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2007年6月29日 (金)

逮捕されてしまいましたね。

 公安庁の元長官はおおかたの予想通り逮捕された。最初の事件の筋とは異なっているようで、朝鮮総連側が被害者となったようだが、土屋元日弁連会長も考えないといけないであろう。34億ものお金が動く取引で(もっと小さい額でもそうなのだが)、いくら相手が元公安庁長官だからといって、代金受領前に不動産の名義を移転するなんて常識では考えられない。私は無二の親友の弁護士が相手についていて、依頼されたとしても、絶対にそんなことは出来ない。相手の依頼者は弁護士そのものではないからであり、当方の依頼者のために保全はしておかないといけない。

 いくら買主側に弁護士がついているからといって、これだけの巨額の売買であれば、買主の資力調査は当然行って然るべきであり、弁護士として朝鮮総連から責められれば返す答えもないのではないか。

 訴訟で敗訴が見込まれており、いくらせっぱ詰まっていたからといって、ずさんではないかいなという気がする。

 私などは、不動産の売買で買主に逃げられたこともあるので(手付金は没収したけど)、少し大きい金額の取引だと、相手の状況などは周辺調査をする。34億ともなれば、より慎重に与信調査をしたであろう。金融機関を介さずに、一個人が30億以上の金を出資するなどということは、少し考えればあり得ない話であることはわかるのではないかとも思う。

 公安庁元長官も、法廷でそのあたりは突っ込まれるであろうし、与信調査もしておらず彼のいうように本当に資金調達が出来ると考えていたとすれば、検察官の中には常識がない人がいるということを露呈するようなものだ。

 国策捜査という言葉には縁のない私のような弁護士にはわからない世界である。 

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2007年6月28日 (木)

事件ごとにむらがある弁護士

 世間の耳目を集める大事件は一生懸命やる癖に、通常の事件では手を抜いたり、全く事件を考えていなかったり、中々進行させなかったりする弁護士がいる。あるいは、利益が出そうな事件は一生懸命やって訴額の安い事件は全然いい加減な弁護士もいる。そもそも安い事件は引き受けなかったりするのだが。あとは興味のある事件は一生懸命するのだが、興味がない事件は放置してしまうタイプもいる。

 もちろん、事件も複雑な事件からそうでない事件までいろいろあるので、全ての事件に同じ労力をかけるということもまた不可能であるが、事件ごとにむらがある弁護士はよくない。一方で、どのような事件でも同じ調子でやる弁護士も事件ごとに対応できていない感じがするので、やはり事件ごとにベストを尽くそうという姿勢が大事であろう。

 前にも書いたかもしれないが、私のボスは5万円の費用の事件でも、100万円の事件でも全く姿勢が変わらない人だったし、今でもそうである。5万円の事件でも最後まで「何とかならないか」と頭を絞っていた。

 私もその姿勢を見習おうと考えて、冒頭に書いたようなタイプの弁護士にはならないでおこうと心に誓っている。そういう意味では、やはり最初に入る事務所というのは重要である。私はボスの弟子で本当によかったと常々思っている。

 事件によっては、中々筆が進まなかったり、調べ物を膨大にしなければならない事件もある。先日は同種事件を調べるために、韓国に日本の裁判所である高等法院というものがあった時代の裁判例があることが分かり、ある大学の図書館にあることが分かり、N西さんの尽力でコピーを取り寄せることが出来たこともあった。また、20冊くらい専門書を読んでようやく資料を見つけ出すこともある。しかしそうした調べ物も弁護士の職業的喜び・楽しみの一つであると考えている。

 まあ、むらがないどころかどの事件でも全然仕事をしないで費用だけはバカ高い弁護士もいるにはいるがので、そうした弁護士の話を聞くとげんなりする。まじめに働いている弁護士まで同様の目で見られると思うとぞっとする。

 今後弁護士が増えて、拝金主義が横行すれば、余計に事件ごとにむらが出てくるであろうし、費用だけとって仕事をしない弁護士も増えていくかもしれない。

 そんなことを考えると、気持ちがどんより、である。

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2007年6月27日 (水)

お金

 お金ばかりが全てではないけれど、お金に着目すると事実の(裏の)流れが解明出来ることが多いことは前にも書いたように思うが、少しまた書いてみたい。金銭欲は、人間の持っている欲のうちもっともわかりやすいともいえるかもしれないからである。

 報道によると、公安庁元長官は朝鮮総連側からも「謝礼」をもらっていたとされている(1億円とかいう報道もある。個人の破産事件を315000円実費込みで受けるとすると、実に317件分である。私のお昼ご飯代は大体平均すると600円くらいなので、私のお昼ご飯の16万6666回にあたる。456年分の私の昼飯代である。いかに高額かがわかる。いわなくてもわかるか?)。
 これが事実かどうかは今後判明していくことであろうが、これが事実とすれば、大きいお金の前を出されたときに、ぐらついてしまうようであれば、かの人は即刻弁護士は辞めた方がいいだろう。弁護士は費用は貰うけれど、お金だけで動くのではないからである。園意味で、私は「先生を雇うのにいくらかかりますか」と言われるのが大嫌いである。いくらお金を積まれても引き受けられない事件はあるし、現に過去あったが、全て断っているし、弁護士というものは「雇われ」はしないものだからである。

 また、公安庁元長官が、事件の相手方から利益の供与を受けたということであれば、弁護士法上も懲戒の問題が発生するように思われる。事件の行く末がどうなるかである。

 一方、この分だと、元日弁連会長も、朝鮮総連側からそれなりの着手金をもらっているのではなかろうかと勘ぐってみたくなる。私などからすれば、2人とも高齢だし、そんなにお金が必要とも思えないが、あればあるほど欲しくなるのがお金ということなのだろうか。
お金がない者にはわからない話である。

 この事件、朝鮮総連のシンボルがなくなってしまうことは避けないといけないから、売買を進めたという弁明を2人はしているが、それが本当に本件事件を引き受ける趣旨であったとしても、それは本来いち弁護士あたりがどうこう出来る問題ではなかろうし、それが出来ると信じていたとすれば見当違いもはなはだしいように思われる。
そこまでいうなら自腹を切ればよいのである。仮に買主を探すとしても、彼らが無報酬でやっているというのであればその弁明も「なるほど」となるであろうが、元公安庁長官に大きいお金が流れているということが事実であったり、土屋元会長がやまほど総連側から費用を取っていたりすれば、そんな弁明は誰も聞いてくれないであろう。それらは本来債権者である整理回収機構にいくべきものだからである(ただし、断っておくが私は本来的には整理回収機構は大嫌いである。ただ、正しい方を正しいと言っているだけである。)。

 織田信長など、華々しい活躍をした歴史上の人物で、終わりを全う出来た人は中々いない。整理回収機構の詐欺回収問題で引責して弁護士を廃業した中坊公平氏は弁護士に復帰される(もうしたのかな)ようだが、過去華々しい活躍をした時期から比べると、人生の引き際を誤った人物の1人であるように思えてならない。
 土屋弁護士も元公安庁長官も、今回報道されている疑惑が事実であれば、過去に積み上げてきた名声や地位を一瞬で失うであろう。報道されていることが事実であるとすれば、それは裏に金の匂いがぷんぷんするように思われる。

 かくいう私自身は25歳から弁護士をしていることから、12年経った今でもまだ全然若いので、人生の終わりを全う出来るかどうかなどは全く未知数であるし、途中で大転びすることもありえないではないので、偉そうなことはいえないのであるが、やはりお金は弁護士の人生を過たせる最たるものなのかもわからないからさらに気をつけようと思う今日このごろである。

 やれやれ。

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2007年6月26日 (火)

真田幸村(下)

 徳川方の謀略によって丸裸とされた大阪城に対して、家康は流言を流させた。当初の和議では、大阪よりの国替えはないということであったが、「家康は、秀頼を大和に国替えさせようとしている」「大和に国替えさせた後に、腹を切らせるつもりである」というものである。
 これを受けて、大阪城では淀殿らが恐慌を来し、続々と牢人を集め始めた。徳川方は、大阪のこの姿勢に対して、「戦支度をするということは、和議をないがしろにするものである」として、全国の大名に動員をかけたのである。
 しかし、大阪に対しては、名古屋での家康の息子の婚礼のためと称していたところ、天下人の詐欺としてはきわまったというところであろう。

 一方、大阪方であるが、大阪方にはもはや天下の名城は本丸が残るのみであるから、野戦をするしか方法がない。しかし、大阪の軍勢が5万人程度に対して、徳川軍は40万である。通常では勝機はない。
 そこで大阪方が取る方法は一つ。家康の首を取ることである。徳川軍は全てが攻めたくて大阪城を攻めている訳ではなく、豊臣家恩顧の大名も多い。彼らは、徳川幕府に従っているのではなく、「海道一の弓取り」と言われた徳川家康が恐ろしいのであり、家康が死ねばどのような情勢となるかは計り知れない。そのため、家康はわざわざ70を越える年齢で前線で指揮を執っていたのである。

 悲壮な戦いが始まった。塙団衛門が死に、後藤又兵衛が死ぬ。
 真田幸村は初戦の戦いで伊達政宗勢をたたきのめし、これがために伊達勢は戦闘不可能に陥ってしまうほどであったし、その他の局地的戦闘でも大阪方は徳川軍を次々に破っていた。しかし、圧倒的兵力差の前に全滅していく。
 そして、明石全登を遊軍とし、毛利勝長と真田幸村の部隊が一気に撃って出て家康の本陣を目指すべく共闘の約定を交わすが、毛利勝長麾下の将校らが敵に襲いかかり、一気に敵を突くという、この共闘の約定も果たされなくなってしまう。一説によれば、幸村はこのとき豊臣秀頼の出馬を要請していたといい、秀頼もその気になっていたというが、淀殿がこれを押しとどめたとも言われている。
 幸村の考えていた作戦は不可能となってしまった。しかし、最後まで幸村は諦めない。
 越前の松平勢を蹴散らし、鬼神のごとき突撃で、家康の本陣に斬り込んだのである。友軍の明石全登、毛利勝長も突撃する。
 家康の本陣は大混乱となり、家康の馬印も捨てて旗本は逃げ出すほどであった。いかに幸村の突撃がすさまじいものであったかがわかる。
 家康はこの幸村の突撃の時2度にわたり逃れられないとして腹を切ろうとし、これを側近が押しとどめてようやく腹を切らずに済んだほどの切迫した突撃であった。このとき、家康が死んでおり、この後の家康は影武者であるとの説も出てくるほどの突撃であったのである。
 しかし、圧倒的兵力差の前に時間の経過とともに真田勢は討たれていき、幸村は安居神社で身動き出来なくなっていたところを越前松平の西尾という侍に討たれた。

 島津忠恒は、「真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。」とその戦いぶりを激賞している。
 また、幸村が首実検された後、諸将は、「幸村の武略にあやかりたし」として、その髪を争って切り取ったという。
 幸村には娘があったが(息子である大助は秀頼とともに大阪城とともに自刃)、その娘の1人は仙台伊達藩の片倉小十郎がこれを妻とした。徳川幕府からすれば面白くない縁組であったろうが、それを幕府の思惑を無視してでも妻としたのであるから、それほど幸村の武将としての名声がこの戦いで上がったか証拠ではないかと思われる。

 幸村の活躍を小説で読むには、池波正太郎の「真田太平記」、司馬遼太郎の「城塞」がある(このブログを書くにあたっても参考にしています)。

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2007年6月24日 (日)

真田幸村(前)

 真田幸村の名前を聞くとたいていの戦国時代好きは感ずるところがあるだろう。もちろん私もその1人である。
 大阪冬の陣・夏の陣において徳川方を徹底的に悩ませた名将・智将であることはいうまでもないかもわからない。

 真田氏は真田幸隆という幸村の祖父の時代にはその地所を村上義清(北信濃の豪族。後に武田信玄に所領を奪われて上杉謙信の元に身を寄せる)に奪われ流浪の身であったが、幸隆が信玄に仕えて北信濃の攻略に功があったことから、3万石の所領をもらったところからが隆盛の時代である。幸隆は、その知謀は信玄を越えるとされた。
 幸隆の子のうち、長男・次男はいわゆる「長篠の戦い」で武田勝頼に従って従軍した結果討ち死にした。そのことから、甲斐の国の武藤家という名家の名跡をついでいた真田昌幸が真田家の当主となった。この昌幸が幸村の父である。
 昌幸は信玄の小姓として仕えていたことから信玄の弟子である。本能寺の変のあと、火事場泥棒のように信濃を刈り取ったのが家康である。ところが、信濃上田城に押し寄せる徳川方の軍勢を二度にわたり昌幸は完膚無きまでにたたきのめし撃退している。
 信玄・謙信亡き後、秀吉の軍勢を唯一破り、「海道一の弓取り」といわれていた家康の軍勢を二度にわたりを破ったことで、真田昌幸の武名は相当高かったようである。
 後に北条氏を攻める際、秀吉は中山道からの先陣を真田昌幸に命じているほどである。

 秀吉が死に、家康が難癖をつけて上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝の軍を征伐するとして東上した間に、石田三成が大阪で兵を挙げて関ヶ原の戦いが始まることとなるが、真田昌幸と幸村はこの家康の軍に従っていた。
 家康は、西軍に着きたい者は去るがよいと啖呵を切ったところ、西軍に従うとしてただ1人家康の元を離れたのが真田昌幸であった。ただし、昌幸の長男である真田信幸(後改めて信之)は、本多忠勝の養女を妻としていたことからそのまま家康に従っている。
 これはどちらが勝っても真田家の血脈を残すための戦略であるとされているが、そのような配慮も働いていたであろう。幸村の妻は石田三成の親友である大谷吉継の娘であったことからも、このような一族の別れ方となったのであろう。

 関ヶ原の戦いでは、徳川軍の主力は徳川秀忠が率いてい中山道を通っていた。しかし、ここで真田昌幸はその居城の上田城においてこの主力軍を引きつけてさんざんに痛めつけたのである。その結果、あろうことか関ヶ原の戦いでは徳川軍の主力が不在のまま家康は外様大名を主力として戦うはめになった。家康は気が気でなかったであろう。関ヶ原の戦い終了後、家康はあまりの怒りに数日秀忠と面会をしなかったほどである。
 この秀忠という家康の三男(長男は武田家への内通を信長から疑われ、信長の命で切腹させられている。次男は結城秀康であるが、家康は生涯自らの子であることを疑っていたといわれ、跡継ぎは秀忠とされたのである)は、戦国に生きた武将としては何の取り柄もない人物で、そのために家康は将軍が不在でも世が治まる政治の仕組みを考えたと言われている。また、自分の命があるうちに、後の大阪冬の陣・夏の陣で極めて汚い詐欺的方法で豊臣家を滅ぼしたのも、跡継ぎである秀忠に不安があったからであるとされている。
 話が逸れたが、真田昌幸は、主力をここまで引きつけたのであるから、関ヶ原における西軍の勝利を疑わなかったであろう。
 しかし、小早川秀秋の裏切りなどで関ヶ原における戦いは1日で家康の勝利に終わってしまった。これは昌幸・幸村親子にとって大きい誤算であったろう。
 戦後、昌幸と幸村も家康により死罪を与えられるところであったが、真田信之の助命運動により紀州九度山に蟄居を命ぜられるにとどまった。家康は真田昌幸の武略を恐れていたと思われるし、秀忠は真田嫌いになったことは疑いはなかろう(現に後に真田信之に対しては、秀忠は様々な嫌がらせをしている)。

 そして、家康は自分の死期が近づいた事を知っていたのでもあろうし、徳川政権を盤石ならしめるために、極めて老獪な方法で豊臣家に対する戦の大義名分を作り上げて(この間の家康の行動は書くだに気分が悪くなるような詐欺的行動であるし有名な経過であるから書かないが、そのために家康が後世で受けた評価は極めて悪いものになっている)、大阪冬の陣が始まるのである。

 真田昌幸は大阪冬の陣が始まる前に死亡していたので、ここで真田幸村が大阪城に入城するのである。しかし、幸村はこの時点で父の武名に隠れて世間的には全くの無名であった。そのため、大阪城における軍議において、幸村の献策は全て退けられてしまうのであった。この時点で、幸村の献策を容れていれば、徳川幕府は存在しなかったかもしれないのであるが、それがまた歴史の面白いところでもある。
 また、淀君を中心とする大阪城のトップ連中は、牢人上がりの幸村が内通するのではないかとの疑いも持っていたというので、はなはだ幸村は面白くなかったであろう。しかし、この時点で既に40を越えていた幸村は後世に名を残すことだけを考えていたことであろうから、自ら大阪城の唯一の弱点である城の南側に「真田丸」という出丸を築いて、最も困難な持ち場を受け持つのである。
 ちなみに、私は大阪府立高津高等学校という高校の出身であるが、この高校のすぐ後ろに真田山公園という公園があり、ちょうどそこが真田丸が築かれていたところである。高校生であった当時はそのような知識もなく、通学していたのであるが、そのことを知った後は感慨深いものがある。私が好きな武将の1人である幸村の出丸があったところに3年間通学していたことになる。

 さて、真田丸には加賀の前田家の軍勢などが取りかかったが、幸村の采配の前に惨敗に終わった。基本的に幸村の配下となったのは寄せ集めの牢人ばかりの軍勢であることを考えると、いかに幸村の采配が水際立ったものであるかが分かる。徳川方の軍勢は、それぞれの大名の直属軍であることを考えてみれば分かるであろう。
 この時点で、幸村が昌幸同様の徳川にとって恐ろしい武将であったことが徳川方に判明したのである。
 そのため、家康は、幸村に信濃一国を与えるという条件で寝返るよう進めるが、幸村はこれを一蹴している。私が幸村の立場でもそうしたであろう。関ヶ原の戦いから長きにわたり罪を許されず(多くの武将は罪を許されている)、世捨て人のような立場であった幸村であり、自らの名をいかに美しく残すかを考えていたであろうから、そのような申し出に応じるはずがないのである。
 大阪冬の陣は鴫野の戦闘でも大阪が大勝利し、各地の攻め口でも城方の砲火の前に徳川方はなすすべくもなく、唯一の弱点と秀吉が気に掛けていた攻め口は幸村の「真田丸」がそびえかえり攻めれば攻めるほど死者を出すという状況となった。そのため、家康は老獪な手段で和議に持ち込んだのであるが、外堀のみを埋めるという約定での和議であったのに内堀まで埋めてしまったのであった。
 天下を取った男で、ここまで詐欺的行為を働いて平然としていた人物は家康をおいて他にないと「城塞」という作品の中で司馬遼太郎は言っているほどである。
 そして、豊臣家が滅亡する大阪夏の陣が始まるのである(これも家康の詐欺により戦の大義名分を得たのである)。夏の陣でも、幸村はその名を後世に残す働きをするのであるー。

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2007年6月22日 (金)

理論で反対しているようで実は違うやつら

 何かをしないといけないとか制度を作らないといけない時に、「理論上おかしい」と言って反対する人がいる。一般に、こうした何かをすることとか、制度を作ったりすると、その後は弁護士の負担が増えて大変になる。

 こうした時に、理論的に間違っているととことん反対する人達の中には、純粋に議論をしている人と、その実、変わった制度であったりしなければならないことをしたくないがために、その正当性を作り出すためにあえて反対している場合があるので要注意である。そして、制度が出来上がると、「僕はあんなものには協力出来ない。理論的におかしいから参加出来ない」などというのである。

 単に出来ないから出来ないと言えばいいのであるが、それなりに格好をつけたがる人は、そこに一つ理屈をかませるのである。そうして自分を正当化して、「僕は正しい」としているのである。そして自由になった時間で金を儲けたりしているが、自分ではそうした矛盾行動をしていることを周囲が気づいていないと思っている。

 しかし、弁護士はバカではないから、こうした人はそういう人間だとして益々評価されなくなる。同じやらないなら、「忙しくて出来ない」と言っている人のほうがかわいげがある。

 私はプライベートでは全く頭が働かない人間であるが、仕事中はいろいろと裏を考えたり真意を考えたりする癖がついているので、すぐに分析してしまうし、ほかの弁護士も同様であろう。

 気づいていないのは本人ばかりなり。

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2007年6月21日 (木)

万年筆

 私は万年筆好きである。小学校の頃、小説家か漫画家か野球選手になりたいというのが夢であった私は(サッカーは当時まだメジャーではなかった。キャプテン翼が始まる前だったので)、原稿用紙を買ってきて小説家のまねごとのようなことをしていたのであったが、父親に1000円の万年筆を買って貰ってそれで書いていた。今から思えば、小学生のままごとのようなものである。

 何となく文豪というイメージに惹かれるところがあるので、こうして小さい頃から万年筆は好きであった。機構も複雑で、インク漏れをしたり、インクの詰め替えも容易でなかったりするのだが、それでも万年筆が好きである。

 といって、私の字が空海のような達筆であるかといえば、ほとんど暗号のような字であり、事務員はほとんど超能力を駆使して何が書いてあるか読まないといけないような字なのであるが(自分ですら何をメモしたか分からなくなるときがある)、それでも万年筆の書き味にとりつかれているのである。

 そんなこんなで、万年筆は20本くらいもっているが、既にがたが来て壊れたものや書きすぎて先がダメになったものもある。依頼者の話を聞いてメモしたり、証人尋問でメモをすると相当の字数を書くことになり、すらすらと書ける万年筆は必携である。20本は全て実用であり、使ってみて書き味がしっくりこないものや壊れたものは万年筆収納庫に片付けてあるのである。

 以下に私の気に入っている万年筆を書いてみるが、書き味は個人個人の趣味なので、人によっては私と全く違ったことをいうであろう。

 私が今よく使っているのは、パーカーのデュオフォールドで、以前使っていたパールアンドホワイトが来客中に書いていると軸がばりっと割れてしまったので、同じ型の黒色を使っている。これをスーツの胸ポケットにいつも入れているのである。パーカーのデュオフォールドは、未だにインク詰まりがしたことがない名品である。

 事務所の机では、セーラーの長刀研ぎという万年筆を使っているがこれもまた絶品である。事務員に指示するメモを書くとき本当にすらすらと書ける。これもまたインク詰まりを起こしたことがない。ストレスのない万年筆である。

 あと事務所の机ではモンブランの146というものも使っているが、書き味はモンブランはパーカーやセーラーに比べるとはるかに落ちる。かなり使い込んでいるが、私の手になじんでいない。これは好みの問題なのかもわからないが、そうはいってもやはりモンブランだけあって風格があり手放せないのである。

 手帳用には、今イタリアのメーカーであるアウロラというメーカーのブルーの万年筆を使っているが、これは先の細さといい、手帳用にぴったりである。少しインク漏れがするが(イタリア製は少し雑であったりする)、手が汚れるのもあまり気にならないほど気に入っている。
 この万年筆を忘れて、自宅で手帳から手帳に写す時に手元にないと、イライラするほどの気に入りようである。

 インクはブルーブラックである。黒と違って目に入り込んできやすいし、他の人と少し違うことが好きな私としては、ブラックは嫌なのである。

 今万年筆は今ブームらしい。ただ、万年筆は高い。1本5万円とか平気でする。しかし、最近雑誌にもよく掲載されているように、他の人と違う万年筆を1本はもっていたいものである。

  

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2007年6月20日 (水)

K総合事務所との食事会

 先日、K総合事務所との食事会をした。私では絶対に事務員を連れていかないイタリア料理の店であった(私は居酒屋か焼肉か寿司)。弁護士事務所の事務員さんも他の事務所と交流した方が楽しいであろうし、他の事務所の弁護士と食事をするのもやはり刺激になる。このブログを読まれている修習生も、実務家になった時には仕事と家の往復ではなく、やはり他の同業者と酒を飲み、気が大きくなって「あの弁護士はアホや」とか、「あの裁判官はアホや」とグチを言い合うのも大変有益である。1人でこもるのは本当によくない。依頼者や事件の紹介者と食事をして接待をすることもあるが、そうした仕事を離れた食事も有益である。わら人形を抱いて丑の刻まいりをする元気があるなら、食事会である。

 まあ今回は興味のない人には全く興味がないであろう内輪ネタなので、読み飛ばしたい人は読み飛ばしてもらえばよい回であるが、こうした周辺の人に支えられたりエネルギーをもらったり、こうした人たちと雑談する中で自分の考えが固まっていったりすることがあるので、弁護士の実態を知ることにはなるだろう。

 K総合事務所のK弁護士は私より12歳年上であるにもかかわらず(同じ戌年)、私をアニキと呼ぶ強者である。ある疑惑が取り沙汰されるO弁護士ネタから最近卒業しつつあったはずなのにまたネタを披露してくれたK藤S一郎君も参加してくれた。

 ほかの事務所と食事会をすると、なんともいえない事務所のカラーがあることに気づく。私の事務所は自分でいうのもなんだがやっぱり私の事務所のカラーというか、雰囲気がある。K総合事務所も同様で、やはり事務所ごとのカラーがあり、不思議なものだと感心させられるのである。私が元勤務していたボスの事務所もやはり事務所のカラーがある。ボスの事務所には事務員になってから既に40年が経つベテラン事務員K田さんがいて(本当は20年経っていないらしいが)、強烈なカラーを作り出していることと同様である。

 K総合事務所の3人は長身でスタイルがよく美人系であることが共通している。そのうちのKさんは前の飲み会であろうことかボスであるK弁護士から「色気が全くない」とダメだしされていた事務員さんである。しかし、私からみると全然色気がある。K弁護士によると、K事務所の事務員は皆色気がないというのである。

 当日の二次会ではK弁護士はあろうことか、Kさんに向かって、「僕は実は小柄な人が好きやねん。事務員を誰を採用するかは、事務所の他の弁護士の総意やからな~」などという爆弾発言をしてKさんはむっとしていた。さすが酔っぱらいのK弁護士である。おそらくその発言は忘れているであろう。しかし私は覚えている。
 Sさんは清楚な感じであまり話をされないが、女性同士であればどうなのであろうかと勘ぐっていた私である。弁護士がいると緊張しはるのかも知れない。あるいは、私がしゃべりすぎたのか。
 少し前のブログにも登場したTさんはK事務所の影のボスである(と私が勝手に思っている)。我々が接待交際でたまに行く店が実はいかがわしい店ではないかとTさんが勘ぐっていたのはショックであった。そんな店には少なくとも私はいかないし、行ったところでそんな店の領収書は出さないであろう(そもそも経費にならない)。Tさんがこのブログを読んでいてくれたことも知れてよかった。意外なところに読者はいるものである。ちなみに、私をアニキと呼んでいる癖にK弁護士はこのブログを読んでいない。彼はまだまだである。

 うちの事務員2人(M川さんとN西さん)は長身ではなく、かわいい系であるが、この2人もY下N子弁護士から、別の飲み会の時に「全然色気ないやんな」と言われていた。しかし、事務所の飲み会の時に、お色気ムンムンでも困るので(そういう事務員も他の事務所に過去いたが。)、仕事中や事務所での食事の時は色気がない方がよいのである。私がみたところ、私の前ではあえて色気を抑えているに違いない。

 こうした楽しい食事会もたまに行くからこそまたいい仕事が出来るのである。引きこもりはいけないのである。

 

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2007年6月19日 (火)

喘息

 私は昔から時々呼吸が苦しくなっていたのだが、「人間そんなもんだろう」と思って特に病院に行っていなかったところ、2年前の秋に動けないくらい胸が苦しくなった。その時は「胸膜炎」といわれクスリを飲んで安静にしていたら治ったので胸膜炎と思っていたのだが、昨年の春にまた呼吸が出来なくなり、診てもらったところ喘息であることが判明した。っと早くわかっていれば良かったのであるが。

 喘息は気道が狭くなって息が吐けなくなり、呼吸が出来なくなる病気なのであるが、このつらさはなったものでないと分からないであろう。症状がないときにはけろっとしているのであるが、つらいときは本当につらいのである。

 喘息発作で死亡する人が年間5000人くらいいるということで、はっきり言って重病であるが、小児喘息のイメージがあるおかげで、たいした病気であるとは思われず、「運動が足りないのではないか」とか、「走ったら治るよ」とか、「体調に差がありすぎやで」などという心ない言葉を多々受けることとなるのである(まあ私は分からない人には分からないであろうからと達観していて、心ない言葉をかける人は相手にしていないが。)。

 私はひどいダニアレルギーで、喘息患者の気道は炎症が起きて過敏になっていることから、アレルゲンが入ると発作を起こすということになる。昨年は本当につらかった。

 西洋医学的には、成人の場合完治は出来ないということで、ステロイドという薬を吸引して炎症を抑えるしか出来ないのである。私は現在も気管を拡げる薬(セレベント)と、ステロイドを朝晩1回ずつ吸入している。そのおかげで、今年もしんどい時はあるが、仕事は出来ているし、身体も少しずつ元に戻すために鍛えられるようになった。

 ただ、持病である以上日によってはしんどい時もあり、先日行われた60期修習生の謝恩会(送別会)の日は話をするのもややしんどい日であったが、前に出て話をしなければならず、あまりいつものように話が出来なかった。もっといい話もしてあげたかったのだが、これもひとえに喘息のせいである。

 中には、ステロイド治療は完全反対という説もあり、そのような本も多数読んでいるのであるが、そのような本はたいてい「薬に頼るな。つらいけどいつかは身体の自然が治してくれる」という論法であり、現在仕事を抱えていて対処しなければならないことが山積みの人間には全く向かない治療法が縷々書いているのであって、間違ってはいないのかもしれないが、取り入れることは出来ないのである。

 私は医療過誤弁護団の団員でもあるので、喘息で倒れた時に専門書も10冊くらい買い込んで研究したおかげもあり、いろいろと研究をして体調がラクになるように心掛けている結果、今年は仕事が出来ている。

 その中でも、胃液が食堂に逆流して刺激となり喘息発作が起こることがあるというのは知らない医者もいるようであり、私も胸焼けがあるので抑える薬をせがんで飲んでみた結果、喘息症状も和らいでいる。

 病気を抱え苦労している人間に、その病気のことを知りもせず、気楽にいえる神経は元々私にはなかったが、自分が持病を抱えてからは余計にそういう思いが強くなった。

 もちろん多数の人に物凄い心配をしていただいたし、今も心配してもらっているので、ありがたいことである。困った時の人の気持ちほどありがたいことはない。倒れた時に多くの人に助けられたことで、自分もまんざら捨てたもんではないと思えたほどである。

 加賀100万石の基礎を築いた前田利家は若い頃信長とケンカをして浪人していたことがあったが、その頃近づいてきてくれた人が本当の友達であると述べていたというが、正にそうであろう。

 困った時に助けてくれる人がいる人間でいたいものである。

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2007年6月18日 (月)

腕時計を外すとラク

 2週間ほど前から腕時計をしていない。肩凝りがひどいので、つらい時は腕時計をすると余計に肩が凝るからである。カバンの中には入れてある。独立1年目が終わった時に自分への褒美として買ったそれなりの価格がする時計なのだが、カバンの中では宝の持ち腐れである。しかも自動巻なのですぐに止まるときたもんである。

 雑誌なんかでいい時計を見てちょっと欲しいなと思うこともないではないが、どうせ着けないからと思って時計はあまり買わないでおこうと心に誓っている。時計はもうここ4年ほど買っていない。私の第3の師匠のN村T雄弁護士も時計は国産の安いものしか着けていない。接待交際費にかけるお金を少し出せば時計は買えるであろうが、人のお金をかけるところは本当にまちまちである。

 事務所にいる間は、机の上には、独立時に貰ったミキモトの置き時計もあるし、グッチの腕時計を最近は置き時計代わりにずっと置いているので机で起案している間は困らない(ジッポーの懐中時計もあるのだが、電池が切れたので代わりにおいてある)。
 外に出たら出たで、時計は割合どこにでもあるから何とか知ることも出来るし、携帯電話を取り出せばすぐ時間は分かる。ちなみにぬいぐるみのクマもパソコンの上に座っている(このクマは随分前に貰ったものであるが、ネクタイをしていてちょこっと座っていてかわいい奴である。ブログペットのナイルくらいかわいい)。

 腕時計を外すことで、何となく時間に追われている気分がなくなったような気分的効果もある。私のボスも腕時計が嫌いで、着けておらず、私が事務所に入った頃には時計を全く持っていなかった。その後懐中時計を持つようにはなったが、ボスも「時間なんかどこでも何とかわかるやんか」と言っていた。その気持ちは時計を外すと何となくわかる。

 ただ、私のボスは時計をしていなかった結果、伊丹空港まで行っていたにもかかわらず乗り遅れて出張にいけなかったということがあったようではあるが…。こういう結果にはならないよう、時間にはゆとりを持って出発しようとは心掛けているワタシなのである。

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2007年6月16日 (土)

日焼けの季節

 日焼けをする季節になってきた。女性はたいてい日焼けを気にされるが、その点男は楽である。しかし、色が白く日焼けをしても赤くなって終わりの男性は、たいてい黒くなりたいという欲求をもっているようである。

 私はこの季節になると、外を歩いているだけでたちどころに焼ける。サッカーの練習でもあればもの凄い日焼けをするので、いつも夏場は「海に行かれたのですか」と依頼者から聞かれる始末である。
 海に行く余裕もなく、仕事をしているのであり、バカンスをしているように思われるのはしゃくであるが、私は生来メラニン色素が皮膚に有り余っているようで、日焼けをしやすい。

 私の親友のY田S司弁護士も日焼けをしやすいたちで、我々が2人で歩いていると、世が世なら2人ともアジアのどこかの国の王子かアラブの石油王ではなかったかと錯覚するほどの黒さである。

 私やY田S司弁護士は、特別日焼けサロンに通う必要がないので経済的である。

 最近少しずつ体を鍛えて少しでも昔に戻りたいと考えるのであるが、日中移動していると暑さで疲れてしまい中々体を鍛えるところまで気力が続かない。弁護士になるまでは、夏バテをしたことがなく、夏がもっとも好きな季節であったのであるが。
 日焼けをする度合いは変わらないのであるが、中身が変わってきたのであろうかなあ。

 しくしく(K内総合法律事務所のT田さんが好きなフレーズで締めくくってみた。ちなみに、このT田さんという事務員さんは美人である。 ※注)。
 
 ※注 この日焼けという中身とこのかっこ内の記述は全く無関係である。

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2007年6月15日 (金)

今週は忙しかった…

 先週は土曜日が法事で休めず(両親と妹とともに祖母の1周忌)、月曜日から木曜日まで忙しく、疲れた。

 月曜日は午前中電話の処理やら連絡文書を書いてから破産の集会に出たあと伊丹まで動産の強制執行立会い。相手の関係者に「差押になんてしやがって。殺したろうか」と言われる始末(違う法律問題が起こるので、あんまり私に不穏当なことは言わない方がいいですよとなだめて事なきを得たが)。午後いっぱいかかって帰京後弁護士会で委員会に出席。

 火曜日は午前中来客のあと委員会に30分ほど出て日弁の委員会に出席。帰宅したのは午後10時。

 水曜日は月曜日火曜日のしわ寄せで、1日のうちに8件ほどの裁判や来客などを詰め込み(しかも午後一番に大阪高裁)、昼飯はカロリーメイト。午後の大阪高裁では相手方本人が遅れてきてしかも裁判官と議論しだした結果30分ほど期日も決められず終わらなかったので帰京が遅れる。

 木曜日も7件くらいの予定が詰まっていて、夕方は修習終了式。へとへとで、話をするようにいわれて前に出たが、頭に膜がかかって働かずあまり面白いこともいえずじまい。

 こうした間に訴訟外の示談を1件成立させたり管財事件で売掛金の請求をしたところから苦情の電話処理(私が破産申立をした弁護士だと思っていて、今まで何も連絡せずに今頃何やと怒られる。申立代理人が通常行うはずの売掛先への通知や説明を一切していなかったためである。私は管財人で申立た弁護士は別にいることやら、いろいろ説明…。)やら電話だけで相談をしようとする人に対してたしなめたりなど落ち着いて書面を書く時間がほとんどなかった。

 今日はそのために少し時間を空けていたのであるが、1週間の疲れのせいか中々頭が働かず筆が進まない。

 ブログなら書けるんだけどな。

 

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2007年6月13日 (水)

相談料も支払わずに相談しっぱなしの人たち

 先日ファイルを整理していたら、相談料も支払わずに相談だけしていた人たちのファイルがあった。相談料だけもらって後日依頼しますといって、そのまま依頼に来なかった人のファイルもあった。たくさん相談を聞くので日が経つうちに整理するのを忘れていたのだが、事件を依頼します…といいながら来なかった人たちである。相談を聞いて日が浅い人の事件は「あの人連絡ないけどどうしたかな…。」と思うのであるが、時が経つうちに弁護士も人間であるから忘れていく。

 他の弁護士に依頼するのは自由であるからそのことは全然弁護士はなんとも思わない。しかし、相談料を支払っていない人がいるのも問題だが、こちらは事件ファイルを作っているので連絡がないと中々片付けられないのがもっと問題である。
 「こうなりました」と言って連絡をくれればファイルを終了記録に移動させることも出来るのであるが、連絡がないと数年間そのままキャビネットから動かせなかったりする。スペースが有限であるので困るのである。

 こうした相談者は、こうしたマナーもなっていないので、受任しても揉めることになるかもわからないので依頼がないのはそれでよいのだが、頼まないなら頼まないで、「こうなりました」という連絡くらいは欲しいものである。

 当たり前のことが出来ない人が増えたのかなと思うオジサン化してきた私なのである(十分既にオヤジだとの説もあるが)。

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2007年6月11日 (月)

ノータイスタイル

 私は夏場はクールビズが始まる前からノータイスタイルであった。時々は気まぐれでネクタイをするが、基本的に夏はノータイスタイルである。元々ネクタイは寒い地域でマフラー代わりに使用されたのがことのおこりだという説もあるし、熱帯に近くなった日本の夏場にネクタイは合わないであろう。合理的選択からすれば夏場はビジネスマンでもノータイスタイルである。冬場は襟元が開いていると寒いのでだいたいネクタイをしているが、肩こりがひどいときは冬場でもノータイである。

 私は独立してから夏場はノータイスタイルで通していて、最初の頃はしょっちゅう「ノータイかあ。楽でいいやろな。」と言われたが、最近はノータイも普通になってきてほとんど言われない。当時はそんなにうらやましければ自分もすればいいのにと思っていたが、中々世の流れにならないと人は他人と違う格好をすることに抵抗があるようである。
 ただ、ノータイスタイルはネクタイを外しただけでは様にならないので、それなりのシャツを買うことが無難であるが、単にタイを外しただけのおじさんも多い。あと、ノータイスタイルだと、体の真ん中にネクタイという線が通らないので、ともすれば締まらない印象を与えるし、腹が出ていてもネクタイをしていればある程度ごまかせるが、ノータイスタイルだと腹が出ているとすぐに分かる(私も多少出ているのだが…)。

 ノータイスタイル以上に、スーツを着ないという選択肢がもっとも日本の夏場は合理的なのであろうが、弁護士もビジネスの世界であるので、あまりに他のビジネスマンとかけ離れている格好をすると、これは行き過ぎということになりお客さんが不安になるであろう。
 昔何の予定もない夏場にティーシャツに短パンで仕事をしていたら、そんなときに限って突然の来訪者が何人も来るのである。これからセミを捕りに行きそうな格好で事件のことを話ししていてもなんだか格好がつかず、やはりスラックスにジャケットくらいは着てくるべきであったと後悔したこともあった。

 織田信長は合理主義でほとんど天下を取ったが、現代と異なり、先例が支配していた戦国時代に、それを打ち破ろうとした信長は、やはり尋常でない精神の強い人であったのであろう。何もかも人と一緒が嫌な私ではあるが、何もかも人と違うところまで行き着くことも出来ないので、ノータイスタイルが一般化した今は、筆記具(万年筆)などで差をつけることくらいである。

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2007年6月10日 (日)

鳥居強右衛門

 長篠の戦いは、徳川方の奥平信昌の守る長篠城を武田勝頼が攻め、これを好機とした織田・徳川連合軍が援軍を出したことから始まった戦いである。
 籠城戦というのは、後ろ巻き(援軍)が来るからこそ持ちこたえようとするのであり、援軍が来なければ城兵は持ちこたえられない。長篠城は武田勝頼の猛攻により落城寸前であった。城兵500で城を守る奥平信昌は援軍を求めるべく、武田勢が囲む包囲網を抜けて徳川家康に城の状況を伝えることと一刻も早い援軍を求めるべく、包囲をくぐり抜けて家康に援軍を乞う使者を務める勇者を募ったところ、日常全く目立たない鳥居強右衛門がこの役割を買って出たという。

 城を包囲している武田軍の包囲は厳重であり、包囲を抜け出ることは容易ではないし、場合によれば犬死にするこの役割を買って出るものは他になく、身分軽輩であった強右衛門がこの大役を命じられることになったのである。

 強右衛門は水練の達人であったともいわれ、彼は見事武田軍の包囲をくぐり抜けて、城に狼煙を送り無事抜け出たことを知らせて城兵の士気を鼓舞し、一路家康の元に向かうのである。

 無事家康に事の次第を報告した強右衛門は、近くまで織田の大軍が迫っていることを知る。家康に引き留められながらも、長篠城の同輩にこの方を告げるべく、単身長篠城に戻るのである。
 しかし、合図の狼煙をあげようとしたところを武田軍に捉えられてしまう。武田勝頼は、強右衛門に、「織田・徳川の援軍は来ない」と城兵に呼ばわれば、報償を与えると強右衛門を説得したところ、強右衛門はこれを承諾するのである。

 勝頼は、あらかじめ城兵に向かい、織田・徳川の連合軍は来ないことを告げ、その証拠として強右衛門に話をさせようとし、長篠城に向かって逆さ磔の状態で武田軍から高々と強右衛門を城に向けるのである。ところが、強右衛門は勝頼の合図を受けて、城兵に向かい、織田・徳川の連合軍は近くまで兵を進めているので、援軍は数日内に到着することを絶叫するのである。

 これに城兵は勇気を得たが、勝頼はこの強右衛門を怒りにまかせて磔の状態で槍ではたもの(串刺し)にかけてしまったのである。これによって城兵はさらに士気が鼓舞され、落城することなく長篠の戦いを迎えるのである。

 勝頼は強右衛門という忠義の士を処刑してしまったことで、さらに城兵の士気を上げてしまったことなどは失策であったといわれている。
また、命を惜しみ、ここで強右衛門が勝頼の命令に従っていれば長篠の戦いはなかったかもしれないのである。強右衛門は、本来であれば史伝に残らないような軽輩の士であったにもかかわらず、名を惜しみ武士としての本分を貫いたことから、450年が経った今でもその名を歴史に残したのである。

 長篠の戦いを書いた歴史小説には必ず書かれるエピソードであり、強右衛門の行動に涙した人も多いであろう(私もその1人であるが)。

 名を惜しまずに、自己の利益を追求する輩(弁護士にも多々そういうのがいる)が多い世情において、こうした名を惜しんだ結果歴史に名を残した強右衛門のような人物は中々でないのであろう。

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2007年6月 8日 (金)

腹の立つこと

 弁護士稼業をしているといろいろ腹が立つことがあるが、日常的に腹の立つこともある。

 司馬遼太郎の「国盗り物語」であったか「覇王の家」で記載されていたエピソードであったか忘れたが、織田信長は小姓を呼んで「何もない」として返すことを繰り返していたところ、3度目に呼ばれた小姓が畳の上に落ちている塵を拾い上げ袂に入れて退出した後機嫌を直し、「あれが武士というものだ」といったというが、信長のみならず日常的に気を配るというのは大事である。
 もちろん人間は自分勝手な部分があってこそ生きてもいけるのであろうが、自分勝手ばかりで他人への配慮が全くない人はこれもまただめである。フィリップ・マーロウの有名な台詞で、ある女性から「あなたのようなタフな人がどうしてそんなに優しくなれるの?」と聞かれた時に、「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きている資格がない」というものがある(現実にこんなこと言ったらお寒いであろうが、マーロウならかっこいいのである)が、日常でもむかっとすることが多い。

 私は電車通勤なのだが、突然改札の入口で立ち止まり、カバンをごそごそやり出して、定期が見つからないのか入口を塞いでしまう人がいる。こうした人は後ろから人が来ていることに気が配れないのである。

 歩いていると突然立ち止まるおばさんもいる。本当に急に止まるのである。そして自分の行きたい方向に歩き出す。周りのことを考えない典型である。

 道いっぱいに広がって歩くおばさん。こちらの方が歩く速度が速いと本当にじゃまである。せめて2列縦隊にしてくれ。

 わざわざ狭いところを通過していき、私が肩からかけているカバンに激突して私に衝撃を与えていく輩もいる。絶対謝らない。広いところを通らないのである。私のカバンは先に存在しており、出来るだけじゃまにならなよう身体に寄せていてもわざわざ狭いところをすり抜けようとしてカバンにあたるのである。

 昨日大阪で相手方と面談する予定があり、少し早く着いたのでお茶を飲んで休憩していたら、オバサン2人が自分の性体験を大声で話しをしてげらげらしていた。あの先生はすてきだとか医者の話題をしながら。そういうことは秘め事であり、赤裸々に語るべきものではなかろう。あんたら2人で店にいるのと違うんやでと思っていた。

 大きく腹が立つこともあり、そうしたものは電話リース弁護団をやってみたり行動を起こすが、こういう日常の小さい出来事はどうしようもない。
ただ私は悟りが開けるようなタイプでもないので腹が立つし、怒りは仕事をするエネルギーにも転化することも可能である(ただし冷静に)。

 仕事上腹が立つことは多々あるが、さすがにブログでは書けない。

 やれやれである。

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2007年6月 6日 (水)

要件事実と弁護士

 要件事実というのは、たとえば民事訴訟で原告となって訴える側に立ったときに、自分がこれこれこういう請求をするというのを「請求の趣旨」というのであるが(たとえば500万円を支払え)、この請求の趣旨を導き出すために最低限主張しないといけない事実のことをいう。実際の訴状では、要件事実それだけを書いて事情は別に書くというようなことはあまりなくて、時系列で書いて行く中で自然に最低限主張しないといけないことが入り込んでいるということが多い。たとえば同じ500万円を支払えという中身でも、貸金であったり、贈与されたお金を支払えというものであったり、交通事故の賠償金であったり、不貞行為を働いた時の慰謝料であったり様々である。

 この要件事実はそれなりに分かっていないと、弁護士として訴状を書いた時に、主張すべき最低限が落ちていると、最悪「却下」となってしまう。すなわち、請求として成り立つための最低限の主張すら出来ていないと中身に入らず、入口で斬られて判断すらもらえないことになる。これは弁護士としてとてつもなく格好悪い。

 そうであるから、弁護士も要件事実を無視は出来ない。
 また、司法研修所ではこの要件事実教育に重きを置いているので修習時代はこの要件事実についてある程度勉強する必要がある。

 しかし、弁護士になって学ばないといけないことや考えないといけないことは多々あり、私の感覚では実務家としての弁護士のスキルが仮に100あるとすれば、そのうち1を締めればよい方かなという程度である。あとの99は何かと言われると困るが、依頼者を説得できる能力であったり、説得的な書面を書く能力であったり折衝能力であったりする。経営能力も必要だと言われている。孫子の兵法の心で事件処理をしていくことが必要なのである。

 今の研修所教育では要件事実に重きを置きすぎていて、こうした他の実務家として必要な魂というかそうしたスキルのようなものがなおざりにされているような気もしないではない。ただ、時間が少なくなっているので、やむを得ないかなとも思うが、そうなれば実務家として就職した後にレベルアップするほかないことになろう。

 最近どうかなあと思う相手方弁護士や、こいつが裁判官で大丈夫かいなという例に遭遇することがあるが、修習期間で学ぶことが少なくなった分、実務家としてどうしようもない弁護士や裁判官が増えてはもともこもない。

 やれやれである。

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2007年6月 4日 (月)

1人で食事が出来ない人

 私は1人で食事をするのが苦手である。昼飯も1人でいくのが面倒なのでコンビニかパン屋のパンか道に出ているお弁当屋で買ってくるのである。まあ中々忙しくてゆっくり食事をしていられないという事情もあるのだが。

 夜は夜で、皆と行く店も固定的である。私の食事の北限は河原町竹屋町で、南限は三条を少し下がる程度ともの凄い狭い範囲で食事(友人弁護士とお酒を飲みながら)をしてているため生息地域が限定されているということで、絶滅危惧種と呼ばれている。

 夜に1人になると、1人では食事に行けない。金曜日に仕事で遅くなって、誰かを探すのだがいない時は困る。1人でいけそうな店も何軒かあるのだが、いざとなるとちゅうちょしてしまうのである。その後1人でショットバーに行き、葉巻を吸えたら最高なのであるが(ただしただいま喘息治療中のため禁煙中…)、1人でショットバーに行くのもなんだか恥ずかしい。

 課長島耕作に出てくるような行きつけのカウンターだけの店でもあるといいのだが、中々そんな店もなさそうである(だいたい島耕作ではそういう店は美人女将がやっていて、島耕作は惚れられるのである。そんなうまい話があるかいと世の中のオジサン達はつっこんでいるであろう。私もその1人であるが…)。

 結局そんな金曜日は、祇園のM子に行くこともなく、駅前のラーメン屋でニンニクラーメンと餃子か炒飯を食べて帰るのであるが、このラーメン屋が最近跡形もなくつぶされてしまい、益々私の生息範囲は限られてくるのであった。しくしく。

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2007年6月 1日 (金)

悪い和解をする裁判官

 民事の裁判で判決ではなく「和解」で事件が解決することがある。和解は裁判官にとっては判決を書かなくても済むし上級審に事件が行くこともないので和解ばかりしたがる裁判官もいる。

 当事者にとってお互いが譲りながらいい和解が出来ればいいし、そういう和解が出来るには双方の弁護士の能力のみならず裁判官の能力・技能も必要であるが、和解をしたがるがために、双方に「負けます」ということをいう悪い裁判官もいる。こうしてお互いの譲歩を引き出そうとするのだが、これは一種の詐欺である。

 裁判官である以上、この事件はこうだからこうなるという道筋を示した上で和解を進めるべきであり、両方に負けるというのは詐欺的発言である。

 ひどい例だと、「私は判決と異なる和解は進めませんから」と断言しておきながら、和解が決裂して判決となると和解の時に言っていたことと逆の結論をだした裁判官もいる。和解で勝てるといわれたから判決を取りに行った方の弁護士としてはたまらないであろう。

 和解は裁判官にとっては判決を書くよりも楽であるから、麻薬のようなものではなかろうか。あまり強引に和解ばかり進める裁判官は弁護士の中では評価が低い。裁判官人事評価というのが今はあるので、少し気をつけるようになったようだが、出世があまり関係なさそうな裁判官だと好き放題やっていることもある。

 裁判官が足りないので忙しいから和解をいきおい進めるのであろうが、裁判官も、人柄知識能力意欲申し分ない人がなるべきであるから単に人数を増やしたところでどうにもなるまい。

 やれやれである。

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