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2006年10月31日 (火)

慢心した頃に失敗する

 弁護士になって1年くらい経つと、自分で解決出来た事件も出てきて、ある程度自信がついてくるものである。この頃に、「自分もたいしたもんじゃないか」と思って慢心することが多い。失敗はこの慢心した頃にやってくる。成果が自信につながることは当然であるが、過信や慢心はいけないのである。ことに、弁護士をして1年程度であれば、どうしても経験上足りないところがある。これを補うのが熱意であったり調べたりすることであるのに、慢心してしまうと補うべきところが空いたままになる。

自分が出来ると思って依頼者に偉そうになったり、法律家の世界では当然であるからとして丁寧な説明をしなくなったり、事件の話を全部聞かずに、「こういうことでしょ」と決めつけて話を聞かないとか、依頼事件についていい加減に聞いて考えているために、事件を進めていくうちににっちもさっちもいかなくなったりするのである。実際、若手弁護士から「こんなことを言われた」とかで、カウンセリング的な相談をすることもある。そうした相談のあと、その人の言動を見ていると、「慢心しているな。」と思えることが多いし、「失敗しなければいいけどな」と思う。

私自身、慢心して失敗すると、その失敗によって慎重に行こうとする→事件がうまくいく→また慢心する→失敗して反省→またうまくいく→慢心する…の繰り返しであるので、これは自省の意味を込めている言葉である。

 失敗といっても、リカバー出来るようなものであればよいが(私は今までリカバー出来る程度の失敗しかしていない。そういう意味では失敗ではないのかも知れないが)、そうでない失敗をしたら取り返しがつかない。
 おごった心から、懲戒や刑事罰を受けて、弁護士資格を失った人もいる。

 また、自分では出来ていると思っていても、周囲の弁護士からしたら、「アイタタタ」「あいつ痛いわ~」という人もいる。

 弁護士も自信が過信や慢心になっていないか日々自省することが大事である。

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2006年10月30日 (月)

生き死にの事件とそれ以外の事件

 牧野君コメントありがとう。一般の人にも役立つ情報を掲載したいのですが、中々筆が進みません。
 さて、表題の言葉は私のボスが述べた言葉である(本当の言葉は少し違うのだが、趣旨がわかるようにあらためている)。
   ある時、ボスは私が起案している横に来て、「中君、事件には生き死にの事件とそうでない事件があるんや。生き死にの事件いうのは依頼者にとって本当に絶対にまけたらあかん事件や。それ以外の事件は、依頼者にとっては切実でも客観的にはそうでないことも多い事件や。弁護士は生き死にの事件では絶対にまけたらあかんのや」と言われた。
  私のボスは滅多にこうした言葉を述べない人で、「背中を見て育て」という人であったので、私は感動して、「ハイ」と答えた。思わずメモ帳を出そうかと思った。
そうしたところ、ボスは後ろ手に持っていた記録をすっと出した。
「?」と私。
「あのなあ、中君、実は僕生き死にの事件で負けてしもたんや。君、控訴審からこの事件やってくれへん?」
 どひゃー…。この布石やったんか…。

 ちなみに、その事件は控訴審で私が担当してなんとか和解した。和解するにも一審の認定がおかしいことをある程度主張立証した上でないと和解に持ち込んでもなかなか難しいことが多いから、現場に行き、一から話を聞いて書面を書いたことも良かったと思われる。

 なお、ボスの名誉のため断っておくが、この事件はたまたまであり、ボスは私から見ても、「よくこんなん勝ったなあ」という事件で勝訴してくることもしばしばであった。
私の第3の師匠であるN村T雄弁護士も、君のボスは特異な才能を持っていると滅多に人を誉めないのにボスのことはべたぼめである。
 この事件は非常に和解しづらい事件であったが、二審で一審が維持されると本当に依頼者の生活の根本に関わることになるので、和解で解決しなければならなかった。なんでこの事件を私に持ってきたかにも、実は布石があるが、それはまたの機会にお話しよう。

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2006年10月27日 (金)

柳生武芸帳はおもしろい

 以前津本陽の小説を紹介したが、柳生武芸帳というのは、五味康祐という作家が書いた長編小説である。このたび、文庫として復刊した。
私はこれまで五味作品は短編をいろいろな作家を集めた短編集で読んだだけであったのでそれほどの印象はなかったのであるが、この上下巻はおもしろい。
 文体の重厚さもさることながら、その行間を読ませる妙。展開。非常におもしろいのである。書きすぎることがいかに小説をだめにするかがよくわかる。最大の見せ場でも筆を出来る限り省略して剣の対決シーンを書いているが、息が詰まる臨場感がある。
 北○謙○の作品はたまに表題とかにひかれて買ってしまうが、彼の作品は読んでいる打ちに何でもかんでもかいているから冗長で疲れてくるのとは全く違うのである。ちなみに私は、北○謙○の作品は数冊買ったが最後まで読んだことがない。何で売れているのかふしぎである。
  五味作品を探したが、今は廃刊になっているものも多く、あまり入手出来ないようである。何とか廃刊になっているが在庫が残っていたものを何冊か手に入れて、今少しずつ通勤電車の中などで読んでいる。宮本武蔵が2人いたという仮説から書かれた、「2人の武蔵」もおもしろい。日中仕事で目を酷使するので、中々夜には読めないものだが、少しだけと思って読み始めると短編だと1つの話が終わらないと本をおけない。
 こういうエンターテナーは少ないと思う。最近では隆慶一郎の作品がこうしたテンポがあり、最高であった。
 体調もほぼ戻ってきたし、気分だけは剣豪である。

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2006年10月26日 (木)

これをやりたいということで決めつけて弁護士になるのは危険

 私の考えとして、実際に仕事に就く前から「弁護士になったらこれをライフワークとするのだ」ということで仕事を始めるのはよくないように思う。
 その事件に対する思い入れが強すぎて、冷静な対応や解決が出来なくなることがあるからである。
 たとえば、刑事事件に思い入れが強すぎて保釈で検察官とケンカをする、裁判官を罵ったりすることがある。これは、全体として保釈の運用を改めるにはよいかもしれないが、私は今目の前にいる被告人の早期解放を考えるので、より保釈がとりやすいよう検察官とはじめからケンカをしたりはしない。そのため、午前中に拘置所に面会に行って事務所に帰ってきてすぐに電話で担当検察官と交渉し、午後一番で保釈申請を出して夕方には被告人は保釈されていたというようなケースもある。
 事件に対する思い入れの強さがわざわいするケースがあるのである。熱意があることは大事だが、思い入れが強すぎて冷静さを欠くのは絶対によくないのである。このあたりはボクサーと同じである。
 ただ、場合によっては全面的に検察官と対立して、保釈を却下する裁判所の決定に対して準抗告といって不服申立を繰り返しすることもある。これはあくまでケースバイケースなのである。
 少年事件でも、少年事件の大家といわれている弁護士が裁判所の調査官とケンカして、結局少年が少年院に行ったということもある。少年事件では全く無名の私がやっていた共犯の少年は保護観察となり、その後続々と逮捕された共犯者は、皆私の方の少年の処遇がスタンダードとなり、保護観察で済んだというケースもある。この事件では後に共犯者から弁護を依頼されたが、利害が対立する可能性がある関係で、私の知人で元検察官のA弁護士に依頼したこともあった(ちなみにA弁護士に刑事事件のことで相談すると、間違った回答が返ってきたことはない。見返りに私は民事で相談を受けている)。
 私自身、世間の耳目を集める大きい刑事事件などはやっていないが、それなりに刑事事件や少年事件ではいい結果を勝ち得ていると思っているが(先日は誤認逮捕事案で9日で釈放させたし、過去の量刑相場で絶対に実刑の事案について情状弁護だけで執行猶予を取った例もある。)、検察官だって裁判官だって人間であるから、大人同士の対応をすることが第1である。
 刑事事件では、世間では知られていないが、素晴らしい弁護活動をする人は何人もいるもので、私自身何人もそういう人を何人も知っているが、そうした人は一様に普段事件に対する思い入れやうんちくを述べることはほとんどなく、熱意はあるがなすべきことを淡々と行っているものである。
 弁護士になる前から、あまり「これをやるんだ」とか「ライフワークだ」とか決めつけるのはよくない。
 私のライフワークは消費者被害の弁護と犯罪被害者支援であるが、弁護士になる前は全く何も知らなかった分野である。

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2006年10月25日 (水)

無期懲役における仮出獄はやめるべきである(終身刑の導入も)

 無期懲役となっても死ぬまで刑務所にいるわけではなく、仮出獄という制度である程度年数が経つと外に出てくる。この仮出獄中に新たに犯罪を起こして死刑となった例や、2度目の無期懲役となる例もある。
しかし、そもそも刑事裁判で、「死ぬまで刑務所にいるのが妥当」とされて無期懲役なのに、仮出獄が許されるというのはいかにもおかしい。無期懲役とされた場合には、被告人が死ぬまで刑務所にいるべきであろう。それが被害者に対するせめてもの国の責任である。被告人側が、更生したときなどに仮出獄が認められるとされるが、そもそも、刑を決定するときにそのような状況も踏まえて刑を決定しているのであるから、無期なのに出てこられるというのはおかしい。被告人も反省しているのだから、残りの人生を活かせるようにしてあげるべきだとの意見も世の中にはあるかもしれないが、世の中には絶対にしてはいけないことが多数あるのであり、それに応じた罰を受けるのでなければ被害者はやりきれない。
 外国人犯罪者が、「日本の刑は軽いから」と称して日本で悪事をはたらく例もあると報道されている。
   では、どうして刑務所に入れておかないのかというと、私はお金がかかるからであると思っている。刑務官の給与、場所の確保、食事などに国民の税金がかかる。お金を浮かせるために早期に釈放しているように思えてならない。
  節約するところは、他にいくらでもあるだろうに。
もちろん私は刑事事件もするので、弁護するときは最大の弁護をするように心がけるが、弁護を最大した後は、やはり確定した罪を償うことは当たり前だという考えだということである。

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2006年10月23日 (月)

弁護団事件もたいていは弁護士の善意によって行われている

 消費者被害などが起こると、弁護団が結成され、告訴をしたり、消費者被害を巻き起こした会社を相手にして交渉や訴訟をしたりしているケースをよく耳にされると思う。
私自身、過去にもいくつかの弁護団に入り、今は節電器被害京都弁護団の事務局長と電話リース被害京都弁護団の事務局長を兼任している。
しかし、こうした弁護団事件を手がけても、経済的には弁護団の弁護士が報われることはほとんどない。もちろん、依頼者から費用はもらうものの、既に被害に遭っている人たちでもあるし(そして、被害者の人に落ち度もないことも多い)、相手のあることなので解決が出来るかどうか分からないことから、費用は低額での受任となる。
弁護団の人数が多いと、資料のコピー代なども相当かかる。全ての事件が終了して、20名の弁護士にお金を分けた時、1人5万円だったということもあるし、たいていの事件はそんなものである。
この5万円のために費やされた時間は、通常恐ろしい時間単位であり、時給にすれば100円もいっていないこともありうる。弁護団で議論して、担当の割り振りを受けて書面を作成する、依頼者から聞き取りをする、裁判所に行く等々で相当の時間が費やされる。
 弁護団事件はペイしないからと言ってやらない人も多い。
  では、なぜこうした弁護団が結成されるかというと、被害が起きた人を誰かが救済しないといけないという使命感が一部の弁護士にあるからであり、一部の弁護士は、社会正義の実現をしないといけないと考えているからである(弁護士法1条)。そのため、ときには費用的にペイしなくとも、弁護団事件をするのである。
 これはいわば、各個別の弁護士の善意に頼っているに過ぎないので、基盤は意外に脆弱である。
  もちろん、中には売名のためにする者もいるかもわからないが、基本的にはこうした善意に基づいて、また、弁護士自身が、消費者被害を「許せない」と考えて弁護団を結成するのである。
 しかし、これから弁護士が増えて競争競争ともなれば、自分の食い扶持を守るために、こうした事件は手がけなくなっていくのではないかという懸念があり、現にフランスなどではそうした傾向もみられやに聞いている。
  ビジネス弁護士は格好いいしスマートであり、時代にも求められているであろうが、ビジネス弁護士は基本的にこうした弱者の社会的救済は全く行わない。それが弁護士法1条との関係でどうなのかという問題点が根強くあり、競争原理ばかり持ち出して、ビジネスライクな弁護士ばかりでよいのかということは、ペイしない事件をやってきた数多くの弁護士が考えているところである。
 医療や法律というものは、国民の基本的な権利や生命を守るセーフティネットとして、競争原理ばかり導入するのはいかがなものかという観点をみなさんに持っていただければ幸いである。

 なお、弁護団事件に関して、嬉しい手紙を今日いただいた。電話リース被害に関して、消費生活センターの相談員のアドバイスによって契約がクーリングオフ出来て、既に支払ったお金が戻ってきたという人から、弁護団にカンパをいただいたのである。
弁護団として引き受けた訳ではないが、その人の手紙には、「弁護団が消費者の生活を守るため奮闘」していると相談員の方から聞いたということで、カンパがしたくなったと書かれていた。また、その裏には、こうした解決が出来たのも弁護団が電話リース被害を取り上げてくれたおかげだという気持ちもあるものと思われる。
 こうした陰徳とでもいうべき、ゆかしい日本人の心は競争至上主義の中では消されていくだろう。
 必要な競争は行うべきだが、過当競争は倫理の低下を招くだろう。トヨタの中古自動車販売を見てもそうである。嫌な世情である。

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2006年10月20日 (金)

弁護士も辛いのよ(国選弁護編)

 弁護士は辛い目にも遭うと前に書いたが、国選弁護でも結構辛い目にあう。辛い目に遭ったからと言って裁判所は報酬を上げてくれない。
 さらに、被告人の(我が儘な)要望に応じないでいると、懲戒申立や慰謝料請求がされたりするので、どのあたりまでを言うことを聞いてやるかも難しい。
 また、被告人の(不当な)要望を断る時にも、上手い具合に断らないと、逆恨みをされて懲戒などが来る。
 もちろん、中には理由のある懲戒もある。(私はそんなことはするはずもないが)被告人が事実を否定しているのに、弁護人が認めてしまうとか、検察官の証拠書類に全部同意するとかがそれである。事実を争うためには、事実を争う旨の意見を述べることは当然として、検察官の証拠書類を証拠とすることに「不同意」と言って同意しないことが通常必要であるが、事実は争いながら証拠書類を全て証拠とすることを認める弁護人もいる。
 こうした弁護人は、「被告人の正当な利益を擁護していない」として懲戒の対象となる。
 また、事実について、(時には弁護人からしてもあり得ないようなばかげたと思われても)被告人が争っているのに、これをあまりに説得することは、被告人から不信感を抱かれ、懲戒されてしまうこともある。このあたりのさじ加減が難しい。
 国選の被告人から「至急来て欲しい」と呼び出されて行ってみると、個人的な相談で、「これこれこういうことをして欲しい」という、全く関係のない依頼であったりする。国選弁護人の職務ではないとしてあまりに強硬に突っぱねるとまた被告人から懲戒の申立がされたりするので、ある程度のところで上手く対応しないといけない。このあたりは経験が必要なところである。
 また、国選弁護人は、裁判所が選任しているので、どれだけその「被告人が嫌」であっても、自ら「辞任」は出来ない。裁判所から解任してもらえるだけであり、この解任も、よほどの理由がない限り認めてもらえない。
 裁判所の裁量で報酬が変えられることにはなったが、裁判所が報酬を決めるに際して、被告人との間で行われた様々な大変な事実というのは裁判所には出せない。守秘義務の問題があるからである。前述のように、仕事をきちんと行わない弁護人もいるが、つらい事件にあたり、本当によく仕事をする弁護人もいるので、そうした弁護人が報われる制度設計はないものかと悩む次第である。国選弁護制度も、弁護士の「善意」によってまかなわれている部分が大きいと思う。善意に頼る制度が破たんを来す可能性があることは、少し前のブログで述べたとおりである。

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2006年10月19日 (木)

他業種との連携

 弁護士は他業種との連携が重要である。公認会計士、税理士、司法書士、社会保険労務士等々いろいろな業種と連携している弁護士は事件処理の中で連携している人に聞くことが出来るので、依頼者のニーズに応えることが出来るからである。
  もちろん、自分で調べることも出来ないではないが、餅は餅屋ということもあるし、自分で調べるよりも連携事務所にしてもらった方が結果的には安価である。
 事件でも失敗がなくなる。たとえば、訴訟で不動産の登記請求訴訟をするときには、複雑な事案では事前に司法書士に「この判決で登記が出来るか」を聞いておかないといけないことがある。間違った判決(登記を受け付けるのは法務局なのであるが、裁判所が判決を出しても法務局が受け付けないことがあるのだ)を苦労して取っても、登記が出来なければ何もならないからである(私はないですよ)。
さらに、事件解決の中で、基本的な税金の知識はあるものの、税務上悩ましい時があれば、税理士に確認する。これも事前に税理士に聞いていなかったがために、依頼者に損害を与えたというケースは割合にあるのである(私はないですよ)。
 また、年金や労働保険のことで複雑なことがあれば、社会保険労務士に聞くことになる。
 こうした連携出来るブレーンをある程度持っておかないといけない。逆に、公認会計士、税理士、司法書士、社会保険労務士の方も、連携出来る弁護士の知り合いがいないと依頼者のニーズに応えられないのである。
 私のところはどうかというと、裁判における登記に強いN川事務所のH崎先生、税理士は何名か聞ける人がおり(顧問税理士さんもいます)、社会保険労務士はS先生という連携出来る人が揃っている。
 いつも連携していると、私が忘れやすい資料とか電話してきて督促されたりもして、任せて安心である。
 逆に、そうした知り合いがいない弁護士は、依頼者のニーズに応えられないということである。
   あなたの依頼している弁護士は連携出来る他業種はいますか?

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2006年10月18日 (水)

養子縁組にご用心

 子どものいない老夫婦に非常に親切にしてくれる若いAさん。「自分は親が早く死んだから、本当のお父さん、お母さんのように思っている」などとしてよくしてくれる。
 自分たちの老後の面倒や、自分達の墓守をしてくれるのであればとどちらからともなく養子縁組の話がもちあがる。
 ところが、養子縁組届出が出された後、Aさんは、「仕事で失敗して穴埋めしないといけない」「別れた妻と子に送金しないといけない」「暴力団に脅されていこのお金がないと親父たちのところにも脅しが来るかもわからない」などと金の無心をしてくる始末。老夫婦は、自分の息子だからとお金を出すが、周囲から「それはおかしい」との声。
  よくある典型的なパターンである。もちろん、本当の親子関係を築く例もないことはないであろうが、お金をそれなりに持っている老夫婦のところにこのような話があれば、大半は縁組後態度が変わるとみてよい。
  こうした養子縁組を一度してしまうと、離婚と一緒で離縁の調停を出して、離縁の訴訟をしないといけなくなる。
あまり老夫婦はネットなど見ていないかも分からないが、安易に養子縁組することには注意が必要である。

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2006年10月16日 (月)

和解後の弁護士の責任

 裁判所や訴訟外で和解したけれど、約束通り支払ってもらえなかったり、約束を守られないことがある。このような時に、通常は相手の弁護士に連絡をする。
連絡をしても、対応は様々である。たいていは事実確認をして、自分の依頼者の状況把握につとめて「申し訳ない」と言ってくれる。
 ただ、人ごとのように、 「本人に聞いてみます」とか「おかしいな。本人に聞いて連絡します」もある。考えようによってはこれらはまだいい方で、「事件は終わったので本人に聞いて下さい」なんてのもある。
 本人に聞いた結果を連絡して来ない人もいる。問い合わせると逆ギレする人もいる。自分が見通しを誤ったことを恥じて逆切れするのである。
おいおい、支払ってもらえていないのはこっちだよと言いたくなる。
また、「私ではどうしようもないので、あとは本人に言って下さい」なんていうのもある。本当に支払わせる努力をした結果であればこちらも仕方ないかなと思うが、経緯からみてもどうもそうではないものも多い。
 一括での支払はよほど信頼出来る依頼者でない限り弁護士が預かるべきである。
  頭金を支払っての和解も同様である。また、自分の依頼者が不履行をしたら、出来る限り状況把握につとめて支払わせるよう努力すべきであるし、相手の弁護士に連絡すべきである。こうした基本中の基本が出来ていない弁護士は割合多い。
  昔地方の事件をよくやっていた頃は、東京や大阪の弁護士に不履行をされたこともおおかた。二回、三回とあたることがないからであろうか、支払がなくとも連絡してもなしのつぶてで恥知らずである。もちろん、東京や大阪の弁護士にもすばらしい人もいる。ここまで努力してくれたら仕方ないと思える人もいた。
弁護士が増えて顔が見えなくなったら「旅の恥はかきすて」とばかりに不履行をしても知らない顔をする弁護士が増えるかもわからない。

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2006年10月12日 (木)

法テラスに弁護士が確保出来ないのは法曹会の責任か?

 読売新聞のコラムか社説に、全国に弁護士が2万人いるのにも関わらず、法テラスのスタッフ弁護士が予定よりも少ない上、若手ばかりで中堅やベテランが少ないことを指摘し、これをもって「何ともお寒い状況」で、法曹会は努力が要求される、と締めくくっている。
 一方、今年の新規登録弁護士はほとんどが東京、大阪であり、増員した影響が地方には出ていないという記事も見受けられるところである。
 医者も同様の事態であり、医療の過疎化が問題とされている。
そもそも、人数を増やしただけで医療過疎や司法過疎が解消されると考えるのは浅知恵である。現場で働く弁護士や医師の個人的犠牲に期待するとしても限度がある。弁護士がいくら使命感をもって仕事をしていたとしても、それだけに頼るのは限界があることは既に医療の世界で分かっていることなのである。
弁護士も人間である以上、自分の生活設計が必要であるし、また、生計を立てないといけない。安い給与で据置にされた上、契約期間が切れた後の保証は何もないというのであれば、そちらを選ぶよりも、当然「今のうちに顧客を開拓して稼ごう」となるであろう。
 自分の人生がどうなるか分からない状況で、「使命感」だけで法テラスのスタッフに応募させようとしても無理があるのである。
これは中堅やベテラン弁護士も同様であって、現実に事務所を構え、顧客を有し、事務員を雇用していれば、これらを全てかなぐり捨てて法テラスのスタッフに応募することは考えがたいし、こうした状況の中応募された方々は苦渋の選択であったと思われる。
 日弁連上層部は、「法テラスはすばらしいから応募を」とするが、そんなにすばらしいのであれば自分で模範を示すべきである。日弁連での任期が終わったあと、スタッフ弁護士として7年間地方に行くのであれば、後進も続くであろうが、声だけを出して自分は大阪や東京で稼ぎまくっているというのでは若手もついてこない。同じことは弁護士から裁判官になる弁護士任官制度にもいえるのである。
 制度設計が理念だけで行われ、現実の人の行動や考え方を見ないから、蓋を開けたらこのような事態になるのである。
 法テラスがスタッフ弁護士を本気で集めたいのであれば、年収を相応の額に増額すべきであるし(少なくとも年々増加させるべきであろう。社会主義では人は動かない)、相当額の退職金制度も作るべきであろう。退職金でもって独立開業してしばらく生活出来るようにしておけば、任期開けの後も心配がない。法テラスには辛い事件が配転されることが予想されるのであるから、社会のために辛い事件をする人にはそれ相応の優遇がされるべきなのである。
 今私を含めて消費者問題に取り組んでいる弁護士は、ほとんどボランティアで事件に取り組んでいるが、こうした善意にばかり頼る構造は、いつか破たんを来すであろう(それが消費者被害を巻き起こす側である規制改革委員会のメンバーの望みなのかもしれないが)。
 国会議員などに手厚い保障をするよりも、こうした地道な活動をする弁護士に光を当てるべきである。

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2006年10月11日 (水)

犯罪被害者は何度も何度も苦しめられる

 郵便局員がタクシー運転手を殺害した事件では、新聞報道限りでは、「最初から殺すつもりでやった」などと被疑者は述べているという。「このままでは人に危害を加える」などと述べて休職していたとの報道もされていた。
 もちろん無罪推定の原則はあるものの、この被疑者が真犯人であるとすれば、なんともやるせない事件である。
 被害者の運転手の方には、奥さんとまだ中学校2年生のお子さんがいる。そうした遺族に思いを馳せる時、弁護士としての私の心は痛むのである。
 刑事事件で被疑者が死刑になったとしても、あるいは、無期懲役などの罪になったとしても、亡くなった人は帰ってこない。そして、刑事事件で罪を償えばそれで足りるかというと、亡くなった人の遺族に与える精神的衝撃もさることながら、経済的ダメージも大きい。ことに本件のように働き手を殺された事案ではそうである。
 犯罪被害者は何度も何度も苦しめられる。まず刑事手続きの中で、犯行が異常であればあるほど、「責任能力」や「量例相場」の壁などに苦しめられ、どれだけ望んでも死刑にならないことが多い。
 また、マスコミなどからの取材にも苦しめられる。弁護士が窓口になっていない事案では、マスコミからの取材に応じることも苦痛だろう。
 そして、経済的にも苦しめられることが多い。交通事故であれば自賠責で3000万円が補償されている。しかし、犯罪被害者の事件の場合、犯人には資力がないことが多い。
 民事訴訟を起こして判決を取得したとしても相手に資産がなければただの紙切れである。紙切れを取得して喜ぶ遺族はいまい。
 犯罪被害者給付金というものもあるが、死亡でも自賠責よりもはるかに低額の支払いである(今正確な資料が手元にないが、1000万円代である)。
 我々弁護士は、こうした加害者そのものに資力がない場合、実質を勝ち取るために何らかの方策がないかを考える。ご本人が労災に加入している場合には、本件のような事案では仕事に関する危険が顕在化したと見て、労働災害として捉えられないかを考える。
 ただ、これは仕事中でなければならないので被害者が仕事中以外では使えない。
 加害者が職務中であれば、その使用者(多くは企業)に対して使用者責任を追及することが考えられる。
 しかし、多くの事件では、仕事とは無関係なところで事件を起こすし、本件のように、「人に危害を加えるかも」という言葉を職場で言っていた程度では、なかなか裁判所は職場の企業の法的責任を認めない。
 やはり、こうした犯罪は社会全体が抱える病巣のようなものであり、いらない税金を使うよりは、一定の犯罪被害者について、経済的補償をすることが施策として求められているであろう。
 具体的には、政府が犯罪被害者に対して賠償金を被疑者・被告人に成り代わりいったん立て替えて支払い、その後被疑者やその法的結果に責任を負うべきものから取り立てるということが望まれると考えている。逃げ得を許さないためには国家権力の強い取立が必要であろうし、国が支払うことによって、犯罪によって全てを狂わされた犯罪被害者の人生を少しでもよいものに出来るからである。

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2006年10月 7日 (土)

怒る時は口先だけで怒れ

 細かい名前は忘れたが、昭和初期の名剣道家の言葉ということである。心の底から怒ってしまうと、冷静さを欠くし、物事を客観的に見ることが出来ず付け入れられるからであろう。
 剣道の世界だけで通じる言葉ではなく、弁護士の仕事にも通じるものがある。仕事上、本気で怒ってろくなことはない。口先だけで怒って(怒るべき時には怒らないといけないときもあるが、それも口先だけで怒れということだろう)、常時冷静さを持たないといけないのである。義憤は重要であるが、冷静さを欠いて、弁護士が依頼事件について解決すべき時に解決できないということでは何もならない。
 たまに事件に対して思い入れが強すぎて、「何をそんなに怒っているのか」という弁護士に出くわすこともある。こうした弁護士は、事件がそもそも依頼者のものであるということを忘れているのであろう。この弁護士が相手方でなかったらなあと事件が解決できず困る弁護士も多い。
 ある昭和初期の剣道家(ひょっとすると冒頭の言葉を述べた人と同じ人かもしれないが)が知人が訪れて談笑していた時に、その知人がいとまを告げようとして席を立つと、「もう少ししたら、(2人の共通の友人である)A君が来るから待っていたらどうか」というのでその知人は待っていたところ、本当にA君がやってきて驚いたことがあったということである。
 その剣道家によると、「何となく、A君が家を出るところが見えた気がした」ということであり、道を究めればこのような能力が身に付くのかと感嘆したエピソードである。
 弁護士も相当経験を積むと、「何となくこの事件は嫌なところがある」と受任をするときに感覚で分かるようになるということであるし、中には解決の中身まで見通す人もいるということであるが、これは経験だけではなく、剣道家のように、その道の一流になれば、そうした能力がつくのかなと思っている。

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2006年10月 6日 (金)

原付は寒いらしい

 まだほとんどリハビリ中の私である。裁判には辛くて出られない。じっとしていると何とか書面は打てるという状態である。本当は電話もつらい。まるでじいさんである。周囲の弁護士の友人の助けで何とか乗り切れそうではある。
 加賀百万石の礎を築いた前田利家は、若い頃織田信長の怒りを買い、織田家から出奔していたことがあった。そのときに、普段いい顔をしている家中の人たちが落ちぶれた途端に前田利家を相手にしなくなったという。前田利家は、そのとき、苦労をしている時に手を貸してくれる人こそが真の友人であり、日常では人の心根はわからないと考えたということであるが、私も今まさにそのような気分である。助けてくれる人が多くいて本当にありがたい。
 昨日、もう1人の事務員のY本さんが帰る時に、冬に着るような服を取り出しているので、「何?」と聞くと、「原付は寒いんです~」とのことである。もうそんな季節なのか。事務所の中では昼間はまだ冷房を入れないと蒸すというのに。朝晩は寒くなったようである。
 少し前まで、バイクの免許を取りたくなりいろんな本を見ていたが、喘息になったのでバイクどころではなくなった。排気ガスを吸って発作が起きて呼吸困難になっていては走るどころではない。バイクの危険さに周囲は反対されたこともあるのだが。
 さすがに、ヒメ(うちのY本さんは事務所の中でこのように呼ばれている)のように原付に乗る歳でもないし、喘息持ちにはバイクは難しそうである。

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2006年10月 5日 (木)

久しぶりの更新…体調不良

 長いこと更新出来なかったが、体調不良のためである。
 喘息持ちなので、発作が出て息が出来なかったのである。
今もまだ症状は安定していないので、毎日つらい。
ひどいダニアレルギーで、去年も同じような症状が出た(去年の時点では喘息と分からず、つい最近ようやく判明した)。
 弁護士は身体が資本であるし、声を張って話をしないといけないので会話がしづらいとつらい。書面は打てるのでメールとFAXで事務所とリモートコントロール状態でこの1週間仕事を続けてきたが、さすがにブログにまでは手が回らなかった。
つらい時は元気になったらこうして健康に気をつけないとと思うが、健康な時にはそのようなことは忘れている。
徳川家康は、三方原の戦いで武田信玄に完膚無きまでに叩かれて城に逃げ帰った時、後に自分が慢心しないようにとそのときの「しかみ面」を絵に書き取らせて、後にもその時の絵を見て慢心しないよう自らを戒めていたということである。徳川家康は織田信長や豊臣秀吉に比べて人気はないが、人生の手本とするなら家康であろうと常々思っている。
 早く喘息発作がおさまってほしいものである。発作がなければ他は身体はどうもないのだから。

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