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2007年2月12日 (月)

上に立つ人間が痛みを伴わなければ誰もついて来ないだろう

 就職にあぶれる人が60期、新60期から500名程度は出るという予測を日弁連がしている。
 これに対し、日弁連からは採用を呼びかける要請が各地の弁護士会にされている状況である。このまま過ぎていけば、61期以降はとてつもない人数の就職浪人が出てくることだろう。

 しかし、こうした状態もある意味やむを得ないところがある。司法改革を導入する過程で合格者3000人や裁判員制度、被疑者国選が導入されていくいことが決まったが、国民に司法制度を身近なものとし、被疑者にも国選弁護人をというその目的自体には誰も異論がないところだろう。司法過疎の解消も目的には異論がない。
しかし、問題は、その改革の担い手を、日弁連などの上層部は、大半が、「自分では何もしない」が、それを基本的に若手の責任に押しつけたところにある。
 司法改革のために、若手にどんどん過疎地域に行くように宣伝し、被疑者国選のための制度設計をするようにやっきとなり、大量の合格者を採用するよう要請しているが、若手や中堅は、「今まで儲けてきて生活に不安がないあなた方はいいよね」という気持ちを持っていると思うのである。これは人間である以上、やむを得ないと私は思う。こうした気持ちを責めることは許されるものではないだろう。
 自分が危険性のない地帯に身を置きながら、危険性のある地帯に、「それが職務だ」「国のためだ」「弁護士会のためだ」と言って若手に危険性を背負わせるその姿は、戦時中の日本軍を彷彿とさせるものがある。

 弁護士とて人間であり、生活がかかっているのであるから、その点の配慮がなければ上層部のいうようにはしていかないであろう。また、上層部が自分たちは多数の顧問料や多くの顧客からの収入で生活に全く心配のない安全地帯に身を置き、「若手がやるべき」としている限り、こうした状態が打破出来るとは考えられない。

 よく、ベテランの先生が、「儲けようと思ったらあかん」とか、「これから弁護士の年収が下がることは仕方がない」という話もされているし、「弁護士という責任ある職業についたからには、そうした痛みを伴わないといけない」ということも言われるが、そうしたベテランの先生達の発言の根底にあるのは、「自分は関係ない」というスタンスなのである。ベテランの弁護士達が、私財を投げ打って改革にいそしむとか、収入が半減以下になっても新人を採用するとか、日弁連の会長が終わった暁には3年間過疎事務所の弁護士をやるとか、そうした上層部やベテランが、「俺たちも痛みを共有している。だから若手も頑張ろう」という姿勢を見せない限り若手がついていくことはないだろう。
 そうした姿を見れば、あれだけベテランの先生方が痛みを共有してくれるのであれば、自分たちも「よし頑張ろう」となってくるだろう。
 今の日弁連は、人間審理にあまりにも無頓着なように思えてならない。

 私の知っている何名かの弁護士は、既に60歳を越えてもバリバリと働いて、「あの先生がこんな苦しい事件をやっているのだから自分もやらないといけない」という気持ちにさせられる。その一方で、過疎解消過疎解消といいながら、過疎地の法律相談の担当をされていないベテランの先生もおられる。どちらに人望が集まろうかは自明のことである。

 私も、法曹人口問題を考える会の代表をしている関係から、ホームページやブログで少しでも情報発信をしようと心がけているし、仕事の忙しさや体調のことももちろんあったが、60期から採用することとしたのである。
人口問題を考えるといいながら、自分は1人で経営して、「知りません」というのは逃げのように思えたからでもある。

 そうした発想で、日弁連も、ベテランがこれだけ痛みを伴って頑張りますというような姿勢を見せないと、中々今後の展開は難しいだろう。

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