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2009年9月30日 (水)

大阪城内での大名の行儀の悪さ

 豊臣秀吉が大阪城を建築し天下統一をした後、大名達の行儀は物凄く悪かったらしい。
 腕一本でたたき上げてきたような大名が多いので、行儀も何もあったもんではなく、すぐに口げんかを始めるわ、そのあたりで小便はするわ、落書きはするわ、寝転んだまま話はするわ、まあそれは酷かったようである。

 家康が天下を統一すると、そうした行儀の悪さを無くすためにも礼典のようなものが重々しく取り入れられて、将軍に直接お目見えすることが出来る大名は少なくなった。
 秀吉が、茶会などをして一般人の中に入っていったのとは全く逆の方向であったのである。
 それが将軍を権威づけることになり、江戸城の中での大名達は行儀がよくなっていったといういうのである。

 前漢を建国した劉邦も、元々は町のごろつきのような男であったので、皇帝となった後も敬わないので、皇帝を重々しく権威づけたところ、皆いうことを聞くようになったという話もある。

 一定の礼式というのは、人にいうことを聞かせるためには必要なものなのであろうとこうした逸話を見聞きすると思うのであるが、権威づけられた席にすました顔をして座っているというのは、恥アル者にとっては相当つらいことのように思われるのである。

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2009年9月29日 (火)

読書日記9月29日

 「余話として」(文春文庫、司馬遼太郎)。
 司馬遼太郎の歴史エッセイ集。
 おもしろかったのが、「アメリカの剣客(タイガー・モリ)」、「村の心中」「要らざる金六」「千葉の灸」。
 龍馬に恋していた千葉道場の千葉さな子は、明治時代になって、落剥して灸を据えることで暮らしていた。私自身は千葉さな子と龍馬の間には男女の関係があった(龍馬というのはそのあたりいい加減なところがある男だったと思うのだが)と考えているのであるが、千葉さな子は、明治維新の後、「自分は坂本龍馬の妻であった」として独身を通した。
 実際のところは龍馬には京都におりょうという妻がいて、新婚旅行までしているのであるが、さな子にそう思わせるだけの関係はあったのではなかろうかと考えているのである。
 明治後は龍馬は忘れられた存在になり、龍馬がクローズアップされたのは司馬が「竜馬がいく」を書いてからである。坂本龍馬の妻でしたといっても全く知名度がなかったのである。明治を作るために死んだあまたの志士たちが見直されるのは実際のところ昭和に入ってからであり、明治時代は顧みられることもなかったようである。
 さな子は、死語、その墓には「坂本龍馬の妻」として墓石に刻印されたことで司馬はエッセイを終わっている。

 「猫大名」中公文庫。神坂次郎。
 史実に基づいた作品で、全く有名でもなければ歴史に何らかの大きい働きをした訳でもないわずか120石の大名(これでも江戸時代の大名なのである。ただし、家格は高く、新田源氏の嫡流ということで、諸大名の中でも老中に次ぐ席次)の明治維新を描いた作品。
 これはおもしろい。こうした大名が存在したこともそうであるし、なぜ、表題が「猫」大名なのかもおもしろい。別に殿様が猫に似ていたとかいうことではない。
 読んでみてのお楽しみである。

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2009年9月28日 (月)

ナミタロウ

 今手元に資料がないので、若干不正確かもしれないが、新潟と山形の県境にある湖に「ナミタロウ」というUMAがいるということである。
 ナミタロウは、体長3~5メートルで、コイがその正体だと考えられている。

 「日本怪魚伝」(柴田哲孝著、角川文庫)によると、江戸時代に、琵琶湖の堅田の漁師が体長2.3メートルのコイをとったとあり(1792年、小林義兄の「湖魚考」という書籍に掲載されているという。)、東南アジアでは体長2メートル程度のコイは珍しくなく(開高健氏が東南アジアでコイのあまりに大きさに驚いている)、私の父親なども、父親の実家のそばにある日高川という川の縁に潜ると、畳1畳分くらいあるコイが居たという話が伝わっていることからして、2メートルを超えるコイがいたとしてもおかしくはない。

 水中にいる魚は実際よりも大きく見えるから、2メートルを超えると、3メートルとか5メートルとかという大きさに見えてもおかしくはない。突然それだけ大きい魚を見た場合には驚くであろうから、余計に正確な大きさを目測することは難しいであろう。
 ナミタロウはテレビなどで調査されたことはないようだが、これもタキタロウ同様、調査してもらいたいものである。
 自分でも機会があれば調査に行きたいものである。

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2009年9月25日 (金)

信長の野望・天道

 コーエーから出ている信長の野望の最新版が出た。信長の野望・天道である。

 この連休中、足も痛いので少しずつやっていたのであるが、まずシステムが、前の作品の「革新」とほとんど変わっていない。
 変わったのは、工作隊というので街道を造り、道で城と村や商人街をつなぐと、支配下においたことになるので、道を造る必要があるということくらいであろう。
 リアルタイム制や、その他の技術開発の点もほとんど変わっていない(今回は巧の町というのと原材料を支配下においていないと技術開発が出来ないことくらいが変わったくらいである)。

 買う意味があったのか、若干疑問ではある。システムがいきつくところまでいってしまったのであろうか。新しい試みは出来なかったのか。
 マイナーチェンジほどの変わりようでしかない。
 こんなことをしていたら、コーエーも先が短いぞ。
 まあ、天下統一シリーズなんて超マイナーチェンジで生き残っているから、そうも言えないのかもしれないが・・・・・。
 K藤S一郎君もUっちーも、買ってやってみよう。

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2009年9月24日 (木)

星の規模

 夜に庭に出て葉巻を吸っていると、星が瞬いているのが見える。
 見えているのは、実際には数十万年前、あるいは数億年前の光であったりするので、人間の生きている時間からすると、気の遠くなるような時間の流れである。

 そのような星の光を見ていると、人間社会の様々な出来事は、取るに足りないことばかりではなかろうかなァとも思ってくるのだが、実際にいざ自分の身になると、小さいことにこだわったり、あくせく生きてしまうのである。

 人によると、「その歳でサッカーしなくてもいいやないか。ゴルフにしたら。」とか、「他にも趣味はあるんだし(実はそんなにないのだが・・・。釣りと読書くらい)、もうサッカーはいいやん」とか言われ、星の瞬きを見て、一瞬それもそうかなあと思ったりもするのだが、いやいや待て、最後まで諦めず、あがいてみようとも思ったりするのである。

 膝が一瞬で治る方法ないかとも思うが、超人ロックでもないのでそれも出来ない。
 凹む凹む連休明けである。

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2009年9月23日 (水)

信長の特質

 「鳴かぬなら殺してしまえ不如帰」というのが信長を象徴する歌として世間ではいわれているが、実際の信長は全くそのような武将ではなかった。
 この歌からすると、極めて短気で、場当たり的な武将であったように聞こえるが、実際の信長は目的のためなら極めて迂遠な手段や遠大な計画が出来る武将であったのである。

 信長にとって、最も恐れた武将といえば、上杉謙信と武田信玄の2人である。
  信長は、岐阜の東で信玄と国境が接していた為、上洛するにあたり、また、上洛後もへりくだって信玄の機嫌を取っている。側近は信長に油断をしてはならないと進言したが、信玄は信長を気に入っていたようである。側近の進言に対し、信長が贈る贈答品の中で、漆器があったところ、信玄はあるときその漆器の角を削らせてみた。そうしたところ、漆器は何重にも塗り重ねがしてある重厚なものであったことがわかり、「こうした贈り物一つにもここまで細やかな心配りをする信長は信用できる」と言っていたのである。
 信玄じたい、当時は謙信からの侵攻を受けていたり、西上野の攻略に多忙で上洛軍を編成することなど出来なかったが為に、騙されていた風をしていたのかもしれないが、形の上では、信長は信玄を欺いていたことになる。
 上杉謙信にも屏風を贈って機嫌を取ったり、謙信上洛の暁には馬のくつわを信長自らが取るというようなことまで書いている。
 単純に短気な武将がこのようなことは出来ない。

 実のところ、信長は、美濃を獲るのに7年という歳月を費やしている。美濃を獲るために、小規模の軍勢を出して相手の情勢を探り、調略によって敵方の有力武将を寝返らせ、最後は一気に稲葉山城に攻めかかったのである。短気な武将ではこのようなことは出来ないであろう。
 目的を設定して、その目的達成のために戦略を練り、目的達成のためなら頭を下げることも何とも思わないふてぶてしさ(後に浅井・朝倉と和睦した際にも、天下は朝倉が獲り賜えと言っている)が信長の真骨頂である。
 そして、自らが強い立場になった途端、信長は過去の経緯などかなぐり捨てて非情になる。信玄に対しても、立場が逆転したような書状を送り、家康に至っては、一配下武将扱いである。
 なお、信長が松平信康(家康の長男)の英邁であったことから、将来の禍根を断つために信康に死罪を与えるようにしたという説があるが、司馬遼太郎が書いているように、信康は徳川家の家老からすると仕えにくく、徳川家を危難に導く後継者であった為に、家老の酒井忠次によって葬り去られたというのが実像であろう。

 現在の世の中にも英邁に見えて実のところ違う人や、豪快に見えて実は繊細な人、豪快さと繊細さを兼ね備えている人、様々であり、人を評する際には様々な注意が必要だと思うのである。

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2009年9月22日 (火)

膝の負傷

 膝の負傷の治りが悪いのと、周囲からも病院に行くように再々言われるので、病院に行ったところ、左膝の半月板が一部損傷、前十字靱帯も一部損傷であった。最初は「前十字靱帯が全部切れている可能性が高い」と言われていたので、それよりは軽傷であったが、やれやれである。
 敵と接触した時に、倒れてしまった方がよかったのであった。へんにふんばったせいで膝を傷めた。
 11月の全国法曹サッカー大会までには完治して、出場できるようにしなければ(引退したらといわれるが、サッカーをやめる気は全くないところがあほであるが)。
 医者によると、膝の周囲の筋肉もしっかりしているので、サポーターで固定するのもやめておこうということであった。

 副会長就任後、鍛える時間も減り(一応少しはトレーニングしているのである。そうしないと、39歳でサッカーは出来ないので・・・)、体重も増えたことも怪我の要因となっているであろう。まあ、先日のサッカーでも、ロースクール生とかと混じってサッカーしているのであるから、鍛えないとそりゃあ怪我もするかなという気もする。
 傷が癒えたら、この反省をもとに、きっときっと酒量を減らして、前よりは鍛えようと思う今日この頃である。

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2009年9月21日 (月)

エルボードロップ

 先日電車から降りる際に、乗り込もうとしている女性が手を挙げて肩あたりを掻いていたのだが、乗り込もうと思ってその手を思い切り振り下ろした際に、肘が私の肩にめり込んだ。
 ググっ。痛い。
 それなりに目方のあり私よりも背が高い女性だったので、かなり効いた。
 しかも完全なる不意打ちだし、相手にもエルボードロップを入れようという気はなかったであろう。

 手を振り回す時には、周囲をきちんと見渡して欲しいものである。

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2009年9月18日 (金)

ヤミ金今昔

 若い先生はヤミ金事件の経験がないため敬遠するようで、弁護士会の相談でヤミ金があると逃げるようである。

 昔のヤミ金事件は確かにうっとおしいものであった。相手は怒鳴るし、マニュアル通りの嫌なことを言ってくるし(借りたものを返さないヤツの代理人をするのか、先生は人間としてそれでいいと思っているのか、等)、弁護士事務所にピザが大量に注文されたり(もちろんヤミ金がしているのであるが)、消防車が来たり等あったものである。
事務所にいつまでも電話がかかったり、「関係ないから本人のところに行く」と言って本人に電話をかけ続けたりされたこともあった。
 地場のヤミ金だと、事務所まで怒鳴り込みに来ることもあったし、アパートの全ての郵便受けに、「○○号室の誰それは、借りた金を返さない詐欺師です」というようなチラシを入れたり等悪質であった。

 しかし、ヤミ金が次々に逮捕され、ヤミ金の悪のツールの確保が難しくなっていき、ヤミ金もだいぶ最近は大人しくなった。電話をすると、「わかりました」というのが多くなった。
 ヤミ金の悪のツールはプリペイド携帯と他人名義の預金通帳である。
 プリペイド携帯は、転々譲渡しても罰則がなく、プリペイド携帯で儲けていたある携帯電話会社は、それを是としているような雰囲気があったので、どこの誰が使用しているか分からなかったのである。
 預金通帳の譲渡も同様で、他人名義だと誰がヤミ金か特定出来ないのである。
 京都弁護士会は、日本で最初にこの問題に取り組んで「プリペイド携帯の譲渡禁止と、使用している人が分からない場合には使用の停止、預金通帳の譲渡禁止」を求めた意見書を書き、総務省にも交渉し、法律を制定させたのである。
当時の弁護士会のヤミ金問題を取り扱うところの座長は、私であったが、その後、法律制定後はヤミ金が大人しくなっていった。

 貸金業規制法の完全施行後、ヤミ金が増えることを警戒する向きもあるが、若手弁護士に対して十分な研修をしてもらい、ヤミ金だからと言って逃げないようにしてもらいたいものである。
 京都弁護士会では、ヤミ金向けのマニュアルを作成していて、こういわれたらああいうという、「切り返しトーク集」も載っている。ある女性弁護士などは、下の名前で呼ばれたとか、スリーサイズを聞かれることもあったようである。

 それに比べると今は楽なもんである。

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2009年9月17日 (木)

債務整理・過払い今昔

 私が弁護士になった平成8年頃は、あまり債務整理をする弁護士がいなかった。
 理由の一つは、今のように表計算ソフトがなかったので、利息計算をするのが非常に複雑であったことに加えて、業者と依頼者がどのような取引をしてきたかという取引履歴の取り寄せが中々難しかったからである。
 また、合意するのも中々手間であった。

 私が見ているところでは、現在過払いで売上をあげている弁護士や司法書士は、その頃からやっていた人ではない人が多そうである。
 数々の最高裁判決を消費者被害をやっている弁護士がしてきたり、あるいは交渉で結果を勝ち取ってきた後に出てきた感が否めない。

 今の若手弁護士は、多重債務相談に行けばそれなりに事件があり、マニュアルどおりにやっていればそれなりに収入が入るのであるが、昔の苦労は知らないであろう。

 利息計算については、手でしていた人が多かったし、京都では、「めんどくさいし、相手の言っている金額を認めて1万円ずつ払ったらすぐやで」ということをいうベテラン弁護士も居た。しかし、私はそれには納得がいかなかったので、自分で表計算ソフトを作り(今から思うとよくあんなことが出来たのだが)、弁護士会で配布した。後に修正され、今では市販されている書籍についているので、もはや私のソフトよりも使用しやすいものが出ているのだが。

 当時は割と重宝された。

 次に取引履歴の取り寄せについても、大手消費者金融でも、担当者と30分くらいは怒鳴り合いであった。これはだいたい皆そうであったようだ。少しずつ取引履歴の開示を求める弁護士が増えるに連れ、消費者金融の方もトーンダウンしていき、かつ、判例が出たりして、大人しくなっていった。しかし、そうなるまでは10社有れば300分怒鳴り合いをしなければならないので、相当体力精神力が削られるのであった。

 和解についても中々出来ず、昔は過払いはあまりなかったから(過払いが出るほど長期の人が少なかった)、返済する方が多かった。
 そうすると、将来利息をつけろとか、一括でないとだめだとか、様々な嫌がらせをいわれるのである。
 東京3会基準というのがあり、最終支払日の元本を、無利息で分割とするというのが原則とされていて、京都でも私が音頭をとってこれを導入した。
 以後はそれがスタンダードとなって、割合容易に和解が出来ていた。

 最近は、過払いだけやって、債務整理は地元の先生にという東京の事務所があるやに聞いた。そのため、日弁連が、「過払いだけをするのではなく、全ての借金の整理をするように」というガイドラインを出した。当たり前のことであるが、かようなガイドラインを出されても恥と思わないようでは、「士」ではあるまいと思うのだが、ビジネスライクな弁護士も増えたようである。

 この稿に取り立てて結論のようなものはないのだが、強いていえば、弁護士は昔の侍、武士と同じで、「恥アル者」でなければならないのではないかと思うのだが、どうであろう。

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2009年9月16日 (水)

読書日記9月16日

「とり残されて」文春文庫。宮部みゆき。
 ファンタジー的な要素が強い短編集。一番怖かったのは、「おたすけぶち」。
 宮部みゆきの筆力は相変わらずすごい。

「人間失格」。ぶんか社。太宰治。
 ずいぶん昔に読んだ記憶があったが、本屋で何気なくとったので購入。
 中学生くらいに読んだ時と、今とではずいぶん印象が違うものである。
 中学生の時は、ほとんどわからず、変なオジサンの生涯記程度にしか思わなかった。
 読むそのときそのときによって、読書は違う発見をもたらしてくれるものである。

「薄桜記」新潮文庫。五味康介。
 柳生武芸帳を書いた五味作品。
 むちゃくちゃおもしろい。どこまでが史実でどこまでが虚構なのかわからなくなる。
 忠臣蔵を舞台としているが、ほとんどそちらはサイドストーリーとなっている。
 時代小説かくあるべし。

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2009年9月15日 (火)

子どもは残酷(カエルの死)

 子どもの頃、田舎で裏の田んぼでカエル釣りをした。
 竹の棒に糸を結んで、その先にトンボをつけて、田んぼの中へ放り込むと、でかいでかいトノサマガエルが釣れるのである。

 面白いように釣れるので、何回かしていたのであるが、一度帰る直前に釣っていて、入れ物がなかった為、ふたのついている飼育用ケースにバカバカとカエルを入れておいた。
 帰る前に逃がそうと思っていたのだが、トイレに行って帰ると呼ばれたので、そのまま忘れて大阪に帰ってしまったのである。
 カエルのことはすっかり忘れていた。

 2週間後、物凄い臭気がするので、叔父が裏の田んぼの方に行くと、カエルの屍体が飼育用ケースの中で腐っていたそうである。
 物凄く怒られた。

 あとはヤドカリを取ってきて、飼育用ケースに入れて、これも世話を忘れてしまい、カラカラにひからびさせてしまったことある。
 イモリを買ってきて、同様の目に遭わせたこともある。

 大変今となっては反省している。

 先日朝風呂に入っていたら、蜘蛛が風呂の床を歩いていて、水流で流されてしまった。
 仕方がないので、湯が流れていくところの蓋を開けて、蜘蛛を救出した。
 蜘蛛は救出される際も抵抗していたが・・・。

 そういえば、今日は私の誕生日である。誕生日なのに、暗い話題である。

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2009年9月14日 (月)

9月12日法曹サッカーチャンピオンズリーグ

 大雨の中、試合開始。
 東京とは未知の世界の30分ハーフ。
 前半開始早々に、はねかえった球が東京のフォワードの前にこぼれてしまい、無念の先制を許す。その後ワントップのY田君にボールを集め攻撃するが、得点を奪えず1対0で敗退。

 その後は、大阪チームと東京チームと交流戦を何回か行った。
 大阪チームとは交流戦3対2で勝ち。前半にトップ下のS水君に右サイドハーフのI崎君から縦にボールが入り、これをサイドからねらい澄ましたセンタリング。これにY田君がヘッドで飛び込む。
 後半逆転されるも、Y田君のフリーキックが決まり、その後、フォワードのO塚君からそのときはボランチをしていた私が右の空いたスペースに飛び出し、ゴール前のY田君へパス。Y田君がつぶれたところへI崎君が詰めてシュートをうち、3点目を決めて勝利した。

 もう一度東京との交流試合をしたが、これは途中で雨が強くなり中止。そこまでの得点では負けていた。

 夜は懇親会を守山駅近くの魚和という料亭で行い、懇親を深めた。

 全国大会前に、中々いい練習になったが、寄る年波には勝てないというか、接触プレーをした時に左膝を痛めてしまい、湿布生活である・・・。

 腰を痛めて無念の欠場だったM野君ともども、大会までには何とか治そう。

 みなさん、お疲れ様でした。

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2009年9月11日 (金)

明日は法曹サッカーチャンピオンズリーグ

 明日は滋賀県守山市のビックレイクにて、法曹サッカーチャンピオンズリーグである。
  これは、最近優勝経験のある東京、大阪、京都、横浜でホーム&アウェイ方式で戦うというものを東京チームが企画してくれたのである。明日は京都のホーム戦。
 明日の対戦相手は東京。
 30分ハーフのガチンコ勝負。
 こちらは主力選手が何名も欠席。
 どうなることやら・・・
 当然私も出場する。

 副会長になって体力が落ちているのに、走れるだろうか・・・。
 不安だ。

 今日は東京で日弁連60周年記念行事があるので、出張。
 明日があるし、早く帰ってこようっと。

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2009年9月10日 (木)

ズブロッカ

 Y下弁護士がポーランドで買ってきてくれたおみやげの一つにポーランド産のウォッカがあった。ズブロッカである。
 これは、ズブロッカ草という草が中に入っているフレーバーウォッカで、副会長をしているとイライラすることが多いので、寝酒に飲んでみたところ、飲みやすくて美味しく気に入ってしまった。
 ズブロッカ草という草を主食にしている牛(銘柄は忘れた)がとてもタフで力強いので、このズブロッカ草という草には強壮作用があると信じられているそうである。
 寝酒は習慣としてよくないのだが、やはり弁護士会の理事者はイライラさせられることが多く、そうした夜でのみにいけない時は、ズブロッカをロックで飲んでしまうのである。
 最近、もらい物のお酒が多くて、ありがたいやら太る原因になるしこまるやらである。

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2009年9月 9日 (水)

ネッシー

 先日、サイエンス・ワールドというシリーズの中の、ネッシーに関するDVDを観た。
 ネッシーがいるのかいないのかということを科学的に検証するDVDである。
 こんなDVDを、タキタロウでも作ってくれないかなあ。

 目撃証言の一つ一つを検討し、推論をたてていくのだが、過去撮影されたフィルムで当時、「人工的でない」と鑑定されたフィルムが再鑑定の結果、「人工的なもの」とされたり、ネス湖でただの木の棒を浮かべたら、2割くらいが、ネッシーではないかと駆け寄ってきたという実験をしてみたり、ネス湖の湖底にカメラを沈めてみたり、ネッシーが海から来た恐竜という説を検証するために地質学的な検証もしたみたりと、大変科学的であった。

 DVD全体の論調からはネッシーはいないという結論になりそうだが、そこはさすがに「いない」とは結論づけていない。
 日本のタキタロウも調査に来てくれないかなあ。

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2009年9月 8日 (火)

特異な人の相談

 弁護士をしていると、いろいろな人の相談を聞くことになる。被害妄想の人、精神疾患がある人、思い込みが激しい人、人の話を全く聞かない人…。

 事務所で聞く場合には、断ればいいのだが、弁護士会の相談や苦情がある時には聞かざるを得ない時がある。
 私はえてしてこうした相談や苦情対応に駆り出ささせられるのであるが、極意は一つ、腹をくくって話を最後まで聞くことである。
 表面上だけ舐めて聞いていい加減なことを言っていると、余計に相談は長引くし、相談者は怒って手がつけられなくなる。
 本人の主張をぐっとこらえて聞いて、とにかく聞くことである。
 元々弁護士の話の聞き方は、イエスイエスバットノウである。相談者が話をしているうちから、「いや、それはね・・・」と切り返して話の腰を折ってしまうと、余計に長引く。ある程度相手に話をさせて、ふんふんと聞いてから、いやでもそれはね・・というのである。時に相手の話に相の手を入れて、話を整理しつつ聞くことくらいはすべきであろう。

 これは相手方の場合も同様で、相手方は怒っているので、やはりまずは相手方の言い分を聞くべきであろう。中々時間がないと聞いていられないことはあるが、その場合には、途中で、もう少ししたら出ないといけない等話をして、後日かけ直すこともある。

 弁護士の基本は聞くことである。ただ、これが最も辛かったりする。渉外事務所のビジネスロイヤーでは味わえない辛さである。しかし、そこが腕の見せ所であったりもする。

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2009年9月 7日 (月)

福引き

 小さい頃、近くの市場でやっていた福引きにやたらあたった。
 あてたものは、「現金1万円」「テレビ」その他もろもろで、福引きをすれば一等か特等をあてていた。テレビは2回あてた。小学校の時に私だけで行っていたので、よく母親を呼びに家に戻ったものである。

 その頃のことをたまに思い出して、福引きをしたり、宝くじを買うのだが、いっこうにあたらない。
 大きくなって記憶がはっきりしてからあたったのは、せいぜい桑田佳祐のテレホンカードくらいである(何かの宣伝で、ホール&オーツと競演していた時の懸賞)。

 そのときはわからなかったが、今になって思うと、小さい頃はとてつもなく貧乏であったので、市場の福引き係りの人があわれに思って、私が行くときには一等か特等を入れておいてくれたのではないかと思うくらいあたったのであるが、実際のところはどうであったのであろう。

 今はその時よりは貧乏ではないので、福引きがあたらないのであろうか。

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2009年9月 4日 (金)

泣いて馬謖を斬る

 三国志時代の伝説的軍師であった諸葛亮孔明は、白眉という語源のもととなった馬良という武将の弟である馬謖をかわいがっていた。将来の自分の後継者と目していたようである。
 しかし、諸葛亮の君主である蜀を建国した初代皇帝の劉備は、「馬謖は、あまり重く用いてはならない」と言っていた。
 劉備の死後、諸葛亮は劉備の遺言である魏(魏志倭人伝で有名な魏である)を討伐するために北伐を開始する。

 このとき、諸葛亮は馬謖に軍を預け、敵との戦いに際し、「けっして山上にのぼるな」と厳命したのであるが、自らの才を恃む馬謖はこれを聞き入れず山上に陣取ってしまう。
 魏軍はこれを見て、山裾にある水手を絶つ。たちまち山上の蜀軍は渇し、魏軍にさんざんに打ち破られてしまうのだった。
 これが為に他の戦線も維持できなくなり、やむなく諸葛亮は北伐を断念する。
 軍令に従わず、全軍敗北のきっかけを作った馬謖の罪は重いと判断した諸葛亮は、泣きながら馬謖を斬ることを命ずる。関羽、張飛なき後の蜀軍には有望な武将が少なくなっており、馬謖を死罪にすることに反対する家臣もいたが、諸葛亮は、それでは軍令がいきとどかなくなるとして、自らがその才能を愛し、後継者にと考えていた馬謖を斬ったのであった。

 諸葛亮は馬謖を斬ったが、馬謖は諸葛亮を恨むことなく従容として斬られ、諸葛亮は馬謖の遺族が飢えないように処置をした。
 この逸話を見ても、諸葛亮は法家であったことがわかる。魏の曹操と同じく、韓非子の思想を是としていたのであろう。
 諸葛亮は、馬謖を斬るときに、その主であった劉備の人間を見抜く力が自分よりも勝っていたことを認めざるを得なかったであろう。
 何度か書いたが、劉備は徒手空拳で蜀の皇帝にまで上り詰めた人物であり、三国志演義に描かれたような聖人君子ではなく、もっとドスのきいた男であったから、人を見る目はあったのであろう。

 組織が円滑に活動するためには、どれだけ愛する家臣でも、功績がある家臣であっても、罪の前には平等であるという諸葛亮の思想も求められているのではなかろうかと思うのである。

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2009年9月 3日 (木)

読書日記9月3日

「破船」新潮文庫。吉村昭。
 穀物が採れない海辺の村。何年かに一度海が荒れた時に流れ着く「お船様」に積んである荷(米やその他の珍しいもの)は彼らにとっては天からの授かり物であった。時には船員を打ち殺してでも彼らは荷を奪う。生き抜くために、ここまでのことをするのかという暗い暗い話。
 しかし、二年連続で流れ着いた「お船様」には恐怖が積載されていたー。
 とてつもなく暗い暗い話。しかし、モノがあふれている今日こそ、こうした物語は読まれるべきである。圧倒的な筆力で、最後まで一気に読み切ってしまった。
 この作者の作品は、「破獄」と「熊嵐」を読んだだけであったが、これからは他のものも読んでみようかと思った。

「武将の運命」朝日文庫、津本陽。
 私の敬愛する作家の一人である津本陽が戦国武将について語ったエッセイ。信長が短気とされるのは間違いである等々、平易な語り口で鋭いエッセイがつづられる。

「司馬遼太郎が考えたこと 6」新潮文庫。司馬遼太郎。
 机の上で行方不明となっていたものをこのたび発見して続きを読んだ。
 おもしろかったのは、「長州人の山の神」と、「ゴッホの天才性」と勝海舟について語ったエッセイ。
 勝海舟のスケールは龍馬をしのぐと私などは考えている。龍馬も勝海舟と出会っていなければ後世にこれだけ名前を残さなかったであろう。勝海舟については、津本陽の「私に帰せず」がいい。
 明治陸軍で圧倒的な権力を持っていた山県有朋やその他明治の元老が頭が上がらなかった長州のある人物を描いた「長州人の山の神」もおもしろい。尾籠な話だが、山県有朋の細君は、この人物の大便の処理までさせられている。
 ゴッホの絵は私は理屈抜きに好きで、事務所にもポスターをいくつか飾っていて、ゴッホの作品が収められた画集も持っているのであるが、実のところその人生についてあまり詳しくは知らなかった。絵を好きというのに、その作家の人生はあまり意味を持たないと思っていたからである。
 司馬が書いたゴッホの天才性を読んで、背景を知るとまた絵も変わって見えてくるものだという思いを新たにしている。

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2009年9月 2日 (水)

辞任通知の出し方

 たまに他の弁護士がやっていて、不満だとか、失敗したということで、事件を引き継ぐことがある。
  依頼者の方から、前の弁護士に断り(解任)を入れてもらうのだが、解任されると気分が悪いためであろうか、早々に辞任通知を出す弁護士がいる。

 たとえば、それが破産事件であるような場合には、弁護士が辞任すれば、貸金業者側は、本人に取立を行うことが出来るようになる。
  私は解任されたことはないが、辞任したことは何度かある。破産を依頼して、いつまでも資料を用意せず連絡がないとか、専ら依頼者側の事情である。
 そういうときも、次の弁護士を探すのであれば、その間辞任通知を出すのを待つようにしている。
 取立が行われないようにするためである。

 解任されるような場合には、次の弁護士が決まっていることもあるであろうから、その弁護士が引き継ぐタイミングと、辞任通知を出すタイミングを同時にしてあげるというような気配りが欲しい。

 何回も解任されるというようなことがあるというのは、自身反省した方がよいであろう。

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2009年9月 1日 (火)

守株

 中国の故事。ある日、野良仕事をしていた百姓が、兎が走ってきて切り株にぶつかり首の骨を折って死んだところに遭遇する。これに味を占めた百姓は、野良仕事を辞めてしまい、切り株を見張って兎を得ようとした話が韓非子に掲載されている。

 このことから、頭がかたく、臨機応変の才能がないため時代の進出に遅れることを指す(三省堂 新明解国語辞典、第6版より)。

 経営者も同じである。たとえば、周囲でパソコンが使えない弁護士も多いが、時代がパソコン全盛の時代に入っているにも関わらず、パソコンを使いこなせず、また、使いこなせないとしてもその機能がどういうものかも知らず、一時代前の状態のままで経営しているとすれば、時代の変革に乗り遅れるであろう。

 長年の経営のうちに、経営者の感覚も固定化してしまい、時代に合わないものになっていることもあるであろう。
 常に自省しなければ、敗者となってしまうであろう。
 弁護士の業務も同じである。

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