まで兵を出さず、勝頼にのみ出兵を依頼している。
 結果論からの指摘であろう。

 3については、最後の武田家の壊滅的、瞬間的滅亡は、武田武士の気質によるものという指摘があり、武田信玄という神格的頭領を抱いて攻めて実利的利益を得ている時はいいが、そうでなくなると目先の実利に走る気質があったためという指摘がされているが、けだし妥当であろう。
 ただ、これは戦国時代後半の武士に共通しているところであり、実利に流されない武士の方が少なくなってきていたのであろう。信長が死んだあと、織田信孝が四国に討伐するために編成していた部隊も、瞬く間に逃亡してしまっているからである。
 三河武士の方が、その意味では実利に流されない気質があったということができるであろう。

 穴山梅雪、小山田信茂の裏切りもそのような流れでみることができよう。
 武田武士はその一方でのんきなところがあり、戦後、信長が、出てくれば許すという布告をするとぞろぞろと出てきて、次々に首を切られている。このとき、家康はこっそりと武田武士を殺さず召し抱え、後にこれらの武田武士は井伊の赤備えの中心を担うことになる。
 そのほか、武田信玄時代に実利で支配するために使用していた金山も枯渇してきたことも理由としてあげられるであろう。

 結局、武田勝頼一人にその責任を負わせるのは酷であり、彼が信玄に比べて劣る武将であったことは間違いないにしても、あまりにも勝頼に酷だというのが以前からの私の見解でもあるし、新田次郎もそのような観点で書かれていることから好感をもった次第である。

 武田家滅亡に際し、仁科盛信の奮戦だけが華々しいのは、きわめて寂しい感じがある。
 なお、戦後信長が勝頼の首実検をした際、勝頼をののしったが、家康は勝頼を褒め称えて武田武士はだからこそ家康に心服したというのは後生の創作であろう。家康を神格化するためのものであると思われる。
 文献によっては信長も勝頼の首の前で、「日本にかくれなき武将であるのに、このような姿になったのは武運がなかったためである」として、はらはらと涙を流したというものもあり、こちらが本当のところではなかったかと思う。

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