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2007年6月10日 (日)

鳥居強右衛門

 長篠の戦いは、徳川方の奥平信昌の守る長篠城を武田勝頼が攻め、これを好機とした織田・徳川連合軍が援軍を出したことから始まった戦いである。
 籠城戦というのは、後ろ巻き(援軍)が来るからこそ持ちこたえようとするのであり、援軍が来なければ城兵は持ちこたえられない。長篠城は武田勝頼の猛攻により落城寸前であった。城兵500で城を守る奥平信昌は援軍を求めるべく、武田勢が囲む包囲網を抜けて徳川家康に城の状況を伝えることと一刻も早い援軍を求めるべく、包囲をくぐり抜けて家康に援軍を乞う使者を務める勇者を募ったところ、日常全く目立たない鳥居強右衛門がこの役割を買って出たという。

 城を包囲している武田軍の包囲は厳重であり、包囲を抜け出ることは容易ではないし、場合によれば犬死にするこの役割を買って出るものは他になく、身分軽輩であった強右衛門がこの大役を命じられることになったのである。

 強右衛門は水練の達人であったともいわれ、彼は見事武田軍の包囲をくぐり抜けて、城に狼煙を送り無事抜け出たことを知らせて城兵の士気を鼓舞し、一路家康の元に向かうのである。

 無事家康に事の次第を報告した強右衛門は、近くまで織田の大軍が迫っていることを知る。家康に引き留められながらも、長篠城の同輩にこの方を告げるべく、単身長篠城に戻るのである。
 しかし、合図の狼煙をあげようとしたところを武田軍に捉えられてしまう。武田勝頼は、強右衛門に、「織田・徳川の援軍は来ない」と城兵に呼ばわれば、報償を与えると強右衛門を説得したところ、強右衛門はこれを承諾するのである。

 勝頼は、あらかじめ城兵に向かい、織田・徳川の連合軍は来ないことを告げ、その証拠として強右衛門に話をさせようとし、長篠城に向かって逆さ磔の状態で武田軍から高々と強右衛門を城に向けるのである。ところが、強右衛門は勝頼の合図を受けて、城兵に向かい、織田・徳川の連合軍は近くまで兵を進めているので、援軍は数日内に到着することを絶叫するのである。

 これに城兵は勇気を得たが、勝頼はこの強右衛門を怒りにまかせて磔の状態で槍ではたもの(串刺し)にかけてしまったのである。これによって城兵はさらに士気が鼓舞され、落城することなく長篠の戦いを迎えるのである。

 勝頼は強右衛門という忠義の士を処刑してしまったことで、さらに城兵の士気を上げてしまったことなどは失策であったといわれている。
また、命を惜しみ、ここで強右衛門が勝頼の命令に従っていれば長篠の戦いはなかったかもしれないのである。強右衛門は、本来であれば史伝に残らないような軽輩の士であったにもかかわらず、名を惜しみ武士としての本分を貫いたことから、450年が経った今でもその名を歴史に残したのである。

 長篠の戦いを書いた歴史小説には必ず書かれるエピソードであり、強右衛門の行動に涙した人も多いであろう(私もその1人であるが)。

 名を惜しまずに、自己の利益を追求する輩(弁護士にも多々そういうのがいる)が多い世情において、こうした名を惜しんだ結果歴史に名を残した強右衛門のような人物は中々でないのであろう。

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