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2008年2月29日 (金)

インクまみれの私の右手

 手帳記入用に常にアウロラというメーカーの万年筆を使用し(キャップが割れて前に焦っていたペンである)、事務所で机周りで細かい記入をするときにも別のアウロラ(ただし、色も型番もほぼ同じ)を使っていて、自分の持っている万年筆の中では、アウロラがもっとも今気に入っているのだが、困ったことがある。

 それは、キャップが割れるのと同様に造りがいい加減なせいか、インクがよくこぼれるのである。
 他の万年筆(モンブラン、セーラー長刀研ぎ、パーカー、ペリカンなどなど)ではこのようなインク漏れはないのであるが、本当によく漏れる。
 おかげで、私の右手の人差し指、中指、親指は常にインクまみれで、青色である。まるで何かの病気のようにブルーな指先なのである。

 それならアウロラを使わなければいいではないかと言われそうだが、書き味が気に入っているので、時にはパソコンのキーボードが青く染まっても、1日に何回もアライグマのように手を洗ってアウロラを使い続けているのである。

 私が買ったアウロラが2本ともたまたまインク漏れするのではなく、メーカーとしてこのような「漏れ」があるのか、あるいはたまたまなのか。

 嗚呼。今日もまた指が青色に染まるのである。

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2008年2月28日 (木)

氏家行広

 関ヶ原の戦いは、天下分け目の戦いといわれているが、その実情は、豊臣家内部の争いであり、内部の争いをいかにして自らが天下人に押し上げる戦いにするための戦いに変容させるかが家康が知恵を絞ったところであり、それに尽きると言っていいであろう。

 豊臣秀頼を奉じてその下で権力を振るいたい石田三成という武将がいた(私はそう思っているが、純粋に豊臣家のためという説も根強い)。
 いっぽう、天下人を狙う(ただし、この当時はその素振りすら見せていない)徳川家康は、文官である石田三成を嫌悪する武断派の豊臣家の武将たちを巧みに扇動して三成と対立させ、石田三成が徳川家康に戦を挑まざるを得ないようにもっていったがために起こった戦いである。

 当初は、「豊臣家のために」悪漢石田三成を排除する戦いであるという形を取っていたのであるが、戦が近づくにつれて、巧みに徳川家康の私兵のように武将たちの気持ちを変えていく経緯は、あまたの歴史小説で書かれているところである。

 徳川家康が、上杉景勝を討つという名目で会津に北上している途中で大阪で石田三成が挙兵する。その時に、有名な「小山軍議」が開かれるのである。
その小山軍議で家康は、「どちらに味方するも自由である」と啖呵をきった時に、誰も寂として声を上げなかった(みな他人の動向を見ているのである)ところ、豊臣秀吉の親類であり、秀吉の寵愛深かった福島正則が、声を上げて家康に味方すると発言した。
 もっとも豊臣家に近いと思われている福島正則が家康に味方するということで、我も我もと家康に味方をするということになったのである。

 
 このように、全国的に、家康か三成かという2者択一を迫られることとなった情勢であったが、このときに唯一中立を保ったのが氏家行広という武将である。

 この氏家行広は、伊勢の桑名という渡し船を出すところで2万2000石を領していた(司馬遼太郎によれば、この時代は、伊勢の桑名からの水路が東海道の一部であり、非常に重要な戦略地であった)。
 行広は、西美濃三人衆の1人である氏家卜全の次男で、長男が早死にしたために氏家家の跡を嗣ぐことになったのである。豊臣秀吉は、この氏家行広が利に流されない人物であることから、自分の死後何か事が起こった時に、桑名は重要な戦略地になると考え、行広を置いたのである。

 行広は、東軍・西軍からの誘いが来た時に「西軍は秀頼君の名前で来ているが、わずか幼児の秀頼様にそのような決断が出来るはずがない。一方、東軍も秀頼様の名前で組織された軍勢である。いずれが正か邪か分からない」としていずれの軍からの誘いも断り、中立を決め込んだ。
 ただし、西軍に攻め立てられてやむなく西軍に属している。司馬遼太郎は、東軍・西軍を含めてこのような態度を取ったのはこの氏家行広しかいないとしている。

 関ヶ原の戦後、西軍に属したことで家康により改易され行広は牢人となった。
 後の大阪冬の陣、夏の陣には豊臣秀頼に対する家康の仕打ちをみて、「今こそいずれか正か邪かわかった。家康こそ邪である」として「荻野道喜(おぎのどうき)」という変名で参戦し、既に70歳に近い年齢であったにもかかわらず、他の牢人に混じって奮戦して活躍をした。

 このとき、家康から仕官を勧められたが、断ったという話もある。

 行広は、奮戦むなしく、夏の陣において、大阪城が落城する時に自刃して果てた。

 利に流されない行広の生きようは、我々弁護士が目指すところと相通ずるものがある。利だけで出来る仕事ではないからである。

 (これらは基本的に、司馬遼太郎の「関ヶ原」の説によっています。東軍に属したかったが、地理的に出来なかったのだという説もありますが、後の大阪の陣での奮戦ぶりからして、中立を保った説を採用したいところです)

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担当者によって対応が違うのはどうだろうか

 裁判所に同じ書類を出しても特に問題がなく受け付けられて、手続が進んでいったものを、違う担当者になると同じ書類を出しているのに「ここを補充してほしい」とか「ここが書き方が違う」とかクレームをつけられることがある。

 もちろん、私は私のやり方が正しいと思っているし、過去にそれで受け付けられているのだから、文句をいうこともあるが、依頼者や事件の進行速度のことを考えると、クレームに応じて処理を進める方が全体に得策なことがあるので、そういう場合には黙って応じている。決して納得している訳ではない。

 クレーム(正しくは補正という)には応じるが、それなら「過去の処理は全部間違ってたんかい」と突っ込みたくなる。
 私も人間なので、虫のいどころが悪い時には、過去の例をあげて文句をいうこともあったりするが、そうすると、「少しお待ちください」となって電話を保留にされたあげく、「またかけ直します」と言って少し経過すると、「その処理で結構です」となったりする。
 別にそんなところでケンカをする気もないが、裁判所の方が気分次第というか担当者次第で対応が変わるのはあまりいい気はしないし、よくないことだろう。私もそれなりに事件経験はあるし、担当者よりも扱った事件数は多かったりするのだから、意見を言って来るときにはやはりそれなりの検討をした上でしてきて欲しいと思うのである。
 もちろん、人間であるから、指摘を受けて、私の方が間違っていることもありそうした場合には素直に謝るが、ろくに検討もしないで思いつきで指摘してきたなと思う時はいい気はしない。

 1年目の裁判官が研修などで入っている場合、とりあえず何か言わなければと思うのかも分からないが、的を外れたことを聞いてきたりすると、きちんと検討して欲しいと切実に思うのである。

 まあ、経験を積んだとしても、裁判官のあたりによっては、結果が全く逆になることがあることもあるから、この程度のことは仕方のないことなのかもしれない。
 たとえば消費者問題に理解があり、消費者側の主張に耳を傾ける裁判官もいれば、原則的に「契約した以上だめ」というタイプの裁判官もいる。被害者に優しい裁判官もいれば、被害者になぜか厳しい裁判官もいる。そもそも、どんな勝訴判決を書かれても不安になる裁判官もいる(理由付けがすかすかで、控訴審に耐えうるか不安)。原告側で訴えを起こして、どの裁判官に継続するかというのは、弁護士は非常に気にしているものだが、それはこうしたことが原因である。

 グチグチ言ってみたい日もあるのである。
 

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2008年2月27日 (水)

不動産の任意売却

 不動産の時価が右肩上がりであった頃は、不動産を売却すれば、住宅ローンも消えて、そのほかの借財も返せて…ということがあったらしい。らしいというのは、私が弁護士になった平成8年には既にそのような事態は終息しており、ここから不動産価格が下落の一途をたどったからである。

 そのようなことで、最近不動産を任意で売却しようとすると、担保についているローンの残額より不動産の時価相当額が低く、担保権者と抵当権や根抵当権の抹消について交渉・協議して同意を取る必要が出てくるのである。たとえば借りているローンが1億で1億の担保がつけられていて、不動産が5000万円で売れるとすると、貸し付けている先は5000万円の損失を受けるので(通常不動産を売却したあと負債がかなりあれば破産をするだろうし、破産事件の中で売却することも多いため)、担保をつけている先と協議しなければならない。

 実際には売却価格から不動産会社の仲介手数料、破産者の引越費用(これがでないと破産者の方も売却する意欲が起こらない)、滞納税金で差押されていたとすればその解除のための費用などをみないといけないので、担保をつけている先に入るお金は売却価格より少なくなる。
 任意売却をする場合、売却価格からこのように支払える、このような経費がかかるという一覧表を作り、協議をしていくことになる。担保権者が3人いたりすると、後ろに担保をつけている人には多くの場合、抹消費用ということで、印鑑代を渡して同意してもらう。

 今も売却予定があるのだが、こうした調整はけっこう手間であり、細やかな作業となる。
 私の場合、登記に関しては、いつも依頼するH司法書士に任せておけばよいのだが、それ以外の調整がたいへんなのである。

 少し前だが、破産管財人をしていて、9000万円くらいで売れそうな物件があり、私が調整したのだが、2番目に抵当をつけているところが「1億円は越えるはず」とがんばり、結局任意売却が出来なかったことがあった。ところが、後に5500万円で売却に同意してきて、私は既に管財人として財産からこの不動産は「売れない」として放棄しているため、後から売却のためだけの代理人に就任したことがあった。これなどは無能な担当者が頑張りすぎたがために、回収額が金融機関にとって数千万円変わってしまったという例である。

 競売ともなれば、当然引越費用などは出ないので、引越費用が出るような場合には、任意で売却をすることは一つの選択肢であるといえよう。

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2008年2月26日 (火)

ホワイトデー

 毎年ホワイトデーのお返しには、鎌倉のホルトハウス房子という人のところの手作りチーズケーキに決めている。

 少し前に「大人の男のホワイトデーのお返し」という雑誌の記事で見て、美味しそうだったので一度注文したら好評で、それ以来数年同じである(深みのない話ですな…。しかも私は全然大人の男じゃないし…)。
 私もチーズケーキはあまり好きでないのだが、ここのチーズケーキは絶品でバクバク食べる。
 熟成させるとさらに美味しい。

 ただし、絶品なのは価格もそうで、けっこういい値段がする。
 しかしその値段を払うだけの価値はあるケーキである。

 ぜひ一度お試しを。

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2008年2月25日 (月)

法テラスの無料相談

 法テラスとは日本司法支援センターの愛称で、この支援センターの相談登録弁護士に登録していると一定の基準を満たせば無料で相談を受けることが出来る。たしか1事件につき3回という制限はあったが、本人の負担はなく、弁護士側には費用が入るので、利用のしがいはあるだろう。

 法テラスは法務省の管轄下の団体なので、法務省の管轄下の団体の相談担当者になるのは嫌だとして登録していない弁護士もある程度いるが、私はあまりそうしたことには意地をはらない人なので、依頼者のためになるのであればと思い相談登録をしている。

 実際に30分聞いて5250円(税込)を支払うという時に、「無料になりますよ」と言ってあげて手続を説明すると喜ばれる。もちろんお金がない人のための制度であるが、資力基準といって毎月の収入が少ない人が想定されているものの、普通の収入程度だとほぼ利用できる。
 5250円あれば、お昼ご飯代の1週間分以上のこともあるだろう(毎日700円かけるとすれば、4900円である。たとえば市役所前で売っている弁当屋さんで、700円の弁当を買おうと思うと、相当いい弁当が買える)。そうした意味で私はよくこの制度を利用してもらうよう言っている。
 相談票に書かないといけないので少しこちらの手間はかかるが、依頼者の方にとっていい制度だと思う。ただし、今のところ弁護士会館では使えないので、直接弁護士の事務所に申し込む必要がある。

 相談費用がないとお困りの方は、一度検討してみられるべきである。法テラスに行けば、誰が相談登録弁護士かは分かる。

 これもまた「高い」と言われている弁護士の敷居を下げる一つの制度であろう。
 

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2008年2月22日 (金)

寝相

 どうでもいいことだが、私は寝相が悪い(今回のブログに何かを求めないでください。本当にどうでもいい話なので…)。前に何かで読んだところでは、寝てから動き回れるのはそれだけ元気が余っている証拠だということらしいが、自分ではそれほど元気だとは思わない。

 私の同期でゼミもいっしょで検察官になったS井という男がいたが、この男は寝たら死んだように動かなかった。一度キャンプに行った時は本当に死んでいるのではないかと疑ったくらいである。
 ちなみに、これまたどうでもいいのだが、このS井には頭の良さでは適わないと思っている。とてつもなく頭がよく、修習生時代に、若手検察官がある論告を起案させて添削しようと思ったところ、自分が天地がひっくり返っても書けないような素晴らしい論告であったので、「すいませんでした」と頭を下げたほどである。
 法律家の能力は、頭の良さだけではなく、押しが利くとか、声が通るとか、とっさの機転とか危機回避能力とか様々な要素で決定されると思っているので(負け惜しみではない。けっしてけっして)、それだけで法律家としてやっていける訳ではないが、頭のよいことは素晴らしいことである。私などより頭のいい人はこの世にあまたいるであろうが、身近ではS井がだんとつである。

 話が逸れたが、冬場は寝相が悪いと困る。
 明け方に寒さで目が覚めるのである。
 私の場合、布団はかろうじてかぶっているのだが、毛布がどこかに飛んでいってしまっている。この明け方の寒さで目が覚めた時に、1回起き上がって毛布を綺麗にかけ直して寝直すか、それともこのまま目覚ましがなるまで寒さに耐えて眠るかで苦渋の選択を迫られるのである。
 あまりに寝相が悪いので、着たまま眠ることが出来る着ぐるみのような毛布(というかフリース)を買ったのだが、これはこれで寝ている時に自由に動き回れないので、からみついて目が覚めるのでお蔵入りとなった。
 寝間着をやまほど着て寝るという選択肢も肩が凝る。
 最近は、サッカーのベンチコート(長い目のコート)を布団の上からかけている。これはダウンコートなので軽い。毛布が飛んでも上にダウンコートがかかっているのと、上のダウンコートであれば引き寄せるのが簡単でもあり、暖かいので、ようやく明け方に目覚めなくなった。
 羽毛布団を買えばいいという話しもあるが、今かけている布団は防ダニ布団で非常に高かったので(私はダニアレルギーなのである)、今の布団をお蔵入りさせる訳にもいかない。
 そういう訳で、スポーツショップのバーゲンで1万1000円で買ったにもかかわらず、このベンチコートは、サッカーの時のコート、布団の上にかける、自宅で本を読む時に足にかけるなど大活躍のベンチコートとなっているのである。

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2008年2月21日 (木)

新聞に掲載

 ふなままさんコメントありがとうございます。あまりにも大きく出ていた(しかもほとんどトップ記事扱い)ので自分でも驚きました。

 京都新聞の平成20年2月20日の朝刊に先日被疑者国選の関係で講演した内容が写真とともに掲載された。自分では全く知らず、知り合いの不動産業者からの電話で知ったが、あまりに大きく掲載されると恥ずかしい。

 何回かテレビに出たり(ニュースや報道番組)や新聞に掲載されたことはあるが、本人としては非常に恥ずかしいものである。ただ、見てくれた依頼者や関係者は喜んでくれる。

 初めてテレビ取材を受けてBS衛星放送に出た時は、カメラを向けられたらこちこちになり話が出来なかったが、最近は何とか緊張しながらも話をすることが出来るようになった。
 講演などをしているときも、昔はカメラでぱちぱちとやられると緊張したが、最近はふてぶてしくなって緊張はしない。

 講演の内容は講演前は忙しくて、レジュメは作成したものの、具体的な講演内容は現場について15分程度で考えて、あとは進行次第で現場で答えるというものであったので、よけいに新聞に掲載されると恥ずかしい。

 来春からは被疑者国選対象事件が飛躍的に拡大されるが、それに対応できる態勢を整えることは多くの弁護士会にとって課題である。事務局長という事務方のトップとして、あと何年かはこの課題に取り組まなければならないと思っている今日このごろである。

 ※犯罪被害支援も事件として引き受けているので、犯罪被害者支援を忘れた訳ではありません。

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2008年2月20日 (水)

青山テルマ

 最近爆発的ヒットを飛ばしている青山テルマの「そばにいるよ」を少し前にCDで買った。今朝は「目覚ましテレビ」にも出ていた。売れる理由がわかる。ネットなどでは陳腐な詩だとか、こんなのが売れるから日本はだめなんだとかの書き込みもあるようだが、それならそうした人達がこうした歌を書けるかというと、おそらく不可能だろう。私もそのような才能は楽器すらひけないので当然ない。私の中では、古内東子以来のお気に入りの歌声である。

 よく洋楽と比較してうんちくをいう人もいるが、私は洋楽はほとんど聴かないから洋楽と比べられてもわからない。別に音楽は好きなものを好きな時に聞くということでよいと思うのである。

 事務所ではクラッシックをかけているが、クラッシックに特に造詣が深いわけでもない。事務所で日中かけるには、クラッシックがいいだろうと思ってかけているだけである。ただ、クラッシックはきらいではない。ちなみに、あまり曲数を知らないが、聞いた曲の中でもっとも好きなのはベートーベンの「田園」である。

 ところで、司馬遼太郎の「関ヶ原」を今朝の通勤電車で読み終えたのだが、関ヶ原の激闘場面で潔く散っていく西軍の武将の死に様を見て涙が出てきて中々読み進められなかった。いくつか心に響いた挿話があったので、どこかでまた書きたいが、今は読後感にひたりたいので少し先になるだろう。司馬遼太郎の「国盗り物語」「新史太閤記」「覇王の家」「関ヶ原」「城塞」は戦国時代好きであれば(私は単に歴史小説を趣味だけで読んでいる訳でもないのだが)、読まずには死ねない作品群である(もちろんこれだけではなく、池波正太郎、隆慶一郎、津本陽作品にも読まずに死ねない作品は多々ある)。

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2008年2月19日 (火)

弁護士と勝訴率

 先日、3連勝と書いたが、4連勝はならなかった。訴訟であるので、勝訴・敗訴はつきものであるが、負けるとやはり嫌なものである。

 弁護士の質について、「勝訴率」ではかればどうかという議論が規制改革会議でされたことがあるようであるが、少し前であれば、貸金業者の代理人をしていれば欠席判決ばかりで勝訴ばかりであったろうし(最近は過払いばかりで逆に逆転)、利息制限法以下で貸し出している金融機関(銀行など)の代理人は勝訴ばかりであろうから、これまた勝訴ばかりであり、勝訴率などというのはアテにならない。

 私のように一般民事を中心にして、特にこれという顧問もなく事務所をしていると、勝訴・敗訴は事件の筋や依頼者によるので、そもそも勝訴率ということで質をいわれると困るところがある。争点があり、微妙な事件で主張立証の工夫で勝訴したという事件の勝訴率でなければ意味がないが、私の3連勝のうち、2件はそうした事件であったが、1件は争点こそあるが、勝訴がみえみえの事件であった。
 したがって、弁護士の質を考える上で勝訴率を持ち込もうとすると事件の内容に踏み込まざるを得ないが、それは守秘義務や調査の観点から不可能であろう。
 ただし、これも私の主観が入っているので客観的にみれば3件とも難しい事件であったかもしれないし、3件とも簡単な事件であったかもしれない。

 法律家の質ということがいわれているが、質とは何かというのは永遠の問いのようにもも思われる。ただし、最近新人の弁護士でいくら新人でも「ハア?」という弁護士がいることも事実ではあるが…。

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2008年2月18日 (月)

クレサラ合宿

 この土日は弁護士会企画のクレジット・サラ金合宿だった。

 過払い金返還請求事件については、いくつかの最高裁判例が出ていて、私もその都度最高裁のホームページから取って読んでいるが、体系的な検討は出来ていなかったので、この合宿での検討会は楽しみにしていたが、非常に勉強になった。

 弁護士も、不勉強な弁護士と勉強している弁護士とでは物凄い差が出ると思うが、過払い金返還請求事件についてもそれはいえるだろう。

 私も講師として、節電器被害京都弁護団(今は活動終了)と、電話リース被害京都弁護団の活動とリース問題における特定商取引法の適用の可否について話をした。

 金曜日の夕方も被疑者国選の状況について講演をしたので2日続けての講師である。弁護士会内の講師は気が楽だが、市民の方が来られる講演はやはり気を遣うので疲れる。特に、金曜日はあまり事前準備もなしにいったので、現場で講演内容を考えていたのでよけい疲れたのであろう(私は割合ぶっつけ本番で大丈夫な人なのである。ただし、主観的に大丈夫ということで聞いている人がどれだけ感銘を受けてくれたかは別だが…)。

 先週は4日間しかなかったが、結局合宿があったのでいつもよりも疲れている月曜日であるが、気をとりなおして仕事をしないといけないと思うのである。

 

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2008年2月17日 (日)

読書日記

 最近読んだ本。

 ケルアック「オン・ザ・ロード」。世界文学全集というのが発刊されるということで、その第一巻目ということで購入。「ロード」という言葉は日本語に訳しにくい言葉ということで、動的なものを含んでいるということだ。非常にテンポよく進む物語だが、ケルアックは書き進めるのに非常な時間を要したということである。ディーンは何の象徴なのだろうか。何を仮託された人物なのだろうか。エンディングのディーンのその後を考えると、そうした種別の人間がもつ末路の哀れさが浮かび上がる。名作といわれることがわかる。

 AYA「愛しのサザビー」。サザビーは機動戦士ガンダム「逆襲のシャア」でシャアが最後に乗ったモビルスーツの名前であるが、この話とは全く関係がない。サザビーとは犬(パピヨン)の名前である。肺ガンに冒された作者が、死ぬ直前まで愛犬の為にブログを書き続けたということで、話題になっていたので買った。作者は既に死んでいない。作者は、死を前にして、どのような心境だったのだろう。真に書きたいもっと他の生の感情もあったのではないだろうか。故・池波正太郎は、人間は死に向かって生きていることだけが唯一の真理だと言っていたが、死をどのように迎えるかというのは、こういう本を読むと考えざるを得ない。

 今は、司馬遼太郎の「関ヶ原」を読んでいるのだが、上中下巻の三巻なので中々終わらない。これを読んでまた書きたいことも出てきた。本は人生で得られる経験を補充してくれるのでよい。本だけでもまたいけないし、実地の経験と本が合わさればさらに深みが増すだろう。私には全く深みはないが…。

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2008年2月15日 (金)

記録の保管

 弁護士をしていると、事件記録が溜まってくる。

 成り立ての頃、破産事件で提出する預金通帳とかの現物を記録に挟んでおいて、事件が終わって少し経ってから返そうとすると依頼者に連絡がつかなくなって返せなくなったことがあったので、一時期からは申立と同時に原本などは返却することにした。基本的に申立てた後必要となることはあまりないからである。これで、少しは記録保管庫が空くようになった。

 他の弁護士に聞いてみると、「事件が終わったら記録はみんな依頼者に返すから保管の必要がない」という人もいた。弁護士は事件終了から3年間は記録保管義務が法律であるので、それに抵触するのではないかとも思うが、依頼者が了解すればそれでよいということなのであろうか。文献で別に調べたわけでもないので、これは疑問である。

 私は基本的に一般事件は5年ほどは置いてある。過去にやった事件の資料を参考にしたいこともままある。破産などの多重債務事件ではそれほど過去の記録を見ることはないので、3年の保管義務が経過したら、債権者一覧表と破産決定、免責決定、債務整理であれば合意書と送金の控えを専用のファイルに綴じてもらい、あとは委托してシュレッダーにかける。これでだいぶ保管スペースが空くが、勤務弁護士が来てくれることになると、20坪の事務所ではどうしようもないので、保管スペースを借りた。他の弁護士も1人では借りづらいというので、一つのスペース(30坪ほど)をシェアして借りて、私は10坪ほど借りている。これで随分事務所が広くなった。

 最近は判例検索システムがあり、私の事務所でもこれを導入しているので、普段は判例雑誌をさほど使わなくなった。そのため、判例時報(ほぼ全冊揃っている)と判例タイムズ(1000号以下がある)は保管スペースに移動した。必要な時だけ事務員に取りに行ってもらうが、多くの裁判は法律的な評価よりは事実認定で勝負が決まるので、判例を調査しなければならない事件はそれほど多い訳ではない。

 古い版の本も、「古い時代の事件の依頼があった時必要になるかもしれない」と思うと中々捨てられず、同じ本で版の違う物が何冊か事務所にあったが、保管スペースのおかげで古い本はそちらに置いておくことが出来るようになった。捨てたらいいという説もあるが。

 また、事件で必要であった為に購入した資料(DVDやスノーボードの本など)も「また同種事件があったら必要になるかも」と思うと捨てられず場所を塞いでいたのであるが、これらも保管スペースに持っていくことが出来た。

 大きい事務所に移転するには毎月の経費もかかるのと、今のところ20坪で何とかなっているのと、今の事務所の場所を気に入っているので、夢想はするのだが中々そこまでは思い切れない私なのである。

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2008年2月14日 (木)

バレンタイン

 今日はバレンタインデーである。

 学生自体もてなかった私は、バレンタインデーが嫌いであった。

 今は、たくさん義理チョコがもらえるので、大変ありがたい。
   私はチョコをもらうと素直に嬉しいタイプなので、素直に喜んでいる。

 ネクタイと手袋もいただいた。大変嬉しい。

 ほくほく。

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2008年2月13日 (水)

訴訟3連勝中に訂正など

 先日、訴訟で2連勝と書いたが、年末にも勝訴していたことを忘れていたので(これは勝訴するのがあたりまえだったから忘れていた。ただし、争いはある事件であった)、訴訟3連勝中に訂正する。どうでもいいって?

 1件は控訴されずに確定したが、あと2件は控訴されている。控訴されると、裁判がまた続いてしまうことになる。勝訴した依頼者本人にとっても経済的負担が若干増える。私の大阪高裁までの交通費と控訴審で追加費用を貰うことにしているからである(ただし、最低限の着手金である)。

 ところで、耳が痛いのはだいぶましになったが、まだ少し痛い。昨日N村T雄弁護士の声を酒を飲みながら聞いたせいもあるかもしれない。

 N村弁護士とは、「被疑者国選を成功させなければ、弁護士が「司法試験合格者3000人は多すぎる」と言ってみても弁護士の中では議論が通るだろうけれど、世の中には通用しないし、既得権論者だといわれるのがおちなところがある。」などという話をしていた。

 私も個人的には合格者3000人には反対であるが、それを浸透させるには弁護士側も努力が必要だろうし、検察官・裁判官がなぜ増えないのかというところにもマスコミが斬り込んで欲しいとも思うのである(財務省が司法予算をつけてくれないからなのだが)。

 とりあえず、頑張って仕事をするしか方法がないと思うのである。
 

 

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2008年2月12日 (火)

 雪が降ると、首都圏は機能停止するようだし、けが人も出る。雪道に慣れていないから転倒するようである。

 私は札幌修習だったので、札幌の根雪を経験しているので、雪道は大丈夫な方だが、最近は雪もそれほど降らないので時に先日のように降ると歩くのは慎重になる。
 札幌では道がスタッドレスタイヤにより磨かれて横断報道上の白いところが非常に滑りやすくなる。そのため、雪靴というのが売っている。
 私も当時購入したが、ビジネスシューズの底がスタッドレス仕様なのである。この靴を履いていたおかげで、滑らなかったのもあるが、こちらではそのような雪仕様の靴は売っていないので、雪の時に仕事に履いていく靴に困る。
 今は冬の雪の日や雨の日は足首まであるブーツ(あまり見てくれはよくないが)を履いている。

 また、先日の雪で雪かきをしたが、雪かきは重労働である。雪国のお年寄りで屋根に登ってやらないといけないのは本当に重労働だと思う。そういう苦労を毎年はねのけないといけないとすれば、粘り強い性格にもなるだろう。

 戦国時代に、越後兵や甲斐の兵1人に対して、尾張兵3人でようやく相手になるといわれたのもわからないではない。東海道側は気候が温暖であり、兵の気質でいえば越後兵や甲斐の兵にはかなわなかったであろう。

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2008年2月11日 (月)

セールスの電話・訪問

 私は月曜日から金曜日まで事務所にいる間は基本的に仕事モードで気を抜かない方なので(と自分では思っている)、休日は昼寝をして英気を養っていることが多い。仕事を持ち帰ることもあるが、十分休養してから仕事をする。土日に出勤することもままあるが、そういう時は基本的にたまった仕事をどうしても処理しきれない時であり、来客も入れないことに決めている。そうでないと体が保たないのである。

 ところが、休みの日に人が昼寝をしているのに、電話がかかってくる。出ない訳にもいかないので出るとセールスだったりする。事務所だとセールスは相手が話をしている間に切ってしまう。野口悠紀夫氏の超整理法にもあるように、電話は基本的に失礼な連絡方法であり、相手の都合を顧みないからである。仕事中なら仕事の電話なので、仕事場にかけてくるということ自体は当然である部分もあるが(ただし、自分の方の連絡事項を電話でしてくる相手方弁護士は基本的に嫌いなのは過去このブログで述べた。FAXすべきである)、休日となるとこちらは休んでいることが分かっていてかけてくるのであるから、怒りは倍増である。そんなセールスでうまく行く訳がない。

 セールス訪問も同じである。
 特に、宗教の布教活動に来られる人(その人はその宗教を信じているのであるからそれについてはとやかく言わないが)に言っておきたいが、訪問して布教したからといって、まず受け入れてもらえないと思うし、かえって反感を買うと思う。少なくとも私は無宗教だし(無神論者とまではいえないかもしれないが。多くの日本人同様、都合のよいときだけ信心深くなるタイプだといえる)、特定の宗教の布教活動を聞く気は全くない。
 これは私が聞くつもりがないということであり、宗教を信じている方々に対して何ら含むところはない。しかし、聞く気がない人は(特に昼寝をしている私は)放っておいてもらいたいのである。

 怒怒怒。

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2008年2月10日 (日)

信玄上洛2

 武田信玄は上洛する意図があったのか?
 後編である。

 最初に答えを(あくまで私見だが)書くと、答えは「否」である。
 

 最大の論拠は武田軍では兵農分離が進んでおらず、農閑期にしか兵を動かすことが出来なかったという点である。
 この時期、兵農分離が出来ていた軍隊は織田信長軍しかない。これは織田信長の圧倒的な経済力によって傭兵軍団を雇えていたから実現したものだといわれている(そのため、忠誠心がなく、信長が本能寺で死ぬと、四国に渡海予定だった織田信孝軍は瓦解している)。
 信玄は基本的に大がかりな軍事行動は農閑期にしか行えないのである。信長のように、常時兵を動かすことは出来ない。農繁期に兵を動かせば、それはその年度収穫が大幅に減少するということであり、手作業に頼っていた農業期に軍事行動を起こすということは、国の根幹を揺るがす事態であったのである。
 信長の領国を農閑期に全て制圧し、京に旗を立てることは(長期的にはともかく)、元亀遠征のこの時期だけには不可能である。
 威力偵察に過ぎなかったという説もこの点を論拠にしているのではなかろうかという気もするが、威力偵察にしては軍事行動が3方面に行っているので、信長の勢力圏を大幅に削る意図はあったものと思われる。しかも、それは、越前の朝倉氏などとの共同作戦だった。多方面から進行することで、信長の勢力圏を削り取り、信長の名を地に落として、今後の作戦展開をさらに有利にすることが目的であったと私は考えている。足利義昭としては、京まで信玄が来てくれることを望み、信玄もこの意向に沿う回答はしていたであろうが、前述の理由で現実的には京までの遠征軍は困難であったと思われる。

 朝倉、浅井、武田、本願寺の共同作戦により信長が動けなければ、徳川家康も武田に服従せざるを得ない場面も出てきたであろう。
  しかし、信長は、家康に、「浜松城から動くな」と命令(ある時期からは家康は従属的同盟者になっている)していたことも、信長としては、「武田は農繁期になれば兵を引かざるを得ないから、その間持久戦で持ちこたえれば、勝機はある」と考えていたことの裏付けと考えている。
 ただ、家康は時に正気を失うので(本能寺の変を聞いた時にも、本能寺に行って腹を切ると家臣に言ってうろたえている。伊賀越えの時にも1人で太刀を抜いて地侍の集団に切り込もうとしたり、関ヶ原の戦いの直前にも刀を抜いて使い番に斬りかかろうとしている)、浜松城から野戦をしかけて、大敗を喫するのである(三方原の戦い)。
 しかし、後年、自らの領国に信玄が来たときにも戦いをし向けたということで、敗北したにもかかわらず、戦いをしかけたことで家康の評価は上がったのであるから、家康なりの計算があったのかもしれない。

 信玄は元亀遠征途上、体調を壊し(鉄砲で狙撃されたという説もある)、駒場で死ぬのだが、謙信といい、信玄といい、信長にとってあまりにもいいタイミングで戦国のこの両雄が死ぬのだから、信長がいかに「ついて」いたかがわかる。
 そこに信長の配下の忍者に凄腕の暗殺者がいたと仮定すれば時代小説がかけるだろうが、寡聞にしてそのような作品は知らない。

 信玄については、私のファンである謙信のライバルということもあり、またいずれあらためて書きたいとも考えている。
 なお、私は歴史家でもなく、単なる戦国時代好な弁護士に過ぎないので、学問上どうだこうだとかいうのはどうか言わないで欲しい。あくまでこれは私が読んだ作品や史料などから考えている私の「私見」であるので。

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2008年2月 7日 (木)

信玄上洛その1

 甲斐の寅虎武田信玄は戦国時代の伝説的戦国大名である。戦国時代の最強武将上杉謙信が隣国にいなければより領土を拡大できたであろうことは想像に難くない。

 ただし、信玄が天下を狙っていたかどうかというと、この点は論者によってまちまちである。
 よく戦国時代を語るときに、戦国時代の群雄は全て天下に号令することを望んでいたなどという紹介がされることもあるが、事実はそうではなかろう(作家の井沢元彦氏も逆説の日本史でそのように述べられているし、私もそう考えている)。関東の後北条氏においては、関東独立国家のようなものを打ち立てることを目標にしていたであろうし、上杉謙信に至っては足利幕府を再興(謙信が存命中は倒幕はされていないので、全盛時の状態に戻すという程度の意味だが)することを目標にしていたと思われる。
 行動の初期より明確に天下を取ろうとしていた戦国大名はただひとりであり、それは織田信長である。
 桶狭間の戦いで今川義元を破った後、信長が通常取るべき行動は三河の併呑である。しかし、信長は敢えて松平元康(後の徳川家康)と攻守同盟を結び、より強大な美濃を併呑を画策した。

 ところが、信玄は行動を見ていると、天下を狙っていた形跡は伺えない。信玄が父信虎を追放してクーデターを起こして家督を嗣いだ時点で、甲斐は痩せた土地であり、南ないしは関東平野を攻略してそちらに伸びていくということは難しい状態であった。南には今川義元が、関東平野には北條氏康がいたからである。
 甲斐だけでは領民を食べさせていくことは出来ないし、甲斐には飢饉がたびたび起こったようであるから、土地が肥え、しかも群雄が個別に割拠している信濃を攻略に向かったことは初期の行動としては戦国大名としてはやむを得ないだろう。そうしなければ、他の群雄と肩を並べられないからである。

 ここで信玄は失敗を起こすのだが、北へ北へ伸びていった結果、川中島まで侵略して、長尾景虎(後の上杉謙信)を敵に回してしまうのである。いかに正義感の強いといわれた謙信であっても、信玄が越後の国境近い地域までを侵略しなければ、討って出てくることはなかったものと思われる。一説には、越後を併呑して、日本海へ出、海上貿易の利が欲しかったのだとする説もあるが、信玄の諜報網からすれば、それほど謙信がたやすく屈する相手かどうかはわかったはずである。あるいは、破竹の信濃進撃で、信玄も奢っていたのかもしれない。

 ともあれ、信玄は世に稀な領土欲を持たないといわれた義将の謙信と戦うはめになってしまったのである。
 信長が、陰では信玄と謙信をバカにしながらも、信玄と謙信宛の手紙では極めて卑屈にへりくだり、時機到来までは敵に回さないように、回さないようにした策と比較すればその下策であることがわかろうというものである。ただ、当時は南と関東に進撃することが出来なかった為、北に進撃するしかなかったとの擁護意見はありうるところである。

 信玄が信長から贈られた贈り物で漆塗りの器があったため、信長の心底を確かめようと器を削ったところ、何重にも丁寧に塗られた器であったことや、信長のへりくだった手紙を見て、「信長は信頼すべき武将だ」ところりと騙されているところも信長の方が上手である。

 その信玄は今川義元死後、今川との同盟を破棄して駿河に攻め入り支配下に置くのであるが、いよいよ1572年に一般的には信玄の上洛作戦と言われている軍事行動が開始される。
 それでは、この信玄の遠征は上洛を予定したものであったのか?
                                      ~つづく~
 

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2008年2月 5日 (火)

研修の使い方

 弁護士をやっていると、様々な研修案内が来る。私は基本的に人の話を聞くのが嫌いなので(大学を卒業するまで塾に行ったことがなく、独学でやってきた為か)、研修は基本的に嫌いなのだが、それでもやはりためになる研修はある。だから出来るだけ絞って研修に行くようにしている。

 そう、研修は闇雲に出ても全く身にはならないと思うのである。

 まず、全く何も知らない状態で研修に行く。そこで、「こんな分野の事件はこうするのか」というイメージを学ぶ程度である。
 具体的事件を引き受ける。具体的事件を引き受けると、事件で調べ物をすると非常に身になるので、ここで力がぐっと飛躍する。研修などなしに、いきなり事件を受ける場合もあるだろう。この業界はある程度場数を踏まないとどうしようもないところがあるから、事件の受け控えは避けたい。生の事件こそどんな研修にも勝るのである。
 さらに、ある程度事件でノウハウも身についた時にもう一度研修に行ってみる。そうしたら、自分が知らなかったノウハウや基本的なところが欠落していたことがわかることもある。
 そうした時は、愕然とするが…。

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2008年2月 4日 (月)

過疎地の法律相談

 私は6~7年前から京都府北部で弁護士会が開設している法律相談所の相談員をしている。当時ヤミ金融が跳梁跋扈したが、ヤミ金融の事件を受ける弁護士が不足している(中には相談員の中にはヤミ金融は受けないという弁護士もいたようである)時に、消費者・サラ金被害救済センター委員長であったので、応援のため相談員になり、その後ヤミ金被害が少なくなってからも相談員を続けている。京都府の北部はいわゆる弁護士過疎地域である。

 ところが、最近は相談が減少しまくりである。私が行っている宮津の相談所などはここのところ0件か1件である。交通費と日当をもらうのが申し訳ないとも思うのだが、市役所の無料相談には長蛇の列が出来るとも聞いているので、相談がない訳でもないようである。要は、5250円を支払って相談に来ることはしないが、無料だと行くということなのであろう。ちなみに、私が行っている北部相談も、司法支援センターの相談援助(資力が乏しい人には相談料を国が立て替えて支払ってくれる制度)が大半の人は使えるので、実際は無料と変わらないのだが…。

 弁護士会は伝統的に広報がヘタといわれる。いいものを作っても広報がヘタで人が来なかったりする。私はいつも北部の相談に行くたびに、もう少し広報がなんとかならないものかなあと思うのである。日本弁護士連合会は、各地の地裁支部には法律相談センターを作って欲しいと言っている。しかし、作ってもその後の運営が大赤字では、中小の弁護士会には非常につらいものがある。

 宮津市の相談などは、市の広報に載った時には少し増えるようなので、宮津市の広報を利用できないかなどと何か工夫も出来るように思うのだが、担当部署はそのようなこともしていないようである。

 明後日の相談は少しでも相談者は来てくれるだろうか。

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2008年2月 3日 (日)

異業種交流会

 金曜日は異業種交流会だった。弁護士、税理士、司法書士、社会保険労務士がメンバーで、三ヶ月に一度程度集まって、法律以外の分野から講師を招いて講義を聴いたあと食事に行くというものである。私が発足者となって初めてもう6~7年になるが、無事続いている。メンバーも若手ばかりで、仕事のことを気軽に聞き会えるというメリットがある。時折事件の紹介もある。また、講師が色とりどりであるので、仕事以外の話を聞けて刺激になる。これまでもいろいろな講師に来てもらった。国会議員や柔道の銀メダリスト(直接メールで申し込んだら来てもらえた)、平井堅のヒット作秘話を当時のマネージャーさんから聞いたこともある。東映の剣会の殺陣師の峰蘭太郎さんという役者の方に殺陣師の極意を教えてもらったこともある。皆の人脈で素晴らしい講師陣が来てくれる。

 先週の金曜日は、電話リース弁護団の関係で私に取材をしていただいたご縁で、元MBSのVOICEという夕方のニュース番組で昨年秋までキャスターを務めておられた橋本佐代子さんに来ていただき、キャスター時代の苦労やそのやりがい、報道のあり方ついて語っていただいた。橋本さんが来られるということで、メンバーもいつもより人数が多い。現金なものである。

 内容は守秘義務の問題もあるのでかけないが、質問も多々出て、大変有意義な会合であった。単に集まってだらだらとするのではなく、講師方式が功を奏しているのだと思う。
 益々この異業種交流会が発展することを希望している私なのである。

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