平成21年(2009年)から被疑者国選の対象事件が飛躍的に増大する予定である。これがための対応体制をどのようにしていくかというのは多くの弁護士会にとって重要な課題であり、私も京都弁護士会において設置された2009年被疑者国選対応態勢確立推進本部の事務局長をしている。そのために多大な時間が消費されている。しくしく。
具体的には、被疑者国選は、2009年(平成21年)4月よりいわゆる第2段階に突入し、死刑又は無期若しくは長期3年を超える懲役若しくは禁固にあたる事件(第1段階の重大事件のほか,窃盗,傷害,業務上過失致死,詐欺,恐喝など) に国選弁護人が選任されることになる。
逮捕・勾留段階で弁護人が選任されていなければ、刑事手続の内容や自分自身の権利を十分に理解できないばかりでなく、不本意な供述調書に署名押印をさせられたり、被害者との示談交渉を行うことができないなど、様々な不利益が予想されるところである。親告罪などでは、示談が出来て告訴を取り下げてもらえれば、起訴自体がされず、前科がつくことが免れるが、弁護人が選任されていなければそのようなことも不可能である(先日も示談が出来てそのような事態が免れた事件があった)。
ただし、被疑者国選の担い手が少なければ、制度だけ出来ても、こうした被疑者の受ける可能性のある不利益は解消されないことになる。それをどうしていくかということは深刻な問題である。
弁護士の中には、「低廉な費用で被疑者国選など引き受けられない。そもそもそれは国の責務であるから弁護士会がボランティアを強いられるのはおかしい」「司法支援センターとの契約がネックである」との指摘をされる方もおられるようである。
信念を貫かれるのは個人個人の思想信条の自由というところもあり、やむを得ないところもあるのだが、私はリアリストとして、そのような対応をすることには賛同出来ないのである。
制度があり、そこに弁護人を必要としている被疑者がいるにも関わらず、個々の弁護士の思想信条を言っている場合ではないと思うのであり、我々弁護士に科せられた責務はそれほど重いものだと考えるのである。弁護士だけが唯一刑事弁護人となれるのであり、我々の資格というのはそれだけの社会的責務を負っているのだと思う。
報酬の低額さについては、日弁連が努力をしているところでもあるし、支援センターとの関係については別のルートで大きく交渉をしつつ、生の事件ではそうした制度上の「ねじれ」は大きい議論に委ね、「私たちはこんなに努力しているではないか」として、いわば血の涙と汗を流しつつ生の事件に対応していくことでしか、今後の弁護士会の未来はないのではなかろうか。弁護士は特権階級ではない。
なぜ自分だけ負担を強いられるのかという考えに対しては、「だからこそ多くの会員が登載しよう」ということで負担の公平によって解消していくべきであるし、国がすべきなのではという考えに対しては、「弁護士として溢れ出る能力をもってこの世に生を受けて、その能力を生かし切らないのはもったいない。国との議論はまた別途考えよう」とポジティブ思考で考えてはどうであろうか。
理論を貫いて弁護士会が被疑者国選に対応できない場合、規制改革論者から、「ほら、やっぱり弁護士は足りないんだ。司法試験の合格者は9000人とすべきであるのだ。」との論拠に用いられたり、副検事に国選限定の弁護士資格を付与して、国選弁護人を引受けさせるというプランが現実のものとなりかねないという危険を孕んでいる。
各弁護士が苦しい状況の中、被疑者国選に対応しなければ、益々弁護士という職業そのものがじり貧になっていく可能性の方が高いのである。
ただし、私が時折聞く話だと、一般国民からすれば国選弁護報酬は「どこが安いのか」と厳しい指摘を受けることもあり、このあたりは唯一刑事弁護人となれる弁護士と世間とのギャップがあるかもわからない。こうしたギャップを埋めるためにどうしてくべきなのか、あるいは逆に弁護士の感覚がずれているのか、そのあたりは今後の課題でもある。
年収300万円時代といわれ、世の中のサラリーマンが今夜の居酒屋代金をどうして捻出しようかと考えている横で、弁護士は飲みに行ったり、優雅な趣味に興じている人もいるではないか(もちろん全員ではありませんが)、それなのに何故被疑者国選が出来ないというのかと叱られるということもあるのではないだろうか。
勤務弁護士の初任給が下がったといわれるが、それでも世間から見れば高額であると感じられるだろう。合格者が増大した結果、増大した以降の弁護士には、過去世間が考えてくれていたようなプレミア感はさほどない。
これからの弁護士は甘い考えを捨てていくべきであろう。