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2007年5月30日 (水)

法律実務家に必要とされる賢さ

 弁護士をはじめとして法律実務家の世界では高学歴は当たり前であり、出身大学がどうであるとかいうのはほとんど問題にされない。今後、多数の合格者が出てくれば就職の際には出身大学である程度の選抜がされるという噂もあるが。

 周りを見ていても、「自分は賢い」と自信を持っている実務家も多く、確かに頭はいいのだろうなと思う。共通一次の模試で京大判定最高Dであり、共通一次で勘でマーカーを塗ったところが当たりまくって二次試験を受けることが出来た私からすれば華々しい私立高校を出ている人も多い。
 ただし、頭がいい=法律実務家としても賢いとはならないのがこの業界である。実務家である以上、実務に役立つ賢さでないといけない。単に頭がいいことと、実務に役立つ賢さは全く別ものである。

 たとえば、反対尋問をする際にも、頭がいい人は次々に頭が展開するので、証人に次々とたたみかけて聞いていくことがあるが、その時に「先々まで考えて」尋問しているか否かで評価が変わってくることになる。単に頭の回転が速くて思いつきを聞いていくのであれば、ただの賢い人である。能力のある法律実務家は、先の展開を読み、不利な答えが出そうなところは敢えて聞かないとか、伏線に伏線を張って罠にかけるとか一つの質問に全て意図があるのである。なんでこれを聞くかということに常に答えが用意されている。頭が単にいい人の反対尋問は、聞かなくてもよいことまで聞いてしまい、かえって墓穴を掘ることもある。ただ、単に頭のいい人は、「俺の頭の良さがわかったか」となっているので、自分が役に立たない実務家であることには気がつかない。

 また、頭のいい人は頭がいいので、ともすれば証人と議論してしまうこともある。頭がいい人からすれば自明のことを証人が理解しないとそれを押し付けようとし、議論や意見の押しつけとなっていることもある。これは尋問ではなくなっている。尋問は事実を聞くものだからである。しかし、頭のいい人は、「証人をやりこめてやった。俺って頭がいい」と思うのである。
 これに対し、能力のある法律実務家は議論することなく、証人が理解していなければ同等の立場から具体例などをあげて質問をして詰めていく。あくまで行っているのは「質問」である。

 さらに、頭がいい人は、「これこれこういうことからするとこういうことになりませんか」と自分の思っていることを頭がいいのでずばっと証人に聞いてしまう。そこで証人がクビをかしげると、「そうでしょう。そうなるんです」なんて言ったりする。
 能力のある実務家は、証人尋問では事実だけを聞くので、そうしたことは準備書面で書いて、尋問の時には自分の手の内を見せない。

 等々。
 ただの賢い人で終わるか、能力のある法律実務家として華開くかは、こうした点を意識的にしているかどうかでも変わってくる。いかに「考えて」いるかであり、単なる表層上の賢さではなく、「考える力」である。
 頭が良すぎる人は回転が速いので、場面場面で違うことをいったりもいる。本人の中では頭の良さに従って行動しているだけなので矛盾はないが、周りからすれば頭はいいけれど矛盾したことをいう信用できない人となる。

 私が修習をした時に、民事裁判教官も、「法律家で切れすぎる人は危険である。」と言っていた。地道に考え、愚直に事件をし、地を這うような地道な事件をこつこつやれる能力がもっとも重要だということである。私のボスが、単に賢い人を「かしこがりバカ」と呼んでいたということは決してない。

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2007年5月28日 (月)

司馬遼太郎などなど

 最近、司馬遼太郎ばかり読んでいる。少し前に野田城の攻防を書いたが、その中で家康が出てくるので、司馬遼太郎の「覇王の家」を読んでみようと思ったのである。歴史マニアの私は、いろいろな作家が書いた同じ武将についての作品を読んでどのように書かれているかを比べたりしている。家康については、津本陽の「乾坤の夢」(時代小説の王道である)、池宮彰一郎の「遁げろ家康」(盗作していたため今は廃盤だと思う)、隆慶一郎の「影武者徳川家康」(これは少し毛色が違うが)などを読んだが、司馬ものは読んでいなかったのである。

 司馬史観にはいろいろと批判はされているようだが、家康を描いた「覇王の家」は秀作であった。人物に対する的確な指摘がされ、なぜ酒井忠次が、家康が目をかけていた家康の嫡男の謀反疑惑について信長から指摘された時に「そのとおり」と回答したかという理由については、司馬遼太郎の指摘が正鵠を得ていると思われる。

 その後、国盗り物語を読んでいたのだが、今日大阪への行き帰りの京阪の中で4巻目を読み終えた。信長も好きな私としては、信長が本能寺で死ぬ前まで読み進めると読む速度が落ちるのであるが。これは1巻2巻が斉藤道三編。3巻4巻が織田信長編である。
 最近の研究では、斉藤道三は親子で美濃の国を2代かかって盗ったというのが定説らしいが、司馬が書いた頃にはそのような研究は進んでいないため、1代で斉藤道三が美濃を盗ったことになっている。斉藤道三を描いた作品で2代で国を盗ったとしている作品しては、宮本昌孝の「ふたり道三」という作品がある。この宮本昌孝の作品も面白い。「剣豪将軍義輝」は足利13代将軍の足利義輝を描いた佳作である。
 足利義輝は松永久秀に急襲されて暗殺されてしまうという非業の死を遂げるのであるが、古今東西将軍が自ら太刀を抜いて斬りまくったというのは前例がないであろう。
 名刀を畳に何本も突き立てておき、刃こぼれがすると刀を取り替えて取り替えて斬りまくったというのである。最後には松永勢に畳をかぶされて、その上から槍で突かれまくって死ぬのだが、これだけ個人の武名を上げた将軍も珍しい。

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2007年5月25日 (金)

裁判所よりの修習生

 裁判修習をしている時間の方が長いせいか、研修所でも要件事実とか事実認定の講義をしている時間が長いせいか、修習生はだいたい裁判所寄りで、裁判官的発想をする者が多いように思われる。訴訟の行く末を考えるために裁判官的発想で事件を見ることは必要ではあるが、常に裁判官的発想になってしまっては弁護士は終わりである。弁護士は弁護士である。

 弁護士になる予定の修習生であっても「ああ、裁判官よりやなあ」と思われる発言があったりすると暗たんたる気持ちになる。
 無罪を争っている事件で起案をしてもらうと、「先生、この人は本当に無罪なんでしょうか」という質問が出たりするし、「あの人はウソをついていると思うのです」とか、裁判修習に行っている修習生からは、「ありもしないウソが出て」という言葉が聞かれる。そういう修習生には怒る。

 刑事事件では、弁護人は被告人のために活動をすれば足りるのであって、真実探求の義務はない。被告人の言っていることが、一見信じられないようであって、裁判の中では通らないかもしれないが、それが真実であるということはあり得ないではない。誤判は裁判には必ず潜んでいるのである。

 弁護士になる予定の修習生はもちろん、その他になる予定の修習生にも、被告人の言い分を一度十分に吟味する癖をつけて欲しいものである。頭から「ウソ」と決めてかからず、そういった可能性が本当にないのかどうかを考えてみるべきである。

 有罪を推定させる事実があれば、弁護人としては、それを合理的弁論で潰せば足りるのであり、被告人を疑ってかかる必要はないのである。一審が有罪の事件が控訴審で覆ることがあるが、あれも、一審の裁判官は、「この被告人はウソを言っている」として有罪とし、刑事部にいる修習生も「ウソつき被告人」と陰口をたたいていた事件のはずである。

 事件に対して、弁護士の方が予断を持ったり、被告人はウソをいうものだというような姿勢でいるとすれば、根本から考えを改めないといけないだろう。修習時代に意識的に考え方を持っておかないと、中々改められないと思われる。

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2007年5月23日 (水)

がっかりすること

 最近法律漫遊記というよりは、ただのオッサンのグチになっている感はあるが、気にせず更新。

 がっかりすることは日常多々あるであろう。少し前まで寒かったので、暖まろうとして自動販売機でお茶を買って飲もうとしたら、さっき入れたばかりでぬるいどころかほぼ常温であった時はがっかりする。逆に冷えた飲み物を買いたいのに全然冷えておらず生ぬるいものが出てきた時にも非常にがっかりする。自販機に「あまり冷えていません」とか「まだ温め中」とかいう表示が出ればいいのだが、そうした表示がない限り、勘で買うしかないのである。朝から思ったものと違う飲料をカバンに入れるむなしさ。今日の裁判もうまくいかない気がしようというものである。

 毎日私のブログを見てくれる人は、更新されていないとがっかりするかもしれない。発売を楽しみにしていたゲームがいつの間にか発売が延期されていた時もがっかりする。最近、コーエーがネットでの仮想空間に力を入れていて、「信長の野望」の新しいタイトルを出してくれないのもがっかりである。
 好きな作家の作品を全て集めて読み切った時はがっかりするよりも寂しい気持ちである。読んでしまうともう新しいのが読めないと思うともうちょっと読み始めるのをまとうかななどと思う。
 特に作品が少ない作家ほどそうである。少し前にレイモンドチャンドラーの作品を全て買って少しずつ読んだが、本当にフィリップマーロウはかっこいい。自分を曲げないその姿勢は職人である弁護士の姿勢にも相通ずるものがある。弁護士はレイモンドチャンドラーの作品を読むべきである。最近、「長いお別れ」が村上春樹によってリメイクされているが、私はやっぱり早川ミステリ文庫のマーロウが好きである。

 タイトルに期待して購入したが、中身が全くなくてがっかりする本も多い。そうした本は途中で辞めればいいのだが、貧乏性な私は読み進めてしまう。そんな私が最後まで読めないほどの作家は、北○謙○である。本当に文章が私には合わない。

 好きなドラマを録画しておいてみようとしたら、違うチャンネルであった時もがっかりするだろう。最近とんとドラマは見ないので、私はそんな目には遭いませんが。

 あとはブログペットのナイルの日記があまりにも情けない日本語である時もがっかりする。弁護士のブログペットとは思えない悲惨さである。

 みなさんはがっかりすることないですか。

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2007年5月22日 (火)

4月の頭にいた人たちはいずこに

4月の初め頃には駅や町中に学生や新入社員らしき人があふれかえり、駅の自転車置き場も混んでいるし電車も混んでいるのであるが、5月の連休明けには人がだいたい元の多さになっている。常々不思議に思っていることである。

 学生は朝からまじめに学校に行かなくなるのかなとも思うが、会社員ではそうもいくまい。3年以内に会社を辞める若者が多いそうたが(私はこういうようなブログを書いている時点で若者ではないのであろう。しくしく。)、やはり会社を1ヶ月ほどで辞めたりしているのであろうか。あるいは通勤時間が変わっただけであろうか。しかしそれにしては駅の自転車置き場が閑散としているというか、元の状態に戻っているのは解せないのである。

 5月病というから、連休が明ける前に辞めてしまう人もいるのか。

 人口は減少しているというのに、4月頭の混雑はあまり代わりがないように思えるが、より人口が減少していっている地域では、そうした混雑もないのであろうか。

 うーむ。謎である。

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2007年5月21日 (月)

黄砂情報恐るべし

 黄砂が来て以来、体調があまりよくないが、私の周囲でもそう漏らす30代半ばの弁護士が何人かいる。

 ところで、黄砂情報というものが気象庁のサイトで見られるのであるが、ここでは「黄砂の観測はありません」と出ているのに、自宅の自動車には黄砂の跡が点々とついているのをみて、「飛んできてるやないかい」と思っていた。

 よくよく気象庁のサイトを見てみると、黄砂の情報は、「観測員が黄砂を目視」した時に情報が出るというものであった。今の時代に目視って…。ぼけっとしている観測員や目の悪い観測員だったら見過ごすかもしれないし、そもそも黄砂の粒子は細かいから、目視ではだめなんではないだろうか。

 先日黄砂が来た時には、防げないと言われていたがマスクをしていた。花粉症がおさまってきたのでマスクを外していたが、猛毒を吸い込んできている可能性がある黄砂がまだ飛来してきているので、もう少しマスクは必要かと思っている今日このごろである。

 目視かあ…。

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2007年5月20日 (日)

真面目にやる人ほど短期的には損をする。ただし長期的には…

 弁護士稼業をある程度やっていて思うのは、まじめにやる人ほど短期的には損をするということである。弁護士会の一円にもならない仕事もまじめにやっていると、また次々と「あの人ならやれる」ということで仕事が舞い込む。逆に、弁護士会の仕事を任せてもきちんとやらない人は「頼んでもしてくれない」ということで仕事が回されない。

 これは会社などでも同じようなことであろう。真面目にする人ほど次々仕事を抱え込み、本来の業務につぎ込む時間が減るということもある。それで体を壊すほどになると考え物だが、こうしたその人の姿勢が将来の財産になることがあるから、真面目にやることを厭わないことである。

 そうした姿勢は誰かが見てくれている。この人なら仕事を頼んでもよいと思って他の弁護士から利害関係があってその弁護士が出来ない事件を紹介されるかも知れない。逆に普段から仕事ぶりがずさんな弁護士は、いくらその人が暇そうにしていても、「きちんとしてくれないであろう」ということで紹介しようとも思わないだろう。すぐにはそうした影響は出てこないかもしれないが、長期的に見ればその人の財産になっていたりするのである。

 ただ、長期的に見れば財産となると考えてやっているとそうしたいやらしさが見えてしまうので、そうした気持ちを忘れ、健康に影響の出ない程度にやることが望ましいだろう。そうした業務量がこなせるのも、天が自分に与えた才能であるとむしろ感謝するくらいの気持ちも必要かもしれない。人の能力には差異があり、どんなに頑張っても出来ない人もいることは事実だからである。

 正直、何年やっていても、どうしようもないセンスのない弁護士もいるのである。

 また、弁護士の仕事は華々しい仕事ばかりではなく、小さい事件のために遠方に出張に行くことだってあるが、そうした事件を軽んじる弁護士は大きい仕事も出来ないものである。小さい小さい事件のために遠方に出張にいけるような弁護士は仕事を軽んじないのである。

 そうしたあなたの姿勢は誰かが見てくれているものである。短期的なことばかり見ないで頑張ろう。

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2007年5月17日 (木)

刑事責任能力

 心神喪失とか心身耗弱状態であったということで、刑事責任が減刑されたり、無罪となることがある。被害者からすれば、被告人側の事情によって刑が軽減されたり無罪となることは全くもって納得いかないということになる。

 私は過去、犯罪被害者支援関係の立法が出来る前に、2名を殺害した被疑者が心神喪失状態であったため起訴できないとされた事例で、検察審査会に不服を申し立てて「起訴相当」「不起訴不当」を勝ち取り、その結果再捜査がされ、一転して責任能力を一部認める鑑定がなされて起訴されたという事案を被害者側で担当したことがある。
 これが私の犯罪被害者支援への道筋をつけた事件であるともいえるのであるが(新聞でも何回も取り上げられて、この事件の関係でBSにも出演した)、この事件を通じて「刑事事件の責任能力とは何か」と考えるようになった。いつも考えている訳ではないが…。

 一般的にいって、当時(今から約10年前)は、鑑定をする医師の側も、検察官の側も、裁判官の側も、「責任能力」の内実についてはあまり研究した形跡もなければ、これといった文献もなかったのである。判例も相当調べたが、「じゃあ責任能力って何?」というところまで突き詰めた判例や文献はなかった。これは今もそうなのではないかと思っている。

 被告人の精神状態からして、自らの行動を制御することが出来なかったことをもって責任能力がないと断じた判決もあったが、犯罪は法律で禁止されているのであって、犯罪者は行為当時みな自分の行動が制御できない為に犯行に及んでいるのであるから、この理屈を突き詰めれば犯罪者は皆責任能力がなことになる。
 私が担当した事件の検事も「行動を制御することが出来なかったので」不起訴にしたと言っていた。

 私はそのとき検察審査会に出した意見書で、一般人が当該被告人の状態におかれた場合に、行動を制御することが不可能であったかどうかで判断すべきであるとした。
 被告人の立場で考えてしまうと、その被告人は制御出来ないが結果犯行に及んだのであるから、全て無罪となってしまうからである。もちろんここで「一般人」が何かという定義はあるであろうが、「常識」と置き換えてもよいであろう。

 私が担当した事件は、どう考えても被告人の精神構造というかその状態に一般人を置いたとしても、2名を殺害することが制御不能というようなものではとうていなかった。むしろ一般人からすれば「殺人」というような結論に至らないはずであった。そのため、その点を中心に論述した結果、検察審査会の一般の方々の理解を得られたのである。

 精神科医が行う鑑定も、「病気かどうか」に論点が置かれて、こうした法的判断は欠落しているように思われる鑑定書もある。ただ、医師にそもそも「責任能力ありなし」の鑑定を求めること自体がそもそも間違いであり、法的判断たる「責任能力の有無」については、裁判官の判断事項であり、医師は被告人がどうした状態であったかを鑑定すれば足りるのではなかろうかとも考えてみたりする。医師が鑑定書を書くからには、刑事における責任能力の考え方を確立する必要があるであろう。

ただし、精神病であれば、一般の人がそうした病気に罹患すれば犯行をしてしまうことはあり得ないではないとも言いうるが、病気でなければ単なる特異性格であり、一般人が被告人の置かれた立場に置かれたとしても犯行をすることはないというような分類は出来ようか。ただ、被告人の考え方が「理解しがたい」からといってすぐに責任能力がないとか心神耗弱であったと断じるのも早計であろう。飛躍した考え方をすること自体が被告人の特異性格であるともいいうるからである。

 被害者からしてもっとも理解しがたい刑法の理屈が責任能力である。

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2007年5月15日 (火)

実益のない議論をする弁護士は嫌いである

 私は実務家なので、実益のない議論はしない。実益のない議論をして悦にいっている弁護士も多いし、それによって自分が「理論家」であり、何か「偉い弁護士」のように思っている人もいるが、実務家集団の中においては、「結論が同じなんやしどっちでもええやんか」となり、逆にこうした人は敬遠される。

 もちろん徹底的に議論すべきところはすべきであるが、枝葉のところで議論する必要は全くない。学者になるわけでもない。実務家はそんな議論に費やす時間があれば、もっと他のことに時間を費やすべきであろう。

 こうした実益のない議論を好む実務家が私は大嫌いである。といって私が理論派でないかどうかは人の判断であるが、少なくとも実益のない議論は好まない。

 えてして、こうした実益のない議論を好む弁護士は、具体的な事件を前にすると解決方法や主張がおかしかったりするのである。木を見て森を見る能力がないのである。とかく理屈をいう人は、本当の意味で理論派ではないし、自分に自信がないのであろうと思う。

 真の理論派というか頭のいい人というものは、理屈をいわずして本質を指摘出来、周囲を説得出来る人なのであろう。理屈を全てわかった上でそれをあえて言わず、あるいは平易な言葉で置き換えて、あるいは実益のないところは飛ばして説明出来るのが真の実務家であり本当の頭のよさである。

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2007年5月14日 (月)

善と悪

 勧善懲悪だけで割り切れないのが世の中である。善と悪は紙一重であったりすることもある。未来永劫変わらない罪というのもあるであろうが、罪によっては時代とともにその判断基準が変わるものもある。人によっても善と悪の境界は異なるであろう。

 手塚治虫の漫画では、善と悪が書かれていることがあるが、最後に善と悪が入れ替わることもある。時の流れでそうなるのである。そして、善も悪も最後には死ぬ。普通だと善が生き残り「メデタシメデタシ」となるのであるが、手塚作品ではそうはいかない。皆一様に(多少の例外を除いて)死ぬ。海のトリトンという漫画でも、トリトンは世界の平和のために敵とともに死ぬ(最後は感動して泣く)。その他の作品でも、主人公が最後は非業の死を遂げることが多い。

 火の鳥という作品は手塚氏のライフワークであった作品であるが、そのスケールの大きさやメッセージは哲学である。ここでも生と死とともに善悪が描かれる。必ず善が報われるわけでもない。火の鳥は、一家にワンセットあってよい名作である。

 さて、私であるが、私は善悪を語れるほど自分に自惚れてはいないので、仕事に関して少し善悪について書いてみる。
 検察と対立当事者になることもあれば、被害者側として検察官に「重い処罰を」と求めることがあるが、検察官はこちらからすれば微罪のようなものをやっきになって起訴する輩もいれば、どう考えても被害者がかわいそうな事件でも淡々と事件を処理する輩もいるように見える。
 検察官一体の原則からすれば、重い事件は重く、微罪は微罪らしく処理をして欲しいものだが、担当検事によって割合ばらばらである印象である。ここでも善と悪のバランスというか境界が難しいようである。

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2007年5月11日 (金)

海音寺潮五郎

 私の好きな歴史作家の1人である。角川映画で「天と地と」という上杉謙信と武田信玄の川中島での激突を描いた作品の作家でもあるといえば、少しはわかってもらえるだろうか。

 この人の作品は快男児を取り扱うことが多く爽快な気持ちにさせられる。少年ジャンプで連載された前田利家の甥である前田慶次郎利太の活躍を描いたのは隆慶一郎の「一夢庵風流記」だが、それよりも前に前田慶次郎に目をつけて、「戦国風流武士前田慶次郎」という作品を書いている。文章のテンポもよく、短編集もよい。短編集も短い中に考えさせられるところがたくさんあり、唸らせられる作家の1人である。最近歴史小説を書いてもてはやされている北○謙○などの冗長な作品と比較すれば昔の歴史作家の腕前がわかるのである。

 この海音寺は、第二次世界大戦時に上官がみなを前に「がたがたいったらぶった切るぞ」と言ったところ、「ぶったぎってみろ」と返した(事実は海音寺によれば少し違うようだが)という逸話がある豪傑である。ふつう日本軍でそのようなことは出来ないのは衆目の一致するところであろう。この上官は、海音寺の剣幕におびえて部屋から出てこなくなったという。だから海音寺は豪傑の話を書くのかもしれない。

 歴史に対する視点も確かなものがあり、歴史対談で、長篠の戦いの際に織田信長が長篠に合戦場に行かず、ゆっくりと行軍していたことを疑問に感じたある作家が「長年の疑問だ」と述べると、海音寺は「梅雨だったからでしょう」とこともなげに述べたという逸話もある。鉄砲を使うのに雨は天敵だからである。

 最近「豪傑組」という文庫本を読んだ。なかなかに面白いのでぜひご一読あれ。

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2007年5月10日 (木)

歩きタバコ禁止

 歩きながらタバコを吸っている人間が嫌いである。喘息もちだからである。私は禁煙派などではないが(喘息と判明するまではハマキを吸っていたので)、分煙はしないといけないと思う。過去に私も歩きタバコをしたことが全くないわけではないが、喘息もちとなった後は歩きタバコがいかに周囲の人に迷惑で吸っている人の自分勝手な行為であるかが分かってきた。

 一定の区域で路上喫煙を禁止している都市があり、京都市でも現在検討中ということであるが、これはよいことである。ただ、条例を作るからには逮捕者まで出るくらいある程度取締をするべきである。最近の物騒な情勢だと、個人で注意した結果刺されでもしたらどうするかとみな考えてしまうであろう。

 JRの駅でも吸う場所は決められているのに平気で吸っている輩がいるが、自己中心的な顔で周囲の迷惑を考えられなさそうな顔つきをしている。こういう人はきっと仕事も出来ないだろうし、人間関係構築もだめな人であろうと思う(相手の立場に思いを致さない人間にいい仕事が出来るはずがない)。また、こういう輩にJR職員は注意をしない。法律で、逮捕して6ヶ月くらい刑務所に入れられるようにすればよいのになあと思う今日このごろである。

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2007年5月 8日 (火)

ラジオ弁護士の実像と虚像

 京都にNPO法人がやっている三条ラジオカフェというラジオがある。サイトは下記のとおり。
 http://radiocafe.jp/

 ここで数年前から京都弁護士会がラジオをやっており、私も時々出演しているのだが、予算を出す弁護士会のお偉方は、「反響がないので聞いてもらえていないのではないか」ということで予算をつけずに辞めてしまおうかという圧力をここのところ加えられている。

 毎週火曜日2時から30分番組で、全て弁護士の手作りである。タイトルは「弁護士の実像と虚像」。私が弁護士会の広報誌てみすに書いているタイトルと同じにした。
 メインパーソナリティーはチョイ悪ひげオヤジのU弁護士(ただ最近はなぜかひげを剃っている)。
 中々面白いのに、反響がないという理由で打ち切られようとしている。京都弁護士会のホームページからも1ヶ月遅れくらいで聞くことが出来る。アドレスは下記のとおり。
 http://www.kyotoben.or.jp/
 弁護士会にメールでもファックスでもよいので、私のブログの読者は是非とも聴いていただき、ご意見やご要望を寄せて欲しい。弁護士会のメールがホームページ上にないという致命的欠陥がもうすぐ解消されるはずであるのでホームページからびしばしメールして欲しい。
 そうしないと打ち切られるのである。絶対黙って聞いている人もいるのに。
 このブログだってコメントは入らずとも1日100アクセスくらいはあるのだから、きっと愉しみにしてくれている人はいるはずである。
 是非ともご試聴下さい。

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2007年5月 7日 (月)

調べものをするゆとり

 弁護士をしていると、悩ましい事件に遭遇する。法律論について考えさせられたり、過去の裁判例では同様の事件でどのような判断を下しているか等判例調査や文献を調べる必要が多々出てくる。これは何年弁護士をしていても出てくるものなのだろうと思っている。

 こうした調べ物をする時間も弁護士には必要である。しかし、日々相談・打ち合わせ・当番弁護士・訴訟などをしていると中々調べ物を落ち着いて出来ないことが多い。
 昔は連休の谷間に本を積み上げてこうした文献調査にあたったものだが、少し前に書いたように、最近では谷間も仕事で埋まり中々そうした機会が取れない。急ぎの事件でなければ、裁判所が異動期で少し暇になる3月下旬から4月頭、裁判所が半分ずつ夏期休暇を取る7月末から8月中旬、1月の頭あたりが調べ物をするチャンスである。

 今年も3月下旬から4月頭にかけて調べ物がだいぶ出来たのであるが、あまり弁護士が競争競争ということになると、こうした調査をする時間が取れず、よけいによい仕事は出来なくなるであろう。

  こうした調査をしているときは悩ましいながらも楽しい時間であったりもする。

  そのほかにも、弁護士の日程があまり詰まっているのはあまりよろしくない。
  私は、この1週間は、お金にならない仕事のために、売上が入る見込みがある事件を他の弁護士に紹介してやってもらっている矛盾した状況となってしまった。

 働けど働けど我が暮らし楽にならざり、というところか。

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2007年5月 4日 (金)

野田城の攻防

 三河国の各城が戦わずして城を明け渡して逃亡し、三方原の戦いで徳川家康が武田信玄軍に敗れたという状況の中、援軍が来る可能性がないにも関わらず城から逃亡することなく、武田軍3万に包囲されて一か月を耐え抜いた。
 このような状況であれば、他の城主と同様逃亡しても良さそうなものであるが、野田城城主菅沼定盈は逃亡することなく武田軍を一か月にわたり引きつけた後に水の手を絶たれて降伏するのである。城兵はわずか500。
 これ以前に、武田軍は刑部村というところで家康を破った後半月あまり滞陣するのであり、これは日本の歴史上の謎の一つとされている。通説によればこのとき武田信玄は発病していたため休息を取っていたものとされている。
 この野田城の戦いの最中、夜ごと吹かれる笛の音に聞き惚れて信玄が城の近くまで来ていたところを鳥居三左右衛門という野田城の兵が狙撃し、それがために信玄が落命したとの説もある。黒沢監督の影武者ではこの説を取っている。

 ところで、この菅沼定盈は降伏後にも信玄に仕えるをよしとせず、徳川家康の元にいた武田方の人質と交換されたことから命が助かるのであるが、他の城が武田になびいていくその中で、わずかの手勢で武田軍を引きつけたことから、後に織田信長にも激賞されている。

 利ではなく、信念にしたがって戦うこんな男が私は好きである。

 最近刊行された「風は山河より」という小説は菅沼氏を主人公にした小説であり、この休み中に全五巻を読み終わったのであるが、「利」の追求が全ての人間の幸福を生むかのように議論し、「利」を中心に据えて進んでいこうとする規制改革論者達にこうした信念はないだろう。
 個人主義が横行し、義務を履行することなく権利のみふりかざす世の中にあって、菅沼定盈のような人材はいないのであろうか。

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2007年5月 2日 (水)

ゴールデンウィーク前後…

 既にゴールデンウィーク明けの一週間の予定が埋まってしまっている。
 ゴールデンウィーク前と後はたいがい忙しいが、前よりも後の方が忙しい。4月にあった裁判の期日の書面の提出期限がやってきたり期日が入っているからである。4月の裁判の時は、「ゴールデンウィークにやろう」と思うのだが、ゴールデンウィーク中は依頼者本人との打ち合わせが入らないので、ゴールデンウィーク前に入れておかないと、ゴールデンウィーク明けの1週間に詰め込まないといけないはめに陥るのである。
 おかげで、少し長い時間を必要とする新しい打ち合わせが17日の木曜日まで入らなかった。
 ある程度計画しているのだが、事件はこちらの都合を聞いてくれないので致し方ない。仕事があるのは嬉しい悲鳴であるというべきであるが、あまり詰め込むとミスが出るので危険である。
 今日もミスを発見し、現在リカバリー作業中である。ブログを書いて現実逃避してみたが、やはりリカバリー作業はしないといけないのである。しくしく。

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2007年5月 1日 (火)

連休の谷間(私は今日は当番弁護士)

 連休の谷間であるが、私は弁護士になってから今まで暦通りに出勤していて、今日も同様である。昔は何も入っていないことが多く、起案をする日に当てていた。2日間書面を書いたり調べ物をすると相当はかどるので、貴重な2日間であった。

 ただ、連休中で突然降ってわいたように事件が来ることもある。勤務弁護士時代に、ボスは旅行、弟弁もどこかに行ってしまい事務所におらず、事務所に2日間とも私1人しかいない連休の谷間に起案をするため事務員達と出勤していたことがあったが、ここに相談がばたばたと入り、2日間で5件くらい突如として聞いたことがあった。そのうち3件くらいは事務所事件として受任して、ゴールデンウィークの谷間の起案は出来ず、他の日に出勤してきたこともあった。
 そのうち1件は破産事件で相手方にヤクザがいて、後々までしつこく債権者集会や事務所まで来ていたのであった。谷間に遊んでいた人は手持ち事件も増えず、私は起案をしに来ていたのに手持ち事件まで増えた。もちろんそれで私の給与が増える訳ではない。
 しかし、勤務弁護士時代は事務所に貢献することが最大の役割であると先輩達に教えられたので、その教えを守って6年半の勤務で谷間もずっと出勤していた。

 そういうわけで、習慣なので独立後も暦通りである。ただ、今日は弁護士会から当番弁護士を割り当てられていて、午後からは宇治署まで出動していたため午後がつぶれた。
 弁護士会の慣例で、ゴールデンウィークの休みの日に当番を引き受けると、当番弁護士の出動回数が減らされるということであったが、谷間の当番を割り当てられても何も特典がない。休んでいる弁護士もある程度いるであろうし、世間は休みの会社も多いのであるから、同様の特典が欲しいところである。刑事事件は件数を絞ってやる主義の私としては、私個人の当番弁護士の出動が多いのは好ましくないのである。

 ところで、昔は2日間ほとんど裁判も入らず起案出来ていたのだが、ここ数年はここに相談や打ち合わせが平気で入り、起案をする時間もままならない今日このごろである。ずっと打ち合わせや裁判に出ていると、書面が書けない。ことに今日のように外に出ているとちょっとした連絡文書さえ書けない。仕事があるのはありがたいことであるが、人間の出来る量には限界がある。

 そういいながらお前はブログは書いているではないかと突っ込まれそうであるが、一応宇治署から帰ってきた後の2時間ほどで、電話の処理をし、いくつか準備書面や答弁書を書き上げたあと、少しほっこりした時間に書いているので、ご容赦願うということにしよう。ずっとフルモードでは頭が保たないのである。

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