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2008年10月 6日 (月)

織田信長(4)

 信長・家康連合軍と、朝倉・浅井連合軍は、姉川において、「姉川の戦い」に突入する。
 これは、浅井軍の支城を囲んだ織田・徳川連合軍に対して、浅井・朝倉が後詰めとして軍を出したことによる戦いである。
 この戦いの詳細は不明なところも多いが、信長軍は何段にも備えた備えを突き崩され、本陣も危うくなるほどの戦いであった。敗色濃厚となった時に、家康軍が敵を突き崩して朝倉勢が崩れたことから、何とか勝ちを拾ったが、家康がいなければ信長は敗退していたであろう。それほど尾張の兵は弱かったのである。浅井・朝倉の北国兵は強かった。三河兵も強かったが、それよりも武田、上杉の兵はさらに強かった。尾張は気候温暖で商業が発達していたのに比べて、北国の兵は雪国で米も満足に取れず、精神力が違ったのであろう。三河兵は農村地帯で、今川の下で辛い時代を過ごして家康を中心に団結していたが、尾張兵は忠義の点でも他のところから比べて弱かったといえる。後に信長が長篠でまともな肉弾戦ではとうてい武田には勝てないと考え、鉄砲を使用したのはこの頃から尾張兵は弱いという意識があったためであるとも考えられる。

 この頃から長篠の戦いまでは信長の忍耐の時期である。足利義昭が発行する将軍の密書により一大信長包囲網が築かれ、時には浅井・朝倉に対して屈辱的な講和を朝廷を動かして結ぶなどし、本願寺により実弟を殺されるなどする中、信長は忍耐に忍耐を重ねるうち、信玄が三方原の戦いの後死ぬなど信長にとって驚異的な幸運などが彼を守った。至近距離から撃たれたこともあるが、足に当たり命には別状がなかったこともある。
 蛇足だが、長篠の戦いは、黒澤明の「影武者」を見ると面白い。

 何をしてもうまく行く時があるが、この頃から本能寺直前までの信長には何か天魔のようなものが憑いていたのではないかという気もする。
 信長は後に安土城を築き、自分を神体として拝ませたとされるが、それは半ば本気ではなかったであろうか。

 この間の詳細は他書に詳しいし、そこまで書いていると信長の話は終わらないので割愛するが、武田、浅井・朝倉を滅ぼした信長の前には、毛利氏と北条氏以外にはもはや大きい敵はいなかった。信長は、毛利氏征伐の前に中国地方での戦勝報告に来た秀吉の贈り物の列を見て珍しいほどはしゃぎ、秀吉の頭をなでたという。信長は生涯ほとんど休まず、武田氏を滅ぼした後、富士を見て甲斐からの帰り道をゆったりと帰京した程度が彼が休みらしい休みをとった唯一のものとされている。

 秀吉は、信長の猜疑心を知っていた。信長の前であまりにも大功をたてることは身の破滅を意味する。苦労に苦労を重ねた秀吉であるからこそ、そのような気配りが出来たのである。
 毛利氏との最終決戦前に、秀吉は信長の親征を求めた。これが、信長の運命を決めた。

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