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2008年11月28日 (金)

読書日記11月28日

 「箱根の坂」(上)(中)(下)。司馬遼太郎。戦国時代の関東の覇者北条氏の基礎を築いた北条早雲の物語。物語は、北条早雲の謎の前半生に筆が割かれている。
 北条早雲は戦国時代には老人(死んでいてもおかしくない)と考えられた56歳にして今川氏親より興国寺城を与えられ、城主となり、その後、伊豆の混乱に乗じて伊豆を手中に収め、88歳で死ぬまでに伊豆のみならず相模全土を支配下に置いた。戦国時代の幕を開けた人物として、斎藤道三とともに語られることが多い。津本陽の「老いは生のさなかにあり」というハードカバーでも取り上げられているが、そのパワーの源はどこにあったのか、興味がつきない人物ではある。
 なお、上杉謙信や武田信玄と戦って有名な北条氏康は早雲の孫であり、早雲の嫡男の北条氏綱も名将である。
 小田原評定で北条氏は滅びるが、早雲から3代は名将が続いたのである。

「黒死病 ペストの中世史」 ジョン・ケリー。読売新聞の新しい本の広告を見るのも楽しみなのだが、そこで表題を見てすぐに購入。以前、「4000万人を殺したインフルエンザ」というスペイン風邪の正体を探るドキュメンタリーを読んで面白かったので、黒死病と呼ばれた中世のペストの実態を描いたということで期待して読んだのだが、期待に応えてくれる一作だった。
衛生状態や栄養状態が悪かったが為に死亡率が高かったとはいえ、都市によっては人口に対する死亡率が70~50%に至ることもあったという黒死病が現代によみがえらないことを祈るしかない。

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2008年11月27日 (木)

前田慶次郎(3)

 退却戦は困難である。戦国時代の死者のほとんどは退却時のものだともいわれる。
 殿(しんがり)を務める軍勢はややもすれば全滅するほどの危険がある。
 直江兼続はこの戦いにおいて主将自ら殿軍を引き受けた。

 執拗な最上軍の追撃に継ぐ追撃に、旗本も討たれ、直江兼続もいよいよ自決を覚悟した時、切腹しようとしている直江を前田慶次郎が押しとどめた。
 その後、とって返して1人で最上軍と直江軍が戦っている前線に槍を担いで突撃し、最上軍を蹴散らしたのであった。最上軍は鬼神のような慶次郎の働きにおそれをなし、崩れ立ったのである。
 これにより、直江軍は最上軍の追撃を振り切り、無事帰還できた。

 慶次郎は身長が当時の日本人に比べて巨大であった(平均成人男子で150センチほどであったといわれている。慶次郎は170~180センチ)ので、今でいえば2メートルくらいある巨人が巨大な槍を振るいながら突撃してきたようなものであったろう。

 隆慶一郎作品では、巨馬に乗った慶次郎が突撃することになっているが、長槍に対して馬で突撃すれば馬が串刺しになってしまう。この点、海音寺作品では徒歩で突撃したことになっている。私は海音寺の説を採りたい。

 このような武勇は過去にも聞いたことがない為、慶次郎の武名はいやが上にも高まったであろう。当時(1600年)はまだ戦国の気風が残る時代である。
 諸侯は争って慶次郎を召し抱えようとしたと思われる(上杉家は戦時中だけ召し抱えられたので戦後牢人)。しかし、その後の慶次郎の足跡については定かではない。
 前田家に戻り利家のもとで死んだとする説もあるが、有力な説は上杉家に再度禄を得て、米沢で死んだというものである。
 利家のもとに還る理由もないであろうから、やはり上杉家に仕えたのであろうと思われる。
 慶次郎が大阪の陣には参戦した記録がないので、老齢を理由に(慶次郎は利家や家康とほぼ同年代)、参戦しなかったのか、あるいは大阪方をなぶり殺しにするような戦いは慶次郎の好むところではなかったため参戦しなかったのかはわからないが、関ヶ原以後は戦いには参戦しなかったのではなかろうか。

 伝わる説では、慶次郎は異風の衣装を好む傾奇者であり、古典や式典に通じる一流の文化人であったとされている。一族である加賀百万石の祖である前田利家も若い頃は、傾いた衣服や甲冑を好んでつけていて、「槍の又佐(またざ)」と言われていたことからして、前田一族は傾いた風を好むところがあったのかと思われる。
 その他、秀吉から天下一の傾奇者として御免状をもらったという話(可観小説にある)があるが、真偽の程はわからない。仮にそのようなことがあったとすれば、秀吉にとって盟友である前田利家の甥であることがそのような御免状を出すことに影響していたと見るのが妥当だろう。
 
 なお、隆慶一郎作品では、前田利家は慶次郎を際だたせる為に無能な男として描かれているが、現実の利家は優れた戦国武将であり、若い頃は槍の又佐として名を馳せた勇者であったから、この点では隆慶一郎の描く利家の実像とはかけ離れているものといえる。

 最近はパチンコにされているようであるが、このことを知ったら慶次郎は何というであろうか。

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2008年11月26日 (水)

下着

 下着(専ら下の方)が合わないと1日中何となく居心地が悪い。これは皆経験があるものと思われる。
 数年前から気に入った下着があると買いだめをしておくのだが、人間の感性というものは月日によって多少変わるのであり、その頃着心地がいいと思っていた下着が数年すると何となく合わなくなってくる。
 そうすると、今度はまた着心地のいい下着を探すことになるのである。

 ブリーフは長いことはかない。トランクスは若い頃は着ていたが、ここ10年はボクサーブリーフである。太ももまであるタイプのブリーフで、最近はこれが男性下着では流行である。
 男性雑誌を見ていると高級ボクサーブリーフなどが載っているが、勝負下着を着ても仕方がないので普通のボクサーブリーフである。
 ああいうのはどうしたはずみで好みが分かれるのかわからないが、どうしてブリーフ派、トランクス派、ボクサーブリーフ派と分かれるのかと考えると不思議である。

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2008年11月25日 (火)

改札を封鎖する人たち

 最近はJRの改札で止められなくなった私であるが(前はICOCAでよくタッチが上手く出来ずにひっかかっていたのである)、相変わらず改札でひっかかる人がいる。

 私もたまにやるのは、定期を間違って入れたりタッチするというものである。
 これはたいてい1回で気づくが、時には何度もトライして首をひねっている人もいる。中には扉が閉まっているのに、強引に突破する人もいる。あれはあとで困るであろう(入場記録だけがあって出場記録がないのである)。
 ラッシュ時には何度もトライする人は後ろの人から舌打ちをされたりする。ひっかかった時は、横に一度退いて、なぜひっかかったのかを探求するべきであろう。

 遠方から直帰する場合は、精算の機械で、定期を入れて精算する必要が生じるが、中には精算機が使えない切符もあり、そういう時は改札の有人窓口で精算をして出場する必要が生じるが、有人窓口に誰もいない時には脱兎のごとく有人窓口にかけつけて出てしまうべきである。
 なぜなら、時には有人窓口を封鎖してしまう輩がいるからである。
 時刻を聞く者(時刻表をみんかい)。
 精算が中々出来ない者(あらかじめお金出しとかんかい)。
 精算の方法について、駅員にクレームをつけたり、長々と駅員を捕まえて話さない者(後ろがつかえているのだから、先にすぐ済む俺を通さんかい。)。
 括弧内は私の心の声である。駅員が複数いる駅だと、並んでいる私に気づいてすぐに通してくれる(私が降りる駅は決まっているので精算額とか精算の方法は熟知しているためである。ふっふっふ。)のだが、1人の駅員で、その駅員が要領の悪いやつだと、いつまでも待たされる。時には分単位の時間で動いている私などはある程度は待つのだが、あまりに待たされると、「すぐ済むので先に通してくれませんか」と声をかけるか、お金と切符を置いて出ていくか、切符を見せて定期を見せて後ろを通り過ぎるのである。
  本当に要領の悪い駅員だと、このように通り過ぎたり先にしてもらおうとしても、「少しお待ち下さい」と言って急ぐ私を足止めしたりする。
 そんなときは、「すぐ済むから」と少し不機嫌な声で駅員に「先にせんかい」とプレッシャーをかけるのである。
 複数でクレームをつけている場合、何人もが改札を封鎖してこの方法で速やかに通ろうとしても通れないことがあり、こいつらは他人への迷惑を何と考えているのかと頭が痛くなる。
 後で待っている人もいるのだし、クレームをつけたり色々な時間がかかることが聞きたいのであれば、後ろで待っている人を先に通して、ゆったりと駅員と議論してもらいたいものである。

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2008年11月21日 (金)

前田慶次郎(2)

 関ヶ原の戦いは上杉景勝を討つ為に家康が北上した間に石田三成が大阪で挙兵することで始まった。
 家康と三成は共に豊臣家の大老と奉行であり、この対立は豊臣家内部の勢力争いであると見た武将もいたであろうし、これを機に家康が天下を獲るという野望を見抜いていた武将もいたであろう。
 古来、石田三成と直江兼続との間に密謀があったとされているが、このあたりは謎である。
 密謀があったとした方が面白いだろう。

 三成が挙兵した後、家康は軍を西へ向ける。上杉景勝に対しては押さえとして次男の結城秀康を残した。
 上杉景勝は上杉不識庵謙信の養子(甥であるので血族ではある)であり、戦争に美学を求める武将であった為、結城秀康と戦うことを潔しとせず、軍を撤退させてしまう。このとき、徳川軍を追撃すればどうなったかと見る史家もいるが、家康はそこまで甘い男ではあるまい。現に、家康は本拠地の江戸に帰ると、東軍先鋒が岐阜城を落とし、裏切りがないと見るまでは江戸から動かなかったのである。追撃していれば兵力で勝る家康軍に一蹴されていた可能性があるのである。

 一方、上杉軍は目先の敵がいなくなったので、直江兼続を主将として東軍に与している最上勢を攻めた。しかし、最上勢と戦っている間に関ヶ原で西軍が1日にして敗退したという報に接した。
 黒田如水のところでも書いたが、関ヶ原の野戦がまさか1日にして終結するとは誰しもが思っていなかったのであろう。
 家康が本拠地に攻めてくるかもしれない情勢では、最上攻めどころではない。
 ここに直江兼続は、すさまじい撤退戦を余儀なくされたのである。
 この撤退戦で、前田慶次郎はその武名を轟かせたのである。

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2008年11月20日 (木)

前田慶次郎(1)

 前田慶次郎利太(まえだけいじろうとします。利益とも)。
 戦国時代後期から江戸時代初期の武将である。

 彼を描いた作品としてもっとも有名なものは、隆慶一郎の「一夢庵風流記」であろう。これを原作にして少年ジャンプで北斗の拳で有名な原哲夫が書いた「花の慶次」が連載されヒットしたので知っている人も多いと思われる。
 それよりもはるか昔にかの海音寺潮五郎が、「戦国風流武士前田慶次郎」という作品を書いていて、これは今文庫で買える。
 私はまず隆慶一郎を読み、その後海音寺潮五郎を読んだが、時代からいうと海音寺が先に前田慶次郎に目をつけて作品化している。内容も(歴史的事実をもとにしているので当たり前だが)似ているところが多い。
 その他いくつか彼を書いた作品があるが、この2作にかなう作品はないと思う。

 前田慶次郎は、尾張の前田利久の子として生まれた(滝川益氏の子であり、利久が養子に迎えたという説や、益氏の子を身ごもったまま利久に嫁いだという説もある)。
 前田利久は、前田利家の兄であり、長子相続の法でいえば、利久の跡は前田慶次郎が継ぐはずであった。
 しかし、信長は自らが稚児として可愛がり、男色の間柄であった利家に前田家を継がせようと考え、利久を隠居させて利家に家督を譲らせた。
 これにより、前田慶次は前田家の惣領たる将来の地位を信長によって奪われたことになる。

 その後の前田慶次郎の足跡はほとんど知られていないが、一時織田家を出奔していたことがあるようである。
 伝わる話では、石山に籠もる本願寺勢との戦いの際、織田軍が総崩れになり、織田家に代々伝わる旗すら敵軍の中に放り出して織田軍が逃げ出した際、甲冑すらつけない武士が本願寺軍の中に駆け入って瞬く間に敵軍を倒してその旗を奪い取り織田軍に返却してきたところ、それが前田慶次郎であったという。
 軍が崩れて逃走状態になった時はどのような勇者もひるんでしまい、ただひたすら逃げることを考えるものである。
 笹の才蔵として有名な可児才蔵ですら、退却の際にはただひたすらに逃げており、総大将が才蔵の馬を所望しても貸さなかったというのである(小牧・長久手の際の羽柴秀勝の敗軍の時の話である)から、前田慶次郎の群を抜いた武勇と度胸のほどがわかる話であり、織田の軍勢は前田慶次郎のこの働きに「鬼神のごとし」と感じ入ったという。
 旗を受け取った武将は、「この功をもって織田家に帰参されよ」と水を向けたが、前田慶次郎は信長に含むところありとして、帰参しなかったというのである。

 その後、滝川益氏の軍にいたとも、帰参して前田利家の軍勢にいたともされるが、ともあれ、関ヶ原の戦いが起こった時点で、前田慶次郎の武勇は世にかくれなきものであったようである。
 関ヶ原の当時慶次郎は牢人していたが、上杉景勝と家康が激突する情勢を見て上杉家に仕官し(戦争の間だけ仮の仕官である)、敗者の側についた慶次郎の名を後の世に残す比類なき働きをするのである。

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2008年11月19日 (水)

電車の中で騒ぐ子ども

 私は電車の中で騒ぐこどもが嫌いである。
 親が叱りつけてもどうしようもない場合はまだ許せるが、だいたいが騒いでいる子どもの親はそうした騒いでいる子どもを放置している。

 昔はそうした子どもは電車の中に雷オヤジがいてしかりとばされたのだが、今はそういう子どもを放置して騒がせているような親に限って自分のところの子どもが叱られると逆ギレするのである。権利と義務は表裏一体で、義務を果たしているからこそ権利を主張出来るのであるが、義務を果たさないで権利ばかり主張する傾向の最たるものである。
 そういうことで、最近はあまり電車の中でしかりとばす場面に出会わないし、私自身も仕事柄自ら紛争の当事者にはなりたくないので、「うるさいなあ」と思って黙っている。

 ただ、昔一度東京かどこかに行く新幹線のグリーン車(仕事の出張であった)に親子連れが居て、騒ぎまくって居た。
 シートをひっくり返して親子で向き合っていて、シートの上に子どもが立って、前の席にいる私の方をチラチラのぞき込んで来ていた。
 私もしばらく無視していたが、だんだん頭に来て、次にのぞき込んで来た時に、頭をガツンと怪我をしないように軽く殴ってやったことがあった。うるさく言ってきたら切れてやろうと思いつつ。
 そうしたところ、その子どもは目に涙を溜めてすうっと消えていき、その後は東京に行くまで大人しくなったのであった。
 その子の親は、「あら~。○○ちゃん。大人しくなったわねー。賢いねー。」と自分の子どもが叱られたことにも気づかず、呑気にしていたのであった。
 お前が先に怒らんかい、と思いながら、私は東京までゆっくり眠ることが出来たのであった。

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2008年11月18日 (火)

つらい相談

 法律相談に行くと、弁護士側からするとどうしようもないつらい相談が当たることがある(私を含め、私の周囲にはそうしたつらい相談があたる弁護士が割合多い)。
 法律相談でぞんざいな口の聞き方や受け答えが不適当だとして、弁護士会に苦情が来る弁護士は結構多い。法律相談に行くとパーテーションで仕切られているだけの相談室もよくあり、そうした相談ではこちらが相談待ちの時間に隣の弁護士の回答が聞こえてくることがあるが、「よくあんな物の言い方するなあ」という弁護士がいることも事実である。

 性格的にクセのある相談者が来たり、何度も相談に来たりしている相談者が来ると弁護士会の方も心得ていて、そうした問題発言をする弁護士は避けているような気がする。
 もちろん私が相談がうまいと言っているのではなく、法律相談が一種のカウンセリング的機能を果たす必要があるということを理解していない弁護士もまだまだいるということである。

 しかし、つらい相談が来ると、相談者だけでなく、本当に弁護士にとってもつらいものである。
 弁護士としても、せっかく相談に来てくれたのであるから、帰られる時に気分良く帰って欲しいが、法的に不可能なものは不可能というしかないこともあるし、それが相談者にとって嬉しくない回答であることも分かっていても、プロとして法律家としての見解を言わざるを得ないのである。

 相談者としては、自分の困り事を何とかして解決したいと考えているものだし、それを求めてやってくるので、弁護士からの回答に満足せず、時には回答した弁護士に対して怒り出すこともある。
 相談者の方の立場になれば、自分の置かれている紛争(本人は紛争と思っていてもそうでないこともあるし、申し訳ないが病気であるとしか考えられない人もおられる)が全く解決出来ないといわれて怒りたい気持ちも分からないではないが、だからといって出来ないものを出来るとはいえないのである。

 つらい相談には、相談者自身に問題がある場合もあれば、ご本人や遺族にとって、全く落ち度がないにもかかわらず、法的に救済出来ない事案というのもあり、そのようなときは相談を聞いていて本当にこちらも何か光をさしてあげられる答えを出してあげたいと思うのだが、法律家である私にはどうしようもないことがある。
 法律は万能ではないのである。

 長い長い相談が終わって、「何にもなりませんでしたわ」「弁護士は何にも役に立ちませんな」「泣き寝入りですか」などと捨て台詞を吐かれて帰られる時もある。
 そういわれてもじっと耐えざるを得ない。
 出来るだけ解決の方法を探すが、どうしようもない事案というのはあるのである。

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2008年11月17日 (月)

血液検査

 私は常に酒を飲んでいるイメージがあるのか、「血液検査したら悪いだろう」と言われたりするが、酒は外で週に2~3回飲むくらいで自宅では飲まない(飲むとはてしなく太る)ので、実のところ検査結果はいつも良好である。

 弁護士会の定期検診は人が多くて並ぶのが嫌だという理由で13年間行ったことがない。

 その代わりに、その時々のかかりつけの医師のところで検査をしてもらっている。
 人間ドックは1度しか行ったことがないが。
 先日も血液検査をしたが、何も悪いところはなかった。
 コレステロールとか、尿酸値とかも正常そのものである。

 弁護士は痛風(尿酸値があがると発病する。風が吹いても痛いから痛風という。足の親指がとてともなく痛む)になる人が多いが、個人的には痛風はぜいたく病というよりは、ストレスからなるものではないかと思っている。
 司馬遼太郎の対談集で、医師の対談相手が、「尿酸値が高い子どもは自分の指を噛みきるが、尿酸値を下げるとそうしなくなる」というので、攻撃性と尿酸値は関連しているような気がする。ストレスにより攻撃的になり、それに連れて尿酸値があがるのではないかと思うのである。医学的根拠は全くないが。

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読書日記11月17日

「ブラウン神父の童心」G・K・チェスタトン。松本清張の小説の中で引用されていた作品があった(見えない男)ので買ってみた。世界の名探偵のような本を昔持っていて、そこに描かれていた名探偵ブラウン神父。推理小説の王道とはかけ離れた作品であるが、面白い。死体を目立たなくするために無謀な突撃をした将軍の話だとか、人の心理的盲点を突いた見えない男が秀逸。

「一一番目の志士」(上)(下)。司馬遼太郎。架空の志士が主人公だが、司馬の筆があまりにも見事なので実在の人物のように思えてしまう。騙されていた人もいたようである。武蔵の二天一流を使う主人公の話。主人公は剣はめったやたら強く、どこにいっても女性に愛されるのである。為になるところはない作品だが、娯楽小説としては面白い。

「蒼い描点」松本清張。女流作家の贋作疑惑に始まる連続殺人事件。犯行は過去にそのその発端がー。670頁くらいある作品だが、面白くて2日で読み終わってしまった。昨今の駄作ばかり出しても作家と呼ばれている人たちに比べて筆の運びが全然違うのである。

「自意識過剰!」酒井順子。負け犬の遠吠えという独身女性を描いたエッセイで一躍有名になった作者のエッセイ。自意識がいかに私たちの行動を支配しているかがわかる。自分のことを話ししているようで、「これは実はあんたなんだよ~」といわれているような気になってくる。手軽に読める。

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2008年11月15日 (土)

老人の交通事故

 老人が道路を横断中に自動車にはねられるという事故形態は割合多い。
 逆に老人の運転手による事故も一定割合ある。

 これは、速度に対する感覚は老化しても落ちないからであるといわれている。
 その代わりに、肉体は衰えるので、若い頃のままのスピード感覚で道路を横断しはじめたところ、間に合わず衝突するというものである。
 逆に、自動車の運転も、スピード感覚は落ちないが、肉体の方は衰えているのでとっさのハンドル操作・ブレーキ操作が間に合わず、衝突してしまうというものである。

 交通事故の事件においては、被害者が老人である場合、そうした行動を予測すべき義務が運転手にかされる。過失割合を判定すべきときには、老人であれば老人であることによって、過失割合が老人に有利に斟酌されるのである。
 自動車の運転についてもシルバーマークを貼っている自動車をみかけるが、これは初心者マーク同様周囲が注意喚起されるので有効だと思う。

 私自身は、まだ老後のことは考えられないが、確実に体力は落ちてきていて、白髪も少し出てきているので、鍛えなおしたい気持ちもあるが、その気持ちの一方で酒もやめられない今日このごろである。

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2008年11月14日 (金)

コンビニ

 私はよくコンビニで買い物をする。仕事帰りには普通のスーパーなどが開いていないという理由もあるが、コンビニの内情を仕事などで知ると、なんとなくコンビニで買ってあげたくなるのである。
 経営者には利益があまり残らず、本部が儲かる仕組みであり、おじさんとかおばさんが若い子に入っているのは店長とその奥さんであることが多い。バイトを入れるとその分人件費がかかるので、自分自ら店に入るのである。
 睡眠時間を削って深夜勤務などをしていたりする。

 そういうコンビニをみると、なんとなく事件で聞いた話を思い出して買ってあげたくなるのである。コンビニをしていて破産した人もいた。
 もちろんうまくいっている店もあるとは思うが、睡眠不足気味で疲れた夫婦らしき経営者の店を見ると、そういう店で優先的に買ってあげたくなるのである。
 ささいなものしか買わないが、まとめて買うので支払は3000円とか4000円になる。
 コンビニなどでは普通2~3品しか買わないであろうから私の後ろに並んだ人は待たされることになる。
 普段は本とか仕事に必要な服とか以外はあまりお金を使わないので、コンビニで豪遊するときが私にとってはちょっとしたストレス解消である。

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2008年11月13日 (木)

UMA

 未確認生物のことである。
 少し前にも書いたが、私はこうした未確認生物の話が好きである。
 キワモノと思われる話(吸血生物チュパカプラとか)から、信憑性のある話までみんな好きである。
 

 化石というものは意外に早く出来るのではないかという仮説から書かれた恐竜と人間が共生していたという本を読んだ時には、ネッシーなどはその生き残りではないかと考えたりしていた。この本によると当時は巨人がいて、巨人は重力に負けて絶滅し、体が小さい現生人類は生き残ったというのである。巨人がいたかは微妙だと思うが。
 恐竜が生きていた頃は今よりも重力がなく(今と同じ重力だと恐竜は歩行すら出来ないという実験を前にテレビでやっていた)、そのため恐竜は巨大化していたという仮説もある。
 そうであるなら重力の影響を受けない海にはまだまだ未確認生物がいるであろう。
 個人的にはシーサーペントと呼ばれる海竜などは現実に存在する可能性が高いと思うのである。中世に海で目撃され、何隻もの船を沈めたとされる怪物である。

 日本の国も人間にとっては広いので、まだまだ全ての地域を調査出来たわけではあるまい。絶滅したはずのニホンオオカミとか、ニホンカワウソとかもどこかで生息していないかなどと時々思うのである。

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2008年11月12日 (水)

渓流のルアー

 ルアーフィッシングはあまり得意でないのでいい思いをしたことがそれほどない。
 日本の渓流は木が迫ってきていて、中々ルアーに適するところは少ないが、一度渓流でルアーを引いてみたいと思っていた。

 司法修習中に、北海道で支笏湖や渓流に釣行(ヒグマが出るかもしれないようなところ)に4~5回行ったが、全然釣れなかった。目の前で検察事務官の人にニジマスを釣り上げられて悔しかったことを覚えている。川の規模が本州に比べて大きいのでルアーを引くのに適していたのである。

 本州では中々ルアーを引くに適する渓流はなかったのであるが、滋賀県のある渓流に釣行した時、ルアーを投げられるスペースと深みがあったので、ルアーを引いてみた。
 スプーン、スピナー(ルアーの名称)といろいろと変えて、サイズも変えて試して引いてみる。
 季節は5月で、暖かく非常にいい天気で気持ちがよい日だった。
 何回か引いていた時、黒色の毛がついているスピナーに、足下でヒットした。
 深みから出てきて、足下まで追って来ていたのが見えたので、少し足下でルアーを引くスピードを緩めた時、食らいついてきた。
 すかさずアワセをくれる。
 アマゴやイワナは疑似餌(ルアーとか毛針)では釣りにくい魚で、警戒心が強く、疑似餌に食らいついても食べ物ではないと感じるとすぐに口からはき出してしまうので、アワセのタイミングが難しい。エサ釣りでも針があると感じるとはき出すと思う。
 足下でヒットしたが、相当の手応えである。
 中々上がってこない。
 少し糸を緩めてやりとりをして、ようやく上がってきた。
 30センチほどのアマゴであった。養殖されたものではなく、ヒレが綺麗であったので天然物か、幼魚の時に放流されてネイティブに近いアマゴのいずれかであった。ここまで大きくなるにはある程度の年数がいったであろう。

 アマゴという魚は、渓流の女王と呼ばれる魚で大変美しい。アマゴよりも上流に住むのが岩魚(イワナ)であり、味は岩魚の方が濃くて美味しいかもしれないが、岩魚はともすればぬるぬるしてヘビのような魚であるのに対して、アマゴは銀色のお腹に赤い斑点が大変綺麗であるので人気もある。

 その後何回か同じ場所でトライしたが釣れなかったので、帰宅。
 30センチのアマゴは塩焼きにされたのであった。
 
 釣り番組で外国の河川でルアーを引いて次々にヒットする釣行記を放映していたりするが、お金を貯めて暇が出来たらああいう釣りツアーに行ってみたいものである。

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2008年11月11日 (火)

野ゴイ釣り

 長らくやっていない釣りだが、野ゴイ釣りを昔はよくしたものである。
 野ゴイ釣りは、1日1寸と言われて、1尺(約30センチ)のコイを釣ろうと思うなら、10日間は通わないといけないといわれた。
 野ゴイ釣りに憧れたのは、小さい頃に連れて行ってもらったコイの釣り堀がきっかけであった。
 その釣り堀には、そこで連れた最大のコイの魚拓(魚の体に墨を塗って半紙にべたっとするアレである)が貼ってあった。
 そのコイがとてつもなく巨大であった(1メートル20センチくらいあった。)。
 これを見て、当時小学3年か4年であった私は愕然としたのであった。

 その後、コイを調べると、最大で2メートルになるものもいるとも書かれていたり、父親が小さい頃、日高川(父親の実家のすぐ側を流れる川)の淵に潜ると、畳一畳分くらいあるコイが淵の底に居たという話を聞かされたということを言ったりしていたので、益々巨ゴイ釣りに憧れた。当時愛読していた釣りキチ三平でも巨ゴイ釣りはよく出てきていた。時には三平もつり上げられない時があったが(あまりにコイが痛々しくて釣れなかったのである。確か太郎鯉とかいう題だった)、三平は毎回毎回巨ゴイとか巨大魚を釣り上げるのである。現実にあんなヤツがいたら嫌だろうな。

 さて、何回か釣行して、小さい野ゴイは釣ったことがあるが、純然たる河川や湖沼で巨ゴイを釣った経験はない。悔しいが。

 小学6年生の頃に、田舎に釣りに行った時に、叔父にサツマイモをふかしてもらい、野ゴイ用の太いサオを持って日高川に釣りに出かけた時に、叔父は「そんなでかいコイはかからない」というので、タモ網を持っていかなかったところ、私のサオに80センチはあろうかというコイがかかり、タモ網さえあれば釣れたであろうのに、足場が高いため抜き上げようとして糸が切れたことが最大に悔やまれることである。ウキが引き込まれたのでアワセをすると、竿が折れるかのごときしなり、小学6年生の私は川に引き込まれるかと思った。
 何がかかったのかと思い奮闘数分した結果がこれである(もう少しで釣り上げられるところまで魚体は見えていた)。

 逃がした魚は大きいのである。

 その後は日高川の汽水域でのボート釣りや、渓流釣り、投げ釣りに以降した為野ゴイ釣りはしていないが(コイの竿は太いし、本格的にやろうと思うとお金がかかるというところもあった)、もう少し歳がいったら野ゴイ釣りもしてみたいと思うのである。
 鯉釣りは基本的に置き竿なので、時間がゆったり流れる釣りでもある。
 日々時間に追われているので、最近そうした釣りがしてみたくなっている。

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2008年11月10日 (月)

コート着用

 冷え込みがきつくなってきたので、この土日にコートを出した。
 先週に駅でコートを着ている人を見て「むう。俺よりも早くコートを着るとは。」と対抗心を燃やしていたのである。
 誰よりも早くコートを着て最後までコートを着ている私としては、先にコートを着られることは屈辱以外のなにものでもない(嘘)。
 

 最近は秋がなく、すぐにコートが必要な季節になるような気がする。確か去年もそうであった。
 数年前に、生地の薄い春秋用のステンカラーのコートを買ったのだが、ほとんど着る機会がないのである。このコートはベージュで、着てみると私にあまり似合わなかったので(買う時は似合うと思っていたのだが)、春秋用のコートを新調したい気もするが、着る機会があまりないので、買えないままである。
 冬用のコートのうち、もっとも薄手のものを出してきて(厳冬期には着られないと買うときにバーバリーの店員に言われた一品である)、それを着てきたが、まだまだコートを着ている人は少ない。
 関西の人はコートを着るのがあまり好きではないようで、12月の寒い時でもマフラーを巻いて震えている人がけっこういる。コートを着るのが面倒臭いというのがその理由だろう。
 鞄も同様で、結構鞄を持たないで手ぶらで歩いている人がいる。
 スーツにサイフ、定期、携帯など諸々のものを入れて歩いているようである。
 肩凝りがひどい私には、スーツのポケットに重いものを入れて歩くということはとうてい出来ないのである。
 今年の冬は寒いのか暖かいのかはわからないが、風邪やインフルエンザの予防をしないといけない季節になってきた。
 日本が地中海性気候になればいいのにといつも思うのであるが(冬暖かく夏は過ごしやすい)、日本には地中海がないのでそうはならないであろう。
 また、地中海性気候になれば、稲作には適しないので、日本が米どころでもなくなってしまうだろうし、四季折々の風情もなくなってしまうので、国内旅行がつまらなくなるだろう。
 最低気温が8度を切るとコートをはおらないと寒いらしいので、そろそろそういう季節である。

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2008年11月 7日 (金)

自画自賛するロースクールの教員弁護士などの思惑

 ロースクールの質は悪くないとか、合格者はもっと増やしても大丈夫という弁護士や規制改革委員が多いが、彼らは実態を見ていない。

 不合格者が増え、かつ、就職先もままならない状況で合格者を増やしてどうしようというのかわからない。これから先に弁護士などを目指す人にとって、司法試験というものは、ロースクールの学費、卒業後5年以内に3回の受験で合格しなければならないという制約、そうして合格したとしても就職先がなく、給与も低額にされるので、ロースクールの学費で借りた借金の返済に追われるという悪質な制度となってしまっている。これでは萎縮してしまい有能な人材は来ないだろう。

 そうであるからこそ合格者を増やせというのは全く間違った議論であり、合格させるべき水準に至っていない人が弁護士になれば、迷惑するのは顧客である。法的知識・素養が不十分な人を司法の世界に入れるということは、トレーニングされていない医師に開腹手術をされるようなものであり、最低限の能力は必要であって、合格水準は絶対に下げてはいけないのである。

 だいたい、規制緩和をし過ぎると失敗するというのは既にアメリカで実証されていて、アメリカで実証されていることをわざわざ日本で行うことの意味がわからない。

 ロースクール擁護派の中には、そうでない人ももちろんいるだろうが、「自分の教員としての立場」や、「大学の存続のため」に発言しているとしか考えられない人もいる。
 規制改革委員会の議事録などを見ていると、胸が悪くなるような低劣な議論がなされている。日弁連が増員を緩やかにというと、「利益確保のため」「業界のエゴ」といわれるが、ロースクール擁護派も、「利益確保」「業界のエゴ」といわれても仕方がないのである。
 ロースクールはアメリカで失敗をしているといわれていて、そのような制度をわざわざ日本に持ってきた意味もわからない。これから先日本の総人口は減り続けることが予測されていて、子どもだけでは成り立たない大学の経営の一つの改善策として、社会人がロースクールに入れば学費収入が得られるということもあったのではないかという気にさえさせられる。
 後ろにヒモがついてたり、何らかの利益を代弁している人の発言ほどそらぞらしいものはない。

 本当に日本の国を憂えて、司法制度をよくしようとする気があるのであれば、裁判官と検察官の増員も声を大きくして叫ばれるべきだが、そのような声は司法改革を進めた人たちからは聞こえてこない。
 司法改革を進めた中坊公平氏に至っては弁護士を廃業して法律家ですらないが、未だに司法改革関連の活動をしているようである。人というのは引き際が重要であると思うのだがどうだろう。
 間違った制度が是正されることを願うばかりである。

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2008年11月 6日 (木)

怒るべき時

 怒る時は口先だけで怒れ、心底怒ったら怒った方の負けであるというのは昭和初期の剣道家の格言であるが、口先だけで怒るにせよ、怒らないといけないときというのはあるように思う。
 怒るべき時に怒らなければ、人はその人を軽んじるようになるだろう。

 あるとき、豊臣秀吉がまだ信長に仕えて間もない頃、信長が秀吉が道を通るのを見て、塀の穴から一物を出し、小便を秀吉の顔にひっかけたことがあった。
 信長は、こうしたいたずらが好きであったようであるが、このような侮辱をされた時の家臣の対応を見てその人物をはかっていたようにも思える。
 秀吉は、このとき、信長に対して烈火のごとく怒り、「いくら主君でもやっていいことと悪いことがあります。謝っていただきたい」と怒り、信長も秀吉に謝罪したというが、信長は謝りながら笑っていたという。
 信長は、怒るべき時には怒ることが出来るというような人物を愛していたところがあり、このとき秀吉が怒らなければ、「人として信用できない」ということで後の秀吉はなかったに違いない。

 加賀百万石の基礎を築いた前田利家も、若い頃織田家を牢人していたことがある。信長のお気に入りの小姓か小坊主かが利家の笄を盗み、利家はこれを信長に訴えたが、信長はこの小坊主が気に入っていたため、とがめだてしなかった。
 利家はこれを怒り、信長が回廊を歩いている前でこの小姓か小坊主かを切り捨て、そのまま逐電したのである。
 その後、利家はたびたび織田家の合戦に陣場借りをして出陣し、功を立てたが信長は帰参を許さなかった。
 あるときの戦いで、兜首を取り信長の眼前にそなえたが、信長は無視していた。これを見て利家はさらに敵陣に駆け込み、傷を負いながら2つ目の兜首を信長の前にそなえたが、相変わらず信長は無視をしていた。利家が死を覚悟して3度目の首を取りに敵陣に駆け入ろうとした時、側近が「このままでは又佐が死にます」と述べて、ようやく信長は利家を許したというのである。信長の方もつまらない意地をいつまでも張って利家を失うことの愚かさを悟ったというのである。利家も、怒るべきときを過たなかったがために、人に軽んじられることを免れたということである。ただ、戦国時代は怒るということはこのように命がけであった。

 仕事上でもここ一番で怒るべきときがあるように思う。怒り方やタイミングを間違えば全てを失いかねないが、逆に怒らないことも失うものが大きいときがあるように思われる。

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2008年11月 5日 (水)

食人

 生き残るために人の肉を食べたことによる苦悩を描いた作品としては「ひかりごけ」などが有名である。
 戦国時代には籠城の際、兵糧攻めをされた時に牛馬を殺し、壁土を喰い、それでも食べるものがなくなると死者が出た場合にこれを喰らったという記録があるが、平時に人を食べるという風習はこの日本にはないようである。飢饉の時にそのようなことがされたという記録もある。

 司馬遼太郎の項羽と劉邦を読んでいると、その頃の中国では食人の風習があったようである。劉邦の妻である呂皇后は、劉邦の死後恐怖政治を行い、漢帝国樹立に功があった功臣を殺し、その肉をハムにして、自らも食べて臣下に贈ったという記録があるようである。
 三国志の原典では、劉備玄徳が雪の中を彷徨い、飢えていた時に助けて貰った際、その家では食べるものを差し出せなかった為に、その主は妻を殺してその肉を食べさせて、劉備は命をつないだという逸話が書かれている。劉備も人を食べさせられたことに苦情をいわず、むしろ主の行為に深く感謝したという話である。
 この話は日本人受けしないために、主が大事にしていた盆栽か何かで暖を取ったという話しに変えられているはずである。
 日本では死によって全ての罪が許されるという感覚があり、死んでしまった人の墓を暴いてむち打つというようなことはせず、蘭学者が刑死した罪人の肉体を解剖したときも、罪人が「死によって罪は償われたのになぜ死後まで辱められるのか」と騒いだ記録が残っている。
 中国では、復讐のためや新王朝が成立した時には、仇や前王朝の墓を暴き、死体に鞭をうつということが行われていた。食人の風習も死体に至るまで辱めるというこのような感覚と無縁ではあるまい。

 変死した死体を解剖することに遺族が感情的に抵抗感があるというのも、こうした日本人の感覚と無縁ではないのだろうと思う。生きている間に辛い目にあったのに、死んでからも体が切り刻まれるというのは耐えられないというところである。
 ロシアなどでは死体に遺族に所有権はなく国が自由にすると聞いたことがあるが本当だろうか。

 死の病原体プリオンという本を読んだ時には、食人の風習がある部族で、男性だけが食人出来るので、男性にだけ死体にあったプリオンが体内に入り、狂牛病の牛のようになってしまう場合があるという記載があった(蛋白源が少ないため、食人によってこれを補うというのである)。
 いささかグロテスクな話となってしまったが、私は極限状況になってもそうした行為には及べそうにないし、及んだ日本人は通常は「ひかりごけ」のような苦悩を負うのであろう。
 

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2008年11月 4日 (火)

読書日記11月4日

 「異次元の刻印」(上)(下)。グラハム・ハンコック著。
 神々の刻印などでベストセラー作家となったグラハム・ハンコックによるノンフィクション。
 麻薬などで多くの人が見る「ビジョン」が共通していること、宇宙人による連れ去り体験など多くの人が教えられもしないのに共通する体験は異次元の存在とつながっているのではないか、その異次元のビジョンを見たことが、数万年前に突然人間の精神世界が進化した原因ではないかという仮説から書かれた著作。これまでの著作と同様、客観的に存在するデータから仮説を立てて実証していくという論法で書かれている。
 ただ、異次元の存在がいるのではというところで、これまでの著作と比較してオカルトチックになってしまっている感は否めない。
ただ、人間を含めた生物のDNAがなぜこのように上手く複製をし、細胞の集合体が生物を生物たらしめているのかということは実のところ全く分かっておらず、原初生命は、他の星からやってきた隕石にくっついていたのだという仮説すらまじめな学者が唱えている状況では、何が本当の真実かということを実証することは困難であろう。
 内容的には大変面白いので、一読の価値はある。

 「胡蝶の夢」(1)~(4)。司馬遼太郎著。司馬遼太郎が、幕末の日本を、蘭学者を描くことにより描き出した作品。かなり長い長編で、これまで蘭学者(蘭学を学んだ医者)については全く知識がなかったことから内容を把握するのに困難があったが、こうした幕末のいわば「脇役」に光を当てて、幕末の一場面を描き出す司馬の手法には相も変わらず感嘆するほかない。

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2008年11月 3日 (月)

21回法曹サッカー全国大会

 この土日は第21回法曹サッカー全国大会であった。
 大阪弁護士会が主催で、静岡県の御殿場で行われた(グラウンド確保の関係上)。

 法曹人口の増加に伴い、サッカー部が増えて、今年は16チームが参加した。
 他のチームはメンバーもロースクール生、司法修習生が多数入り、もの凄く若返っていた。法律事務所の職員も何名か参加しておられたが、ものすごく若い人が多かったという印象であった。

 日々の仕事をしていると体力を削り取られるので、なかなかこうした学生ないしは学生と変わらない人と闘うのは難しい。
 若いということはスタミナもあり、早さもある。また、サッカーを近い時期まで現役でしていたということでもあり、我々オジサンサッカー部がまともに闘うのは大変厳しいものがあった。
 今後は、マスターズリーグとヤングリーグにでも分けてもらうか、若い助っ人は1ハーフ三名までとかにしてもらわないと、とてもたちうち出来ないと感じた大会であった(あくまで私を基準としているが。京都にはもの凄い選手がたくさんいるので、その人たちは戦える)。

 私が主将を務める京都チームは例年通り2つチームを出した。例年は、チームの構成をだいたい実力を均等にするのだが、今年は2年ぶりの優勝を狙うため、ヤングチームとマスターズチームに分けて、マスターズチームは楽しみながら少しでも上を、ヤングチームは優勝を狙うというコンセプトで臨んだ。私は平成18年に決勝ゴールを自分で決めて優勝させてもらっているのと、実力的にとてもヤングは無理なので、マスターズでゆっくりやることにして、ヤングチームの監督も兼ねさせてもらった。

 悔しいので結果の詳細は省くが、結果的にはヤングチームが5位、マスターズチームが12位であった。昨年優勝した大阪メインチームが7位という波乱もあり、まさに全国法曹サッカー下克上時代の到来であると感じた。
 優勝は横浜メインチーム(初優勝)。修習生を新戦力として数多く入れてきたことが勝利につながったのではないかと推測している。

 来年もヤングチームで優勝を狙うという基本的コンセプトはこれで変えられなくなったが、マスターズチームもあまり勝てないのも悔しいので新戦力を補充する必要があると思っている。
 ヤングチームも新戦力を補充して、是非とも次年度こそは優勝したいものである。
 しかし、新戦力を補充すると、旧来のチームメイトの出場機会が減るということでもあり、辛い選択を迫られるところもあり、非情の決断となってしまうのが辛い。
 

 私個人としては、自分のことをオジサンといって諦める前に、もう一度鍛えたいと考え直しているが、例年、だいたい大会後一月すると忘れてしまって酒を飲んでしまうのである…。

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