宮津城の石垣跡
今日は宮津の相談であったが、帰り道で宮津城の石垣跡を携帯カメラで撮った。宮津城は細川幽が関ヶ原の戦いの頃居城としていた城のようである。
細川幽斎は、息子の細川忠興の妻に明智光秀の娘たま(ガラシャ夫人)を迎えていたので、光秀は本能寺の変の時に当然に味方してくれるものと思ったのであるが、親子して髪を下ろし信長の喪に服し、ガラシャ夫人は幽閉されたが、その前後から丹後地方を治めていた。
細川家が丹後地方を治めるにあたり謀略で地侍を倒す経緯は、海音寺潮五郎の作品に出てくる。外交センスと謀略に長けた一族である。
関ヶ原の戦いが起こり、 細川幽斎は東軍に着く。石田三成は東軍諸将軍の大坂に居た妻子を人質にしようとするが、ガラシャ夫人のあまりの美しさに家来が顔を見ただけで切って捨てたといわれる細川忠興の嫉妬心を思い、ガラシャ夫人は家臣に自らを殺すように指示し、大坂で死ぬのである。
関ヶ原における光成の戦略の失敗の一つとされる。光成は豊臣政権におけるエリート官僚であり、人情というものを理解していなかったのである。苦労人で人情がなんたるかを知り尽くしていた家康に勝てるはずがなかったのである(なお、左は石垣跡の解説である)。
細川幽斎は、宮津城を出てわずか500の城兵とともに丹後城に立て籠もり、西軍の一部を引き受けて戦い抜くのである。その経緯を描いた作品として、安部龍太郎の「神々に告ぐ」という作品がある。
後に細川家は、徳川時代に九州で肥後の国を領有することとなり、宮本武蔵は細川忠興の息子である細川忠利の知遇を得て、晩年を肥後で過ごすことになる。
こうした細川家に縁が深い宮津城跡がこの程度しか残っていないことは残念であるが、裁判所に向かう途中には、左手に元々丹後地方を治めていた一色氏が細川家に攻められた果てに自刃した地がある。
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