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2008年8月29日 (金)

日本人と香水

 一般に日本人は体臭があまりない民族である。もちろんワキガなどで体臭がある人はいるがそういう人は除く。
 これは一つには、湯船で風呂に入るからである。湯船で風呂につかる習慣が普及しているので、毛穴から老廃物が湯の中に流れ出るので、においも少ないのである。
 シャワーだけで済ませていると、毛穴の老廃物が流れ出ず、においがきつくなる。
 平安時代に貴族が着物にお香をたきしめていたのは、体臭を消すためと、自分のお香によってアイデンティティを確保するためであったと思う。
 

 熱い風呂につかる習慣がないという意味では、欧米人は老廃物が毛穴に詰まりやすく、体臭がきつくなる可能性が高くなる。
 後は食生活の問題もある。肉類をたくさん食べる欧米人は、それだけ体臭が出やすいといえる。
 また、欧米人は日本人よりも腸が短いので、消化をするときに十分消化できず、そのため嫌なにおいが残り体臭となるともいわれている。

 日本人の食生活も欧米化しているといわれているので、体臭がきつくなる可能性はありうるが、腸が長いことと風呂に入る習慣で、体臭は基本的にはそれほどない民族であることにかわりはなかろう。

 余談だが、小麦などには炭水化物以外の栄養素が少ないので、パン食の欧米人はそれ以外の栄養素を補う必要がある。そのため、パン以外に様々な食糧を取らないといけなかったのである。
 米はこれに比べて炭水化物以外にも様々な栄養素が含まれていて、それだけ食べていて居てもそれなりに栄養がまかなえる食糧である。従って、あまり米以外に栄養素を取りすぎると、カロリーの取りすぎということになる。ご飯と肉というのは、カロリー的にはタンパク質の取りすぎということになるのである。メタボの原因である。わかっていてもやめられないのは私も同じであるが。

 さて、香水は欧米で発達したが、その理由は平安貴族と同じであり、体臭を消すためである。におい消しなのである。欧米人がつけているようなきつい香水を日本人がつける必要はないのである。
 電車の中などで、物凄いきつい香水をつけている女性がいるが、これなどは不必要にきつい香水をつけているということになる。もちろん体臭がきついためやむを得ないのかもしれないが。

 何でも欧米のものを取り入れればよくなるというものではない典型例であり、弁護士の制度も、アメリカ式にすれば何でもうまくいくと考えていて、世の中の実情調査をした訳でもない委員を中心に、一部の弁護士などがロースクール構想を持ち出して取り入れられたが、これなどもきつい香水を日本人がふりかけて喜んでいるのとさほどかわりはないような気もする。

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事務所引越

 今日と明日とで本格的な事務所の移転である。
 9月1日からは新事務所で執務することとなる。

 いろいろと届出や変更も必要だが、新事務所は広くなるので、仕事にも今以上に打ち込めるだろう。

 ブログもこれまで通り更新していきたい。

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2008年8月28日 (木)

深みのない男

 私は仕事を離れると深みのない男になる。仕事中はあれこれ考えるのだが、その反動か、仕事以外では全く深みがなくなる。一部では私の深みのなさは有名である。物凄い遠浅の海のように深みがない。

 葉巻を吸い始めたのも雑誌で「葉巻と大人の男のアロマテラピーだ」「週末ヘミングウェイになる」という雑誌の特集を見て(実はヘミングウェイは葉巻を吸わなかったらしいが)、「これだ」と思って吸い始めたら美味しかったという超単純極まりない理由である。
ヘミングウェイが好んでいたパパダイキリをヘミングウェイ気分で調子に乗って飲んで、翌日この世のものとは思えない嫌な汗をかいて大阪高裁に行ったこともある。ラムは私の身体に合わないようである。

 そのほかも、割合単純な理由で靴を選んだりしているが(雑誌で見てこれだと思って値段と相談して買っている。お気に入りはスペインのヤンコというメーカー)、いくら深みのない私でも雑誌そのままのスタイルはさすがに恥ずかしくて出来ない。

 巷ではかちっと決まっているビジネスマンを見るが、おしゃれの基本はどこか一つ外すことらしいし、私もそう思っている。頭もかちっとスタイリングして、手入れをした(時折いるのは手入れした無精)髭をはやして、いつも靴も鞄も決めて、スーツもびしっと着ているというのは、実のところ周囲からすれば極めてうさんくさいようである。
 私もあまりびしっと決めすぎるとうさんくさくなると考えていて、どこか外すようにしている。外しまくりとかいわないでね。

 深みのない私は、最近まで引越するのに、自分の机の周りを自分が片付けなければいけないことに気づいていなかった。仕事が忙しくそんなことを考える暇がなかったのである。事務員たちはそういう深みのない私を見て笑うのである。きいいい。
 私に深みがあると思ってこのブログを読んでいる人は要注意(そんな人はいないといわれるかもしれないが)である。
 ただし、仕事面ではそれなりにいろいろと考えているのであるが(裁判官から見たら足りないところもあるかもしれないが、まあ他人のことはよく見えるものである)。

 今まさに引越の真っ最中で、今日は変なテンションである。

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2008年8月27日 (水)

隣でブツブツ言われると怖い

 電車に乗っていると、隣には見知らぬ人が座ってくることがある。
 通常は何とも思わないが、

1、隣でブツブツ言われると怖い。この人には何か見えているのでは?と考えて、精神疾患を抱えている人ではないかと思ってしまうが、奥の席に座っている時は席を立ちづらい。
 私が何かに見えて、何か危害を加えられたらどうしようかと、せっかくの読書タイムが恐怖タイムとなる。
 今日も隣に座った人がブツブツなにやらつぶやいていて(決して英語などを勉強しているのではない)、怖いなあと思っていた。この話は、精神疾患を抱えた人の人権そのものを否定する話しではなく、素朴な話しとしてい書いていることを注記しておく。

2、臭い人は隣に来て欲しくない。私も過去ニンニク臭かったことがあるので、最近反省しているが、とにかく臭い人はかなわない。ワキガなどで体臭がある人は責めても仕方がないのかもしれないが、呼吸困難になりそうになる。真となりでなくとも臭い人がいるが…。

3、携帯で話しをするヤツも横に座って欲しくない。大変うるさい。読書に集中できないし、そもそも会話は禁止である。あと、メールを打つときに、音がなる設定のまま打っているヤツもいるが、ピコピコうるさいのでマナーモードにすべきである。これも真となりでなくとも腹が立つ。

 電車の中は座ることが出来たり、満員電車でなければそれなりに有意義な時間を過ごせる(多くの時間管理の本に書いてある)。私は行きも帰りも、なるべく座れるか、座れなくともすいている時間の電車(長年の通勤でそれを知っている)に乗るようにしている。
 そうすれば、読書をしたり、手帳を開いたり出来るので、その時間が有効に使えるからである。もちろん疲れている時は仮眠も取れる。
 有効な時間帯を阻害されると腹が立つのである。

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2008年8月26日 (火)

人によって態度を変える

 人によって態度を変えたり、自分の機嫌によって態度を変えたりすることは人間としてもっとも悪いことの一つである(犯罪は除いて)。
 昔、弁護士に成り立ての頃に寿司屋にボスと行った時に、まだ若手弁護士ということで寿司屋の大将に偉そうにされたことがあった。別にこちらは偉そうにする気もないのに、こういうのは嬉しくないことである。どうもその店は当時かなり繁盛していたらしい。

 その寿司屋は嫌いで、2度といくまいと思っていたが、ある時にN村T雄弁護士とその寿司屋に行こうという話になり、行ったところ、ネタはあまりないし、大将も妙に人なつっこくなっていた。後から聞くと、かなり経営が傾いてきていたということであった。私にも妙に愛想をふりまくのである。
 もちろん商売であるし、愛想を振りまくのはよいが、以前繁盛していた時とあまりにも違う態度に私は逆にむかっと来て、それからその店は2度と行っていない。
 自分が良いときには人に偉そうにして、状況が悪くなったからといって態度を変えるのは好ましくない。

 三国志の中で関羽は、ことあるごとに上の人間に楯突いたが、下の人間には極めて愛情をもって接した。これなども人によって態度を変えるパターンである。
 組織の中ではこれでは困るであろう。現に諸葛孔明から五虎大将軍に任ぜられた時、「張飛・超雲はいざ知らず、馬超や黄忠のような輩と同列になれるか」と受けようとしなかった時、使者は関羽を叱っている。
 逆に張飛は上に立つ人間には良い顔をしたが、下の人間にはつらく当たったので、最後は部下に寝ているところを首を斬られて死んでいるのである。
 劉備玄徳も、諸葛孔明と並んだ知謀と恐れられた鳳統が仕官してきた時、風体がみすぼらしい為地方の小さい役人に任じている(このとき劉備は赤壁の戦いで曹操を破り荊州の南四郡を得て得意の時にあった)が、後に諸葛孔明から指摘されて慌てて呼び戻している。

 機嫌が悪いときは態度を変える人は、自分以外の人間には感情がないとでも思っているのであろう。しかし、そういう態度を取られた方は面白いはずがないから、そういう人の周囲には人が集まらない。その意味で、そういう人は人生の終わりを全う出来ないかもしれない。

 そうしたことのないよう日々自省しなければならないと思いながら、私も人間であるからそうなっているかもしれない。また、周囲でそういう人を見るにつけ注意をしたいが本人には自覚がないかもしれないし、「相手とか機嫌によって態度を変えたりするのは最悪だよ」とはいうのは難しい。
 

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2008年8月25日 (月)

読書日記8月25日

司馬遼太郎「馬上少年過ぐ」。短編集。
奥州の覇王、伊達政宗を描いた表題作もよいが、私は医師から家老まで上り詰めて、その後失脚した「重庵転々」が秀逸であると思う。
それぞれの人にはそれぞれの立場があり、栄達したからといってないがしろにすると、いかにそれが国家全体から見て正しかったとしても、しっぺ返しを喰らうということである。

司馬遼太郎「人間について」。文春文庫の対話選集の7巻。随所に司馬の人間や歴史に対する考え方が出てきて興味深かった。そして、対話しているのは下手をすると私がまだよちよち歩きの頃であったにも関わらず、現代日本が直面している課題を見事に言い当てているところも多々ある。
 プレジデントか何かの雑誌で、経営者がもっとも読んでいるのは司馬遼太郎作品だということが書かれていたが、これも宜なるかなと思われる。

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2008年8月24日 (日)

今日は練習

 今日は午前中は京都法曹サッカー部の練習であった。
 京都法務局と練習試合をしたが、一点差で負けた。
 私もフォワードとして出場したが、まだ腰痛が完全には癒えず、最近夏バテ気味であったためもあり、普段からもの凄い訳でもないが、動きがさらにもうひとつであった。
 いくつか思い通りの動きも出来たが、秋の法曹サッカー大会に向けてまた精進しないといけない。
 サッカーは世界でもっとも人気があるスポーツで、野球がメジャーな日本が実は世界的には例外の方なのである。
 サッカーはボールがあれば1対1という遊びも出来るが、野球ではキャッチボールがせいぜいだし、野球はきちんとやろうとするとグローブなどもいるため、世界の一部の国では装備にお金がかかると普及しないのだろう。オリンピックで野球が外されるというのはそういう背景があるのだろう。
 サッカーはボールが一つあれば、だいたい始められるところがあるから、普及しやすい。
 いつまでやれるか分からないが、私も何とか出来るだけ長く草サッカー選手ではいたいと思っている。シニアリーグとかだと60歳とかの人がやっていたりするので、ああいうのを見ると勇気づけられる。

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2008年8月22日 (金)

人の話の作為

 人間は普通は自分が可愛いものであるから、事実経過を話をするときには、自分に都合が悪いところは話をすり替えたり、すり替えた気もなくそのように話を変容して記憶してしまったりすることがあることはよくいわれている。
 弁護士をしていると、同じ事実を体験しているのに、ここまで180度違う主張になるとは…ということを多々経験する。
 芥川龍之介の「藪の中」は人間のこうした性質を描いた名作であるが、松本清張にも、こうした人間の性質を描いた秀作として「カルネアデスの舟板」(新潮社 張込みに収録)という名作がある。

 ただ、事実に争いがある場合に、明確にいずれかが嘘をついているケースというものもある。たとえば、金銭の貸し借りがあって、借用書を証拠として訴訟提起した場合に、相手方が既に支払ったという主張がされることがある。
 これなどは、借主が支払っていないのに「支払った」と嘘をついているか、現実には支払ってもらっているのに、偶々借用書が残っていたことを奇貨として、貸主が訴訟を出したかのいずれかということになる。ただし、貸主が死亡していたりすると、相続人としてはその間の事情が分からないので、借主に訴訟提起するということはあり得る。
 借主は、そのような主張を封じるためには、振込の控えであるとか、領収書を貸主から徴収しておくべきということになる。

 一方、それぞれが微妙に嘘をついていて、それが為に事実関係が余計に錯綜するというパターンもある。芥川の藪の中などはそうした典型例ではなかろうかと思われるが、作為が入り込む余地をある程度予測しながら話を聞くべきであるということになろう。
 後は認識している事実は同じであるが、それぞれが自らにその事実をいいように評価して争いとなる場合がある。

 認識しているというか主張している事実が異なると当然それぞれの立場で評価するから、事案は大混乱ということになる。
 作為が入り込む余地というのは古今東西どうしようもない。歴史書などはそのとおり受け止めてはいけないというのはそうした作為が入り込む為であろう。

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2008年8月21日 (木)

家老

 江戸時代はそれぞれの大名には家老が居て、「君は一代、家は末代」ということで、藩主が暗愚であったりすると、藩主を「押し込め」て、幕府に訴え出て、新しい藩主を決めるということもしていたようである。もっとも家格の高い家老がその役割を果たしていたとされる。
 忠心から出ている場合、暗愚な君主では藩が潰れるため、これは良い機能を果たすであろう。

 しかし、逆に忠心がなく、自らの権益を守ろうとする場合には、こういう家老は大変困った存在となる。
 すなわち、英邁な君主が出てきて、自分のやりたいような政治をしようとすると、家格に守られて安穏と日々を暮らしている家老たちからすると、実力主義で人材登用をされたり、家老の石高を下げられたりするということは大変困るのである。
 そういう意味では、江戸時代の藩主は多少ぼんやりしている方が家老にとっては安心であったということが出来る。

 幕府の方も江戸時代初期には各地の大名を取りつぶすことに懸命であったが、浪人が数多く出てその対策をしなかったが為に、由井正雪の乱が起こり、その態度を改めている。
 末期養子の制度を取り入れ、本当は大名が死んでいるような場合にも、家老たちがタテマエ上「病気」ということにして、藩主の遺言であるとして跡継ぎを立てたりしたこともあったようである。しかし、藩主が死んでいたり判断能力が落ちているような場合には、家老たちによって都合のいい藩主が立てられることも多かったのではなかろうか。

 最も高い家格の家老は血統によってその地位にいるに過ぎない。江戸時代に各地に大名が封ぜられた時点で、その各藩にとって最も功績が高かった人物を家老としたのであり、先祖の功績によってそれを代々受け継いでいるに過ぎない。
 こうした既得権者が、既得権を侵害される時には抵抗をするという図式は今も昔も変わらないところがあるだろう。

 また、最近経済的に二極化が進んでいるといわれているが、この家老のように、元々財産がある者はそれを利用として安穏と出来、収入が低い人は経済力がないが為に才能があっても浮かび上がれないという状況は、さながら江戸時代のようである。
幕末が来て身分に関係なく昇進する筋道が立てられたが、経済的な二極化はより根本的な問題をはらんでいるように思われる。

 ロースクールに行くにも多額の費用がかかるということであり、それなりの子弟でなければ司法試験を受けることが難しくなっているように思う。お金に苦労せず安穏として育てられたお坊ちゃんお嬢ちゃんが、時には社会の裏の裏まで経験させられる厳しい法律家の世界で対応できるとも思えない。
 最近、ビジネスロイヤー志向が強まっているようであるが、どろどろした事件を引き受けることがお坊ちゃんお嬢ちゃんでは出来ないからという一面もあるように思われる。

 司馬遼太郎は、相続について、オランダの制度を取り入れるように言っていたと司馬の本ではない本で読んだ。オランダでは、不動産は一代限りでしか所有できず、相続の対象とならないということである(正確に確認はしていない)。
 すなわち、親が山ほど不動産を持っていて、親が死んだ後はその賃料収入で安穏と暮らしていくというようなことは出来ないということなのである。
 日本も経済を活性化させたり、能力のあるが経済的な問題で学校に行けないというような人がその力量を発揮できるような抜本的な制度を作らなければ国際社会で生きていけないであろう。
血統だけではだめなのである。

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2008年8月20日 (水)

礼儀

 法律相談に来て、依頼することになると思いますというので、そのままにしていたら、依頼もなくそのままになっている顧客が結構いる。ファイルを作ったものについてはファイルが片付かないので聞いてみることもあるが、「もう解決しました」といったり、「もう結構ですわ」という回答がままある。
 普通であれば「解決しましたので相談料を支払います」とあちらから電話があるものなのだが、のど元過ぎればなんとやらで、連絡して来なかったことを恥じたりもしている様子もない。

 私は一応、紹介者がある事件では相談に来られるようになったことと、依頼者の同意があれば結果を紹介者にも知らせるようにしている。私が他の弁護士に紹介した事件も、私自身どうなったかな…と気にしていたりするが、こちらからは聞きにくい。こういう結果になったと報告があれば、こちらとしても安心する。もちろん依頼者の同意はいるが、これは一つの礼儀であると思っていたりする。

 このごろ司法修習生が「就職先はないか」というので他の地域の弁護士から依頼されて、事務所に訪問してきて、いろいろと情勢を教えてあげることがたまにある。その後はまあせっかく来たのだからと食事くらいにはいく。他にも知り合いのところに就職を紹介することもある。
 今はメールがあるので、事務所訪問に来た後にはメールでだいたいは御礼を言って来る人が多く、礼がないと、なんとなくそれだけでマイナスイメージである。
 また、そのメールの文書を見るとその修習生の力量もだいたいは分かる。
 その後、運良く就職できた場合、だいたいの修習生は、私のおかげではなくとも「先生のおかげでここに就職できました」ということでメールで報告をしてくれる。
 これはひとつの礼儀であろう。
 こうした報告も全くしてこない修習生もたまにいるが、そうした修習生は実務家になってもたいした実務家にはなれないことは間違いがない。
 よい実務家というのは、周囲に対する気配りが必要だからであるし、「あいつは挨拶も出来ないヤツや」ということで弁護士の中での評判を落とすからである。

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2008年8月19日 (火)

限定された社会での権力

 極めて小さい社会で絶対的権力を持つ場合、よほど精神的に鍛えられた人間でなければ腐敗するのではないか。
 少し前であったが、バレエの講師か何かが強制わいせつで告訴されていた。スポーツの指導者が好例であるが、その狭い社会の中で絶対的権力を持つ場合、その精神構造は歪んでくることが多いように思われる。費用を高額に支払っている場合は文句もいえるが、ボランティアだと文句がいいづらくなるというところもある。お金を支払うことには一定の意義もあるのである。事実強制わいせつ行為があったかどうかは当事者しかわからないが、拒否すれば演奏会に出られないとか、学校の教師の場合も成績が下げられたらどうしよう…などとして拒否できないという権力構造を巧みに利用しているのではないかという疑いは拭いきれない。
 そのような狭い社会で権力を有している人間は、広い意味での世間では社会的には抹殺されている人間であったりして、そこで得られないものを小さい社会で転化して得ようとするようにも思われる。

 弁護士も危険であり、1人で事務所をしていると、批判されることが少ない。依頼者の方もよほどのパワーがある人でないと弁護士には文句がいいづらいようである。
 常に自省しなければならないと思いつつ、私も人であるから知らずしらず腐敗しているかもしれない。
 いかんいかん。

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2008年8月18日 (月)

 今朝は喘息の薬を貰いに行く日であった。月に1度薬を貰いにいくのである。
 薬局で薬をもらうためになにげなくテレビを見ていると、「老化によって汗をかかなくなる順序」ということをNHKであったと思うがやっていた。

 それによると、うろ覚えだが、足→お腹→背→腕→頭となるということであった。すなわち、頭からしか汗をかかないようでは老化が進行しているということである。
 そ、そういえば…。
 最近足や腕が汗で濡れることがなくなったような…。
 その割に頭からやたら汗が滴るような…。

 老化が進行すると、身体は冷やそうとするが、汗腺の働きが悪くなっているので、頭から中心に汗を出すそうである。一部からしか汗が出ないようになると体温調節もうまくいかないらしい。

 がああん。ただ暑いからではなく、汗腺が老化して余計暑く感じるとは。

 汗腺をどのようにすれば活性化させられるかを見ようとしていたら順番が来て呼ばれた。
 頭からやたら汗をかくようになったら要注意ということである。
 しくしく。

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2008年8月17日 (日)

事務所移転…

 この8月末を目処に事務所を移転する準備をしている。
  とはいっても同じ二条通りを少し西に行くだけである。

 独立以来6年間過ごしてきた現在の事務所で大家さんから出て行って欲しいといわれるまでは居ようと考えていたのだが、勤務弁護士が入り、さすがに手狭になってきた為である。
 事務所移転には正直お金(経費で落ちるものと、現金は出て行くのに経費ではなく資産計上されるだけで経費にならないものがあり、経費で落ちないのはつらい)がかかるのだが、今の事務所が20坪で、これ以上物も置けないし、今後の拡張も出来ないのでもの凄く悩んだが移転を決めたのである。

 新しい事務所は30坪で、事務所以外に私は10坪の倉庫スペースを近くに借りているので、相当広くなるのだが、いろいろと来客スペースを広げたりしていると、もの凄く拡張できるようでもなくなってしまった。40~60坪くらいの事務所に移転すればレイアウトの悩みもないのだが、ランニングコストがかかりすぎるので、私1人で賃料を支払うのはつらいのである。
 現在の事務所の来客室は事務員がお茶を持って入る時に、ドアがよくお客さんの座っている椅子の脚に「カーン」と当たっていて、それがストレスとなっていたのだが、そのストレスからは解放である。また、第2来客スペースが現在の事務所は狭かったのであるが、新事務所では現在メインスペースで使用している机が第2スペースに入るほど広くなる。

 旧事務所はエレベータがなかったのであるが、新しい事務所は5階でエレベータもある。
 
 ただし、広くなるので賃料も増える。経費が増えるのである。
 弁護士は基本的に自由業なので、何もしなくても、収入がなくとも、事務所の賃料、電気代、電話代、事務員や勤務弁護士の給与、弁護士会費等々の経費がかかってしまう。
 私自身経営弁護士としてやってきているが、冷静に考えるととても恐ろしい。
 俗に雇用されている場合には、自分の給与の最低二倍、普通は三倍の利益を勤務先にもたらさなければ給料泥棒といわれるが、経営側からすると他の経費もかかるので、それくらいは利益をあげてもらわないと割があわないということなのであろう。
 私は勤務弁護士自体、最高で自分の給与の20倍くらいの売上を上げていたことがあるが、ボスは気づいていたのか気づかなかったのか給与は微増しただけであった(別に恨んでいる訳ではないが。ボスはボスで当時弁護士会長を控えてお金が必要だったようであったので。)。

 私自身今回の移転に伴い、特段収入が増えるアテもないのであるが、きっときっと勤務弁護士のKが莫大な売上を上げてくれるはずであると考えている(半分本気)。
 その意味では楽天的な移転であろうか。

 ただし、移転に伴い何かと取り決めることもあり、それなりに忙しい。
 

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2008年8月16日 (土)

読書日記8月16日

「街道を行く 7 」司馬遼太郎。朝日文庫。甲賀のみちと伊賀のみち、砂鉄のみちなどが収録されている。司馬の歴史に対する知識はどれだけのものがあるのか、想像がつかない。昔高取城跡を見に行った記憶があるが、高取藩を題材にした「おお、大砲」の現地も歩いておられる。

「逆説の日本史 15」井沢元彦。大ヒットしている逆説の日本史シリーズの最新刊。私は全巻持っているのだが、井沢元彦の歴史に対する推理力には感嘆する。海音寺の推察が随所に引用されて出てくるが、海音寺の歴史に対する洞察の凄さをあらわすものであろう。徳川吉宗が経済政策的にはバカ殿であって、その他の改革も全て失敗していることを論証している。ただ、井沢氏は同じことを(伝えたいがためであろうが)、全巻を通じて何回も何回も繰り返している箇所が多すぎて、そこを省略すればもっと薄い本になるであろう。

「科学者の9割は地球温暖化CO2犯人説はウソだと知っている」宝島新書。丸山茂徳。
表題に惹かれて購入。この本によると、データからは地球は温暖化するどころか、いつ寒冷化が始まってもおかしくない状況だということである。中盤以降は世界国家を樹立すべしだというやや怪しい議論が展開され、最後は日本が今後こうあるべきであるということが書かれているので、表題のことが書かれているのは半分くらいである。そのあたりが科学書なのか政治書なのか極めて中途半端に終わってしまったとしかいいようがない。
 前半のデータを見て、地球温暖化が何によるのかを分析しているところだけ読めばいいだろう。

「戦国の忍び」司馬遼太郎。PHP。司馬の忍びの短編を集めた作品。司馬の作品は人間に対する観察力に満ちていて、どの作品も勉強になる。
 個人的には、服部半蔵の後を継いだ息子が伊賀同心に反逆されて失脚する一連の事件を描いた「最後の伊賀者」が秀逸だと思う。

 お盆休みは読書とオリンピックである。

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2008年8月15日 (金)

実刑と執行猶予の間

 先日国選刑事弁護事件で、検察官から、「実刑にして刑務所に送るべきだ」という論告をされた事案があった。確かに犯行は悪質であるが、私はいくつかの被告人にとってよい情状を述べて執行猶予にしてもらうように述べた。
 一般的には実刑となっても全然おかしくない事案であったし、検察官が「実刑にすべき」というと、裁判官もやはりその意見を尊重する傾向にあるので、執行猶予は難しいかな…と思っていた。元検察官の同期に聞いたら、「ほぼ100パーセントに近い割合で実刑にされるわ」といわれた。

 しかし、判決は執行猶予であった。私があげた情状の中のどれかを裁判官が酌んでくれたのか、そうでないかはわからないが、検察官からも控訴もされず、被告人は無事社会内で更生する機会を与えられることになる。

 実務では、実刑(刑務所に入らないといけない)と、執行猶予(だいたい3~5年間刑の執行を猶予されて、その間に他の犯罪ほ犯したりしなければ、刑の言い渡しの効果がなくなるというもの。有罪には違いないが、社会内にとどまれる)とが微妙な事案がある。
 担当検察官が事件をどう見ているかによっても変わるであろうし、担当裁判官によっても変わるであろう。そのため、「あの裁判官は量刑はきついかどうか」などという情報収集も重要であったりする。
 本来は一律同じでないといけないのだが、全く同じ内容の事件はないので量刑というのは難しいところもある。
 昔、責任能力に問題がなければほぼ実刑という類型の犯罪(現住建造物放火)を弁護した時には、相弁護人となし得る限りの情状弁護をした結果、量刑相場とは異なり、執行猶予を貰えたこともあるので、このあたりはよくわからない。被告人にとって、実刑と猶予との間はぎりぎりであってももの凄い差がある処遇となる。

 盆とか正月が近づくと、盆ないしは正月は自宅で迎えたいということを被告人から言われたが、法的に実刑しかない事件で、そのことを切々と説明したりしたことなども思い出すのである。

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2008年8月14日 (木)

お盆

 お盆ということで、暇になるかといえば最近はそうでもない。私自身は休みをとっているが事務所は毎年開けてある。何の連絡が入るか分からないからである。だいたい、裁判所も半分は夏休みを前半に取るのでお盆も開いている。そのため、裁判所からは普通に連絡が入る。
 また、お盆はどこに行くのも高いので、私の事務所は夏の期間全体を通じてある程度好きなところで5日間夏休みを取れるようにしている。

 年末年始もそうであったが、だんだん季節感がなくなってきたというか、この時期だから相当暇というようなことでもなくなってきた。
 社会全般的にそうなのか、法律家の世界だけがそうなのかはわからないが。

 話は変わるが、先ほどテレビを見ていると、北島がぶっちぎりで200メートルの金メダルを獲った。獲物を見据えるような鋭い目。肉体もそうだが、相当に精神が強いのであろう。
 日本人は人口的にも肉体的にも他の国と比べて劣るものがあるが、それを補うものを伝統的に持っているということであろう。
 以前、津本陽の「名をこそ惜しめ」という硫黄島の戦いの記録を紹介したが、日本人は追い込まれた時に底力がある国民である。日本人であることを恥じたり、国をバカにする人もいるようだし、確かに日本の政治はバカきわまりないともいえるが、国を愛することは又別ではなかろうかと思う。別に私は国粋主義者でも何でもないが、日本人であることは誇りに思っている。
 男子サッカーは残念であったが、初戦の米国戦で内田からのクロスをゴール前の選手が押し込めなかったことが全てであろう。
 また、核となる選手がおらず、反町監督はそれを遠藤に委ねるつもりが遠藤の病気のため核不在で臨まなければならなかったことも影響しただろう。
 サッカーの場合、チームには核となる選手がやはり必要である。
 本田圭も全く機能していなかったように思う。
 ここ一番で体調をベストに持っていき、実力を発揮できるというのはやはり強い選手の条件でもあろう。
 体調がよければ…というのはいいわけにならない。
 その意味でも北島はすごい。

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2008年8月13日 (水)

酔っぱらい

 先日帰宅するのに電車で座ると、向かい側のオジサンが酒を飲んでいた。サラリーマンのようで、コンビニで売っている200円くらいの麦焼酎をストレートで飲んでいた。

 次の駅でそのオジサン(紛らわしいので、これを仮にオジサンAとする)の隣にまた別のオジサン(仮にこれをオジサンBとする)が座ると、オジサンAは隣に座ったオジサンBが気に入らないようで、舌打ちをしているのである。オジサンBは、イヤホンで何かを聞いている為、その舌打ちが耳に入らないようである。
 そうすると、突然、オジサンAは、オジサンBに対し、「あっちへ座れ」と言って、空いている通路を挟んだ反対側の席に座るように命令したのであった。訳が分からないオジサンBは、そっちの席に移動しようとしたのであるが、次の駅に着いたばかりでそこでどどっと人が空いている席に座ったので、オジサンBは結局元の席に座ったのであった。
 オジサンAは、オジサンBに対し、「やめとき」「やめとき」と手でイヤホンを触ったので、オジサンAはそのイヤホンが何か気に入らないのかと思って見るともなく見ていると、オジサンBがイヤホンを外した後も、オジサンAは「やめとき」と言っている。

 何なんだろうかと本を読みながら(司馬遼太郎の「街道を行く」)、また見るともなく見ていると、オジサンAは、オジサンBの開いた足を手の甲でちょっちょっと触って、「大股開くのはやめとき。格好悪い」と言っている。
 オジサンAは、オジサンBが(オジサンが時々やる)足を左右に大きく開いて座っているのが気にくわなかったのである。

 オジサンAは、「そんな足を開くのは格好悪いからやめとき」と言って、そう言われたオジサンBも、「はあ」という感じで笑って後は何事もなかったのであった。
 オジサンAは、おそらく普段はそんなことで指摘するような人ではないのであろうが、酒に酔っていた為気が大きくなっていたのであろう。

 私は、そのオジサンAを見ながら、「きっとこの人は酒で気が大きくなって失敗したことがあるやろうなあ」と思っていた。

 酒で気が大きくなって起こしてしまった犯罪というのは結構多い。私もアルコールの飲み過ぎで、記憶が飛んでしまったことは多々あるので、酒に酔って覚えていないというのは本当によく分かる弁解なのだが、警察や検察官はそれでは許してくれない。「犯行を否認して悪質」などとやられてしまう。
 酒で気が大きくなったとか、普段しないことをしたとかというのは、やはり普段の生活で抑圧されたものがあるからであろう。酒を飲んであまりにも豹変するのは日常生活の裏返しであると私は考えている。酒で気が大きくなったり、荒れた結果、犯行を犯して、翌日は大虎が借りてきた猫のように大人しくなっているというような事件は多々ある。

 どうでもいいことだが、私はそんなことも考えながら、「電車の中で焼酎のストレートを飲むのだって、格好悪いのと違うかな、オジサン」と心の中で思っていたのであった。

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2008年8月12日 (火)

読書日記8月12日

「古代文明と気候大変動」ブライアン・フェイガン。河出文庫。
 表題に釣られて本屋で購入。著者によると、過去様々な要因によって氷河期や温暖期が入れ替わり、そのことによって気候が変動し、干ばつなどにより文明が滅びたものがかなりあるという。文明が発達する前は人口も少なく、災害が発生した時には狩猟できる地域に移動していたが、定住するようになると移動も出来ない(他の民族と衝突する)ことになるため、環境に対する抵抗力は脆弱なものになるという。
 だからといってどういう処方箋がある訳ではないのだが、現在世界で起こっている異常気象も、こうした過去発生した気候変動の一環であるとすると、予想もしない大災害や、大干ばつが発生する可能性がある。
 日本などは食料危機にすぐなるであろう。思わずこの本を読んで、干ばつに強い稲とか、野菜の種を購入しようかと本気で思ってしまった。まあ、そんな時代が来たら、文明などどうしようもないくらい脆弱な存在なので種くらいではどうしようもないのだが…。

 「毎朝1分で人生は変わる」三宅裕之著。コーチングを業としている筆者のメンタルトレーニング法が書かれた本。本屋で表題に釣られて購入。
 中々実戦しづらいことも多々書いてあり、「それがそもそも出来る人ならこんなコーチングいらんわい」と突っ込みどころも多々ある。どうしても人は自分を基準に考えるので、自分に出来ることは他人にも出来ると考えてしまうのであろう。中々ここに書かれているようなことが出来ないから、凡人は悩むのだという観点が抜けているような気がした。もちろん参考となる箇所もあるが。

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2008年8月11日 (月)

相手の書面

 弁護士としての経験がないうちは、相手の書面や証拠が出ると不安になるものである。
  中には、「こんな訴訟はおかしい。うちの主張が当然だ。さっさと解決しよう、判決にしてくれ」などというプレッシャーをかけてくる相手方弁護士もいる。

 しかし、弁護士が作成する書類であるから、相手方に不利なところはうまく逃げていたり、証拠もよく見るとつっこめるところが満載であることもある。
 だいたい、あまりに強気に出てくる弁護士というのは、本当にそう思いこんでいる場合もあるが、自分のところの不利な部分を指摘される前に事件を一気に解決したがっていることも多いものである。虚勢であるともいえる。
 私は、だいたいこういう弁護士のいうことは本気で相手にしないことにしている。

 じっくり検討すれば、いろいろと指摘出来ることもある。そうしたプレッシャーをかけてくる相手方弁護士は、実は相手方弁護士も不安であったりして、その裏返しであったりする。
 従って、あまりにも強硬な弁護士の場合、精査しておかしいところをつっこんでみるとガタガタになったりすることもある。
 もちろんこちらの主張が通らないこともあるが、それは結果的に訴訟でそうなるということである。
 それなりに事実や解釈に争いがあるからこそ紛争になっているのであるから、むやみに不安を持つということもまたあってはならないのである。
 ただし、根拠のない自信を持ちすぎても困るのだが…。

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2008年8月10日 (日)

変な日焼け

 夏の間はプライベートな時間は、だいたいサッカーシャツに短パン、足下はサンダルで過ごす。ここのところはき慣れたサンダルで過ごしていた為、そのサンダルの形に綺麗に足が焼けている。

 私は日焼けしやすい体質で、夏になると海にも行っていないのに、「どこかに出かけられたんですか」と聞かれる。
 しかし、だいたいは歩いているだけで焼けているのとサッカー焼けである。
 アラブの石油王のように黒い。

 私自身はサンダルの形に焼けていることをそれほど気にしていなかったのだが、あるとき、サッカーの練習の為着替えていると、マネージャーが私の足を見てげらげら笑っているのである。サンダルの形にここまで見事に焼けているのが面白かったらしい。
 マネージャーの彼女も暑さでマスカラが溶け落ちるほどの猛暑日に、私の足の日焼けの形は一服の清涼剤のような効果をもたらしたようである。

 私自身は真面目にしているのに、時々こうして(特に女性に)笑われる。あるとき、「天然」だと言われたことがあったのだが、私としてはしごく真面目にしているのに笑われるのが理解出来ない。
 足の日焼けもそんなに面白いかしらん。

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2008年8月 9日 (土)

模擬裁判

 昨日は修習生の模擬裁判であった。修習期間が短縮されたが為に、模擬裁判も選択型修習ということになり、修習生が自由に選択することになっている。
 その選択型修習がない時には、私の事務所で普通の修習をするのである。

 模擬裁判をさせてみると、能力とか性格がわかる。昨日私は午後から過疎地の法律相談担当であったため、午前中少し見ただけであるからそこまではわからないが、何年か見ているとそういうものもわかるようになる。模擬裁判をさせてみると、普段優秀といわれている修習生がメロメロであったり、普段冷静な雰囲気の人がムキになったりしたりするのを見ると、それが本質であるのかなあと思う。我々の頃優秀といわれていた人はやはりとてつもなく優秀で、検察官になっても出世街道をばく進していたりするのだが、最近優秀と他の修習生から言われている修習生にあっても首をかしげることが多い。ロースクールでの成績などでそう思われているのかもしれないが、学校での成績と、実務家で必要とされる能力はまた違うところがあるので、中々このあたりは評価が難しいだろう。

 昨日見ていると、代理人役の声が極めて小さい人がいた。法廷では何も大声を出さないといけないということはないが、通常我々弁護士は依頼者と話をするときも声を張って話をするようにしているし、法廷でも同じである。小さい声は自信がないように見えるから、ある程度はきはきとした声で話をすることが必要であろう。
 語尾が何を言っているか分からない修習生もいる。自分の中では聞くことが完結している為そのようになるのであろうが、尋問は調書に取ってもらい、かつ裁判官にも聞いてもらうものであるから、語尾まではっきり話すべきであろう。
 また、模擬裁判ということで、演出をする為か、余計な説明をしている修習生もいるが、これも不要である。時間が限られているのが通常だから、本論の大事な部分を聞くようにした方がいい。
 多いのは早口である。早いと聞いている方もメモを取れないし、理解出来ない。実際の訴訟では書記官が調書に取るので、あまり早いのはよくないだろう。
 反対尋問では、周辺部分を聞いて、本体に切り込まず終わってしまうというパターンも割合ある。本体に切り込んで返り討ちに遭いたくないというところなのであろうが、紛争になっている以上、本体部分でつっこむことが出来ることは割合あるものである。後は聞き方の問題であろう。

 まあ、人のことはこのように書けても実際の尋問は難しい。証人が舞い上がって打ち合わせしたことと違うことを言い出すこともあるし(事実関係を曲げることは弁護士は出来ないが、物にはいいようというものがある)、相手の方も現場で微妙に陳述書と違うことを言ったりもする。
 講評している他の弁護士の話を聞いていても、「いやいや、あんた俺が相手方の事件でメチャクチャやったやん…」と心の中でつっこみたくなるような弁護士がしたり顔で講評していることもある。
 弁護士にとっても尋問は永遠の課題であるともいえようか。

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2008年8月 8日 (金)

検察官の質

 検察官を定年退官されて弁護士をされている先生と話をしていると、「最近の検察官は質が落ちた」と嘆いておられた。
 昔はよかったというそういう懐古趣味ではなく、「記録を読んでいない」「公判の準備をしていない」「被疑者に怒鳴りまくる」「被告人質問の体をなしておらず、単にいじめているだけ」という検察官が増えたような気はする。

 検察官は微増していて、検察官を少し前にしていた同期と話をしていても、「今の若手検事はかなり楽」ということを言っている。昔は夏休みなんて取れなかったそうだが、今は逆に取るように言われるとのことである。
 まあそれでも激務であることは間違いがなかろう。激務の中で、中々時間がなくて自白が取れないで怒鳴ってしまったり、知らず知らず手を抜くこともあるのかもしれない。ただ、だからといってそれがいいという訳ではない。

 私が札幌修習時代に公判部でお世話になったM検察官という人は、すごくキレる(頭が)人であるとともに、仕事に誠実であった。
 刑事事件では、検察官は証拠関係カードというものを作ってそこに証拠の標目を書くのだが、そこにいつも要旨を鉛筆で書き込んでおられた。
 刑事事件では証拠に対して弁護人が証拠にすることに同意をして証拠採用されると、裁判官が検察官に「要旨の告知」をするように指示するのであるが、多くの検察官は、その場で証拠の表題を読み上げているだけであったりする。
 若手検事もそのようにしている中で、M検事はコツコツと要旨を書き込んでおられたので、当時修習生であった私は、どうしてか聞いたのであった。
 そうすると、M検事は、事件は個別であって、検事にとっては数多くある事件の一つでも、被告人や被害者にとって、それは唯一の事件かもしれないので、手は抜けないのだという趣旨のことをおっしゃった。
 当時まだ甘ちゃんであった私にとってこれはやはり衝撃の言葉であった。プロの姿勢を思い知らされたような気がした。
 M検事には若手検事や他の修習生と時々焼き鳥屋さんに連れて行ってもらえたりした。
 M検事も私の一方的思いこみの師匠である。
 今は相当出世されたように聞いたので、公判立ち会いもされなくなったのであろうが、M検事の気質からすると、現場に立ちたいのではなかろうかという気もする。

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2008年8月 7日 (木)

語るヤツ

 世の中のことを全て経験したわけでもないのに、「こうだ」と語るヤツがいる。
 えてしてこういう輩は、社会経験は逆にかぼそいし、世の中のことにも疎いことが多い。

 私は弁護士という職業をしているので、人よりは世間の裏を見ることは多いはずであるが、私が弁護士という職業であることを知っていて、全く世の中のことを知らないとしか考えられない人間が、「人生とはこうだ」とか、世の中のことを語ってくることがある。

 私はそういう時はほとんど相手にせず生返事しかしないことにしている。

 推測するに、自分に自信がないからこそそのようなことを言って悦に入りたいのかとも思う。そういうことでしか悦に入れないというのは悲しいことである。
 周囲から評価がされないがために、自らいろいろと虚勢を張るのである。

 弁護士をしていると、中々断定するということは出来ない。冗談では断定できても、事件でも「事実はこうだ」とはいえない。当事者そのものではないからである。自分が経験もしていないことは断定できまい。

 ことに何も経験も知識もなさそうな輩が語るのは、横で聞いていても見ていても失笑ものである。

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2008年8月 6日 (水)

遊ぶ時間

 ルアー&フライフィッシングの本を買って読んでいたら、物凄い忙しい社長が、やたらその雑誌に載っていた。その社長は、まず年間の遊ぶ予定を立ててから、残りの時間で仕事をすると書かれていた。
 世界各地に大物を釣りに渡り歩き、その合間に仕事をしているというのである。

 このようなことが出来るのであればそれは理想である。遊んでいる間、放っておいても会社がなんとかなるような会社なのであろうか。
 弁護士はそうはいかない。特に経営弁護士はそうであるし、私程度の規模だと、私しかわからない事件が大半である。
休暇をとっていてもある程度は連絡をしないといけない。

 まあそうはいっても、私も休みに合わせて仕事をするところがある。そのため事務所にいる間は出来る限りの自分の能力に見合ったパフォーマンスを出したいと思っている。
 土日仕事をしなくてもいいようにするのが理想である。平日も夜の7時まで。
 土日にサッカーの練習を入れていると、まず仕事はしない。仕事で練習に遅れるなどということもない。
 海外の忙しいビジネスマンは数ヶ月休暇を取るようであるが、これもやはり「まず休暇」を取ってから残りで仕事をするということなのであろうか。

 遊ぶ時間はある程度無理矢理作らないと取れないというのが実感ではある。

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2008年8月 5日 (火)

訪問のルール

 法律相談や打ち合わせ、場合によれば事務員の採用面接などで、法律事務所というのは基本的に来客が多い。
 先日、ビジネス関係の本を読んでいたら(書名は失念した)、「訪問のルール」ということが書いてあった。

 それによると、時間より少し前か、少し遅れる程度で訪問してくれる方がいいということであった。あまり前に来られても、こちらもしていることがあるので、その程度に訪問するのがマナーだと書かれていた。

 私の実感からしても、あまりに予定の時間より早く来られても困ることが多い。私が逆に訪問する時は、少し時間が早いと思ったらぶらぶら時間をつぶしてから大体5分前に入るようにしている。
 事務所での来客の場合、予定している時間よりも早く来られると困ることの方が多い。前にも来客を入れていることが多いし、裁判に出ていることもある。来客どうしが顔を会わさなくてよいように時間にある程度余裕を持たせて相談を入れているのだが、早く来られるとそのようなこちらの配慮が無駄になる。
 事務員採用の就職活動の時も、あまり早く来られると、前の人の面接がまだ終わっていなかったりするので、あまりに早く来られる人はそのような配慮も出来ないという判断になり不採用の可能性が高まるのである。

 このようなことからすると、来客はだいたい5分前に来てくれるのが望ましいように思う。私の事務所では、初めての方については、相談カードに住所氏名等を書いてもらうので、住所氏名を書いてもらうとちょうど予定の相談時間となるからである。

 やはり遅刻されるのはいい気はしない。私も極力遅刻はしないようにしているし、遅刻するときは連絡を入れる。遅刻されると、後にこちらが予定を入れている場合、その人の為に無関係な他の依頼者に迷惑をかけることになるので、やはり時間通りに来て欲しいと思うのである。

 私は裁判でもだいたい5~7分前には法廷に着いている。
 もちろん人間であるから様々な理由で遅刻する場合がないとはいえないが、基本的には時間は守るようにしている。
 弁護士の中には、必ずといっていいほど遅刻してくる人がいるが、その人が相手方の場合、その人のために私も、裁判官も、書記官も待たなければいけない。
 5分遅刻したとしても、それに関係する人が10人いれば、50分遅刻したことと同じだと何かの本で読んだが、本当にそう思うのである。

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2008年8月 4日 (月)

控訴するかどうか

 控訴するかどうかについて依頼者と打ち合わせをする時に、一審判決がよく書けていて、これではやむを得ないということになると、依頼者としても、「裁判所が自分の主張も検討した上で敗訴したのであれば」としてある意味心地よい敗北で事件が終了することになる。

 その一方で、一審判決がずさんだと、そのような心持ちには依頼者はなれずに、「控訴したい」という気持ちになる。
 しかし、控訴するとしても、そこにかかる労力などを考えた時、依頼者は、ずさんな一審判決をもらった時点で司法に対する信頼感が欠落していて、「裁判ってこんないい加減なものなんですね」として、裁判制度に対する信頼を失った結果、控訴しないこともある。

 控訴しない理由には費用的な面、本人が労力に耐えられない等の精神的な面もあるが、一つにはずさんな一審判決をもらったが為に意欲を喪失させられたというものもある。
 控訴が出ないからといって、裁判官がここのところを誤ると、さらなる司法に対する不信感を増加させるだけである。

 意を決して控訴しても、控訴審においても、中々信頼出来る裁判官には巡り会えないと周囲の弁護士もよくこぼしている。記録を検討していないどころか、記録を読んでいないことも多いし、判決書を見ても証拠を見ていないことが丸わかりの判決をもらうこともある。
 とにかく結論よりも和解を勧めてくる人もいる。

 従って、地裁でも高裁でも、時折出会う信頼できるというか、素晴らしい裁判官は余計に素晴らしく見えるのである。
 素晴らしくない裁判官って自省しないのかしらん。

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柳生の里

 私はあまり様々なところに出かけることのない男であるが、学生の頃、歴史が残っているところをハイキングするということをしていた。
 もっとも印象に残っているのが柳生の里である。

 柳生は柳生新陰流で有名な柳生氏の里であり、奈良駅からバスで揺られていく。
 私が大学生の頃なので既に20年程度前のことであるから、相当今は変わっているであろうか。あるいはそのままであろうか。
 小さい盆地の中の里で、回るのにそれほど時間はかかわらない。
 柳生の里では柳生資料館というようなものを見たことくらいしか今は覚えていない。歴史小説家の山岡荘八氏が居宅にしていた建物のようである。中には新陰流の袋じないなどが飾られていた。
 当時は今ほど剣術に興味もなく、柳生新陰流についての造詣もなかったので、後年もっとよく見ておくのだったと悔やんだことを覚えている。

 バスで帰ることも出来たのだが、連れと「時間もあるので、途中のバス停まで歩いていこう。一つ峠を越えてみよう」と地図を見ててくてくと歩き出した。
 戦国時代はこの道を柳生の一族が踏んだのであろうかと思いつつ、古そうな道を歩く。道には石の仏像が彫られていて、相当年代が経っているように見えた。これらの仏像も柳生一族は横に見つつ故郷に帰ったりしたのであろうかなどとも思った。
 途中開けた田んぼのような道に出て、どちらにいってよいか分からなくなったり、道にも迷いながら、峠を越えた時には薄暗くなっていたが、歴史がある道というのは自分の足で歩いてみるものだと思ったりしたことを覚えている。
 これに味を占めて学生時代に、関西の歴史スポットをいくつか歩くようになった。

 歴史スポットというのは歴史に対する空想をかき立てられる場所である。
 私が歴史好きなのには趣味の他に実益も兼ねているのであるが、趣味の部分もあるので、そうしたスポットを見るのはやはり楽しい。

 今は時間がないので、もう少し歳がいって時間が出来たら、まずは上杉謙信の居城跡である春日山城跡に行きたいのであるが、まだ行くことが出来るのはしばらく先であろう。
 大阪地裁に行った際に、真田山にも行きたいのであるが、残念ながら日々の予定はそれすら許してくれないのである。
 しかし、仕事があるうちが華であるので、「そのうちに」と思って頑張っているのである。

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2008年8月 2日 (土)

読書日記8月2日

 海音寺潮五郎、武将列伝、江戸編。武将列伝の最終巻。真田幸村、立花一族、徳川家光、勝海舟などが登場する。
 幸村については既に書いたので割愛するが、立花宗茂が西軍に属して浪人となった後も家臣によって生活に出来る限り不自由なくさせられたという挿話は受け止め方によって様々であろうかと思う。立花宗茂ついてもまた書く機会があるであろう。
 幕末でもっともスケールの大きかった男である勝海舟(と私は思っている)については、海音寺は好きではないとしながらも多数の頁を割いている。勝海舟に関しては、津本陽の「私に帰せず」もよい。

 夏草の賦(上)(下)。司馬遼太郎。土佐から四国を統一した英雄である長曾我部元親を描いた長編。司馬作品はやはりいい。作品に貫かれたテーマがあり、それによって何かを描こうとしている。単に歴史を題材に小説を書いている昨今の小説家とは天地の開きがある。
 豊臣政権に帰服した後、九州の島津氏との戦いを描いた戸次川の戦いの下りでは、秀吉によって付けられた軍監である仙石権兵衛の極めてまずい采配により、後嗣である信親が戦死するのであるが、そのくだりは泣けた。
 島津軍4000に対し信親勢は700であったが、その700が、全て信親が「ここで討ち死にする」と述べたところ、総勢が「お供」と叫んで全てが討ち死にしたというのである。いかに後嗣である信親が配下に慕われていたかを示すものである。
 元親は、この信親を愛していたことはひとかたならなかったようで、信親が死亡後はめっきり老け込んでしまったようである。
 なお、最近漫画で、「センゴク」という漫画が流行っていて、私も読んだが、仙石権兵衛は残されている逸話からして、センゴクという漫画の中で描かれるほどの武将ではない。
 この戸次川の戦いの時も、自らが「攻め込むべきだ」と主張したにもかかわらず、島津軍の「ステガマリ」戦法によって誘い込まれて伏兵が出た途端、ほうほうのていで逃げだし、九州から逃げに逃げて淡路島まで逃げ帰ったのである。
 センゴクでは仙石権兵衛は豪傑のように描かれているが、真実の人物はそのようなものではなかったようである。

 張込み。松本清張の傑作短編集の第五巻。推理小説から集めている。
 しかし、推理小説とはいいながら、松本清張もやはり「人間というもの」をえぐり出して描いている。読み終わった後に重苦しい気分になったが、それだけ人間というものの業の深さを描いているのではないか。
 若手弁護士が読んでも参考になる作品がある。
 「鬼畜」「1年半待て」が秀逸である。
 

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2008年8月 1日 (金)

依頼者に対する報告

 依頼者に対する報告も重要である。

 昔の弁護士は、「自分に依頼したんやから、依頼者はぐずぐずいうな」というタイプの人もいたようであるが、基本的に弁護士は依頼者の為に事件を受任しているのであるから、その依頼者の事件がどうなっているかは報告するのは当たり前である。

 私は期日ごとに報告書を作り依頼者に送付する。これは癖にするようにしていて、フォーマットを作っている。相手から出た書面はよほど必要のない証拠など以外は全て写しをその都度依頼者に送る。こちらから出した書類も都度写しを送る。
 当たり前のようであるが、弁護士の苦情相談を聞くときに、「記録が全く手元にない」というので不思議に思って聞くと、「何も写しをもらえていない」ということが多々あるのでわざわざ書いている。

 訴えを出すのに調査などで時間がかかる事件については、手帳に依頼者に対する連絡の目処を都度書き込んで、依頼者に途中の経過報告をするようにしている。
 依頼者は自分の事件の情報に飢えていることが多く、何かあればすぐに知りたいのである。
 交渉で相手から連絡があればすぐに報告をするし、相手から連絡がない場合も目処を手帳に書いておいて相手に督促するようにしている。
 訴訟であれば裁判の期日があるので報告のし忘れなどは少ないが、訴訟を出す前の段階や、交渉事件ではややもすれば報告がされなくなったり、ずるずると期限が後ろ倒しになってしまいがちである。
 私も人間であるから完璧とはいかないが、完璧でないからこそ手帳に書いて漏れがないように癖をつけている。
 ただ、それでも時折報告が遅れて、依頼者から「どうなっていますか」と聞かれることがあり、その都度反省するのである。

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