« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月31日 (金)

年賀状

 今年は祖母が亡くなったので喪中なのだが、ある年見知らぬ弁護士から年賀状が来ていた。
 その名字を見て、「誰だろう?」と思い考えていると、札幌修習時代に世話になった左陪席の人の名字と同じであった。
 私は、「ああ、○○さんは裁判官を辞めはって、東京で弁護士にならはったんや。返事しないと…」と思い手書きで返事を書いた。

 後でわかったことなのだが、その年は日弁連会長選挙の年で、候補者からの年賀状だったのだが、まだ弁護士になって2年目くらいであった私はそんなことは知らず、律儀にも返事を書いたのであった。しかも「その節はお世話になりました」と書いて。
 当然であるが、私は会長の候補者とは何の面識もなかったので、もし向こうの事務局が仕分けしていたら、何の年賀状かと思ったことであろう。

 私の事務所も年賀状を送るのに相当費用がかかるが、大事務所だともっと大変であろう。日弁連会長などといえば、さらに費用が大変であろう。
 私がその人に投票したのであったか、無投票当選であったかは忘れたが、私のような平々凡々とした弁護士にとって、日弁連会長になりたいとか、(周囲の期待で)ならされるというのは、全然理解を超えた世界である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月30日 (木)

普段偉そうにしている癖に事件ではメチャメチャな弁護士

 弁護士会や宴会などで、偉そうに一席ぶっているが、いざ具体的な事件となると、「おいおい、そんなひどいやり方をするのかい」「こんな事件ようやるなあ」という弁護士がいる。

 隆慶一郎が、プレジデント社から出ている「信長」というハードカバーの中で、信長に関する一稿を書いているが、その中で、隆慶一郎は、武士の定義として、「恥アル者」という定義が好きであるとしている。
 恥を知る者という程度の意味であろう。
 確か、恥アル者という定義は、かくしゃくとした学者の先生がした定義であるというような解説を隆慶一郎はしていたと思うが、弁護士の「士」はこの武士の「士」と同義であると思う。
 そうすると、弁護士も士業であるからには、「恥アル者」であるべきであろうと思うのである。

 弁護士とはなんぞやというようなことをいう前に、きちんと事件処理せんかいといいたくなる輩が一定割合いるのは嘆かわしいことである。
 あと、地元以外ではムチャクチャなことをしている人もいると聞くことがあるが、これも同様であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月29日 (水)

生き物いろいろ、その3

 ひよこ釣りでよくひよこを釣っては持って帰ってきた。黄色とか少し色が黒いやつとかいろいろ居てかわいいのである。時々鶏以外の雛もいて、これはみんなに狙われるが、鶏のひよこよりも強靱で暴れて釣れないのである。コイ釣りにたまに入っている巨大なコイ(絶対に夜店の仕掛では釣れない)と同じで、子ども達の小遣いを使わせるための巨大雛である。あれは何の雛だったのか。

 さて、たいていのひよこは、しばらくすると死んでしまう。生き残るひよこはほとんどいなかった。

 しかし、あるとき3匹のひよこが生き残って3匹とも同時に鶏になった。大阪市内に朝5時から鳴り響く鶏の声。近所迷惑であったであろうが、当時は私は小学生だったので何とも思わなかった。
 こいつらは3匹で力を合わせて鳥かごを持ち上げて脱走する名人で、1ヶ月に一度は道路を歩いている鶏が発見されるのであった。
 しばらく飼っていたが、そのうち、近所から苦情が出たのか、祖父がどこかに連れていってしまった。「遠いところで暮らしているから」と祖父と母親は言っていたが、今となっては近所からの苦情に困ってどこかの鳥屋に持っていったのではないかと疑っている。たぶん母親に聞いても鶏を飼っていたことすらとぼけるであろう。
 涙涙の私は、しばらくするとまたひよこ釣りでひよこを釣ってきた。1匹だけであり、過去の例だと1匹だけのひよこは育たないので、母親も育たないと思っていたのであろうが、私は執念でこのひよこを育てあげたのであった。
 ひよちゃんと名付けて(何とありきたりなネーミングであろうか)、かわいがっていたが、このひよこもある時祖父がどこかに連れていってしまった。
 そのときも遠いところに行ったと言われて泣いていたが、朝5時から大きい声で鳴かれては、近所からそりゃあ苦情も出たであろうと思う今日このごろである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月28日 (火)

生き物いろいろ、その2

 だいたいにおいて私は魚も好きであった。物心ついた時から、自宅にはピラニアがいた。父親が飼っていたのである。父親がなぜにピラニアを飼っていたのかはしるよしもないが、ピラニアのエサは金魚なのであった。近くにあった熱帯魚屋に行くのは好きであったが、父親は時々金魚を仕入れにいくのであった。ピラニアを飼うのが流行った時期があったようであるが、詳細はわからない。

 私自身はバケツでドジョウ、流金、金魚、鮒、コイなどを飼っていた。一度釣りに行きたいがいけないことがあり、むらむらと練りエサでそのコイたちを釣ってしまったことがあったが。今思えばひどいことをしたものである。
 コイは夜店でコイ釣りで釣ってきたものや、近所の熱帯魚屋で買ったものであった。ドジョウも大阪の市内では珍しかったので買った。金魚は金魚すくい名人であったので自分ですくったものであった。

 熱帯魚か海の魚を飼いたい気持ちもいまもあるのであるが、世話が大変であるのでちゅうちょしてしまう。時々熱帯魚コーナーに行ってじっと見ているし、水槽を買うくらいは出来るのであるが、後の世話のことを考えるとげんなりしてしまうのである。父親は家事は全くしないが、自分のことになると熱心で、水槽などを洗うのは好きなので、父親にやらせようかと考えたりしている。

 コイや金魚を夜店で仕入れてきたが、夜店では、他にも生き物がいる。それはひよこである。ひよこをうどんで釣る、ひよこ釣りである。
 当然このひよこ釣りも私は得意であったが…。
 つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月27日 (月)

自転車置き場にて…

 私は駅まで自転車で行き、駅前の公共の自転車置き場(有料)に駐めている。定期を買っている。
 この自転車置き場の入口はあまり広くないが、出ていく自転車と入ってくる自転車とがすれ違えるくらいの広さはある。この駐輪場は定期以外で1日いくらで駐める人ももちろんいて、出ていく際には半券を係りの人に取ってもらうことになっている。

 今朝は9時30分から法テラス京都に行って会議をする予定があったので、いつもよりは少し早い時間の電車に乗ろうと思い早くに出た。そうしたところ、入口で、化粧が厚い若い女性が半券が出てこずに出口でとまっていた。しかも、通路の真ん中に自転車を置いているので、入ろうとする私は通れないのである。
 あまり朝一番から邪険に声をかけることもははがられて、入ろうとした姿勢で少し待っていたが、この女性は動こうとしない。
 仕方がないので、顔をじろっと見たのであるが、この女性は何を勘違いしたのか、見られていると思ったようで、目をパチパチしながら顔を作ってこっちをじっと見たのである(たまにこういうしぐさをする女性がいるが)。

 ちがああああう。私はあんたの顔を見ている(ないしは見とれている)のではなあああああい。
 早く自転車を置いて駅に行きたいのだああああ。だいたいオッサンの私を見返してどうするというのか。
 内心で思いながら、「すいません」と無愛想に声をかけると、その女性はようやく分かったのか、通路の横に少し自転車をよけたのであった。

 譲り合いの精神が大事である。皆さん、目をパチパチする暇があったら道を譲ろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月24日 (金)

怖いタクシーその3

 寝るタクシーも怖い。加重労働のせいかはわからないが、深夜のタクシー運転手の中には運転しながら、「おいおい、今寝ていたやろ」とい運転手もいる。

 そういうときは、途中で降ろしてもらってタクシーを乗り換えることにする。「運転手さん眠そうやし、山科駅に寄って。そこで別のタクシーに乗るから」と言って、「助かりましたー。ありがとうございます。」といわれたこともある。おいおい。そんな体調で運転するな。

 多くのタクシー運転手の人は気持ちのいい人だし、こんな怖い目に遭うことはないが、どの職業にもやはり問題児というのはいるものである。弁護士も然り。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月23日 (木)

怖いタクシーその2

 怖いタクシーの続編。
 たまに挙動不審な運転手がいる。これは怖い。

 独り言をぶつぶつ言ったり、突然運転中に、「はあっ」という感じで後ろを振り向くのである(何かに追われているのであろうか。)。クスリでもやってるのか(確か前にバスの運転手が覚せい剤で逮捕されたか)、精神的に病んでいるのかはわからないが、乗車している方としては命を預けているので大変怖い思いをする。

 こういう時は、早く目的地に着いて欲しいと思うのである。

 つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月22日 (水)

雪男の足跡

 朝日新聞にカラーで、「雪男の足跡か?」という写真が掲載されていた。実はその写真のためにあまり好きでな朝日新聞を購入したのだが(私が毎日取っている読売新聞にも白黒で掲載されていた)。
 足跡は20センチほどで、以前にも類人猿のような姿が目撃されているという。

 雪男の正体は、クロマニョン人によって絶滅させられたと思われていたネアンデルタール人であるという設定で書かれた「ネアンデルタール」という海外作品はベストセラーになり、私もハードカバーで読んだが、こうしたUMA(未確認生物)の話はとても面白い。

 昔、川口宏探検隊がやっていた頃は、毎回見ていたものである。先日偶々その頃の映像が放映されていたのを見たが、「ワニと格闘する人間」というのは、どうみても安全にしたワニを抱いてグルグル回っていただけであったが、子どもの頃は、「スゲェ」と思って見ていたものである。

 釣りキチ三平に出てくるタキタロウ伝説や、中国奥地にマス科の10メートルを超える魚が棲む湖があるかというテレビがあると、絶対に見てしまうのである。大仁田厚がテレビの中でタキタロウを捕まえていたと思うが、あれはその後どうなったのだろう。

 昔はヨーロッパにはドラゴンに似たトカゲがいたというし(コモドドラゴンは恐竜の仲間で未だ生息している)、深海にはまだまだ見たことがない未確認生物が必ずいるはずである。ネッシーの死体かといわれた写真はウバザメであるということで落ち着いているが、ウバザメとは全く違うという説も根強いのである。未確認生物の本はいっぱい持っている。

 未確認生物ハンターとかを職業にしてみたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月21日 (火)

怖いタクシーその1

 タクシーに乗ると怖い目に遭うこともある。弁護士はタクシーに乗る喜界が多い職業であろうと思うので(運転手を雇用するまでのお金はないが、自分で運転して事故を起こすといけないのと、車を維持するよりもタクシーに乗った方が安かったりする。後は現地に行くのに時間がもったいないなどの理由である)、私もタクシーはよく乗る。

 怖いタクシーその1は、夜に目が見えていないタクシー運転手である。
 前の車と妙に車間距離を空けて、前を目を凝らすように見ている。どう見ても暗さで見えていないのである。ビタミンAが足りないのであろうか。
 運転手の採用試験では、夜に目がきちんと見えているかもテストされるのであろうか。
 あるいは、最初は問題がなかったが見えなくなったのであろうか。
 人の命を預かるタクシー運転手なのであるから、夜に目が見えていないのは大変恐ろしい。
 他にも恐ろしいタクシー運転手はいる。
 つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月20日 (月)

筋肉痛

 もうすぐ(11月1日と2日)全国法曹サッカー大会があるので、合宿のあと先週の土曜日にもサッカーの練習試合をした。
 人数がぎりぎりで、2名しか休憩できなかった為、皆ほぼフルで出なければならず、ポジションも普段やっているポジションと違うポジションであったりした為、2対1で敗戦した。

 私もアキレス腱をテーピングしてフォワードとして参加し、右サイドをドリブル突破してマイナスで折り返したセンタリングが相手のディフェンスの足に当たりオウンゴールを誘って1点に貢献したが、アキレス腱がやや痛いので本気ではまだ走ることが出来ないのが残念であった。

 ドラえもんが居たら治して貰えるのだが、昨日も今日も地道に湿布薬を塗っている。

 筋肉痛もひどいが、やはりサッカーはいい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年10月17日 (金)

大阪府の行政代執行

 幼稚園の敷地が収用対象土地となり、売却を拒否していたところ、強制収容がなされ、このたび、行政代執行がなされたという報道が昨日されていた。
 10月末には、当該土地で毎年恒例の芋堀り行事が予定されていたということで、「何も今しなくても、あと2週間待ってくれてもよいではないかという声があった。
 まあ、報道されている以外の事情もあるのであろうが、強制収容というのはたいていは行政の方が計画して一方的に収用するので、元々そこを持っていた地主からすれば、「なんでやねん」ということにはなるであろう。収用を見越して、任意売却をするときに値をつり上げるという輩もいるが。

 ただ、心情として、芋掘りを楽しみにしていた園児たちにとっては非常なショックであろうとは思うし、幼稚園の関係者も橋下知事を相当恨みに思うであろうことは想像に難くない。
 私自身、芋掘りは幼稚園・小学校の時に何回かしたが、あれは楽しい。たぶん今でもやると楽しいと思う。それが突然なくなったというのでは(幼稚園としては代替措置を考えるのであろうが)、園児とその親は腹が立つだろう。

 橋下知事という人は、人の心を逆撫でするような発言(暴言)や行動が多いし、報道されたところによると、「2週間収用が遅れたら5億円~6億円の損失が出る。これまでに話しをさせてもらったんだから」ということを言っているようである。私などは、逆にいうと、芋が実る前のもっと早い時期に代執行は出来なかったのかなあという印象もある(中身はわからないが)。

 明渡訴訟では、家主側の相談を受けて訴訟をすることもあるが、私なぞは居住している人から、「次に住むところがない…」といわれると、家主とも話をして、出来るだけ穏当な解決をしようとしてしまう。判決が取れる場合でも、着の身着のままで放り出すというのは、やはり避けたいと思うのである。普通は家主も同様であろう。

 もちろん戦うべき時は戦う必要があるし、相手の要求を聞くべき時ではないことも多々あるが、積極的に恨みを買うとろくなことがないように思う。こけの一念岩をも通すということもある。

 中坊公平さんは、整理回収機構の債務者の1人から、「この回収がおかしい」という指摘を受けたことがきっかけで、詐欺容疑で取調を受け(不起訴にはなったが)、その後鳴かず飛ばずである。弁護士業も廃業し、その後再登録しようとしたようであるが、結局取り下げられたようである。
 これも恨みからきた失脚である。
 本能寺の光秀の反逆が、怨恨によるものであるという説があるのも(私は採用しないことは既にこのブログで書いたが)、恨みが恐ろしいということのあらわれである。

 知事として、恨みを買うことも当然あるであろうが、昔の日本人が言っていた「陰徳」というようなものも必要な気もするのである。

 大阪生まれの大阪育ちの私であるが、テレビに出ていれば票を投じてしまいかねないという傾向にあるのが情けない(最後は犯罪者となった故・横山ノックも知事だったのであるから)。まあそれは他の地域でも同様か。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年10月16日 (木)

キメすぎている人

 電車に乗っていると、たまに(顔とかスタイルは別として)ファッション雑誌からそのまま出てきたような格好をしているビジネスマンに出会うことがある。
だいたいそういう人は、自分がかっこいいと思っているのか、斜に構えた雰囲気である。
 私は、そういう人を見ると、笑ってしまうのである。
 髪型で顔のブサイクなのをごまかしているヤツも多い。

 本に載っていたものそのままでキメルなどというのは、愚の骨頂であり、サルマネである。
 おしゃれをするなら、どこかにオリジナリティーを入れる必要がある。
 キメすぎているというのは、どこか滑稽なもので、どこかを外すことで滑稽さが消えるといわれる。
 私はおしゃれからほど遠い人間だが、ファッション雑誌からそのまま出てきたような格好はしない方がいい。陰で笑われるだけである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月15日 (水)

弁護士の仕事のやり方

 弁護士は依頼者に雇用される訳ではなく委任契約なので、ある程度仕事のやり方に裁量はあるといわれる。しかし、依頼者の利益を守る為に代理人となるのであるから、依頼者の意向を無視して何をしてもよいという訳ではない。

 そのためには、報告・連絡・相談が重要であり、説明義務を果たすことが必要である。
 中には、自らの考えに固執して、いくら法的にはこうである、裁判の結論はこのようになると考えられると説明しても、納得していただけない人もいる。
 時には、依頼している途中で、他の人からこういわれたけどどうなのかと言ってくる依頼者もいる。そういう周辺でいろいろ言われる方の意見は、生半可な知識や中途半端な情報を元に依頼者にいいことを言っていることが多く、たいていは説明に余計な手間が増えるだけであることが多い。
 私もある程度は説明するが、あまりにひどいと「そこまで信頼出来ないといわれるのなら、やめさせていただきますよ」ということもある。説明をしたのに、全く記憶を変容させて、「聞いていない」という人もたまにいる。そのため、私は文書での説明を基本にしている。聞いていないという依頼者に、手控えの「ここの文書にこう書いてあって、送っているでしょう」というと、平然と「忘れていました」という人もいる。直前まで真っ赤な顔をして罵っていた人が、けろりと平然とした顔をされると、信用してよいのかなという気持ちにならないかと言われたら、答えに窮するところである。
 もちろん、これはレアな依頼者の場合であり、ほとんどの依頼者は説明をすれば理解してくれているし、説明したことは覚えてくれている。レアな依頼者の為に、弁護士の方は万全の体制でいる必要があるということである。

 しかし、こういうことは説明義務を通常程度に果たしている場合にいえることであり、説明をしていない弁護士が文句を言われたとしても仕方がない。中には全く説明をしていない人もいるようであり、自分の裁判で出された資料のコピーすら全く所持しておられない場合もある。
 私の事務所では、こちらから出したものはよほど大部で個別に了解を得て写しを送らない場合以外は、全て控えを依頼者に郵送する。相手から出た書類も同様である。たまにこうした当たり前のことが出来ていない場面に出くわすと、弁護士が批判されることがあるのも仕方がないと思うが、たいていの弁護士はきちんと職務をこなしているのに、レアな弁護士の為に弁護士全般がいけないような風潮となることも悲しいことだと思うのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月13日 (月)

読書日記10月13日

「アームストロング砲」司馬遼太郎。明治維新前後の激動期を描いた短編集。鍋島侯の狂気にも似たアームストロング砲熱のため狂ってしまう主人公を描いた表題作ほか、土方歳三の恐ろしさを描く「壬生狂言の夜」など。

「食い逃げされてもバイトは雇うな~禁じられた数字」山田真哉。さおだけ屋はなぜ潰れないのかがベストセラーとなった公認会計士が最近出した会計本。新書なのですぐ読めた。私自身は弁護士なので、ある程度の知識はあるのだが、頭が整理されるという点ではよかった。新人弁護士にはよい本かもしれない。下巻があるがまだ読めていない。

「宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短編コレクション(上)」。文春文庫から最近出された短編集の一つ。本屋にいった時に購入して置いていおいた(本屋には1週間に2~3回行かないと落ち着かない)のを読んだ。いくつかは既に読んだ作品もあったが、私はこちらよりは、新潮文庫の傑作短編集の方がまとまっていて好きである。

「水の肌」松本清張。新潮文庫の短編集。間違って2冊買ってしまっていた。小説3億円事件が一番面白かったが、実在の人物を書いているので、(名誉毀損とかいわれないのかと)大丈夫なのかと危ぶんだりしてしまった。職業病かしらん。

超「超整理法」野口悠紀夫。グーグルでの検索を取り入れたら分類はいらないという新しい指摘を取り入れた、ベストセラーの超整理法の改訂版。目新しいことは書いておらず、過去に超整理法を読んだ時ほどのインパクトはないが(私は事件記録以外の資料などは押し出しファイリング法で管理している)、整理べたな人には参考になるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月12日 (日)

サッカー合宿

 この土日は城陽でサッカーの合宿であった。
 グラウンドがうまく確保できず、二日目は朝の6時から8時までというハードスケジュールにもかかわらず、東京・金沢・栃木各方面から選手が集まってくれた。

 11月頭には全国法曹サッカー大会があるので、それに向けての合宿を毎年行うが、同じ風呂に入り、みんなでご飯を一緒に食べると、やはりチームとしての一体感が増すのである。

 私自身はこの間痛めたアキレス腱の状態があまりよくないまま合宿に突入したので、無理をしない程度に練習をした。草サッカーなのだが、それなりに怪我もあるのである。
 今は湿布を貼って大人しくしているが、11月の大会までには治って欲しいものである。
 合宿に参加したみなさん、マネージャーのみなさん、弁護士会のNさん、お疲れ様でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月10日 (金)

学生の頃…

 高校生から大学生の頃まで、秋口になると、夜に咳が出て、3ヶ月くらい咳き込んで眠りが浅くなることが続いていた。当時は風邪を引きかけているのだと思っていた。

 母親に聞くと、「そうか?そんなでもないのと違うか?全然きづかなかったわ」と言っていた。だいたい私の母親は、「昨日の夜は全然寝られへんかったわ」などといいながら私の咳に気づかないようなところがあるのである。そのうち、あまりに咳が続くので母親も気づいたらしいが、「生きていたら、そんなこともあるわ。うちなんか何回も死ぬかと思うくらいの目にあったけど、どうもないから大丈夫」で済まされてしまった。
 今にして思うと、あれは喘息の咳だったような気もするが、いい加減な私の母親のせいか、当時は病院に行かなかった。当時病院に行っていたら、後に喘息発作で死にかけるということはなかったかもしれないのだが。

 だいたい女親というのは、「昨日は全然寝られなかった」というようなことを言うようで、私の祖母も、台風が来た夜に、「昨日は一睡もしていない」ということを私の叔父に言ったようである。叔父は祖母が高齢なので心配して様子を見にいったら、すやすやと寝ていたそうである。

 私の母親には、風疹で体にボツボツが出来た時に、見せたところ(もちろん子どもである私にはそれが風疹であることなどわかっていない)、「ちゃんと風呂で洗わへんからや」と怒鳴られて、風呂に入れられてごしごし洗われたこともあった。私の記憶では、当時医師に行ってから、「風疹のボツボツは水につけたらいけません」と言われた記憶がある。

 一昨年喘息持ちだということがわかり、「今までわからなかったの?」と医者に聞かれて、「苦しかった時は何度もありましたが、過労とかかなと思っていました」というとあきれられた。
 母親に、高校生とか大学生の頃に夜にものすごい咳き込んでたやろう、あれは喘息やったん違うかと思うのや、と先日話をしたが、私の母親は、「そんなことあったかなあ。全然覚えてないわ~」というだけであった。本当に覚えていないのかとぼけているのか、何か体の不調があっても私の母親には相談できないと思っている今日このごろである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月 9日 (木)

織田信長(7)

 明智光秀の軍は、秀吉の中国侵攻軍の援軍であった。光秀は、その1万3000の兵を京都市内に向けて進軍させる。「上様に閲兵する」と虚偽を述べたが、途中、戦闘態勢に入り、「(光秀が)今日から天下さまになり候」と触れ回りさせて、京都市内になだれこんだ。

 信長は、前日珍しく深夜まで談笑し、深更にいたり辞去しようとする織田信忠を引き留めて談笑したという。このような信長は珍しいことであった。信忠が率いる軍は2000程度であった。
 光秀軍は、本能寺を囲み、なだれこんだ。信長公記によれば、信長は、「是非に及ばず」と述べて、弓を自ら放ち、槍を取り、戦ったが、肘を傷つけられた為奥に籠もり、腹を切ったとされる。
 しかし、光秀軍1万3000がひしひしと本能寺を取り囲み討ち果たそうと乱入している場面で、信長公記のような場面が果たしてあったのかは私は疑問に思っている。
 津本陽が「下天は夢か」のあと、本能寺には地下に煙硝蔵があったので、信長は爆死したという新説で「本能寺の変」を書いているが、爆発があったという記録が当時の公家の日記にもないことからみて、そのようなこともなかったであろう。
 私は、信長は光秀が攻めてきたのを見て、もはや逃げられないと判断し、速やかに本能寺に火をかけて腹を切ったのではないかと推量している。焼死体は現在でも身元の判別に苦労するから、信長の死体がどれであるか光秀軍も判別できなかったのではないであろうか。

 織田信忠も、信長の死を聞いて逃亡せず踏みとどまり二条御所に入り光秀軍と戦い死亡している。このとき、信忠が京を脱出していれば、後の秀吉の天下統一もなかったであろう。信忠は信長の嫡子であり、家督を譲られているのであり、彼が生きていれば、織田家の諸将も天下に野望をかけられなかったと思われる。
 信忠は凡庸な嫡子であると思われているが、武田氏を滅亡させた時の総大将は信忠であり、自ら城の塀を乗り越えて一番乗りを果たし、危うく命を落としかけたという勇猛なところもあった武将であり、そこそこの器量ではあったから、彼が生きていればその後の戦国の終焉はどのようになっていたかわからない。
 しかし、彼は逃げられないと考えたのか、わざわざ城に籠もり、光秀軍によって討たれるのである。ここが信忠の限界であったであろう。

 秀吉が、天下を獲った後、勇猛な武将である蒲生氏郷が率いる軍勢と、信長が率いる軍勢と戦ったとして、どちらが勝つかという仮定の話をしたことがある。側近は、蒲生氏郷の勇猛さを知っていたから、氏郷であるというものが多かった。
秀吉は、信長公であるといい、その理由として、5000の軍勢のうち4900までを討ち果たしたとしたら、蒲生氏郷の死体はその4900の中に入っているであろうが、信長公は必ず生きている100人の中におられて、他日巻き返しをはかられるからであるという話をしたという。信長の薫陶がいきとどいていれば、信忠は何としてでも京都を脱出したであろう。

 とまれ、信長は本能寺で死に、彼の天下統一の野望も潰えた。信長がその後天下を統一出来たのか、出来たとしてその後の日本がどうなったかは推測することも一つの愉しみではある。信長が、天下統一をした後は、議会制の政治をしようとしていたという仮説のもとに、そのような世になれば武将達の栄達は意味がなくなるとして反逆に踏み切ったという小説もあるが(おぼろげな知識ながら、池宮彰一郎の「本能寺の変」であったように思う。間違っていたらごめんなさい)、そこまで信長が考えていたということはないであろう。
 彼は人を殺しすぎた為、彼の存命中は天下統一は不可能であったと見ることも出来るし、彼は本能寺で倒れなければ、健康そのものであったから、家康のように長生きをして、やはり統一をしたとみることも出来る。歴史に「たら、れば」は禁物であるが、後の関ヶ原の戦いや、大阪の陣においても「たら、れば」を考えてしまうように、本能寺は信長ファンにとっては、信長がこうしていたら…と考えてしまう事件であることは間違いがなかろう。

 この稿を書くについては、津本陽の「下天は夢か」、司馬遼太郎の「国盗り物語」など、多数の著作を参考にさせていただいていることをお断りさせていただくが、多くは歴史的事実であるし、ある作者唯一の見解ではないことも多いので、全てを引用することは割愛させていただいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 8日 (水)

織田信長(6)

 佐久間信盛は、今はあまり有名ではないが、一時期までは織田家の中でもっとも有力な武将であった。石山本願寺との戦いでは主将として抜擢され、羽柴秀吉や光秀よりも大身であった。
 信長は、武田氏を滅ぼした後、様々な過去の罪状をあげて佐久間信盛とその息子を追放した。

 信長は、人間を機能でしか評価しない人物であり、機能が落ちてきた配下は、突如としてこのように切り捨てる性癖をもっていた。彼は、他者が自分に背くことはあまり考えなかったようでもあり、自分の行動によって周囲がどのような気持ちになるかを考える才能に乏しかった。
 光秀は、老境に達しており、四国征伐の事実上の軍事の責任者からも外され、信長の寵を失いつつある自分を感じていたのではないであろうか。そして、佐久間信盛のように、用済みとなれば弊履のごとく捨てられるのではないかと危惧したとしてもおかしくはあるまい。
 遠藤周作の反逆という小説では、信長の怯えた顔が見たいという理由で、荒木村重や光秀が背いたという設定で一連の反逆が描かれている。そのような気持ちもあったであろう。
 しかし、やはり主たる理由は、「滅ぼされる前に信長を滅ぼしてしまうしか方法がない」という落ち込まれた気持ちになったことではないであろうか。一時期、光秀は家中でもっとも早く城持ちの家臣となり、信長の寵臣であった。しかし、後にその座を秀吉に奪われ、老境に達した光秀としては、信長を滅ぼすしか自分が生き残る道はないという考えに憑かれたのではないかと私は判断している。
 そして、本能寺の変が起こった時点で、信長の周辺には軍団がいなかったのである。
 このことも、光秀が決起する一要因となったのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 7日 (火)

織田信長(5)

 本能寺の変は、織田信長の家臣であり、軍団長である明智光秀が織田信長を本能寺に急襲してこれを討ったという事件である。1582年のこの変により、信長の天下統一の野望は潰えた。

 本能寺の変の後、秀吉が素早く軍を返し、光秀を討ったことから本能寺の変の黒幕は秀吉であったという説がある。また、変後、光秀が朝廷に多額の金銀を寄進していることも含めて、朝廷が黒幕であったという説や、イエズス会が黒幕であるという説もある。
 その一方で、怨恨説も根強い。波多野秀治を丹波に攻めた時に、光秀は老母の命と引替に波多野秀治の命を保証して城を開城させたにもかかわらず、信長はこれを無視して秀治を磔にかけたことに光秀が恨みをもっていたとされる説、家康が安土城に来た時に光秀が家康の饗応係を命ぜられたが、鯛が腐っていたことから信長から打擲をされたことを恨んでいたとか、武田勝頼を滅ぼした後に、光秀が「われら長年の苦労が報われた」と述べたことに対して、信長が、「ワレに何の功があろうか」と言って打擲したという説等である。
 光秀が天下を狙っていたという説も根強い。

 しかし、戦国時代は全ての武将が天下を狙っていたと思われているが、現在の社会でも、「俺はほどほどでいいよ」としている人もいることから分かるように、全ての武将が天下に野望があったという訳でもなかろうし、既にこのとき光秀は当時の意識からすれば、老境に達している。
 秀吉が絵を描いたという説も、秀吉はこの時点で毛利氏と対峙しているのであり、毛利の史料の中に、秀吉を追撃すべきだという説が強硬にあったことからしても、秀吉が毛利氏に追撃されなかったことがむしろ僥倖というべきものであり、黒幕にしては危険すぎる賭である。朝廷にしても、朝廷が京を制圧した武将から寄進を受けるのはむしろ当然であるし、朝廷にそれほどの力が当時あったかといえば、疑問である。イエズス会においては海外勢力であり、日本国内にどれほどの力があったかという疑問がある。
 怨恨説にしても、信用できる史料に掲載されていない逸話もあり、信長は家臣に対して横暴であったことは何も光秀に対してだけではないし、老境にある光秀が個人的怨恨だけで、家臣や家族全てを路頭に迷わせるような暴挙に及ぶとも考えがたい。

 これよりも前に、光秀の家臣である斎藤内蔵助利光は、その妹を長曽我部元親に嫁がせていて、信長と元親は同盟関係にあった。元親は、信長の考えるよりもその勢力が強くなりすぎたため、信長としては、同盟者として面白からぬ気持ちとなっていた。
 一方、信長が頭をなでた程の寵臣であった秀吉は、四国の名族である三好氏から養子を迎えていた(羽柴秀勝)。三好氏は、四国を統一しようとする元親から圧迫され、秀吉を通じて信長に庇護を求めた。
 ここで信長の方針は転換し、元親を捨てて、三好氏を庇護することを決定した。
 本能寺の変の時期は、四国征伐が予定されていた。総大将を補佐する役割は、丹羽長秀とされた。
 織田家の通例では、各地方を攻略する際、その軍事責任者は、それまでその地方の外交を担当していた家臣が行うのが通例であった(これを申次という)。四国でいえば、これまでの申次は光秀であった。
 光秀は、当然自分が事実上の軍事責任者となると考えていたであろう。

 ところが、丹羽長秀がその役割を申しつけられ、光秀は、毛利氏征伐の秀吉の応援部隊という役割であった。
 そのときに、彼の脳裏には、功績があったにもかかわらず、過去の失敗をあげつらわれて、全ての禄を剥奪され、高野山に追放された家老のことが頭に浮かんだに違いない。
 その武将の名を佐久間信盛という。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 6日 (月)

織田信長(4)

 信長・家康連合軍と、朝倉・浅井連合軍は、姉川において、「姉川の戦い」に突入する。
 これは、浅井軍の支城を囲んだ織田・徳川連合軍に対して、浅井・朝倉が後詰めとして軍を出したことによる戦いである。
 この戦いの詳細は不明なところも多いが、信長軍は何段にも備えた備えを突き崩され、本陣も危うくなるほどの戦いであった。敗色濃厚となった時に、家康軍が敵を突き崩して朝倉勢が崩れたことから、何とか勝ちを拾ったが、家康がいなければ信長は敗退していたであろう。それほど尾張の兵は弱かったのである。浅井・朝倉の北国兵は強かった。三河兵も強かったが、それよりも武田、上杉の兵はさらに強かった。尾張は気候温暖で商業が発達していたのに比べて、北国の兵は雪国で米も満足に取れず、精神力が違ったのであろう。三河兵は農村地帯で、今川の下で辛い時代を過ごして家康を中心に団結していたが、尾張兵は忠義の点でも他のところから比べて弱かったといえる。後に信長が長篠でまともな肉弾戦ではとうてい武田には勝てないと考え、鉄砲を使用したのはこの頃から尾張兵は弱いという意識があったためであるとも考えられる。

 この頃から長篠の戦いまでは信長の忍耐の時期である。足利義昭が発行する将軍の密書により一大信長包囲網が築かれ、時には浅井・朝倉に対して屈辱的な講和を朝廷を動かして結ぶなどし、本願寺により実弟を殺されるなどする中、信長は忍耐に忍耐を重ねるうち、信玄が三方原の戦いの後死ぬなど信長にとって驚異的な幸運などが彼を守った。至近距離から撃たれたこともあるが、足に当たり命には別状がなかったこともある。
 蛇足だが、長篠の戦いは、黒澤明の「影武者」を見ると面白い。

 何をしてもうまく行く時があるが、この頃から本能寺直前までの信長には何か天魔のようなものが憑いていたのではないかという気もする。
 信長は後に安土城を築き、自分を神体として拝ませたとされるが、それは半ば本気ではなかったであろうか。

 この間の詳細は他書に詳しいし、そこまで書いていると信長の話は終わらないので割愛するが、武田、浅井・朝倉を滅ぼした信長の前には、毛利氏と北条氏以外にはもはや大きい敵はいなかった。信長は、毛利氏征伐の前に中国地方での戦勝報告に来た秀吉の贈り物の列を見て珍しいほどはしゃぎ、秀吉の頭をなでたという。信長は生涯ほとんど休まず、武田氏を滅ぼした後、富士を見て甲斐からの帰り道をゆったりと帰京した程度が彼が休みらしい休みをとった唯一のものとされている。

 秀吉は、信長の猜疑心を知っていた。信長の前であまりにも大功をたてることは身の破滅を意味する。苦労に苦労を重ねた秀吉であるからこそ、そのような気配りが出来たのである。
 毛利氏との最終決戦前に、秀吉は信長の親征を求めた。これが、信長の運命を決めた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 5日 (日)

読書日記10月5日

「黒地の絵」松本清張。新潮文庫の傑作短編集の一つ。妻をアメリカの黒人部隊に輪姦された男の黒い執念を描く表題作ほか、作者が描く人間の心の闇は若手弁護士にとっても事件を解決していく上で参考になるだろう。闇のない人間はいない。

「不機嫌な職場」なぜ社員同士で協力出来ないのか 講談社現代文庫。本屋で表題作に惹かれて購入。日本社会の働き方が専門化する一方で、自分の分野しか仕事をしたりしない人が多くなったり、他者とのコミュニケーションがはかれない職場が増えているという。職場の建て直しに成功したいくつかの事例を元に、そのヒントを与えてくれる本である。法律事務所でもあてはまるところがあり、大いに参考となった。

「最後の伊賀者」司馬遼太郎。 司馬の短編集。私は日本酒が好きなのだが、その日本酒の「呉春」という名前の由来となった天明の画家を描く作品と、秀吉と一度であっただけで、秀吉に殉じて大阪城に入城した「けろりの道頓」など。ちなみに、大阪の道頓堀は、このけろりの道頓が掘ったので有名である。

「憎悪の依頼」松本清張。短編集。過去に愛した女性の面影を長年思い続けた政治家の思いを描いた「大臣の恋」。人間の一方的な思いが、時にいかにこっけいかを描いている。家族のために正義を働いたと信じて刑に服し、全く反省の色のない女囚。その家族はその女囚をどう見ているのか。感謝しているのか。それぞれの認識のズレを描いた「女囚」など。

「ペルシャの幻術士」司馬遼太郎。司馬のデビュー作。司馬のデビュー作は不評であったが、海音寺潮五郎だけは、「司馬君は天才かもしれない」とその才能を高く買っていた。作品的にはやはり後の作品と比べて稚拙な感はあるが、司馬の文章のリズムはデビュー作から変わらない。後に、司馬は「梟の城」で直木賞を受賞し売れっ子作家になるが、吉川英治が梟の城の受賞に反対したところ、海音寺潮五郎は、「若き頃の吉川英治のような才気を感じる」と強硬に主張して受賞させたという逸話がある。司馬は海音寺によって見いだされた作家ということになるが、海音寺の方が、吉川英治より慧眼であったということであろう。

「風の武士」(上)(下) 司馬遼太郎。幕末を舞台に描いた伝奇小説。これも初期の作品である。司馬作品に出てくる主人公は、己の中の信念に従い、この信念を曲げさせられるくらいなら死を選ぶというタイプが多いが、世の中では中々信念を貫くことが出来ないことが多いことから、そうした司馬の作る主人公に皆惹かれるのであろう。

「眼の気流」松本清張。短編集。中年男の悲哀と嫉妬を描いた表題作ほか、ここでも作者の世界に、人間の闇に引き込まれる。人間や社会というものを知らない若手弁護士は、こうした作品を読んで少しでも自分の経験が足りないことを補うべきであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 3日 (金)

織田信長(3)

 上洛した信長であったが、そのまま京に居座ることをせず、岐阜に戻る。これは、戦国最強武将の1人である武田信玄の領国と国境を接している為もあったろうし、京は信長の本拠から遠かった為、京で反乱でも起こった場合に備えたのであろうか。以後、信長は京に常住するということがなく、京に居城を作らず、その都度仮の宿を取るだけであった。信長が京に城を構えていれば、後の本能寺の変もなかったであろう。明智光秀が城を攻めている間に周辺の諸将が集まってきたであろうからである。

 信長は、朝倉義景に上洛を促したが、義景はなんのかんのと理由をつけて上洛をしない。義景からすれば、直前まで自分の手元に居た足利義昭を擁して上洛した信長に対する嫉妬もあったであろうし(自分は何回足利義昭から言われても上洛しなかったのであるが)、双方斯波氏の被官であった織田氏と朝倉氏の間では、信長の織田氏は、織田家のさらに家老の家柄であったため陪臣であり、朝倉氏よりも中世の身分感覚でははるかに下位に立つ家柄であったから、織田氏などに従えるかという気もあったであろう。
 上洛前に、浅井長政は、「浅井氏に断りなく朝倉氏を討たない」という確約を信長から得ていた。浅井氏は、最近見つかった資料によると、ほとんど朝倉氏の被官であったようであるから、このことはうなづけるのである。
 ところが、信長は、突然朝倉征伐を開始する。
 木ノ芽峠から乱入し、金ヶ﨑城を陥落させた信長に、信じられない一報が入る。
 「浅井長政、裏切り」
 であった。
 長政からすれば、先に信長が違約しているのであるが、信長は自分が違約しても人が違約するとは考えない質であったようである。また、将軍の命令に従わない朝倉義景を討つという大義名分がある以上、浅井長政もこれに従うと楽観視していたといもいわれる。
 しかし、これで信長軍は挟み撃ちにされる形になる。浅井氏は北近江を領していた為、越前から岐阜への退路は断たれたのであった。退却口は、琵琶湖の西側を通り京都に逃げるしかない。
 信長は、同盟者の徳川家康に告げることもなく、ただ数騎で駆けだしたといわれるが、その前に殿(しんがり)を決めなければならない。殿はほぼ全滅するであろう。命を捨てる役割である。信長が殿を引き受ける者を探した時、羽柴秀吉は、自らを殿に任命してもらうよう進言したのであった。信長はこれを許した。秀吉は、この時点で一将校に抜擢されていたが、その功績は敵を寝返らせたりするという調略が中心であり、武略はないとみなされ軽んじられていた。秀吉が織田家中で重きをなすためには、命をかける必要があったのである。

 秀吉は金ヶ﨑城に籠もり、少しでも退却の時間を稼ぎつつ、敵を引きつけて退却することとなった。この間、信長は朽木を通り京に向かって駆けている。
 秀吉の命を張った行動に、それぞれの部隊から、何騎かずつを秀吉の部隊に残してくれたという(秀吉嫌いの柴田勝家もこのときはさすがに感じ入ったようである)。
 なお、このとき、徳川家康が、秀吉とともに殿を務めたと書かれた史書もあるが、私には信じられない。同盟者である家康がそのような危険を冒すはずもなく、家康も数騎程度秀吉に人員を割いて残してくれたというところではないであろうか。
 秀吉の部隊は少し引いては反撃するということを繰り返し、無事殿を務め、京にたどりついた。
 信長はこれにより、浅井・朝倉連合軍と戦わざるを得なくなったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 2日 (木)

織田信長(2)

 上洛の際、六角氏は織田・浅井・徳川連合軍に抵抗するが、その抵抗は虚しく、連合軍の前に六角氏はもろくも崩れ去ったのであった。このときより、六角定禎は信長に対して反逆を生涯の目的としてその一生をかけることになる(後に武田侵攻の際に焼き殺されるが)。

 上洛した信長軍は京の民に木曾義仲の再来かと恐れられたが、信長は、有名な「一銭斬り」の刑罰でもって軍を統括していたので、信長軍は略奪や強姦行為は働かなかったと伝えられている。この当時、戦勝側や侵略者が略奪や強姦をするということは常態であったので(武田信玄の配下もこれを愉しみにしていたようである。ジンギスカンは人生の至上の喜びは敵を屠り、敵の妻や娘をハーレムに放り込んでかわいがることであると言っていた。)、京の人々は信長を歓迎した。
 一銭斬りについては、信長の視野の中で、足軽が戯れに町娘が顔を隠していた布をめくって顔を見たというだけで、走り寄ってその足軽の首を一刀の下に切り離した話は有名である。
 このときの刀がなんであったかはわからないが、圧切と呼ばれた業物であったかもしれない。押しただけで人間の胴を切り離すことが出来たとされる業物である。

 足利義昭は第15代室町幕府の征夷大将軍に就任し、得意の絶頂であった。足利義昭は、このとき、信長のことを父と呼び、副将軍に就任するように要請したが、信長はこれを断り(幕府の役について、義昭の下風に立つことを嫌ったところ、信長が天下に対して野心があったことの何よりの顕れである)、草津や堺に代官を置くことを承認させた(いずれも商業都市であり、ここからあがる税金は相当のものである)。
 これが義昭と信長の長い暗闘の始まりであった。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年10月 1日 (水)

生き物いろいろ、その1

 だいたいにおいて私は動物とか生き物が好きである。世の中には、とても優しい人なのに動物が嫌いな人もいる。私は別段優しくない人だが、動物は好きである。だいたい動物に好かれる。

 小さい頃は動物というより昆虫だった。現在大阪家庭裁判所のあるところあたりが広い空き地となっていて、フェンスを乗り越えたりくぐったりして、季節が到来すると虫を捕りに出かけた。
 トノサマバッタやショウリョウバッタ、キリギリス、エンマコオロギ、オオカマキリなど山ほどこの空き地で取れた。それを味付けのりの瓶の上に空気穴を空けて、土を入れて草とか枝とかをいれて小さい草むらを作出していた。
 子どもは残酷なもので、カマキリも一緒に入れたりしていた。コオロギなどはカマキリに食われてしまうのである。卵をもったカマキリはそのうちその枝に卵を産み付けて、近所中に春になると小さいカマキリを大量発生させて嫌がられたものである。

 雄と雌のカブトムシを買ってきて、卵を産ませて幼虫からさなぎにして、3年間ほど家にカブトムシがいたこともあった。この頃を思い出して、2年ほど前にクワガタムシの幼虫を自宅で育てたが、クワガタを育てるサイトなどをネットで検索すると山ほどあるのには驚いた。このクワガタは多少角が短いが、何とか成虫にすることが出来た。

 残酷なこともたくさんした。イモリを買ってきたのはいいが、そのうち飼っているのを忘れて家の前に放置し(うちの母親はそんなイモリを面倒を見てくれるような人ではなかったので。実は喘息であった私に、「生きていたら息が苦しいことくらいあるわ」の一言で34年間私は喘息であることがわからなかったのであるから)、カラカラにしてしまったこともあった。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »