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2006年9月24日 (日)

若い弁護士は依頼してもだめなのか?

 2回ほどOJTの話を書いて、弁護士には一定程度の経験が必要と書いた。
では、経験がない登録したての弁護士はだめなのかというと、そうとばかりも言い切れない。経験のなさを熱意であったり、緻密な調査で補ったりして、ベテラン顔負けの活動をすることもある。
逆に、経験はあるが、歳がいってしまって、事件に対して熱意がなくなり、おざなりな処理をしている弁護士もいる。
ただ、紛争というのは、戦うばかりがよいといえない側面もあり、話し合いで解決しないとどうにもならない事件だってある。こうした事件で見通しを誤り、「イケイケドンドン」で突き進んで、事件がいかんともしがたい状況になることもある。
こうした場合に、解決を見据えて進行していると、依頼者は、「もっと私の有利なことを言ってやって欲しい」という不満がたまることなる。当然事件の見通しについて説明するのだが、納得されない人も中にはいる。
 逆に、100%自分の主張が認められないと、これを全て依頼した弁護士の責任に転嫁してくる人もいる。もめ事には必ず相手がいて、相手にも言い分があるから紛争になっているのであり、100%の解決というのは中々難しい。
このあたりが弁護士の仕事の難しいところなのである。依頼者にとって100%ではないかもしれないが、弁護士の目から見て最高の解決となったとしても、不満が残り、その点を、「事件に対する熱意がない」とか、「若いから経験がない」とか不満をたらたら述べられることもあるだろう。結果から遡って後出しでいろいろいうのはもっともやってはいけないことなのであるが…。
 逆に、私などの目からみて、たいした活動もしていないのに、多額の着手金・報酬をせしめて、なおかつ依頼者からも感謝されている弁護士もいる。こうした弁護士は、訴訟をする活動能力はないが、依頼者に不満を抱かせないこつを持っているようである。これも一つの才能であろう。
もちろん、私の場合も、ほとんどの依頼者は「依頼してよかった」「本当にありがとうございました」と言ってくれ晴れやかな表情で帰っていかれるのだが。
弁護士になってからの年数や経験だけではないので難しい。

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2006年9月23日 (土)

OJTその2

 引き続きOJTについて。
基礎的な知識をもって司法修習をし、その後弁護士になった後も研さんは必要であることは前回に書いたが、次に必要なのは実地でどのようなトレーニングを積むかが重要である。当たり前の話であるが、手本の対象となる弁護士は意外に少なく、修習時代の指導担当弁護士、ボス弁、仕事を通じて共同で事件をしている弁護士などの姿を見て学んでいくしかない。
修習指導担当もいい加減で、ボス弁もいい加減であったりすると、その弁護士の弁護士人生は悲惨である。私の周りにも、「自分では出来ている」と思っているけれども、周囲にいる全員からバカにされている弁護士はかなりいる。
さらに、ボスが費用によって事件処理の仕方を変えたり(お金になる事件は一生懸命やったり、名声が得られる事件はやるが、そうでない事件はやらない)、ボスが受けた事件について無責任であったりすると(すぐに辞任したり、事件の処理について基本的方針がないので、端から見ていたら何がしたいのかよく分からない)、「こんなもんでいいのだ」としてそういった処理をしてしまう。
 司法修習生の就職はなくなってきているが、そうだからといってあまりにも悲惨な事務所に入ると、あとの弁護士人生が狂ってしまうし、そのあたりが困るところであろう。
 だいたい、入りたいと思う事務所があるのであれば、その事務所の評判は、他の弁護士に飲み会で聞くとよいと思う。聞いて、反応が誰からもない事務所は、弁護士の中でも認知されていないので、どうかと思う。弁護士の中での認知度の高さというのも弁護士の力量を知る上では重要である。
また、「いいたいけど中々人の悪いことはなあ…」という微妙なニュアンスが返ってくる事務所は「よくない」といわれているようなので入らない方がよい。ただ、聞く人を間違えるとやっかんでそういったことを言っている可能性もあるので、必ず複数の弁護士に聞いてみることである。
逆に、相当複数の弁護士が、「あの弁護士はあほである」とレッテルを貼っている弁護士は間違いなく能力がないし、仕事のやり方がまずいのである。
そういう意味で、複数の弁護士から高い評価を受けている事務所は、ほぼ入りたいと思っても間違いないであろう。
ただ、こうした弁護士の中での評価と、修習生の評価とはずれることがある。修習生は、就職のために事務所訪問をした時に高いものを食べさせてもらえれば、「いい事務所」と思ってしまうが、それが本物かどうかは、他の弁護士の評判と合わせてみないと分からないのである。

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2006年9月22日 (金)

OJTその1

 OJT。いわゆるオンザジョブトレーニングである。仕事をしながら仕事を覚えていくというか、鍛錬されるということである。
 弁護士の世界でも、このオンザジョブトレーニング的要素は強く、いくら書籍上で知識があっても、現実の裁判や交渉で役立たなければどうしようもないが、それはもちろん基本的頭脳も関係してくるところはあるが、基本的には経験がものをいうところは大きい。
 インターネットなどである分野の専門家を標榜している弁護士と、その分野の訴訟で相手方となったことがあるが、非常に稚拙な訴訟進行であり、内心苦笑していたこともある。書籍上の知識はあっても、訴訟における主張立証の工夫やノウハウはなかったようである。
まあ、経験しすぎてスボラになる人もたまにはいるが…。
 ただし、誤解されかねないのは、OJTというと、「何も知らなくても仕事をしながら何とかなる」という雰囲気に取られかねないことである。
 一般の会社等であれば少し基礎を教えればそれなりに出来るのかも分からないが、法律家の世界は違う。
基本的な法律の知識が必要であるし、この基本的な知識を習得するだけでも相当の労力がかかる。また、法律の知識を前提として、生の事件に対して事実を確定し、法律を適用した場合にどのような結論となるのかということを瞬時に判断する能力も必要である。
 生の世界で発生する事件は千差万別で、判例で出てくる事件がそのまま使える事件はほとんどないと言っていい。
 そうした基本的能力があった段階からのOJTなのであって、いいかげんな知識や基本的能力がない状態で仕事を始めてもどうにもならないし、依頼者や裁判官、果ては相手をする弁護士にも迷惑がかかる。
 また、最近の弁護士は、弁護士になってから日々研さんを積んでいる。年間に勉強に費やす時間というのは相当なものである。法律が変わるたび勉強会を開いたり、自習したりする。長年経験を積まれている先生の中には、「わしゃ新しいことはわからん」で済ませている弁護士もおられるが、たいていの弁護士は、「新会社法勉強せな」などと汗水垂らして勉強している。
 基本的な能力のないままに弁護士になったとしても、基本的な知識すらないのであるから、改正された法律にもついていけないことになり、OJTだけではどうにもならないのである。
 ロースクール生からの司法試験合格発表が昨日なされ、今年合格出来なかった人たちが翌年以降に受験生となり、次の卒業生も受験するので、合格率は下がると言われていて、おそらく大学側は「もっと合格枠を増やせ」というであろう。
 しかし、合格する能力のないものを合格させてはならない。弁護士や裁判官・検察官になることが出来る基本的素養がない人はOJTではどうにもならない。
司法試験というものは、こうした基本中の基本が出来ているかを見る試験なのであるから、それすら出来ないものについては、基本的能力を1年かけて高めてもらうしかない。とにかく合格者を増やせというのでは弁護士になった後依頼者や裁判所に迷惑をかけるだけである。
 そして、60期やロースクール生は、合格して司法修習をする時になって、いかに就職がないかに気づくだろう。就職活動という難関も待っているという時代に突入したのである。
 ただ、合格率2パーセントの時代(私の合格した時はそれくらい)から、新司法試験ではこれが48%になったのであるから、我々からすれば、「どこが合格率低いねん」という感じではある。

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2006年9月21日 (木)

Zガンダムのことなど

Ca250100  今回もあまり法律に関係ない話。
 ガンダムというのはすごいアニメである。どんどんアンソロジーとかが増えていくし、次々に話が生まれてくる。まあいろいろ批判はあるだろうが、売れるということはそれに比例して批判も生まれるから仕方がない。そもそも万人に受け入れられるものなどあるはずがない。
 私も小学校時代品切れのガンプラを求めてプラモデル屋を巡回していたものだが、きちんと話で覚えているのは、Zガンダムであるし、これが私のスタンダードなのである。
 いろんなガンダムがあるが、Zガンダムが一番のお気に入りで自宅にも事務所にも小さい模型を飾っている。主人公のカミーユ・ビダンが最後に精神崩壊するというラストが衝撃的でもあったし、出てくる人が皆一様に暗かったことや、皆一様にノイローゼ気味であったことなど、なぜかお気に入りなのである。皆やたら独り言が多い。
 最近持病の喘息がひどいので飲みにもいけないため、調子のいい時はZガンダムのゲームをしたり、喘息のウェブサイトを探したりしている。私はインドアもアウトドアもオッケーなのである。
 Zガンダムは最近なぜかもの凄い時を経て映画化され、私もさすがに映画館には行かないのでDVDを購入して見たのだが、評価はいろいろである。
 確かに、長いストーリーを無理矢理短い時間に入れ込んでいるため、非常にストーリー展開が早く、始めて見た人には何がなんだかわからんだろうなという感じであった。
 また、昔のテレビ映像をそのまま使用しているところ、書き下ろしの画面が入れ替わるのは非常に違和感があった。
 ラストも変わっていたし。
 まあいいけど。
 万人に受け入れられるものなどあるはずがないし、あったとしたらそれはどこかにまやかしがあるからである。
弁護士も同じで、全ての依頼者や相手方から共感を得ている弁護士はいない。普通相手方からは誤解されたり憎まれたりするし、文句を言われたりする。依頼者でも、どんなに優れた弁護士でも依頼者が受け入れないことはある。
私は弁護士になった歳が若かったので、今でも歳をいうと、若い若いと言われる。中には、相手方や依頼者で、「若いから理解が出来ないのだ」などという人もいる。
 しかし、人間の経験や価値というものは単に生きてきた年数ではなく、その年に至るまで何を経験したのかということであって、「若いから」云々というような一言で片づける人間は、その時点で自分の浅はかさを露呈しているだけということが分からないようである。

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2006年9月19日 (火)

テレビ出演

 少し前に、行列の出来る法律相談所から出演依頼があった。すぐに断ったが、出ますと言えば出られたことにはなる。
 依頼者の中には、テレビに出ていることが偉いことだと思っている人も多数おられるが、現実はそうではないと思う。
 もちろん偉い人も中にはいるが、大多数の弁護士は出演を打診されて断っているのだと思う。事実、私が断った後、京都の他の弁護士にも出演交渉をしていたようであるが、「マスコミが考える筋に乗せられるのが嫌」な弁護士は皆断りを入れたため、企画が実現しなかったようである。
 出たらよかったのにとよく言われるが、テレビに出て本来の仕事が出来なければ本末転倒であるから、一瞬で断った。
 

 ただし、私は、時々事件の関係でテレビに出ることはある。ニュース映像や、事件のことを扱った報道番組などには出ているし、たぶんこれからも出るであろう。新聞にも時々掲載されている。
ヤミ金融の対する一斉告発や、節電器集団訴訟の提訴、先日の電話リース関係など、ニュースには多々出ている。こうした出演は、事件に関することで、被害実態を知ってもらう意味で重要なことだと思っている。
 また、犯罪被害者支援の関係で、BSの衛星放送に出たこともある。5分ほどVTRで出演した。
カメラを向けられるというのは慣れていないので、最初は言葉がうまく出ないが、そのうち慣れる。弁護士は話をするのが仕事だということもあるからかもしれないが。

 依頼者は私がテレビに出ていることを見たり聞いたりすると、「先生は偉い先生だったんですね。そんな先生に依頼出来たなんて」と言って喜んでいる。同じようなことだが、お金さえ払えば掲載される新聞の年始と暑中見舞いの名刺広告も見たと言って喜んでいる。
 お世辞半分かもしれないが、私からするとテレビに出ることは事件関係である意味仕方なしに出ているのに、依頼者は「やはりすごい」と思ているというこのギャップをどう解消すればよいのかと思っている今日この頃である。
依頼者の反応を見ていると、世の中の人は、テレビに多々出ている弁護士は、それだけで世間から有能な弁護士だと思われているのだろうと思うと暗たんたる気持ちになる。もちろん偉い弁護士もいるだろうが、その区分けはどこでつくのだろう。
 …に詳しいとされている弁護士が、私からすると間違えていることを言っていることもある。マスコミの方も詳しい弁護士がおらず困っていることもあり、自称詳しい弁護士に取材をすることもあるようである。売名行為かいなと思う。でもその報道を見て、事件を依頼する人がいる訳である。
 あとで聞いたところによると、ある弁護士は、その分野の事件はこれまで具体的事件としてはやっていなかった模様であるのに、「詳しい」と出ていたということらしい。それなのに、「詳しい」と何でいえるのか。
 詳しいというためには、解決実績がないといけないはずであるし、解決実績を作ろうと思えば、具体的事件を受けていないと出来ない。人から聞いたり、本で読んだだけではだめなのである。私は電話リース弁護団を立ち上げる前に、一応数件の解決実績は持っていた。
  現実の事件を自分の手でやろうとすれば、当然手間暇がかかるから、他のことは出来なくなってしまうのがどうして世間には分からないのかなあ。
 やれやれである。

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2006年9月18日 (月)

費用の安すぎる弁護士

 費用が他の弁護士と比較して過大な弁護士がいるという話を書いたが、これとは逆に費用が安い弁護士がいい弁護士かというと、これも一概にそうとも言えないところがある。
 いわゆる「安かろう悪かろう」である。
 依頼している弁護士が全然事件をしてくれない(事件放置)とか、こちらから連絡をしても折り返し連絡をくれないし、いつも不在だとかという苦情は結構聞くものである。
 現在依頼している弁護士を解任して、引き続き私に依頼したいということもたまにある。
 そして、そうした弁護士がどのくらい費用を取っているかというと、意外に安いことが多い。
 依頼者の方は、最初は費用が低廉でよい弁護士だと思うようであるが、私の見るところ、これは、弁護士が仕事をしないいいわけに使うために安い事例が多いように思う。すなわち、「費用をそれほど取っていないのだから、多少遅れてもよいだろう」とか「そんなに費用も払ってもらっていないのに、文句ばかりいうな」というような気持ちになっているように思う。
 しかし、費用の多寡にかかわらず、1回依頼を受けたものはその弁護士の依頼事件なのであるし、費用が安いから仕事をしなくてもよいということはない。
 これは、その弁護士の方でも、「費用をもらっていない」から、「仕事に対してもこの程度でよいだろう」という甘えを生み出していると思われる。適正な費用をもらうことで弁護士の方にも責任の自覚が生まれてくるという側面もあるのである。
 もちろん、過大な費用を取って何もしない弁護士もいるが…。
 従って、過大な費用を請求するはともかくとして、あまりにも費用が安い弁護士はどうなのかと思っている。自分の仕事に対しての誇りを持っていれば、あまりにも技量を安売りすることは出来ないだろう。
 離婚事件を最初から最後まで5万円でやりますという事務所があれば依頼は殺到するだろうが、責任のある仕事はせず、手を抜いた仕事となってしまうだろう。一件一件手作業で仕事を進めていく我々弁護士の仕事のやり方であれば、そうでないと体が保たないだろう。

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2006年9月17日 (日)

法律事務所の台所事情

 全体的には、世間が思うほど弁護士の仕事の数がある訳ではない。
 元裁判官が、ある雑誌に「まだまだ仕事はある」と書いていたが、正直弁護士の実態も知らない奴が何をいうかという思いである。自分の無知さを露呈していただけの論考であり、このような人物が裁判官をしていたのかと思うと暗澹たる気持ちになる。
 裁判官の場合は、給与が全て所得になるので、弁護士が破産管財人報酬とか、判決で弁護士費用を認定した場合に、これが全て弁護士の所得になると勘違いしている人もいる。
 しかし、これはあくまで売上になるに過ぎず、売上から、事務所の家賃、事務員の給与、弁護士会費(ちなみに京都は毎月約5万円)、書籍代、電話代、コピー代、判例検索ソフトのリース代もろもろが経費としてかかるので、所得はもっと低くなる。売上の4割~6割は経費で消えるという実感である。
 さらに、売上から経費を引いたものに、別途掲載したように税金が引かれる。
 弁護士だって霞を食べて生きている訳ではない。
 逆に、経費分が稼げないと、赤字になるのである。
 大手事務所は私から見ると、あこぎな金の稼ぎ方をしている事務所が往々にしてある。破産申立なんかでも、一桁違う金額を平気で取っていたりする。個人事務所でもそういった事務所はあるが、事務所が大きいと、借りる事務所の家賃や人件費などの経費も大きいので、経費を稼ぐための嫌な事件が勤務弁護士に回ってきたりする。バブリーな事務所は、そうできるそれなりの理由があるのである。
 個人でバブリーな事務所は、費用が高いか、ややこしい筋の事件が多いか、やたら顧問が多くてゆったり仕事をしているかである。長年の蓄積で顧問が多い事務所というのはもちろんある。
 ただ、顧問が多くても、ややこしい顧問ばかり抱えている事務所もある。独立したての弁護士のところにそうした話が来ることが多い。
私も顧問の話は時々来るが、紹介のないところや、紹介があっても怪しいところは全て断っているので、中々顧問も増えない。
そうした会社でも経費のために顧問になる弁護士はいるということである(東京の副会長か何かが問題になっていましたよね)。

 また、大手事務所などは、経費を稼がないといけないので、損保をやっているところが多いようである。
 損保は交通事故の勉強になると言われるが、一般の弁護士だって交通事故は被害者側でやる機会は多いので、勤務する弁護士からすれば、入る事務所の先生がノウハウを持っているかどうかが問題だろう。
損保では、保険会社の担当が解決出来ないやくざとか、クレーマーの事件ばかりが弁護士のところに回ってきて、示談交渉ばかりやらされて胃に穴が開いたなんて話もよく聞く。
 まあ、前述のとおり弁護士も霞を食って生きていける訳はないので、どこまで理想を追い求めるかというところであるが、法律事務所というのはいろいろと苦労し、工夫し、場合によっては他の事務所に比べて高額な請求をぶんどってやっていっているところが結構あるということである。
 私は独立の際に特定の会社の事件をするのは嫌だったので、損保の顧問はやっていないし(3件くらい話はあったのですが断った)、以前にいた事務所の顧問先の金融会社の顧問も独立後すぐにどうしてもやって欲しいと会社から言われたのですが断った。その意味で、毎月事件があるかどうかも分からないし、不安定といえば不安定である。
 ただ、せっかく弁護士になったので、特定の事件に偏らず、あまり金にならない被害者の事件もやり、毎月仕事があるかないかは分からないけれど何とか飯が食えているというのが私の理想である。これから弁護士が増えて、どこまで理想を追い求められるかであるが。
 消費者被害関係はライフワークの一つであるが、これは正直全くお金にならない。犯罪被害者も同じである。フランスでは、弁護士が増えて競争した結果、こうした社会的意義はあるが、ペイしない事件は誰もやらなくなって、困った事態になっているという報告もある。
 正当な競争ならよいが、過当競争ではフランスと同じ事態になりかねない。日本もそのような社会にならないように願いたいものである。規制改革論者は経済界のお偉いさんが多いので、弁護士がペイしない事件をやいやい言ってくるのはかなわないのだろう。

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2006年9月14日 (木)

私の弁護士としての師匠2

 私の2番目の師匠は、当然といえば当然であるがボス弁だったF弁護士である。
 F先生は、勤務弁護士にほとんど怒ったり注意をしたりしない人である。また、あれこれと細かい指示をされない人でもある。「弁護士にはそれぞれ持ち味があるからな」とよく言っておられたし、今もよく言っておられる。人物の大きさでは、ほとんどの弁護士は足下にも及ばないと思う。
 勤務弁護士時代に、仕事で失敗したとき(うまく尋問がいかなかった時)、自分ではここが足りなかった、あの点をもう少し詰めておけばと悔やんでいる時、F先生に自分の後悔を話しても、「しゃあないやんか」と一言言われるだけで、失敗したことを責められたことがない。
 「中君、弁護士がいくら準備しても、証人で出てくる人が全然あかん人やったらどうしようもないしな。裁判の場面で自分の思っていることを100%話が出来る人はなかなかおらんで。そやから、7割か8割出たら上等やと思ってたらそれでええし、証人にもそういっといてやったらええよ」というアドバイスをされた。
 失敗した時、自分でもそのミスが分かっている時にさらにそのミスを責められると辛いが、F先生のように慰めてくれると、次回からは同じミスをしないようにと気をつけようと前向きになれたものだ。
 また、あまり指示やアドバイスはされない先生であったが、「中君、弁護士は現場にいかなあかんで」と言って、交通事故の現場や、紛争の現場にはもの凄く忙しいにもかかわらず足繁く通われた。「依頼者に写真を撮ってもらって済ます人もいるけど、やっぱり現場で見るのと写真とでは違うことが多いしな」ということである。
 私も、そのアドバイスは今でもなるべく実行しようとしているし、勤務弁護士時代に、F先生から途中交代した事件で、明け渡しの訴訟が出されている依頼者の自宅を争点との関係で見に行った方がよいと思って見に行ったところ、非常に喜んでいただいて信頼してもらえて和解が出来たこともあった。
 また、F先生は、受けた事件に対しては、金額の多寡にとらわれず、最後まで、「何とかならないか」という粘り腰を持つ先生である。
 着手金が5万円の事件でも、100万円の事件でも、態度というか姿勢が同じなのである。ボス弁の中には、「事務所経営にとってペイしない事件は、適当にしておけばよい」として、適当に処理をする人もいる。勤務弁護士にそのように公言してはばからない人もいる(実際によそのイソ弁からそうした話はよく聞いた)が、F先生は、「受けた以上、僕の依頼者やからな」と言って何とかならないかと汗をにじませて書面を書いていた。
 何回か、私が書面を打っている後ろにいつの間にか記録を抱えて立っていて、「何ですか?」と聞くと、「この事件、先生に研究して欲しいんやけど」と言われ、中身をぱらぱらと見ると、正直どうにもしがたいような事件なので、「だめですよ」と突っ返すと、「いや、だから先生に頼んでるねん」と言って、依頼を受けて私に丸投げしていたこともよくあったが…。

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2006年9月12日 (火)

クレーマー

 弁護士は一方当事者について紛争のただ中に入っていくので、相手方からは誤解されるし、悪意をもたれることも多い。全人格を否定するようなことを言ってくる失礼な奴もいる。それは一方当事者につくという立場上仕方がないことなのだが、相手方の中にも、直接電話して苦情を言ってくるクレーマーが時折いる。
 こうしたクレーマーは、自分が正しいと信じ込んで電話をしてくるので、相手にするのが大変である。中には、説明をすると誤解が解ける場合もあるが、こうしたクレーマーはまだかわいい方である。大半はこうしたクレーマーで、解決出来ることが多い。
 その一方で、何を説明しても、自分が正しいし、お前は間違っている。間違ったお前を直していくべきだ、お前の人格を直してやるから自分の話を聞けという論調で、私の全人格が間違えているかのように電話で怒鳴りまくるクレーマーはもうどうしようもない。私がそのような性格の人物であれば、私に依頼する依頼者もいないであろう。
 こうしたクレーマーは、自分で考える結論を持っており、相手の弁護士の方がそれと異なったことをいうと、気に入らないので、「物の言い方が気に入らない」などと本質的ではないところにクレームをつけてきたりする。
  まずもって、電話というものは私の都合も考えずにかけてきている時点で、クレーマーは自分のことしか考えていないので、そうした態度や考え方こそ正していくべきなのだが、こうしたクレーマーはそのようなことは思いもしない。
 なぜなら、こうしたクレーマーこそが間違った人物であり、性格を正していかないといけない人物だからである。クレーマーのクレーマーたるゆえんである。
 クレーマーは、自分が間違えていることは思いもしないで、弁護士にばかり文句をつけてくるのである。中には、あなたのことを考えて電話してあげたという豪傑までいる。その前に、自分のことを考えてみろといいたくなる。
 人にわざわざ電話をしてきて注意をするほどの人物がどうかを胸に手を当てて考えてみろといいたい。
 私も暇なときで精神的に余裕があるときであれば、おつきあいをして最後まで電話を聞くが、いつもいつも精神的に余裕がある訳ではない。
そうした時には、ある程度聞いてどうしようもないと分かったら、相手が話をしていても、「切りますよ」と通告をしてこちらから電話を切らせてもらっている。
 そもそも、そのような電話を私が聞くべき義務は一切ないからであるが、クレーマーの方は、「自分に不満があるから、聞くべきだ」と思いこんでいる。
 弁護士になったら日々こういう目に遭うのである。
 

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2006年9月11日 (月)

死体解剖

 今の司法修習のカリキュラムに入っているのかどうか私は知らないが、私が修習生として札幌で実務修習を開始した時、最初に待っていたのが「死体解剖」であった。
 当時の札幌修習は27名で、9名ずつ3班に分かれており、私の班は検察修習から始まった。
 死体解剖は、当たり前だが解剖が必要な死体が出ないとないので、立ち会わない修習生もいるということであるが、私の班は修習開始後すぐに変死体が出たので、解剖に立ち会うことになった。
 この死体解剖の立ち会いで、浮き世気分が吹っ飛んだ。
 目の前で、人間の死体が、まるで牛馬のごとくばらばらにされていくのである。大きいはさみのようなもので、医師があばら骨をばちばちと切っていたことを今でも覚えている。そして、終了した後は、体の中に臓器をぽいぽいと入れ込んでおおざっぱに縫合する。
 遺族がこうした情景を見たらたまらないであろうと思いながら、解剖を見ていたが、どの臓器のどういった状態を見ればどうであるというような説明を事細かにしていただいたことを覚えている。事件性の有無を調べるために必要不可欠なものなのである。
 その死体は、他殺などの事件性はないという判断であったので、そのまま遺族に引き渡されたが、葬式を行うまでに、司法解剖が入ると遺族すら入り込めない、また、世間からは伺うことの出来ないこうした手続きが行われており、そうした手続きの行われる世界に自分は入り込んだのだな…と気持ちが引き締まったことを覚えている。
 この解剖のインパクトが強かったこともあり、その後も刑事事件や検察修習で、死体の写真を見ることも多々あったが、そのたびに亡くなられた方に対して恥ずかしくない修習をしようと心がけたものである。
 ちなみに、今4チャンネルのサンデージャポンに弁護士として出演している八代弁護士は、当時私が修習していた刑事部の左陪席をしていた人であるが、12年も経つと、人間いろいろあるんだなぁと思う今日このごろである。

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2006年9月 9日 (土)

天川釣行記~N田のドライビングテクニック~

 一部の読者(K藤S一郎君であるが)から大好評の釣り・キャンプシリーズである。
この記事は法律漫遊記というタイトルからは外れるような気もするが、まあ普段の弁護士がどんなことをしているかが分かってもらえるのもいいだろう。
 修習生になる少し前から渓流釣りを始めた私であったが(釣り自体は小学校一年生からしているので、もう30年のキャリアである)、弁護士になってからもちょくちょく渓流釣りに行っていた。
 高校時代の友達で、体重が100キロあるN田とともに、弁護士に成り立ての頃に奈良県の十津川に行ったり、天川に行ったりしていた。
 このN田という男がとぼけた男で、この男と釣行するといろいろなハプニングに出会うのであった。
 奈良県の天川に行った時のことである。ちょうど天川伝説殺人事件か何かが映画でやっていたか、私が文庫で読んだか何かと(だいたい私が思いつく理由はこのように単純である)、いいアマゴが釣れるということで私がN田を呼び出したのである。
 深夜にN田に迎えに来てもらって、自宅を出て、一路奈良県へ向かう。
 私は助手席で座っていたのだが、どうもライトの様子がおかしい。「N田、ライトおかしくないか?」と聞くも、「そうか?」との返事。
 しばらく走り、信号で停止すると、前の車から明らかにヤンキーのような男が2人降りてきた。ひょえ~。なんか悪いことしたやろか。
 そり込みの入った頭のお兄さんが、運転席のN田に一言。「ライトまぶしいやんけ。あおってんのか。」
 明らかにお怒りである。そりゃ怒るわ。やっぱり、N田はライトを上げて走っていたのだ。おかしいと思った。
 これに対し、N田は、「そうですか。この車は、そういう車なんです。」
 ウソつけ。そんな車あるかい。
 この言葉に返す言葉を失ったのか、ヤンキーは頭を振りながら自動車に戻っていてくれた。あるいは、少しおかしい人だと思われたか。
 慌てて助手席からライトを下に下げる私。「こんなんで走ってたら、あおってると思われるやんか」というと、N田は、「ライトって上げたり下げたり出来るん?」との返事。
 こいつの運転で大丈夫なのか…。不安である。

 しばらく走ると、渓流ということで川の上流であるから、山の上へと走る。ブラインドカーブが続く山の道を走り天川を目指す。
 ところが、向こうから自動車が来ているにもかかわらず、N田はそのままカーブにつっこもうとするので、「N田、自動車来てるで。」と慌てて声をかける。
 この声にN田も速度を落とし、うまくやり過ごせた。
 そこでN田は一言。「なんで向こうから車来てるの分かったん?中ってすごいな~。耳ええのん?」
 私「え?カーブミラーに映るやんか。」
 N田「あっ。そっか。カーブミラーって、そのためについてたんか~。ミラーなんか全然見てへんかったわ。見えへんカーブで向こうから車来たらどうしようかって思っててん。」
 …。こいつと来たのは間違いだったかも知れん…。俺が運転した方がええかも知れないけど、保険がなぁ…(かかっている保険の関係で家族以外は乗れなかったのだ)。

 まあそんなこんなはあったけれど、何とか無事に午後6時頃現地に到着し、お互いに仕掛けを作って釣り始める。しかし、中々釣れない。
 川に流れる目印を見ていると食いつきに来ているのだが、針にのらない。食いが浅いのか…。
 私とN田は、相談して場所を移動することにした。
 停車していた自動車をバックさせようとするN田に、後ろを「見ようか」と聞いたが、「広いから大丈夫」との返事。
 私も大丈夫と思っていたが、勢いよくアクセルを踏み込んだN田車は、突然「ガコン」という音と共に車体が大きく後ろに傾いた…。
 慌てて降りて見ると、物の見事に後輪が脱輪し、道路から川側に落ちていた。そこは階段状になっていたので、何とか川には転落せずに済んだ。N田の自動車はFFだったので(前のタイヤが駆動輪)、前の駆動輪で引っ張れば持ち上がる可能性もあると考えて、川側に降りて自動車の後ろを持ち上げて何とか元に戻そうと苦闘すること1時間。
 しかし、自動車は全く動こうとしない。自動車って重いもんである。
 やっぱり、降りて後ろを見るのだった…。悔やんでも仕方がない。
 JAFを呼ぼうにも、当時私が持っていた携帯は圏外である。どこに電話があるかも分からない。途方に暮れていたそのとき、突然、作業車にのったおじさんが来てくれた(救世主である)。N田が転落した場所はキャンプ場だったのであるが、キャンプ場の係のおじさんが、近所の人から転落している自動車があると聞いて来てくれたのである。
 日本っていいなあ。
 無事ウィンチで引き上げてもらい、別の場所で釣りをする2人。
 しかし、自動車を持ち上げようと悪戦苦闘したせいか、へとへとに疲れていてそれからの釣りでも釣れず、とぼとぼと天川を後にしたのであった。
 帰りのブラインドカーブでも、ややもすればミラーを見ないN田を叱咤しつつ、「もうこいつとは釣りに行かない」と思っていた私であった…。

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2006年9月 6日 (水)

私の弁護士としての師匠その1その他

 私には弁護士としての師匠が3人いる。
 1人目は札幌修習時代にお世話になった指導担当弁護士のW先生。
 2人目はボス弁だったF井先生。
  3人目はよくこのブログにも出てくるN村T雄先生である。

 W先生には、平成6年~7年に札幌にいた時代にお世話になったのであるが、私が最初の修習生であったということもあって、いろいろと教えていただいたし、夜の方もかなり飲みに連れて行ってもらった。
 私が今修習生におごるのも、当時W先生から相当ごちそうしてもらったことが大きい。その後弁護士になって以降しばらくは札幌に事件があったので、札幌に行くと必ずW先生の事務所に遊びに行っていたほどであり、行くと暇があれば近況を報告しあっていた。
 独立後は札幌に事件がなかったので会えなかったので寂しい思いをしていたが、W先生が日弁連の副会長に就任された際、私も日弁委員であったので、今年の2月頃副会長室に遊びに行ったところたまたま来室されていたので、1時間半ほど話をすることが出来て非常に嬉しかったものである。札幌に行く機会が何かないかといつも考えている。
 修習先は、指導担当と気があえば本当にいいものである。私も指導担当弁護士であるが、私の指導修習生が実務家になった時に、私がW先生を師匠の筆頭としてあげるように、師匠の1人として数えてもらえればと思っている(強要はしていませんよ)。
 当時は、W先生の友人の先生方とも痛飲したものである。弁護士の先生そっちのけで、ススキノでスナックのイスの上に立ち上がって歌いまくったものであるが、今から考えたら弁護士をそっちのけで歌うなど本当に恐ろしいことをしていたと思う。
 また、飲み会の席でも、当時は、修習生であっても、弁護士の意見をただハイハイと聞くのではなく、意見を述べたり、反論をしたりしたものであるが、今から思うと非常に無礼なことをしていたなと思う。裁判官や検察官にも同じように議論をしたりしていたが、当時の指導担当弁護士や裁判官は、怒らないで議論してくれたものだった。事件のことについても、意見をばしばし述べていたが、割合取り入れてくれたことを記憶している。
 最近は、修習生も大人しい人物が増えたのか、猫をかぶっているのか、議論する人材が減ってきたように思うが、訴訟や交渉は、ある意味ではケンカなので、おとなしいだけではつとまらないから、元気のいい修習生が増えて欲しいと思う今日このごろである。

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2006年9月 5日 (火)

来客室の植木

 9月4日と同じような話であるが、事務所開設以来、来客室に置いてある植木は次々に枯れていった。そんなに太陽にあてなくともよい種類なのに、なぜかと考えていたら、事務員のM川さんが、「先生の代わりに、依頼者とか、来た相手方のマイナスエネルギーを吸い取ってくれたんじゃないですか」と一言。
 確かにそうかも知れん。
 それ以来、枯れてしまうとかわいそうなので、近所の花屋さんから植木をレンタルすることにした。1ヶ月交代で、いろいろな植木を楽しめるのと、1ヶ月程度ならマイナスエネルギーにも耐えられるであろうとの配慮である。
 レンタルに変更してからは、さすがに1ヶ月で枯れた植木はない。

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2006年9月 4日 (月)

体の芯に残る何とも言えない疲れ

 弁護士を長年していると、体の芯に何とも言えない「澱み」というか、「疲れ」というようなものが取り付いてくる。
 私は弁護士になって11年目で、中堅の部類に入ろうとしているのであるが、弁護士になった年齢が若かったこともあり、なった時からずっと、依頼者から「若い」「若い」と言われ続けていて、疲れ知らずのように思われているが、私も自分的にはだいぶ歳を取ったと思っているし、人間だから疲れもする。
 そんな疲れは知らないという弁護士もいるが、そうした人は事件に対する気配りなどがあまりないので、疲れないのであろう(実際見ていると、それで処理の仕方いいのかいと思ってしまう)。
 一件一件の事件に対して真剣に取り組めば、その事件の持つ、「負のエネルギー」のようなモノが少しずつ体にたまっていくようで、それが澱みというか、疲れになるようである。よく親友のY田S司弁護士とそうした話をしている。
 弁護士の仕事は、基本的には紛争になっている事件を解決することがメインである。訴訟外での交渉、調停、訴訟と形式はいろいろあるが、やはり紛争にはそれぞれの当事者やその周辺の人々が持つドロドロした思いが作用反作用を起こして、負のエネルギーが発生していると思っている。これは依頼者がどうだとかいう問題ではないと思う。
 また、事件処理をする中で、弁護士は悪意にさらされることも多い。依頼者からの無理な要求や、いくら説明しても理解して貰えないとか、依頼者のことを思い頑張っても「報酬をまけてくれ」と平然と言い張る依頼者等。また、相手方は基本的に対立当事者の依頼している弁護士に悪意を有していることがあるので、相手方からの悪意にさらされることもあるだろう。
 企業中心の事件をしていれば、こうしたドロドロした人間関係に入っていくこともないのだが、一般の弁護士はこうした負のエネルギーの中で仕事をしている。
 ロースクール生が多数弁護士を目指していると思うが、まさか全員が企業法務を行う弁護士になるわけではないであろう。安易な気持ちで通常の弁護士を目指しているなら、こうした負のエネルギーには耐えられないであろうから、他の仕事を探した方がよい。
 こうした、芯に残る疲れを取るために、多くの弁護士は芯に残る疲れを取る方法をそれぞれ持っているものだ。修習生や若手弁護士も何かそうした方法を持たないと、精神が壊れる場合があるから注意が必要である(何人もそうした人を見てきている)。

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2006年9月 3日 (日)

旧60期と新60期司法修習生の就職問題

 平成19年には、旧修習の60期と、新修習(ロースクール卒業生)の60期が、2~3ヶ月の間を空けて法曹資格を有することになる。
 しかし、これらの法曹資格を有した者たちが全て就職できるかどうかが問題となっており、2007年問題と言われている。今後、毎年3000人の法曹資格を有する者が誕生する予定となっているが、いきなり初年度から就職が困難ではないかと言われているのである。
 元々、中坊公平氏が唱えた2割司法というお題目もどれだけ裏付けがあったのかということが現在ようやく言われはじめている。
 日弁の調査では、それなりに勤務弁護士が欲しいと言っている事務所はあるようであるが、このうち、勤務弁護士が欲しいと言っている事務所の中に不良経営者が混じっている可能性があるので、どこまでニーズがあるのかは不明である。
たとえば、過去、その事務所に就職してもすぐに独立や事務所を辞めていったとか、勤務弁護士を搾取の対象と考えて、雇用することで自分の経済的基盤(ようするに、勤務弁護士にいきなり加重な経費負担をさせるということだ)としようとする事務所が存在するのである。
 そのような事務所に就職した修習生は悲惨である。
 私も、ここのところ忙しい時に依頼者のニーズに応えられないことがあり得ることや、体は一つしかないことから勤務弁護士の雇用も考えたりするのであるが、暇になると、「1人でいいや」と考えてしまったり、事務所スペースの問題や、給与の問題(あまり高い給与は出せない)から「取る予定である」と中々公言出来ず、決断出来ない状況にある。
 いかんせん、弁護士1人事務所は零細事業者だから、人1人雇用するのにも大決断なのであって、今何とかうまくいっているのであれば、無理をして雇用しなくともよいか…と考えてしまう。
 京都では勤務弁護士の採用について、こうして悩んでいる事務所は結構あると思うが、いろいろな問題から、中々対外的に公募しているとまではいえない事務所もあると思われる。
 そうした事務所であれば、修習生の方の熱意と「待遇面についてある程度低額でも大丈夫」という覚悟があれば採用の可能性はあるだろうから、修習生の方の掘り起こしも大事であろう。
 しかし、私個人の問題としては、2007年問題を生み出したのは歪んだ司法改革の構造の問題であるとはいえ、「法曹人口問題を考える会」の代表でもあることから、文句だけ言って何もしないのはよくないと思うので、自分に出来る限りのことはしなければならないのだろうとも思う。
そのためには勤務弁護士を雇用することで、人口問題に少しでも寄与した方がよいのではないか、そうして忙しい時の依頼者へのニーズに応えていくというのも一つの方法なのかと悩む今日このごろであるが、まだ決断に至らないような日々である。
 ホームページやブログも同様の考えから、小さい司法改革としてしているのであるが。

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