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2007年6月26日 (火)

真田幸村(下)

 徳川方の謀略によって丸裸とされた大阪城に対して、家康は流言を流させた。当初の和議では、大阪よりの国替えはないということであったが、「家康は、秀頼を大和に国替えさせようとしている」「大和に国替えさせた後に、腹を切らせるつもりである」というものである。
 これを受けて、大阪城では淀殿らが恐慌を来し、続々と牢人を集め始めた。徳川方は、大阪のこの姿勢に対して、「戦支度をするということは、和議をないがしろにするものである」として、全国の大名に動員をかけたのである。
 しかし、大阪に対しては、名古屋での家康の息子の婚礼のためと称していたところ、天下人の詐欺としてはきわまったというところであろう。

 一方、大阪方であるが、大阪方にはもはや天下の名城は本丸が残るのみであるから、野戦をするしか方法がない。しかし、大阪の軍勢が5万人程度に対して、徳川軍は40万である。通常では勝機はない。
 そこで大阪方が取る方法は一つ。家康の首を取ることである。徳川軍は全てが攻めたくて大阪城を攻めている訳ではなく、豊臣家恩顧の大名も多い。彼らは、徳川幕府に従っているのではなく、「海道一の弓取り」と言われた徳川家康が恐ろしいのであり、家康が死ねばどのような情勢となるかは計り知れない。そのため、家康はわざわざ70を越える年齢で前線で指揮を執っていたのである。

 悲壮な戦いが始まった。塙団衛門が死に、後藤又兵衛が死ぬ。
 真田幸村は初戦の戦いで伊達政宗勢をたたきのめし、これがために伊達勢は戦闘不可能に陥ってしまうほどであったし、その他の局地的戦闘でも大阪方は徳川軍を次々に破っていた。しかし、圧倒的兵力差の前に全滅していく。
 そして、明石全登を遊軍とし、毛利勝長と真田幸村の部隊が一気に撃って出て家康の本陣を目指すべく共闘の約定を交わすが、毛利勝長麾下の将校らが敵に襲いかかり、一気に敵を突くという、この共闘の約定も果たされなくなってしまう。一説によれば、幸村はこのとき豊臣秀頼の出馬を要請していたといい、秀頼もその気になっていたというが、淀殿がこれを押しとどめたとも言われている。
 幸村の考えていた作戦は不可能となってしまった。しかし、最後まで幸村は諦めない。
 越前の松平勢を蹴散らし、鬼神のごとき突撃で、家康の本陣に斬り込んだのである。友軍の明石全登、毛利勝長も突撃する。
 家康の本陣は大混乱となり、家康の馬印も捨てて旗本は逃げ出すほどであった。いかに幸村の突撃がすさまじいものであったかがわかる。
 家康はこの幸村の突撃の時2度にわたり逃れられないとして腹を切ろうとし、これを側近が押しとどめてようやく腹を切らずに済んだほどの切迫した突撃であった。このとき、家康が死んでおり、この後の家康は影武者であるとの説も出てくるほどの突撃であったのである。
 しかし、圧倒的兵力差の前に時間の経過とともに真田勢は討たれていき、幸村は安居神社で身動き出来なくなっていたところを越前松平の西尾という侍に討たれた。

 島津忠恒は、「真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。」とその戦いぶりを激賞している。
 また、幸村が首実検された後、諸将は、「幸村の武略にあやかりたし」として、その髪を争って切り取ったという。
 幸村には娘があったが(息子である大助は秀頼とともに大阪城とともに自刃)、その娘の1人は仙台伊達藩の片倉小十郎がこれを妻とした。徳川幕府からすれば面白くない縁組であったろうが、それを幕府の思惑を無視してでも妻としたのであるから、それほど幸村の武将としての名声がこの戦いで上がったか証拠ではないかと思われる。

 幸村の活躍を小説で読むには、池波正太郎の「真田太平記」、司馬遼太郎の「城塞」がある(このブログを書くにあたっても参考にしています)。

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