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2007年9月 1日 (土)

柳生新陰流

 現在の剣道の成立に大きい影響を与えたのは戦国期に上泉伊勢守信綱が創始した新陰流である。それまでの剣法修行は木刀での稽古がほとんどであったため、稽古の途中で少しの失敗で一生を棒に振るような怪我をすることが多かった。そのため、新陰流では稽古に「ひきはだ竹刀」というものを用いた。これが現在の竹刀の源流であるといわれており、引き裂いた竹を革袋でつつんだその革がひきがえるの肌のようであったため、この名で呼ばれるようになった。

 新陰流はその弟子により様々な分派があるが、正統を嗣いだのは柳生石舟斎宗厳であり、いわゆる「柳生新陰流」として柳生家に受け継がれていくことになる。
 石舟斎には子が5名いた。長男厳勝は合戦の際の鉄砲傷が元で体に障害を持ち柳生の里で隠棲しており、次男と三男は僧侶となった。四男五郎右衛門宗章は、中村一忠という大名に仕えていた(客分としてとどまっていたという説もある)が、中村一忠という大名が家老である横田内膳を突然「乱心」して城内で斬殺したことに横田内膳の一族が抗議して城内の一角に籠もり合戦となった際、横田内膳とのこれまでの交誼から横田内膳側につき、名だたる槍の名人を何名も突き付せた後、刀で18人以上を斬った末斬り死にしている。
 五男が有名な江戸柳生の柳生但馬守宗矩であり、後に大目付となり、大名取りつぶしに辣腕を振るい大名家から恐れられた。その子が柳生十兵衛である。
 実のところ、柳生新陰流の正統な跡継ぎは、この五男の宗矩のように錯覚されていることもあるが、柳生新陰流の正統を嗣いだのは、石舟斎の長男厳勝の子である柳生兵庫助である。兵庫助は、後に尾張徳川家の兵法指南役となった。
 
 江戸時代はじめ、渡辺幸庵という老翁が加賀にいたが、この老翁は100歳を越えるといわれていたので、加賀前田家が昔のことを聞き取った話が残っている。それによると、渡辺幸庵は、柳生宗矩の弟子で印可も取ったが、宮本武蔵は、柳生宗矩と比較していうと、囲碁で言えば「井目も武蔵強し」ということであったらしい。宮本武蔵と柳生宗矩では強さがかけ離れていたということが伺われるエピソードである。

 一方、宮本武蔵が名古屋城下に滞在している間に道である侍とすれ違った際に、「この名古屋に来て、初めて活きた人を見た。さだめしかの人は柳生兵庫助殿であろう。」と述べ、柳生兵庫助の方も、「そういわれる貴殿は宮本武蔵殿であろう。」と述べたというエピソードが残されている。柳生兵庫助の強さも伺い知ることができよう。

 柳生新陰流について書いた本は多いが、柳生五郎右衛門の奮戦を描いた作品としては、池波正太郎の「武士の紋章」という短編(文庫に収録されている)があり、柳生兵庫助については、津本陽の「柳生兵庫助」がある。こうした過去の剣豪の話を読むのも大変面白い。戸部新十郎という作家の書いた、「日本剣豪譚」には多数の剣豪が出てくる。
 
 こうした作品を読むと、勝負の世界に生きる剣豪の心構えが少しでも仕事上役立つような気もしている。弁護士も訴訟ともなれば勝敗が重要な世界だからである(もちろん和解となることもあるが。)。

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