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2007年7月31日 (火)

このブログの内容のこと

 このブログは、法律漫遊記と名をつけているが、法律の世界のことばかりではない。
  若手弁護士や修習生が読んでためになるシリーズ、弁護士の生態を一般の人に知ってもらうシリーズ、法律一口メモ的なシリーズは確かにメインではあるが、仕事上の愚痴シリーズもある。
 その他、歴史シリーズ、アウトドアシリーズ、私の考えを綴るシリーズ、書評シリーズ、雑学シリーズなどがある。雑学は飲み会で使えそうな話が満載であり、実際に私が飲み会でしてきた話しでもある。

 読者によって、どの記事が好きかというのはまちまちであり、私自身は法律シリーズがメインであると考えているのであるが、弁護士である程度経験を経た読者からすると、つまらないであろう。かといって読者ごとにブログを分けるのもまたなんだかなあという気もするのでこのまま今後も五月雨式にいろいろな内容を書いていきたい。

 こんなことを書いているからといって、タイトルと中身が違うではないかという抗議を受けた訳でも何でもない。単に私自身の整理のために書いている。

 ブログペットのナイルも好評である。やはりパンダにしてよかった。私自身はY田S司弁護士などから、くまによく似ているといわれるのであるが、くまがいなかったのである。そのため、ブログペットはくまに近いと思われるパンダにしたのである。事務所のホームページのトップでは熊がダンスをしている。

 実のところ、ナイルというのはナイル川から取ったのであるが、そのうち別のブログで書こうかと思っている小説の主人公の名前でもあり、せっかくなのでナイルとつけたのである。Ζガンダム好きな私としては、カミーユでもよかったのだが。
 ただ、小説とこういうエッセイ的なものは書きようが全く違うので難しく、一生日の目を見ない可能性も大である。ただし、小説のナイルはパンダではなく人間である。

  

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2007年7月30日 (月)

クリーニングのタブ

 昨日の選挙では自民党が大敗した。やりたい放題やってきたつけが回ってきたというべきであろう。国民が納税した税金や年金を官僚が好き放題使ってきたことに対して、自分たちもそれに乗っかってきた経緯や、規制改革の名の下に格差を拡大し、規制改革利権を逆に生み出したからである。国民が望んでいたのは、「改革」ではなく、当たり前の状態に戻して欲しいということだけであろう。それを改革と呼ぶのはおこがましいのである。
世間はあまり規制改革など望んでいないのであり、望んでいるのは一部の利権団体である。ああやだやだ。

 という世情ではあるが、日本人の親切も捨てたものではない。先日、クリーニングのタブをつけたままのズボンを履いていたところ(当然私は知らないで履いているのだが)、駅で女性が寄ってきて、「クリーニングのタブがついているので切ってあげます」といって切ってくれた。
 私はクリーニングのタブをつけたままのズボンを履いていたり、おろしたてのスーツの糸を切るのをついつい忘れたまま着ていて、よく女性(私の母親か少し若いくらい)に注意をされてしかも糸やタブを切ってもらえる。

 だらしない私を見てやむにやまれずというところなのであろうか、しかし、こういう日本人の親切というものは、受け継がれていかなければならないと思うのである。

 かつて、あるフランス人(外務省の大使であったか文学者であったか?)世界が滅亡するとしても最後まで生き残って欲しいといわれた民族である日本人のこうした美徳というか陰徳を施すという性格は未来永劫のものであって欲しいものである。

 そのために、世界の中ではお金だけ出さされていいようにされているが…。

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2007年7月28日 (土)

顧問料月1000万円かぁ…

 反転~闇社会の守護神と呼ばれて~(田中森一 著、幻冬社)という本を読んだ。元特捜検事で、検事退職後大阪で弁護士をしていた人が著者である。一般の人が読めば面白いだろう。私としても面白い本だとは思って読んでいた(ただし、話が全て真実かというと、さてどうでしょうという感じではあるが)。

 この本によれば弁護士になったのがちょうどバブルの頃で、いろいろな(アウトロー関連の)企業が顧問先になってくれと来て、事務所披露の祝儀が6000万円、顧問料は月額1000万円になり、ヘリコプターを7億円で購入したというのである。

 その後、石橋産業事件という詐欺事件の被告人となり、無罪を主張していたが、控訴審で有罪・実刑判決を受けて上告中とのことである。

 この本を読んでいると、この田中氏は弁護士としての活動で、「一線は越えていない」と述べているが、普通の弁護士である私からすると著述を真実のものとしても越えまくりではないかと思う。
 弁護士倫理違反のオンパレードではないのかと思って読んでいた。
 その中で被告人のためになるならということで嘘をついてもいいのだとしているが、詐欺事件で有罪かどうかはさておき、弁護士としては失格であったと思う(が、田中氏がそれに気づいているかはよくわからない)。

 私などは普通の事件をせっせとしているので、高額の報酬を次々に貰うということは経験もないし今後もないであろうし、「危うき人」にはそもそも近寄らない。この田中氏は、危うき人に近づき、その毒気に当てられ、彼らと一体化していたつもりが利用されていたというところなのであろうか。

 まあ、顧問料を月にそれだけ貰っていたら、傲慢になって金の感覚なくなるかもしれないなぁ…。貰うことはないけど。

 人間うまくいっている時が危ないのかもしれない。織田信長しかり、豊臣秀吉しかりである。人生において手本にすべきは、おもしろみはないかもしれないが徳川家康であろう。彼ほど頂点を極め、なお自分を律せた人も珍しいといえる。破滅型な生き方は周りから見ていると面白いかもしれないが、本人にとっては不幸なのではなかろうか。

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2007年7月27日 (金)

逆ギレする人たち

 先日京都北部へ電車で移動していたときのことである。
 私は本を読むことも疲れて寝ていたのであるが、禁煙車であるにもかかわらずタバコの匂いが強くしてきた。
 たまにデッキで吸った匂いが流れてくるので、それかと思ったが、反対側の窓側の席で男がタバコを吸っているのである。わざわざ禁煙車に入ってきてタバコを吸っている。

 私は「すいませんが、ここは禁煙ですが」と丁寧にいったところ、男は物凄い腹のたった顔になり、こちらを睨んで「消すわ」と偉そうにいってタバコを床でもみけして(じゅうたんが焦げていたと思う。器物損壊である。)、去っていったのである。

 完全な逆ギレである。あまり北部の電車は車掌も来ないので、車掌に文句をいうわけにもいかず、また追加で文句をいってさらに逆ギレでもされたらかなわないし(最近自分が悪いのに注意をされて逆ギレしてナイフで刺したりというわけのわからない人たちが増えているように思うし、職業柄、わざわざ揉めたくもない)、それ以上文句はいわなかったが、気分が悪いことこのうえない。

 少し前に他人を見下す若者のことを書いたが、自分が悪いことをしているにもかかわらず、注意をされると切れる人物が一定いる。自分だけは正しいと思いこんでいて、常識もあると考えているのである。
 精神疾患に罹患されているのであればやむを得ないかとも思うが、通常はこうした人たちはそこまで達しておらず、異常性格であるということで刑事処分上は刑が減軽されない。

 自分は何をしても許されると考える人ばかりになれば、法律がある意味がなくなるし、決まり事を決める意味もなくなってしまう。法律家はそんな世の中だと役に立たないかもしれないと思うと、暗たんたる気持ちになるのである。

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2007年7月26日 (木)

事業者の破産申立代理人

 事業を営んでいたり、個人でも負債が多かったり資産があると、破産の経緯や資産隠しがないか、あるいは資産をお金に換えて債権者に分配する破産管財人が弁護士から選ばれる。そのためにこうした破産事件では最低でも裁判所に納める予納金が22万円ほど必要だし、書類なども通常のサラリーマンが生活費が足りなくて破産しましたという比較的簡単な破産よりは多くなる。

 こうした事業者の破産の申立をするときに申立代理人として配慮すべきことが多々あるのだが、一部の弁護士は「あとは管財人の仕事」とばかりに高額な費用だけを取って何もしていないこともある。たとえば賃貸物件があると明渡をしなければならないのだが、申立代理人がお金をたくさん取っておいて、「お金がないので家主と管財人が交渉してください」なんて審尋の場でいわれると、「お前ちょっと待たんかい、コラ」となる(心の声で実際にはいいませんが)。これは裁判所も同じで、こういう申立代理人には裁判所もダメだししている。しかし、えてしてこうした申立代理人は、申し立てたことで自分の仕事は終わった、着手金もそこそこ入ったしやれやれと思っていたりする。それは職人としての弁護士としての気概がまったくない姿であるといってもよかろう。

 裁判所は、申立代理人が「だめだ」と思えば、あとは有能な管財人をつけて申立代理人のだめなところをカバーして貰おうとするので、こうしたダメ申立代理人は自分がだめなことも気づかない。悪循環に陥るのである。

 そのほかにも、だめな申立代理人の例をあげてみると、

1、破産者が売掛金債権を有している場合に、売掛先に連絡をしていない。連絡をしていないため、借入のある銀行の口座に売掛金が送金されて、銀行が相殺してしまい、管財人は余計な手間をかけてしまうことになる。こういう場合には、申立代理人の預り金口座を明示して、送金するならここにして下さい、と通知しておくべきである。
 また、通知することで、売掛先から金額が違うとか、既に支払ったとか、手直しがあるとかという連絡(というより文句)が入るので、間違いのある債権は破産の申立書から消せるし、訂正も出来る。また、売掛先がどんなことに不満をもっているかを裁判所に説明も出来るし管財人に引き継ぐこともできる。
 破産で高額な費用をとっているにもかかわらず、こうした「前さばき」を一切してくれていない事務所がけっこうあったりする。

2、事業者で、工事を請け負っていて途中で放り出して破産しているのに、そこに通知していない。むしろ貰えるお金があるからということで管財人から請求してもらえばよいと思っていましたといったりするのだが、管財人が就く頃にはだいたい時間が空いているので、連絡もつかなくなっている状態に注文者はかんかんになっていて、本来であれば支払ってもらえた可能性がある債権についても回収するのに無用の手間がかかる。これも「前さばき」しておくべきである。

3、その他、債権者からの苦情に対して、対応せずに「あとは管財人から説明がある」などといって一切対応していないケースもある。後日管財人に就任すると、やいやい電話がかかってきて、説明に追われるが、私は「本来はそれは申立代理人でも説明できることですよ」ということにしている。

4、腐りやすい商品があるのに、自分のところで売却してしまわずに腐らせてしまい在庫が全部だめになっているケース。臨機応変に売っていれば数百万円になっていたかもわからないのにである。

5、賃貸物件があり、手元に裁判所に予納するお金もそれなりにあるにもかかわらず、申立までかなり時間をかけて、賃料の延滞を増やしているケース。戻ってくるはずであった保証金が延滞賃料で食われているケースもある。これなどは手元にあるお金でさっさと明渡をすれば、保証金が戻ってくるのであるから、ある意味弁護過誤である。

6、事業をやっていた人であるのに、破産に至る経緯が数行で、どうしてこうなったか一切分からないケース。こうした申立代理人は、裁判所もさじを投げているので、管財人がいちから聞き取ることになる。しかし、管財人の報酬よりも申立代理人がとっている着手金が相当高額であることもある。大阪では、弁護士の費用が高すぎるということで、管財人から訴えられるケースもあるときく。

7、申立前に資産が消えていて、本人が隠匿しているにもかかわらず、申立書に一切それが書かれていないケース。破産の前の資金の動きは非常に重要である。

 それ以外にもあるが、若手の皆さんはこうした申立代理人にならないように修練しましょう。

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2007年7月25日 (水)

質問する前には調べよう、ほか

 質問する前にちょっと調べたらわかることも多い。調べる能力が落ちているのかもしれないが、若手弁護士はやたら聞いてくる傾向にある。本当の質問というものは、自分で努力して調べて、本に書いていないことや、書いてあるけれど微妙に違うのでこの事案でどう考えればよいのかというぎりぎりのところでするものである。

 どの教科書とか参考図書にも書いてあるようなことを、「教えて下さい」とやっていると、そのうち愛想をつかされる。まずは自分の頭で考えてみないと、考える力がつかないのである。特に電話で聞くというのはよほど懇意にしていなければ失礼にあたる。電話は相手の都合を考えない連絡手段だからである。もし聞くなら、懇意にしている人でもメールかFAXにするのがよいであろう。そうすれば、その人があいている時間に読んでもらえるからである。FAXは味気ないという人もいるが、電話が時間の無駄であることも多い(このあたりは超整理法に毒されているところがあるが)。

 調べ方を鍛える、学んでいくというのも実務家として必要なことである。

 ただ、実は人に聞くというのはまだましな方かもしれない。というのは、事件は放置するわ、事件をやっているけれどやり方が杜撰であるとか、ちょっと調べればわかるのに主張しないとかという弁護士も結構多いからである。そうした弁護士に限って、たいした仕事も出来ていないのに、「自分は出来ている」と勘違いしていたりするのである。

 弁護士経験が少なく、事件がどのように進んでいくのかも全くわかっていないくせにわかったような顔をして、やたら偉そうな弁護士は虚勢を張っているようにしか見えない。
 逆に先輩の弁護士でも、中身がないにもかかわらず、やたら若手に偉そうにする弁護士もバカにされる。世話になった先輩になら偉そうにされても仕方がないが、世話にもなったことにもないのに、若手に偉そうな口を聞く弁護士はたいていろくな奴ではないのである。

 こんな常識のない弁護士も一定数いる状態であることもまた否めないが、多くの弁護士は常識人であり、総じて弁護士は頑張っているのではないかなとも思うが、一部のろくでもない弁護士に依頼した依頼者はほんとうにかわいそうだなあと思うのである。

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2007年7月24日 (火)

習い事など

 小さい頃から習い事が続いたことがない。唯一小学校4年から6年まで行ったそろばん塾でも、大半は遊んでいた。検定3級だが、3級までは誰でも取れるといわれていて、そろばんにいったことでその後役だったことは自覚としては何もない。

 小学校4年の時に、同じクラスの友達が少し遠い小学校に絵を習いに行っているということを聞いて、絵は少し描けたことから(また別の機会に話をすることもあろう)、習いに行ったが、1日でやめてしまった。「町の絵を描いてみよう」といわれて、私が茶色で屋根を塗っていたら、黒色で塗ろうといって手をもって塗られ出したので、「俺は茶色で塗りたいのに、何しよるねん。このオッサン」と思ってやめたのである。人に習い事をしようとする姿勢ではないともいえる。

 リトルリーグも1日いってやめた。私は野球も少しは出来たし、私が小学校時代は野球全盛期だったので、いってみたが、練習終了後、他のチームの試合を夜7時前まで見させられた。「試合を見る目を養う」というのがその理由である。私は「試合やったらプロ野球みたらええやんけ。あほちがうか。こんなオッサンに教えてもらったたまるか」と思ってこれまた1日でやめたのである。

 他にも何か習いにいったような気がしないではないが、よく覚えていない。だいたい行ったとしても1回でやめている。
 反発心が強いのであろうか。こらえ性がないのか?事件ではけっこう気が長い方だと思うのだが。
 弁護士は在野法曹なので、「強いものに巻かれろ」というよりは、「強いものに反抗してやる」という性格の方が向いているともいわれている。権力に対峙する姿勢ともいえる。
 そういう意味では、こうした性格は弁護士には向いていたのかもわからない。ただし、弁護士でも、「強い方」につくとお金がザクザクついてくるようだが、強い方に反発する側はお金には恵まれない。消費者被害事件は「やらねば」と思って出来る範囲で引き受けるのであるが、私の周りの弁護士も皆そうであるが、消費者被害事件は全然費用的にはペイしないのである。強い者に巻かれろという気質では絶対に消費者被害事件は出来ないのである。
 しくしく。

 何か習い事をしてみようとも思うのだが、K弁護士にヨガを教わるのもなんだかなあという気がするし、胡弓でもやってみようかとも思うがたぶんうまくいかないのでイライラして胡弓をへし折ってしまいそうでもある。
 楽器をやっている弁護士をみて、「ああ。いいなあ」と思うのだが、根本的にそうしたことを人に習うことが耐えられない性質の人間であるから、おそらく上達しないであろう。優雅に楽器(たとえばチェロとか)を弾く自分の姿はとうてい想像できない。

 人から物を教わるというのがダメである以上、サッカーに釣り、読書が関の山かとも思うのである(あと埋蔵金研究)。

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2007年7月21日 (土)

吸血鬼伝説

 吸血鬼ドラキュラという小説が書かれてから、吸血鬼をモチーフにした小説は多々ある。この吸血鬼のモデルとなった人物がいる。15世紀にワラキア公であった、「ブラド・ドラキュラ」という人物で、臣民や相手方を串刺しにして虐殺したため「串刺し公」と呼ばれていたという。人の血をすするような悪行を重ねたため、ここから吸血鬼というイメージが出来上がったのであろう。一説によれば、ドラキュラ公はあまりにも戦争で手強いことから、相手方が勝利後に悪行をねつ造したということもいわれている。勝者が敗者のことを悪し様に書くのは歴史の常でもあるから、そういったこともあったかもわからない。
少し脱線すると、私は武田信玄の父親であった武田信虎は妊婦の腹を割いて胎児がどのような形をしているか確認したなどの悪行を重ねたため人心が離れてやむなく信玄がクーデターを起こしたといわれているが、これは信玄側が自分の行為を正当化するためにねつ造した話ではなかろうかと疑っているのと同じである。

 吸血鬼の話は、それまで民間で現実に存在していた「死体が生き返る」ということなどともあいまって、広まったようである。欧州では火葬ではなく土葬であったので、仮死状態となって死亡の宣告をされた後に墓の中で生き返り、墓を掘り返して墓から出てきた者もいたであろうし、墓の中で外に出すように叫んだものもいたであろう。また、墓の置かれた自然状況によっては、死体が腐乱せずにそのままの状態を保っていたり、残っていた毛根細胞が毛髪を伸ばしたこともあったものと推測されるので、欧州では、「死体が生き返る」ということは日常の出来事であったと思われる(過去に何らかの書籍で読んだ知識を元に書いているのであるが、手元に今その書籍がないので引用できないことをお詫びする)。

 最近、吸血鬼伝説を描いた「ヒストリアン」という2巻ものの小説を読んだ。アメリカでは処女作にしてベストセラーとなったというものであるが、面白いのは面白いのだが伏線を張りすぎていたせいか、その伏線を張りまくったおかげで、最後の結末が「うーん」と首をひねりたくなるような終わり方となっている。もちろんそれなりに面白いのであるが、だんだん小説を読んでも批評をするようになったり比較してしまうようになっている私としては、もう一つ物足りないともいえるのである。

 その中で、吸血鬼を扱った小説をそれほど読んでいる訳でもないし、原点の「吸血鬼ドラキュラ」も実は読んでいないのだが、小野不由美が書いた「屍鬼」(文庫版で5巻もあるのだが)は面白い。巻末の解説でも書いてあるが、5巻まとめて買わないと、1巻を読み終わったあと次の巻にいきたくなるので後悔してしまうのである。ただ、間違えても休みの日に読み出さないと、平日の夜なんかに読み始めると寝不足になるので後悔する。

 吸血鬼伝説という本と吸血鬼カーミラという本は買って机の上に積んでいるのであるが、山ほど読みたい本があるので、まだ読めていない私なのである。

 

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2007年7月19日 (木)

弁護士業務妨害

 弁護士をやっていると、紛争のただ中に入っていくため、様々な形で業務妨害をされることもある。まあ妨害されても弁護士は屈しない職業の最たるものであるし、妨害なんかしたら余計に弁護士は燃えるので逆効果となることが多いが、慣れないうちは嫌なものであろう。

 京都の地元のやくざ崩れのヤミ金が事務所まで私が不在の間に押しかけてきたこともあるし、精神疾患を抱えた相手方が事務所の待合いいすでじとっと座って中々帰らなかったこともある。

 破産事件で、債権者の1人から毎日電話がかかってきて、1ヶ月毎日30分~1時間くらい電話でおつきあいしたこともある(私は気が短いと一般には思われているが、仕事上は割合話を聞く方なのである)。相手方でも話を聞いて説明することである程度納得してくれることもある。中には怒鳴って電話を切る弁護士もいるようであるが、私は可能な限り聞いて説明するようにはしている。あくまで「可能な限り」ではあるが。

 DV事件の相手方で危険な男であるというので、ナイフの刃を通さないという防刃チョッキを通信販売で買ったこともあるが、あまりにチョッキが分厚くて、それを着て上にスーツを着るとまるでアメフト選手のような弁護士になってしまうので、あまりにも不自然であり、買ったはいいが一度も着なかったという例もある。
 刃物を持ち出したら警察を呼べばいいやと会ってみると別段危険性のある男でもなかったりする(その代わり気持ち悪い男ではあったが)。これは今では笑い話である。
 いつまでもチャーミングさを失わないある女性の先生が、「家庭裁判所には、そういった夫に備えて、さすまたが置いてあるのよ~。」といっていた。誰がさすまたを使うのか、はたまた普段裁判所で練習とかしているのか、太った男だとさすまたでは止められないのではないかなどと白熱した議論になったのである。

 私は相当ヤミ金事件をやっているのになぜか言われたことがないが、ヤミ金から「殺しちゃうよ~」といわれた弁護士も多々いる。「えらいことになる」とは何回かいわれたが、「えらいこと」の内容を具体的に言葉で教えてくれとせがんだが説明はしてくれなかった。

 こうしたややこしい相手方などに対決するためには元気が必要である。健康でないとやっていられないのである。昨年は体調を壊しながらややこしい人たちとも相手をしていたので、余計に治りが悪かったように思う。

 もちろんどれだけ一所懸命やっても依頼者から罵られることもある。

 こうしたつらいつらい経験を経て弁護士は一人前になるのである。そのうち妨害行為をされても「ああまたか」とあまり苦にならなくなる。いい気はしないが、経験とは恐ろしいものである。

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2007年7月18日 (水)

重たい鞄はつらいよ(特に夏場は)

 少し前に鞄の話を書いたが、あまりに重たい鞄は普段持ち歩くにはつらい。夏場は汗がだらだら流れるし、余計につらい。そのため、最近は通勤鞄と裁判所や弁護士会に行くときの鞄を変えている。

 通勤鞄にはいろいろ入れているので、それなりに重たい。鞄だけで1.6キログラムある鞄なのでこれにいろいろ入れると3キロくらいにはなるだろう。これに記録などを入れると重たいので、通勤の行き帰りに使い、日中裁判に行くときなどは軽い鞄(フェリージのブラウンのナイロンブリーフ)に財布と携帯電話と手帳と記録又は資料だけを入れている。あと突然の雨が降ってきた時に備えて折りたたみ傘。

 おかげで裁判所の行き帰りの暑さも少しましである。ただ、先日寺町のパン屋で昼ご飯を買おうとしたら財布を入れ忘れていて焦ったことがあり、入れ替えにはこうした危険が伴うので要注意である。ジャングルを進む川口弘探検隊のように細やかな心遣いで入れ替えないといけない(意味不明)。
 フェリージのナイロンブリーフは、独立前後にそうした使い道をしようと買ったので、五年以上使用していてかなりくたびれてもいた。時には重たい記録も入れるので、少しほころびも出ていたので、フェリージも使うのだが、同様の用途にするために、新しい鞄を買った。どんな鞄かはナイショである。裁判所の行き帰りの私に出会った人だけが知ることが出来る(別に知らなくてもいいとつっこまれそうだが)。鞄の重さが0.8キロと軽いので、楽そうである。色は黒色。完全に業務用鞄である。

 私が弁護士になって2年目くらいに、ウンウンいいながら重たい鞄(まだ誰も買っていなかった頃のトゥミ)を持って歩いていたら、ある高齢の先生が、「中先生、歳いってきたら、風呂敷が一番らくやで~。歳いってきたら鞄の重さがたえられへんねん。」と言っていたが、軽い鞄を使い出したのが、決して歳のせいではないと信じたい戌年の私なのである。

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2007年7月17日 (火)

時間の使い方

 仕事においても人生においても時間の使い方は非常に難しい。ある雑誌を読んでいると、まず年間の釣りの予定を立ててから、残りで仕事をするという人がいた。このようなスタイルは憧れであるが、現実的にはそのスタイルを貫くためには相当日常の仕事でも無理をし、しわ寄せが来るのではなかろうかと思ったりする。

 我々弁護士の仕事においても、中々まとまって書面を書く時間は作れない。そうした時間は無理矢理取るか、週末に書くか、夜遅くまで書くか等々になる。ただ、時間が空いたときに(出張がなくなった時など)、書面を書きに入れるように日常的に工夫することは出来るかなと思っている。

 電話やファックス、郵便物などの連絡文書には、出来るだけその日のうちに対処する。こうした処理は打ち合わせや裁判の間の細切れの時間でも出来るので、こうしたものをぱぱっと処理しておくと、時間が空いたときに、懸案の仕事に取りかかれることが出来る。ところが、こうした書類の整理を普段やっておかないと(細切れ時間にネットを見たりコーヒーをゆっくり読んでいたりすると)、空いた時間にこうした日常の連絡に時間を取られて、益々時間がなくなってしまう。

 私はパソコンのメールを出先で読むことが出来るウィルコムのW-0というシャープ製の機種を使用しているが、出先で相手から来たメールの中身だけでも読んでおけば、事務所に帰った時に返事から打ち込むことも出来るからである。ノートパソコンは重いが、ウィルコムのものは数百グラムであり、簡単な回答程度なら打ち込むことも可能である。
事務所からの出張中の連絡も、電話に出ることが難しい会議などだと、このウィルコムにまとめて送信してもらっている。これは別にシャープの回し者ではないが、本当にいいアイテムである。

 日常のこうした細切れ時間をなくすことで、書面などの作成に時間を割くことも出来る(はず)なのである。しかし、現実には弁護士会の会務(簡単にいうと弁護士会のための仕事。無償。)に追いまくられていたりもするので、細かい工夫はしているものの、いかに時間を作るかというのは常に悩みの種である。

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2007年7月16日 (月)

化石が出来るまでの年月

 最近オーストラリアの海底に沈んでいたタイヤであったか針金であったかは忘れたが、化石化していたという話を読んだ。化石が出来るまでには極めて長い年月を要するとされてきたのだが、その前提が崩れ去る可能性がある。

 実は恐竜などの化石が出てきている年代の特定法も、詳しい話は忘れたが限界があって、それほど信頼性があるものでもないとも書かれていたように思う。

 恐竜も、私が小学生時代に読んだ本ではは虫類などのように恒温動物ではないとされていたが、最近では恒温動物であったとする説が有力だとのことである。
 一方、恐竜があれだけの体格を維持し、陸上で活動しようとすれば、自らの重みで活動出来なかったはずであるとの説も有力に展開されていて、それがために、当時の地球の重力は今の重力よりも相当弱いものだったという説も展開されている。

 時代が進めば、いろいろなことがわかってくるものである。織田信長が今川義元を打ち破って首級をあげた桶狭間の戦いも、奇襲戦ではなく、信長が正面から討ちかかったところ、今川の旗本が崩れて本陣まで信長が切り込めたとの説も有力である(これがそんなにあり得ない話ではないことは、真田幸村が大阪夏の陣で家康の本陣に切り込んだことでもわかるし、龍造寺隆信という武将も乱戦の中で総大将であるにもかかわらず討ち取られている)。

 先入観や過去の考えにとらわれることは危険なことの表れでもあろう。日々の事件を解決していく中でも、「とらわれる」ことなくやっていかなければならないと教訓にしているつもりである。
 ただ、こうした話を酒の席でしても、たいてい冗談として真面目に聞いてもらえないが、全てそれなりの書物で裏付けを取った(読んだ)上での話なのである。
しくしく。

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2007年7月14日 (土)

カンビュセス2世の財宝

 ヘロドトス「歴史書」によれば、紀元前523年、古代ペルシアのカンビュセス2世の遠征軍は砂嵐に見舞われて砂に埋もれてしまったとされている。
 当時の遠征軍が身につけていた武具などが今発見されれば考古学的にも、資産的にみても莫大なものであろう。砂漠の中に、2600年前の財宝が埋もれているかと考えるだけでも楽しい。
 こうした夢想は笑われるのであるが、シュリーマンも神話と思われていたトロイを発掘したのであるから、いつの日かカンビュセス2世の遠征軍も掘り出される日が来るのではないだろうか。
 このカンビュセス2世の財宝にからめて書かれた小説が、ポール・サスマン著「カンビュセス2世の秘宝」上下巻である(角川文庫)。読み出したら止まらないエンターテイメント小説は多々あり、読み始める時間を間違えると寝不足に陥るので注意が必要であるが、この小説もそうした小説の一つであると思っている。

 このように、「確実にある」のだが「場所が特定出来ない」財宝というものは世界各地に存在している。
 日本でも埋蔵金伝説は多数あるが、帰雲城のように、一夜にして地震で全てが地中に消えたというものもある。帰雲城は金鉱を近くに有していたため、その中には莫大な金銀が存在したはずとされる。このような例も「確実にある」のだが「どこにある」のかわからない例の一つである。
 こうした財宝伝説は考えるだけでも楽しい。

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2007年7月12日 (木)

アレクサンドロス大王

 興亡の世界史というシリーズを買って読んでいるのだが、アレクサンドロスの征服と神話という巻を先日読み終えた。出張の電車の中や、帰宅後寝るまでの間などに私は本を読むのだが、世界史は高校2年生の時に習った程度でほとんど知識がないといってもいいので、世界史の読み物は新鮮である。

 日本では縄文時代くらいの時に、地中海付近のマケドニア地方の王であったアレクサンドロスは、瞬く間にギリシアを支配下において、アジア方面に遠征をするのである。王はインダス川まで遠征をし、その帰途で突然死ぬのである。わずか32歳(だったと思う)。今の私より若い。

 カエサルがアレクサンドロス大王の伝記を読み、王と同じ歳であるのに自分は何一つなしえていないと嘆息した話は有名であるし、カエサルはその後ルビコン川を越えてクーデターを起こしローマを支配下に置くのである。

 その帝国の領土の広さを地図上で見ても、アレクサンドロス大王のエネルギーを想像するだに恐ろしい。何が彼を突き動かしたのかと考えても、私のような凡人には想像もつかない。この本の中ではそれに対して答えを模索してはいるのだが、本当のところはアレクサンドロス大王もわからなかったのではなかろうか。
 この本の中では、アレクサンドロス大王は、英雄であるかもしれないが、征服された側からすれば悪鬼そのものであるとの趣旨も述べられている。王は時々抵抗した地元の民族を大虐殺したからである。

 日本は周囲を海に守られていたため、周辺民族から侵略されるということがなかったが大陸は地続きであるから、侵略は日常茶飯事であったのであるが、そのあたりも日本人である我々からすれば随分感覚が違うところがある。

 アレクサンドロス大王の跡を継いだ提督たちがそれぞれ王を名乗り、プトレマイオス朝エジプトやセレウコス朝シリアなどが出来るのであるが、その中で歴史上の人物がどのような動きをし、それがためにどのような波紋を呼んでいったかを知ることはやはり非常に勉強になる。日本の歴史(といってももっぱら戦国時代)はかなり読み込んでいるが、世界史は未知の分野が多いので楽しめそうである。

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2007年7月10日 (火)

カフスボタン

 少し前にカフスボタンを集めていた。夏場は暑いので着用しないが、時々はカフスボタンをつけている。カフスも凝り出すといろいろと面白い。サッカーボールをかたどったもの、犬をあしらったもの、万年筆などかわいいものから、私はさすがに買っていないが宝石がはめ込まれているものもある。布地製のものもある。カフスを集めていたので、それを知っている人から何かの時に貰った物もある。

 カフスボタンをするには、やはりダブルカフスのシャツがよい。袖口が二重に折り返せて、ボタンが元々ついていないカフス専用のシャツである。中々普通には売っていないので、オーダーするかシャツ専門店に行かないと購入できない。

 昔お中元やお歳暮でシャツの仕立券をもらって、それでダブルカフスシャツを何枚か作ったのであるが、足を怪我した時にリハビリでジムに通っていた時に鍛えたら胸囲(決して胴囲ではない…。たぶん。)が増えて少しシャツがきついのである。そのためカフスを着用する機会が減った。新しくシャツを買えばよいのだが、そんなに特異な体型でもないので、普通に売っているシャツで事が足りるため、わざわざオーダーするのも面倒なのである。

 夏場は袖まくりをして仕事をしていることも多いし、半袖のシャツのこともあるから、あまりカフスは着用する機会がないが、代わり映えしないスーツ姿の男性にとってちょっと変わったカフスボタンを着けているということは他のビジネスマンと差異をつけることが出来るアイテムでもある。というか、差異をつけるところがそんなにないのである。

 万年筆と一緒で、凝り出すときりがないので、財布と相談しながらの買い物となる。高いものは平気で10万円とかする(私はそんなのもっていませんが)。

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2007年7月 9日 (月)

生活保護

 先日日弁連の研修で生活保護の申請のノウハウというものを受けた。その中で、生活保護はそもそも申請の時点で申請させないようにあの手この手を行政側が使ってくるということと、弁護士が同行すればあっさり申請出来た事案のことが報告されていた。
 私は同行したことはないが、福祉事務所から調査したいということで、事務所で面談したことはあるし、「文句を言われたら一緒にいってやるから」ということで本人に行ってもらったことなどはあったが、同行するというのは知らないノウハウであった。

 真に生活保護を受けるべき人たちにとって、弁護士がそのような業務を行うことはまた有益だろう。多重債務者の生活再建を政府は叫んでいて、単に借金がゼロとなるだけではなく、その人の生活自体が成り立つようにしなければならないとして、生活保護の申請など、周辺のプログラムを今作ろうとしているようである。

 しかし、生活保護といっても財源は税金であるから有限であるし、生活保護を受ける必要もないのに受けている不正受給も現に存在する。生活保護を受けられるようにしていくことも重要だが、全体とのバランスが難しいところである。
 特に、日本は国自体が超借金地獄となっている状況下でもあり、福祉的施策はあればあるほどよいに決まっているが、どの程度とすべきかは収支のバランスを考える必要もあろう。ただし、全く不必要な支出も国の予算には多々あり(天下り団体への特命受注なんかがなくなれば、どんどん赤字は減るであろう。その意味でこの国を蝕んだのは官僚であるといえる。官僚がもっとも多い大学はどこでしょう)、そうした予算を削りつつ国を正常な状態に戻していかざるをえまい。
 日本が借金大国になったのは、過去のあまりにも考えのない税金の使い方に問題があったのであるからそれを今の世代に押しつけるというのも問題なのであるが…。

 真に自らの利益を顧みることなく国を憂える人物が出てもおかしくない時代なのであるが。幕末維新の最も偉大な人物である勝海舟のような人物が出て欲しいし、自分もそうありたいものである。勝を描いた小説としては、津本陽の「私に帰せず」に尽きる。

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2007年7月 8日 (日)

書面の書き方

 書面の書き方を話し出すと一冊の本が書けるようである。

 司法修習生と若手弁護士の読者向けになってしまう話題であるが、法律家の書面に限って少しだけ話をする。2回試験対策にもなれば幸いでもある。
 しかし、私の書面が嫌いだという人もいれば、私の書面が好きだという人もいるので、好みの問題もあるだろう。視点が違っていて、共同受任している事件でも、相方に根本的に受け入れられないこともあるが、それは事件に対する弁護士観の違いなのでそれはどうしようもないから議論するしかないが。

 簡単にいうと、書面を書く前には、全体の構成を考えないといけない。
 ここがぼやけていると、書面が散漫になる。
 ここで何を論じるのかということをそれぞれおおまかに考えないといけない。
 そのためには、表題だけでもワープロに打ち込むと何となく見えてきたりもする。

 一方、司法試験で習ったように、問題を提起して法律を解釈して規範を定立して、具体的事案についてあてはめるという三段論法は実務の書面でも基本は同様である。
 
 これに加えて、実務上の書面は少しテクニック的なことも必要となってくる。どこまで書くのかというのも実は難しい。中心部分だけを書く人もいれば付随的事情を加える人もいる。書かなさすぎて分からない場合もあれば、書きすぎて揚げ足を取られることもある。
 何の気なしに書いたことで展開されて相手から不利益っぽく書かれることもある。
 こちらの弱いところに触れないこともあれば、どうせ触れられるからということでさらっと書くこともある。一方、強調してよいところは強調をしたりする。メリハリである。

 あと、事実を否定する場合にはまず否定してからその理由を書かないといけない。言い訳から書くと何となくいいわけしているようで否定していても弱気のように見える。
 また、相手の書面を批判しているだけだと、こちらの主張がどういったものなのかはっきりして来ないことがある。さらにいえば、個別のところで批判している主張が矛盾をはらむこともある。どういった「スジ」で書くのかはある程度考えないといけない。

 もちろん文章の表現にも気を遣う。相手方弁護士の書面を無用に批判して名誉毀損的表現を使うなどもってのほかであり、自らの品位をおとしめるだけでもある。

 このようなことをいろいろ考えて書いているのが現状であり、ここは何でこう書いているのかと聞かれて、「これこれこうだからこうなんだ」と解説すると感心されることもある。

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2007年7月 6日 (金)

移動ばかりの今週

 今週は移動が多く、忙しくしているような気分だが何もはかどらない1週間であった。移動があると仕事が停滞するが、移動も仕事のうちなのでやむを得ない。

 簡単に書くと、

 月曜日は10時15分に新件の事件の裁判に行き、午前中週末に来た手紙類などの整理や連絡文書を書いて、12時から委員会内の部会に出席。14時から電話リース110番の記者レクチャーをして14時10分から交通事故の和解。15時からほかの事務所で共同受任している事件の打ち合わせ。16時30分から和解。これは和解成立。17時から新件の相談。

 火曜日は午前中喘息の定期検診に行き、10時45分に電話リースの新件の第1回裁判に出席。12時から委員会のワーキンググループに出席して、13時10分も新件の裁判。裁判終了後、事件自体は判決だが相手方と話をして少しずつでも返してもらう話でまとまる。15時30分に刑事事件の控訴審の判決言渡しがあったので大阪高裁へ。控訴は棄却された(まあ執行猶予中の犯行だからやむを得ないのだが)。

 水曜日は10時30分から依頼者と打ち合わせをして、午後は東京の日弁連の会議に出席。帰宅は22時過ぎとなった。

 木曜日は11時から大阪家裁で裁判。大急ぎで帰京して12時40分頃から委員会の部会に出席。15時から新件の相談。ヘアカットに行く時間がなかなかとれないので、帰り道に美容院に行く。

 金曜日は10時30分京都家裁で和解。11時から12時まで電話リース110番の担当。13時30分から大阪家裁で調停。17時前に帰京して、整理出来ていない書類などを整理したり連絡文書を作成。嫌になってきたので気分転換にブログを書く。

 こう移動が多いと書かないといけない書面がなかなか書けない…。移動が多い一週間であった。勤務弁護士が来ればあまり移動しなくて済むのだろうけど。

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2007年7月 5日 (木)

児童虐待のことなど

 私は弁護士になってから、なる前には全く考えていなかった(というか若かったこともあり、具体的イメージがあまりなかったのだ。それがかえってよかったとは今は思っているが)ことが弁護士としてのライフワークとなっている。
 消費者被害、多重債務者救済。それから犯罪被害者支援である。前者は大手企業からすればそういう言葉がいいのかどうかわからないが、弱者である。後者も過去の刑事手続において忘れ去られた存在であった人たちであって、法律を「知らない」がために被害を受けていたり、何の落ち度もないのに被害者になってしまった人たちに何かが出来ないかということであり、共通したところがあるかと思っている。
 ただ、この種の事件だからといって特別扱いはせず、全ての事件に対する姿勢は同じであるように心掛けてはいる。

 このうち、犯罪被害者支援に関しては、画期的法律が出来た。刑事事件で検察官とともに被害者が質問をしたり出来る制度である。
 実はこれは、ある意味検察官に対する被害者達からのダメだしだと私は思っている。
 本来検察官は検察官法によれば公益の代表者であるから、被害者の立場にもたって納得させるような刑事訴訟活動をすべきなのであるが、現実の裁判では、我々が検察官にお願いに行っても、正直なところ、「被害者のことを全く考えておらず、その場その場の事件を処理していくことしか考えていないな」という検察官に出くわすことも事実であり、実際、検察官の代わりに、「私が尋問したい」とおもったことも多々あるのである。
  被害者本人達は余計にそうであろう。検察官は人数も少なく、時間に追われているから、被害者対応まで中々十分な時間は取れないのであろう。また、検察官はその立場上被害者そのものにはなりきれないであろうから、やむを得ないところがないわけではない。

  司法改革で法曹の増大を掲げた際、検察官と裁判官の大幅な増員も掲げられていたが、実際には増員されていない。政府は予算をつけないのからである。もちろん、私は立派な検察官も知っているのだが、本来全員がそうした職業意識に燃えているべきであろう。しかし、それでもやはり被害者からすると、「検察官の質問は生ぬるい」となるかもわからない。

 今回の法案は、被害者側の声が通った形で、「もはや検察官には任せておけない」となったとでもいうべきなのではないかと考えている。
 個人的には、被害者のみで質問とかをしようとしても的が外れていたりすることもあるであろうし、相談する相手がいた方がよいと思うので、弁護士強制主義を取るべきであると考えている。
  国選刑事弁護人のように、資力のない人には国選で被害者側弁護士をつけるのである。国のお金というのは、必要のない道路や建物を造ったり、変な外郭団体への外注費に費やされるべきではなく、こうした「生きた」使い道をするべきなのである。

 その一方で、遺族がいない犯罪というものがある。いや、いるにはいるが、遺族が被告人の場合である。それが児童虐待である。子どもは自らの親に殺され、本来であれば遺族であるべき親が殺害した犯人なのである。こうしたケースは最近増えているが、前にも書いたけれど量刑が低い。

 それは、やはり被害者の声を代弁するところが弱いからであろうと私は思っている。やはり法廷で遺族が声を涸らしてどれだけ辛い思いをしているかを述べたら裁判官だって考えるであろう。しかし、そうした声がなければつらかっだであろう子どものことを裁判官は推測するしか出来ない。いきおい、従前の量刑相場におちつくのである。

 私は個人的には、こうした遺族なき犯罪についても、亡くなった子どものために被害者として、弁護士が加害者に質問するような制度も必要ではないかと考えている。子どもは生き返らない以上、誰かが代弁してあげるしかないのである。検察官は被害者そのものにはなれない以上、検察官とは独立して被害者そのものとなって責める立場があってもよいと思うのである。

 こうは書いても私は刑事弁護もする。その立場立場で依頼者のために最大の仕事をするのが弁護士の仕事であると思う。相手にしたら嫌な弁護士になるのが私の望みでもある。

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2007年7月 3日 (火)

鉛筆のこだわり

 私は文房具好きなので、字は暗号のようであるが(私の字が発掘された時、未来の人は埋蔵金のありかを示した暗号だと思うかもしれない)、鉛筆も使う種類を決めている。

 メインは三菱のハイユニか、ドイツ製のステッドラーという鉛筆である。あとメーカーはいまわからないが、後ろにオレンジの消しゴムがついたオレンジ色の鉛筆である。あとは、ファーバーカステル社のパーフェクトペンシルである(これは鉛筆削りと消しゴムがついているのでパーフェクトペンシルなのである)。

 特に今気に入っているのはドイツ製のステッドラーという鉛筆である。握った時の手に吸い付く感じが何ともいえない。色も青色でステキである。ちょっと高いけど。文房具を扱った本などでは必ず紹介される定番ではあるが、定番は定番だけにやはり素晴らしい。

 シャープペンシルはあまり使わない。私は筆圧が高いので芯が折れるからである。

 証拠や相手の書面に書き込む必要がある時に万年筆で書くと消せないので、鉛筆は必要である。あとは手帳にこちらの準備事項が出来た時に、手帳の予定のところに鉛筆で○をつけている。時には前日にしか○をつけられないこともあるが…。

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全国一斉電話リース被害110番開催

 7月5日から7日までの間、全国一斉に電話リース110番が開催される予定である。このうちどれかで行われるが、開催地などの詳しい情報は大阪弁護士会のホームページからリンクが張られているし、京都でも7日に開催する。京都弁護士会のホームページに開催要領が掲載されている。

 電話リースに関する被害は全国各地に存在するはずが、被害解決事例を関西以外ではあまり聞くことがないので、被害の掘り起こしと、リース問題に対する各地での取り組みが不十分ではないかということで、京都と大阪の弁護団が呼びかけて実現したものである。

 これに先駆けて、4日には京都地方裁判所園部支部に、自宅兼店舗で開業している小規模個人事業者の方が、同じ販売店からわずか2ヶ月の間に総額400万円近いリースを組まされた、「次々リース」の提訴を京都弁護団で行う。常識で考えれば小さい事業者でこれだけ多額のリースを自らの意思で組むはずがなく、詐欺的勧誘がなければ組むはずもないのであるが、リース会社は、「顧客の希望で契約した」とか、「販売店が違法なことをしていたとしても、リース会社は知らない」などというのである。そして、過去に置いては、法律のことしか分からず、社会現象面からあまり物事をみなかった裁判官達によって、「別会社だ」ということでリース会社の主張がまかり通っていたことが多かったのである。しかし、裁判所の判決も社会を納得させるだけの説得力が要求される時代が来ているというべきで、常識的にみてリース会社のこうした主張がまかり通らないことは、素人からみても当たり前過ぎるくらいのことなのであるが。

 私は弁護士になった当初から、リースという契約は法律によって規制されるべきと思っていた。この電話リース問題を契機として、リースという悪質商法の隠れ蓑になっている法形態を規制する法律が制定されるように働いていきたいと考えている。ちなみに、このリースも一つの大きい収入源にしているのは、規制改革委員会で委員長を務めていた宮内氏率いるオリックスである。

 1人でも多くの被害者が救済されることを祈ってやまない。

 

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2007年7月 2日 (月)

司法試験考査委員解任とロースクール

 司法試験考査委員が法務省から解任された。前代未聞の出来事である。司法試験考査委員である同教授は、演習問題を学生にやらせていたというが、これが本番試験と類題であったともいわれている。

 同教授は、「合格率を上げたかった」としている。ロースクールも独立採算性であることから、合格率が低ければ合格率が高い学校に学生が流れて学生が確保できないので、生き残りに必死で、本来の司法改革が目指したロースクールの理念はそこにはないといえる(まあそもそも大学で学んだからといって豊かな人間が生まれるとは私は全く思わないし、社会に一度出たからといってその人物が優れているということにもただちにはならないし、そもそもその発想自体間違っていると私は思っているが、一応民主主義国家で制度としてある以上それを前提としなければ仕方がない)。

 そもそも、当面の合格者は3000人と予定されているのに、ロースクールが次々に申請して、定員が5000から6000人になったことが問題なのである。合格率が低い、と文句をいうが、それをいうなら、「元々ロースクールを作りすぎ」なのである。おかげで、合格率競争にばかり熱が入ってしまったのである。

 ロースクールの定員を維持するために合格者を飛躍的に増大させろとする意見もあるが、本末転倒であろう。元々作りすぎたロースクールの存立ありきではそもそもの司法改革の理念(それが正しいかどうかは別として)とも相反してしまうものである。

 昔の司法試験がそれほど悪かったとは私は思っていない。逆に一発試験であったことから、働きながらでも試験を受けることが出来たであろうし、お金のない人が独学で合格することも可能であった。ある意味平等である。
 
 裁判官が大学出たての社会の「し」も知らないまま任官していくが故に常識が欠落した判決を書いていた(今もいる)弊害は、若手から裁判官が採用されていく現状を見ていると、ロースクールでも問題は何ら解消されないように思われる。
 弁護士も批判はされるし、確かに批判されてもやむを得ない弁護士もいるが、一般的に弁護士の方が依頼者や相手方から罵られることもしばしばだし、時には命の危険を感じる仕事もやっているから、裁判官5年と弁護士5年では全くその鍛えられ方が違うと思う。

 ただし、弁護士になるにも最低限の知識と能力は備えておいてもらわないと、鍛えようがないであろう。それがどの程度のものが必要かは微妙な問題であり、一言ではいえないが、対人コミュニケーション能力と最低限の法律知識と文章力は当然必要であろう。

 これからは就職もどんどんなくなっていくであろうから、対人コミュニケーション能力がない人は就職先も勝ち取れないであろう。また、いきなり独立して飯が食えるほど弁護士の世界は甘くない。依頼者もよく見ているし、逆にややこしい事件屋もそういった弁護士を手ぐすね引いて待っていそうで怖い。緒方元長官もそうした事件屋にぐるぐる巻きにされていたのかなあ。

 ああ、こわ。

 きゃ~。

 

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2007年7月 1日 (日)

渓流釣り

 小学校の頃「釣り吉三平」を読んでいると、三平は渓流でイワナを次々と釣り上げて塩焼きで食べている場面がよく出てきた。
 しかし、現実の世界ではイワナやヤマメ、アマゴという渓流魚は乱獲によって一時絶滅の危機に瀕していたので、「幻の魚」となっていた。
 小学生の頃、いつの日か渓流釣りに行ってみたいと思ったものであるが、幻の魚を釣りにいける訳もなく、大阪城や父の故郷である和歌山県の日高川での釣りが私の釣りのメインであった。
 しかし、その後養殖技術が発達して、イワナもヤマメもアマゴも養殖できるようになり、全国の渓流の漁協で鮎と同様に放流が盛んになりたいていの渓流で渓流釣りが出来るようになった。

 大学生の頃は自動車も持っていなかったので、バスで渓流釣りに出かけた。お金もなかったので、渓流の中に立ち込むための「ウェーダー」というものも買えず、長い長靴で行っていた。しかし、長靴では中々渓流の中に立ちこめず、釣れるのはハヤばかりであり、小さい幼魚(10センチくらい)は釣れたが、まともな型は釣れなかった。関西ではアマゴであり、体に赤い斑点があり、ヤマメは斑点がなく、一般的にはヤマメの方が釣りにくいといわれている。
 修習時代に「リバーランズスルーイット」という映画を見てから、余計に渓流に対する思いは強くなった。ちなみに、この映画の原作は、「マクリーンの川」という題名の小説であるが、この小説もまた秀作であるので一読の価値あり、である。

 結局、最初に釣ったまともな型のアマゴは道具をそろえられてからであり、弁護士に成り立ての頃、十津川でのことであった。前に少し書いたが、天川で自動車を転落させ、ブラインドカーブで先を見ていない恐ろしい男N田という高校時代の友達と出かけたのである。
 十津川は成魚を放流するのではなく、卵と幼魚を放流しているということで「ネィティブ」に近いといわれていた。どうせなら、成魚放流(養殖されていたので簡単に釣れる。いわば川が大きい釣り堀となる)よりは、天然に近いものを釣り上げたいと思うのは釣り人であれば誰しも思うであろう。
 現実に十津川に行ってみると、魚影は濃く、魚は見えていてそろそろと近づくのであるが全く釣れない。渓流魚は一般に警戒心が強いのである。
 そうこうしているうちに、N田が釣り上げ、私も釣り上げた。20センチメートル弱の魚体で、その美しさは本当に一見の価値はある。「渓流の女王」といわれるだけのことはある。イワナが蛇のようなぬめぬめした感じに対して(ただし、味はイワナは本当にうまい。塩焼きで日本酒なんか飲めば人生の楽しみこれにきわまるという感じである)、アマゴは本当にほれぼれとする魚体なのである。

 この十津川に行った時は4月くらいであったかと思うが、十津川は標高が高いので寒く、川沿いにある温泉に入って途中体を温めたこともまた想い出である。渓流に沿って、500円程度で入ることが出来る露天風呂があり、冷えた体を温めながら、渓流の流れの音を聞くというのは、日本人ならではの喜びであろう。

 その後はあまり渓流に行く機会はあまりなく、数回釣り上げた程度であるが(ちなみにルアーで30センチほどのアマゴを釣ったこともある)、渓流の景勝の良さといい、温泉が近くにあったりすることといい、アマゴの魚体の美しさといい、釣りをするなら一度は渓流釣りはトライすべきだと思うのである。
 私は源流までは行かないので、イワナは釣り上げたことがなく、是非ともそのうちにイワナを釣りに行きたいと思う今日このごろであるが、日々の仕事と持病に追われ、土日に体力回復しなければならない日々であるので、仕事に余裕を持ち、持病も押さえ込んで念願のイワナを釣り上げる日が早く来て欲しいなあと思うのである。

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