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2009年10月30日 (金)

朝いちから・・・

 このごろ見ないが、朝いちからスーツ姿の男性と普通の格好の女性が河原町どおりで物凄くいちゃいちゃして歩いていた。
 このブログの愛読者であるK事務所のT田事務員によると、同一人物かどうかは不明だが、バス停でキスをしていたカップル(アベックというと事務員に笑われるのだ)も居たとのことである。

 決して妬んでいる訳ではない。
 家の中でしなさい。
 みんな仕事に行くのダー。あんたらのそんな姿は誰も見たくない。

 あと、先日駅を降りて雨が降っていたのでタクシーに乗ると、また色っぽい咳払いをする運転手さんだった。10台くらいしか台数がないので、その時間帯に乗ると、1/10の確率でとてもつらい帰路となってしまう。
 ウッウ~ン・・・。しばらく声が耳について離れないのである・・・。

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2009年10月29日 (木)

踏切にて

 私が通勤している経由駅である山科駅に遅くなるとタクシーに乗るのだが、JRの乗り場まで行くと車が詰まっていたりするので、だいたいその前の交番の前で降りて、京阪電車の踏切を越えてJR山科駅に歩いている。

 先日、踏切が降りていて一番前で待っていたところ、隣に居たサラリーマンがやたら前に出てきた。
 「おいおい、そんなに前に行くと・・・」と思っていたところ、踏切の棒があがると、棒はまともにそのサラリーマンのあごを直撃したのである。顔が跳ね上がった。
 サラリーマンは、「グッ」と言ったが、しかし、何事もなかったかのように、JRの方に走り去った。

 私は息が止まるほど笑いたかったのだが(イジワルかな?)、そういう訳にもいかず、笑いをこらえて呼吸困難に陥りながら、山科駅のトイレに駆け込み、誰もいないところで声を殺して笑ったのであった。
 
 みなさん、踏切の棒には注意しましょう。

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2009年10月28日 (水)

メールと仕事

 もはやメールは仕事のツールとしてなくてはならないものであろう。
 ファイルを添付して依頼者に送ることもあれば、共同受任している事件でこちらが担当の書面を添付して送る等々、様々な使い方がある。私は備忘録として使用していることもある。するべきこととかを思いついて、メモをするとそのメモを見ない可能性もあるので、仕事で必ず見るパソコンのメールに送るのである。

 最近は会務で出ていることも多いので、携帯のメールに私が不在中にあった電話やファックスの概要を事務所のパソコンから事務員さんから送ってもらっている。メールだと手の空いた時に見られるので助かるのである。
 メールで指示を返すこともある。

 私はパソコンを持ち歩くのが嫌いなので、副会長になったら必要かと考えてパナソニックのレッツノートというモバイルパソコンを買ったのだが、会にも副会長用のパソコンがあり、結局持ち歩かなくともなんとかなるので、自宅のパソコンが古くなっていたので、自宅での仕事用としてしまっている。

 その代わりウィルコムというところから出ているパソコンのメールが見られる機種(だいぶ機械じたい古くなったが)を持ち歩いている。一応返信も出来ないことはないが、あまりにもキーボードが小さいので実用性は乏しい。
 もっぱらメールの内容を確認しておくだけになっているが、それでも空いた時間に外でメールが見られるのは大きいメリットがある。

 ここのところ、携帯のNIFTYのサイトからパソコンに来たメールを見ることが出来るサービスを設定したので、ウイルコムも必要ないかとも考えているのだが、やはり様々なツールを使うにしろメールがないと今の弁護士の仕事は出来ないであろう。

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2009年10月27日 (火)

三ついすがあるのに・・・

 三つ席のあるイスが駅などにおいてあるとき、日本人は体の接触を嫌うので、たいていの人は端と端に座る。真ん中の席が空いていることになるので、たいていそこは空いたままである。電車でどんな隙間にでもお尻をぐりぐりと入れて座ってくるオバサンとかが座りこまない限りは。

 ところが、三つ席があるのに真ん中に座っている人がたまにいる。日本人の特質からすると、両端が空いていても、どちらかのサイドがふれそうになることになるので両端が空いていたりする。
 端っこに座らんかい、と思いながら、私も電車待ちの間立っているのだが。

 あと、私は体の左側に立たれたり触れられたりすると左肩が凝るので(ここ数年で発見したのである)、歩くときもなるべく人の左側を歩いているし、電車などでは出来るだけ左側が窓側になるように座る。
 何でそうなのかはわからないのだが、左に心臓があるからか、はたまた左は利き腕でないため弱いからなのか。

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2009年10月26日 (月)

 今は犬を飼っているが(パピヨンの小次郎君である)、元々猫党で、母親は今も猫を飼っている(前に飼っていた猫が死んでとてつもなく落ち込んでいたので、数年前妹と私がお金を出し合って子猫をプレゼントしたのである)。

 小学校の時に叔母が飼っていたシャム猫が産んだ雌のシャム猫をもらって飼ったのが私が最初の猫である。ちなみに、叔母が飼っていたシャム猫は無茶苦茶凶暴であった。叔母以外はそばに寄らないようにしていたほどである。
 この猫は3年ほどで死んだ。外に出て行ってやせ細って帰ってきて死んだのである。最後まで体をさすってやっていたが、死んでしまった。
 その後、また叔母が飼っていたシャム猫が純血のシャム猫ではないが、ほぼシャム猫という雑種のオスを産んだので、またもらってきて飼っていた。ちょうど高校受験をする頃で、勉強をしていると膝の上に乗ったり、教科書の上で寝たり、机の棚の隙間に入り込んだりと勉強のじゃまにはなったがかわいいやつであった。
 こいつはオスなのに名前をつけずにいたので、「ミー子」と呼ばれていた。
 このオスも数年して最初のシャム猫と同じような死に方で死んだ。
 ネコとは数年で別れるということが続いた。

 その後大学受験と司法試験受験をした時は真っ白な迷い込んできたネコを飼っていた。雨の日にマンションの下でうろうろとしていた子猫を妹が拾ってきたのである。これはたぶんその毛並みからして血統書付きか何かのネコであったろう。
 こいつにも相当勉強をじゃまされだか、こいつは割合長生きしていた。確かこいつの名前もミー子であったような・・・。
 しかし、さすがに寿命が来て死んでしまった。
 その間にシャム猫をくれていた叔母も若くして死んだ。勉強の猫とともにじゃまをしてくれた祖父も鬼籍に入った。

 私は猫好きであるが、猫とは縁が薄いようである。

 猫が死んだ時の悲しさを思うと、足下で私の足におしりを乗せて座っている小次郎を見ると、長生きして欲しいと思うのである。現在7歳。20年くらいは生きて欲しいものである。

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2009年10月23日 (金)

最近バタバタしています・・・。

 今週は何かと忙しい。手帳を見ていると、月曜日は朝10時の裁判に出て、その後11時から司法修習の講義の前に担当副会長として一言挨拶。12時からは南部法律相談センターの協議会に出席し、午後1時半から午後7時までは役員会。その後帰ってきて8時半過ぎまで事務所で溜まっていた書類を整理して、それから食事に出た(泡盛を知らず知らず飲み過ぎた)。

 火曜日は10時半から刑事関係のことで法テラスとの協議に出て、12時からは来年3月にやる予定の法曹人口問題シンポPTの第一回会議に出席。1時半に事務所に舞い戻り、紀弁護士と新件の事件の相談に入る。3時半からは別のシンポのPTの打ち合わせを弁護士会にて行う。4時半からはこじれた問題について協議。事務所に戻り、協議結果を議事録にまとめたり、シンポのPTの初回会議の議事録をまとめ、整理をするともう7時である。私は長時間深夜まで仕事が出来ない(仕事をしている間は相当集中するので)ので帰宅。

 水曜日は日弁連代議員会で代議員として議決権行使をするため東京に。仕事出来ず。
 木曜日は午前中事務所で新件の事件の打ち合わせをして、昼休みは委員会、午後は在会当番でいろいろ決裁をこなす。

 金曜日も10時から裁判、一時からほかの事務所で2件の打ち合わせ、3時から会計担当副会長として中間決算の監査立ち会い、4時からは弁護士会協同組合理事会出席、6時半からは修習生謝恩会出席と暇がない。

 土曜日も死刑を考える日のシンポに担当副会長として一言挨拶しないといけない。

 書面が書けませえぇん・・(ちょっと古いけどヒロシ風に。ヒロシもはや誰もしらないか?)。

 愚痴っていても仕方がないのだが・・・。勤務弁護士の河野君にも紀さんにもだいぶ事件をしてもらっているし、自分でも事件がしたいので聞くのだが、会務に時間が取られすきである。
 本来の仕事がしたい。

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2009年10月22日 (木)

TEAS’TEA

 またお気に入りの紅茶を見つけた。新発売の表記の紅茶で、ミルクティーだが、ジンジャーが入っているので、いわゆる「チャイ」なのである。
 ほどよい甘みとジンジャーの隠し味がきいていておいしい。

 たまたま自宅近くのコンビニで見つけて、一本買ってみたらはまってしまい、後でまた3本買いに走った。
 事務所の近所で売ってたらいいなあと思っていたら、事務所の近所でも発見して、事務所の冷蔵庫に冷やしてある。
  ほどよい甘みで、飲むとちょっとほっこりする。
 最近忙しくて(忙しいというのは心を忘れると書く感じなので、あんまり忙しいというとダメなのだが)、人間なのでイライラもするが、チャイを飲んでほっこりしようと思ったりするのである。

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2009年10月21日 (水)

読書日記10月21日

「KAPPA」(徳間文庫、柴田哲孝)。柴田哲孝のUMAシリーズが面白くて、3冊続けて読んでしまった。主人公は有賀というルポライターで、ジャックという雑種の犬が活躍する。
 河童伝説が残る沼で、河童に襲われて2人が死亡した。河童の正体は。そして河童は退治できるのか。UMA好きには面白い。

「TENGU」(祥伝社文庫、柴田哲孝)。同じシリーズだが、有賀は脇役である。
 ヒロインがあまりにも悲惨な境遇。そのヒロインを愛する主人公。次々に殺される村人。天狗は実在するのか。暗躍するアメリカ兵。やりすぎの感があるほどのエンターテイメント小説。ただ、ラストはKAPPAや、RYUに比べるとイマイチの感がある。

「DANCER」(文藝春秋、柴田哲孝)。同じシリーズ。ジャックは老犬となり、有賀も年老いている。主人公は有賀の息子。大学で発見される惨殺死体。そこから消える有賀の息子。犯人は有賀の息子なのか。ラストはこのシリーズを読んだ人であれば涙、涙。

 たまにはこういうものを続けて読むのも面白い。

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2009年10月20日 (火)

品位のない書面

 品位のない書面にたまにお目にかかる。
 言葉の書きようが品がなかったり、相手方弁護士をことさらに攻撃するような書面である。
 こうした書面に裁判所が惑わされてはいけないのだが、悪意のある(あるいは悪意のあるように見せかけているだけかもしれないが)書面は裁判所だって読んでいて気持ちのいいものではないし、弁護士の書面というのは一行一行注意を払って書くものである。

 裁判に勝ちたいがために筆が滑るのかも知れないが、あまりにひどいものは過去にも何度か撤回するよう意見を出して、裁判所もあまりにひどいので陳述させなかったことがある。
 私が意見を出すのは、意見を出さずに後から懲戒請求とかするのはアンフェアではないからである。意見を出しても、あくまで自分の書面は正しいとして「これで陳述させろ」というどうしようもない弁護士もたまにいるが、たいていは裁判所がそれを止めている。陳述させないという訴訟指揮をするのである。
 逆にいうと、そうした訴訟指揮は本来一方当事者の弁護士から指摘されずとも、裁判所がすべきなのである。
 ボキャブラリーが貧困なのか、あるいはそうしたことしか書けないのか、弁護士が書いたとは思えない書面がたまにあるが、時代が変わって、そうした品位のある書面は過去のものになっていくとしたら、やはり司法改革は失敗とわざるを得ないだろう。
 禄でもない書面に対して黙っていて、アホだと思っていてもいいのであるが、よそでも同じようなことをすると思うと、きちっと言っておいた方が様々な面でよろしかろうと思うのである。

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2009年10月19日 (月)

チャーリンボ

 小さい頃、鬼ごっこやかくれんぼなどの遊びをしていて、さらに小さくて、まともにやれば鬼ばかりやらされてしまうような子が仲間に入ることがあった。よくあるのは近所の子とか、誰かの弟とかであり、こうした小さい子は小さい子なりにお兄ちゃんたちの仲間に入って遊びたがるのである。

 こうした時、小さい子を「チャーリンボ」として扱い、この子は仲間に入っているようでいて、しかしタッチされても鬼にならず、見つけられても1人で鬼をやらされることはないという扱いにするのである。時々鬼ごっこなどでは適当に追いかけたりして、この小さい子を楽しませるのだが、その実は仲間に完全には入れていないのである。
 なぜこうした扱いをチャーリンボというのかは分からない。何か差別用語なのか(そうであれば失礼なのだが、そうした呼び名があったということでご理解いただきたい)、よくわからないが、そういう扱いを子どもの中でも社会性というか、そうしたものの萌芽というか、あったということが言いたいだけである。

 今弁護士の社会にいると、弁護士の中でもこうした扱いをされている弁護士がいる。どう見ても行動が奇矯であるし、仕事が出来ているとは到底思えないし、実際出来ないのだが、自分では出来ていると思っていて、周囲の弁護士もこうした奇矯な弁護士に注意をして恨まれたりするのが嫌なので、あまりダメだしをしない。自分の事務所の勤務弁護士であれば当然叱るようなことでも、放っておくことの方が多い。仕事も全然出来ないから、依頼者に迷惑をかける又はかけていると思うのだが、弁護士は自由業なので、ある意味仕事のやり方に口は出せない。ある弁護士に頼めば違ういい結果が出るだろうなという事案でも、こうした人が相手方で「奇矯だけど、能力はないし、ああよかった」と思われていることはあると思うのである。
 これは弁護士内でのチャーリンボ扱いである。
 出来も悪く、何も分かっていないのに自分では出来ていると思いいっぱしの弁護士のつもりだが、まともに相手をして貰えていないのである。
 チャーリンボのように、「まともに相手をしてあげているよ」という風に装う弁護士もいるが、彼らは後ろで舌を出しているのである。
 あまり結論めいたことも書けそうにないが、チャーリンボは仲間のつもりが、実は違うというような事態に自分が陥っていないかどうか、常に自省しなければいけないように思うのである。

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2009年10月16日 (金)

電車の中で携帯をいじりながらキメキメな顔をする男たち

 電車に乗っていると、表題のとおりの男がけっこういる。
 だいたい薄手のブリーフをもっていて、胸が開いた襟の高いシャツをきて、シャツの下に下着はつけていない(胸元が見えている)。そして常に目に力を入れて顔を作っている。髪の毛には整髪料でキメている。

 おまえのことなんて誰もみてないって。
 そんな顔してもモテないって。だいたい今までモテたことないやろ。
 携帯いじってるけど、メールなんてきてないやろ。
 時々「オレ、見られてる?」みたいな感じで作った顔で顔あげるのヤメロや。

 と心の中でつっこんでしまうのは私だけであろうか・・・。

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2009年10月15日 (木)

ブリーフがきつい

 買いたてのブリーフのゴムがきつく嫌いである。ある程度履くと、ゴムがゆるんでいい感じになるのだが、そこに至るまでが辛い。
 緩んでいるブリーフばかり履いていると、当たり前だが穴が空いたりして、やむを得ず捨てて、新しいものを下ろすのだが、ゴムがきつく辛い日々を送ることになる。
 それでは上のサイズのものを買えばいいではないかと言われるかもしれないが、それはそれでゴムがゆるくなるとずれてくるので嫌なのである。

 下着は直接肌に接するので、ゴムがきついとか、なんかチクチクするとか、合わないともうダメである。
 靴もそういうところがある(足の形に合わないと特に革靴は辛い)。

 私が気に入っているブリーフは中々売っていないので(1種類だけなのだ)、売っていると大量に買い込むのだが、それがなくなってくると仕方なしに新しい物を買う。しかしやはり気に入らず一度履いて中々履かなかったりする。
 履いていない新品のブリーフ(おそらく気に入らないであろうもの)が20枚くらいある。
 履いていけばこなれてよくなるのであろうが、その課程に耐えられないのだ。
 かといって人がある程度履いたブリーフなんて絶対に履けないし、日々どのブリーフを履こうか悩む39歳である。

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2009年10月14日 (水)

便秘とか膀胱炎

 弁護士になるまで便秘というものになったことがなかったが、弁護士になると考えていたよりも超多忙で、トイレに行く暇もない時がよくあったし、今もたまにそういう時がある。
 そういうことを繰り返すと、タイミングを逃して便秘になるようである。
 実際弁護士になってから便秘になった。
 女性に聞くと、私のは便秘ではなく、便秘気味程度というもののようだが、生まれてこの方便秘気味という状態になったことのなかった私にとっては大変辛い辛いものである。

 女性がよくなるそうだが、小用すらたせず、膀胱炎ではないかと思ったこともあった。
 小さい方をしても、極度の疲労で小が出きらず、汚い話だがパンツが少し濡れたこともあった。これは極度の過労で、体がおかしくなっていたのであろう。
 最近は喘息発作も過去に出たし、そういう症状も経験したので、疲労はなるべく残さず無理をしないようにしているのだが、トイレには時々いけないことがあり、辛いことがたまにあるのである。
 仕事はすべからく大変なものだが、弁護士の仕事はそれくらい大変だし、検察官・裁判官もきっと似たようなところがあるのだと思う。
甘い気持ちで目指すと続かないであろう。

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2009年10月13日 (火)

サッカー合宿

 三連休中にサッカーの合宿をした。毎年我が京都法曹サッカーチームが行っているもので、例年はグラウンドに隣接した宿泊先で大きい風呂に皆で入り、大きい宴会場で宴会をするのだが、今年はグラウンドが改修工事のため、やむなく守山のビックレイクで、日曜日の17時~21時、月曜日の9時~11時に行い、宿泊は守山のホテルとした。
 宴会も夜10時から笑笑でと、今までにない合宿であった。

 新戦力も参加してくれることが出来、充実した合宿であった。59期の主力組がK君の結婚式のため不参加であったことが残念で、私としても合宿のためK君の結婚式に参加出来なかったのが心残りである。

 私は膝がまだ治りきっていないので、監督としての参加にとどめた。
 大会には選手として出るべく努力中である。

 合宿は、チームが一つになる上で毎年重要である。京都チームが雰囲気がいいと他からいわれるのは、この合宿の効用もあるであろう。
 一人だけ、体を張ったギャグをしてくれて不参加の選手がいたのが残念である。
 彼の名はマシュー(あだなです)。

 一日合宿の日を勘違いして前日入りして、全く誰とも会わずに名古屋に帰っていったのである。
 全国大会は日を間違えないように祈るばかりである。

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2009年10月12日 (月)

読書日記10月12日

「武田勝頼」(一)~(三)。新装版。新田次郎。
 内容はある程度描いたので省略。文章力は司馬、津本陽などなどに比べるといまいちなところがあるが、武田家に対する愛が感じられる作品である。

「RYU」徳間文庫。柴田哲孝。
 この人の日本海魚伝を読んで面白かったので購入。沖縄に残る竜伝説。消え去る家畜や人々。消え去る人々の裏にUMAの陰。UMAは存在するのか、その正体は。
 私好みの作品であった。トレジャーハンティングクラブのメンバーもきっと好きだと思う。
 ほかの作品も読んでみることにした。

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2009年10月 9日 (金)

武田勝頼(3)

 武田勝頼が後生で酷評されている理由について考えてみたいが、
1、長篠の戦いで宿将たちの反対を押し切って開戦し、鉄砲の前に騎馬隊を突撃させて壊滅的な敗退をした。
2、上杉謙信の死語、御館の乱で北条氏から出ている上杉景虎に味方せず、上杉景勝と同盟をし、北条氏まで敵に回した。
3、1582年に武田家を簡単に滅亡に導いた手腕のなさ。
 がその主な理由としてあげられるかと思われる。

 しかし、1は勝頼だけの責任でないことはここまで述べてきたことで明らかであろうし、2についても、上杉景虎に味方していれば、越後まで北条氏の領土となり、北条氏が武田家に敵対した場合には、さらに強大な敵を作ってしまうこととなるから、織田氏との北陸での緩衝地帯として上杉氏を生かしておいた方がよいという考え方もあり得るし、実際、北条氏政は、徳川氏に通じている疑いもあったのである。
 北条氏は上杉景虎からの派兵依頼に対し、越後まで兵を出さず、勝頼にのみ出兵を依頼している。
 結果論からの指摘であろう。

 3については、最後の武田家の壊滅的、瞬間的滅亡は、武田武士の気質によるものという指摘があり、武田信玄という神格的頭領を抱いて攻めて実利的利益を得ている時はいいが、そうでなくなると目先の実利に走る気質があったためという指摘がされているが、けだし妥当であろう。
 ただ、これは戦国時代後半の武士に共通しているところであり、実利に流されない武士の方が少なくなってきていたのであろう。信長が死んだあと、織田信孝が四国に討伐するために編成していた部隊も、瞬く間に逃亡してしまっているからである。
 三河武士の方が、その意味では実利に流されない気質があったということができるであろう。

 穴山梅雪、小山田信茂の裏切りもそのような流れでみることができよう。
 武田武士はその一方でのんきなところがあり、戦後、信長が、出てくれば許すという布告をするとぞろぞろと出てきて、次々に首を切られている。このとき、家康はこっそりと武田武士を殺さず召し抱え、後にこれらの武田武士は井伊の赤備えの中心を担うことになる。
 そのほか、武田信玄時代に実利で支配するために使用していた金山も枯渇してきたことも理由としてあげられるであろう。

 結局、武田勝頼一人にその責任を負わせるのは酷であり、彼が信玄に比べて劣る武将であったことは間違いないにしても、あまりにも勝頼に酷だというのが以前からの私の見解でもあるし、新田次郎もそのような観点で書かれていることから好感をもった次第である。

 武田家滅亡に際し、仁科盛信の奮戦だけが華々しいのは、きわめて寂しい感じがある。
 なお、戦後信長が勝頼の首実検をした際、勝頼をののしったが、家康は勝頼を褒め称えて武田武士はだからこそ家康に心服したというのは後生の創作であろう。家康を神格化するためのものであると思われる。
 文献によっては信長も勝頼の首の前で、「日本にかくれなき武将であるのに、このような姿になったのは武運がなかったためである」として、はらはらと涙を流したというものもあり、こちらが本当のところではなかったかと思う。

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2009年10月 8日 (木)

武田勝頼(2)

 長篠の敗戦後、武田不敗伝説は消え去り(実は信玄は何度か村上義清などに負けているのだが)、高天神城も落城した。そして1582年、木曾衆が裏切り、穴山梅雪も裏切り、織田・徳川の侵攻の前に常勝軍団であったはずの武田軍はもろくも崩れ去る。

 侵攻の前に兵はみな逃げ去り、1万人以上いた武田の兵のうち、勝頼に最後まで殉じたのはわずか10数名であった。
 勝頼に真田昌幸は、真田の城である上州岩櫃城は天然の要害であり、兵糧の備蓄もあり、上杉景勝とも連携がとりやすい(当時武田と上杉は同盟していた。形の上では上杉景勝が降伏した形)ので、そちらに落ち延びるように説得したが、甲斐出身でない真田昌幸を信用しない武田家累代の家老達の発言や、小山田信茂が、北条と連携して郡内岩殿城に落ち延びれば勝機はあるという説得をしたが為に勝頼は小山田信茂の城に行くことを決定するのである。
 これが勝頼の運命を決めた。

 1人だけ武田の滅亡に際して徹底抗戦したのは仁科盛信である。彼は武田信玄の五男(確か)で、仁科家を継いでいた。
 南信濃の高遠城に籠もり、城兵ことごとく抗戦し、上臈もなぎなたを取り戦い、武田武士の意地を見せつけたのである。

 勝頼は小山田信茂の郡内岩殿城に行こうとするが、小山田信茂は巧みに自らの人質を取り返すや、柵を設けて勝頼一行に対し鉄砲をうちかけてきた。彼もまた武田を裏切ったのである。
 戦後、信茂は織田信長により斬首されているが、新田次郎は武田家滅亡の際のこの現象を「人間のなだれ現象」といい、なぜこのようなことになったのかについて考察しているが、それは(3)の考察に譲りたい。

 勝頼を追う織田軍の追撃は厳しく、滝川一益の手のものにより勝頼は天目山手前の田野にて自刃し、首を取られ、ここに武田は滅んだのである。16歳の武田信勝も、自刃して首を授けることとなった。享年37歳。

 勝頼が酷評されているのは、長篠の戦いのほかに、北条との同盟を破棄してまで、上杉景勝と結んだ外交策の失策、武田家滅亡のあまりにもあっけない幕切れのためであろう。
 しかし、これらは本当に勝頼だけが責任を負うべきことかは、また別物であり、新田次郎はいい観点で武田勝頼を描いているといえる。
 

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2009年10月 7日 (水)

末席の人に発言されるような配慮を

 私が会議を主催する時に、気をつけていることがいくつかある。

 一点は、フリーハンドで会議をしないことである。
 フリーに、「さあ、どうですか」という提案の仕方は、議論が出にくいのである。
 ある程度提案者の方で、「これについてはこういう考えがあり得て、私はこう考えますがどうですか」という提案の仕方をしないと、会議をする実益はない。
 そういう提案の仕方(仮の案ともいうべきか)をして初めて、反対意見が出たりするものである。
 つきつめていえば、会議の主催者は、ある程度の腹案をもち、それを呈示し、それについて意見を求めてまとめあげるという方法でないと、会議は速く進まない。
もちろん、そのためには事前の準備が必要となってくることはいうまでもない。
 逆に、自分の意見に固執するのもよくない。
 いい意見が出たら、その場で修正し、妥当な結論に導くという手腕も必要とされるのである。

 あと、私が会議で気をつけているのは、時間があればすべての人の意見を聞くようにしていることである。
 特に末席の人は、そうそうたる人々の前で萎縮して意見が言えないことが多いものである。
 そうした人に敢えてあてて、意見を聞くのである。

 そうすると、若手なのによく考えていて、はっとさせられることがある。逆に、何わかっておらず、「オイオイ、アホかいな」ということもある。
 しかし、後者の場合でも、若手の勉強の機会になるから、それを「アホか」いわず、これこれこういうことからすると、難しいのではないかということで、一定の配慮をした上で採用しないようにすると、若手の勉強にもなるし、一定の配慮をされたということで、次の発奮材料にもなるというものである。

 若手でよくないのは、あてられても、「特にありません」ということであろう。
 そういう人は、「見込みのないヤツ」と思われるであろうし、若いうちは何かいうべきであろう。
 それが的を外れていても、どこがどう外れているかを指導されることで、5年先、10年先に役立つことがあるであろうからである。

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2009年10月 6日 (火)

武田勝頼(1)

 今新田次郎の「武田勝頼」を読んでいるのだが(本屋で新装版が平積みになっていたので3巻まとめて買ってしまったのである)、新田次郎の武田勝頼では、長篠の戦いは一方的に武田軍が鉄砲でやられたのではなく、柵際で華々しく戦い、織田軍にも相当の損傷を与えたとある。
 長篠の戦いは、8時間という長さに渡って行われた戦いであり、8時間中、突撃を繰り返すという馬鹿な攻撃をしたはずがないというのであるが、正にそのとおりであろう。
 黒澤明の影武者では、鉄砲の前に突撃し、なすすべもなく打ち倒されて行く武田騎馬隊が描かれているが、あそこまでいくと、武田軍はタダのアホであるが、さすがに名将揃いの武田軍が愚直に突撃を繰り返したとは思われないからである。
 その一方で、新田次郎が取る説ではないが、信長は武田軍の馬を驚かせるだけでも鉄砲の効用はあったとする説がある。どこで読んだのか忘れたが、武田軍にはそれほどの鉄砲はなかったから、1000丁の鉄砲が交代に3連続で射撃される音というのは、武田騎馬隊にとっては初めての経験であり、馬は驚き、武田軍得意の騎馬突撃が出来ないというのである。
 ただ、この説だと、武田軍は騎馬突撃が出来ないだけで、武田軍の名だたる武将がみな討ち取られたという理由にはならない。
 現実の戦いでは、戦いのさなかではなく、退却戦の時に追撃されて討ち死にが多かったから、数の少ない武田軍が踏ん張って戦っていたが、退却に向かった時に討ち取られた武将も多かったのではないかなどと考えたりもする。
 甲陽軍艦は、全く史料としてはアテにならないので、信長公記の記述からはどのようにも取れるのである。

 武田軍が長篠で信長と家康と戦ったからには、武田軍には勝算があり、勝頼1人の決断ではなく、宿将や穴山信君などの大物親族武将も同意していたと新田次郎は描くが、これも真実であろう。勝頼だけが悪いわけではないのである。
 勝頼は勝頼の息子が長じるまでの後見人に過ぎず、信玄は跡目をはっきりさせず死んだこと、勝頼には、武田家の代々の名乗りである「信」の字がなかったことから、軽んじられていたのである。
 世間が考えているよりも穴山信君の権力は大きかったことも描かれているが、これもまた真実である。信君は、駿河一国の国主であったのであり、一個の戦国大名であったという見方も出来るからである。

 ただ、新田次郎の描く勝頼像にも問題はある。信長が非人道主義者で、勝頼はヒューマニストのような描き方をしているが、これは新田次郎が武田家に仕えた武将の末裔(だったはず)という思いが影響しているであろう。
 前にも描いたが、勝頼は大釜で罪人の親族に罪人を煮る火を焚かせて親族の前で罪人を生きながら煮殺したという史料があるし、そもそも武田軍は非情である。
 占領した城の婦女子は値をつけて競り売りにしたこともある。
 この描き方はやや勝頼を美化していると思われる。

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2009年10月 5日 (月)

爺さんにはねられかける

 日曜日にコンビニに買い物に行こうとして自転車で走っていたところ、道路に出ようとしている車があった。
 私の方が歩行者道路で優先であったが、運転手が老人であったので、気をつけて走っていたところ、私の方をじっと見ていたので、そのまま進行した。
 そうしたところ、私が自動車の直前くらいになったところで、突然急発進してきた。

 私はとっさに右にハンドルを切り、道路に少し飛び出すような形でかわしたが、後ろのタイヤ部分が数センチでひっかれられそうなきわめて危ないすれすれの状況であった。
 思わず、「前見て運転しろや!!○○すぞ!!」と怒ってしまった。気性が荒いんです、私。。。

 ある程度の年齢になると、運転免許は返上した方が絶対にいい。
 反対車線を逆走したり、アクセルとブレーキを踏み間違えたり、今回のように、見ているのに急発進してきたり、反射神経が衰えるからである。
 私は基本的に滋賀県の(特に休日)運転者を信用していないので、こちらが完全に優先でも、信用していないのだが、信用していてもこれである。
 入り口専用の通路から、出てくる自動車も普通にあるし、こちらが左によっていてすれすれの車線でも、爺さんやばあさんが真ん中をするすると走ってきて、溝に落ちそうなくらい寄らないと完全に衝突されるであろう状況も普通にあるのである。
 法律で老人の運転免許を基本的に取り上げるようにしてもらわないと、これからは死者が多数出るであろう。
 自分でいうのも何だが、今日は私がかわさなければ、私は完全にはねられていたであろうし、そうなれば左膝が治るどころではなかったであろう。
 高齢者を敬うべきところはたくさんあるが、高齢者は高齢者で、自分が出来なくなっていることを認識してもらわなければいけないと思った一日であった。

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2009年10月 2日 (金)

ネクタイ

 初夏にネクタイを外して以来、夏の間数回しかネクタイをしていない。
 元々ネクタイをするのが嫌いなので(いざしなければならないとなればネクタイに凝るし、もらうと嬉しいが)、ずぼらなまま今もしていない。
 10月に入るのでそろそろしなければいけないなあと思いつつ、首回りのうっとうしさから着用しないで過ごしている。
 9月の終わりに来てすこしムシムシしたので、余計にネクタイをする気が失せるのである。

 しかし、冬場はやはりビジネスマンはネクタイをしている方が格好がいいので、そろそろネクタイをしようかしらんと思うのだが、いざネクタイをしても、ワイシャツのひとつ目のボタンは常に外して、ネクタイも緩めているような状態である。

 ずっと秋だと涼しくて、ネクタイもしなくとも何とかなるのでいいのであるが、インフルエンザが蔓延しつつあるこの頃だとそうもいえないのかもしれないと思いつつ、今年の冬にインフルエンザはどの程度流行るのかが今から気になる今日このごろである。

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2009年10月 1日 (木)

妙に鼻息の荒いタクシーの運転手

 先日タクシーに乗ると、妙に鼻息の荒い運転手さんだった。
 タクシーに乗って走っているので、息が切れるということはないと思うのだが、妙に鼻息が荒い。
 鼻息の荒さが気になるが、「鼻息が荒いですね」ともいえず、無言で15分ほど走っていた。

 今になると反省する話だが、高校生の頃、鼻息が荒いクラスメイトがいて、みな、「スー」というあだなをつけていた。
 鼻息がスースーいうので、「スー」というのである。
 私がつけたのでは決してないのだが、突然そのスーというあだ名の同級生を思い出した。
 もちろんそのタクシーの運転手は私よりも相当年上であったので、スーの訳はないのだが、鼻息の荒さがそれを連想させたのである。
 鼻息が荒い人は、肺とか呼吸器が悪く、息が苦しいのかもしれない。私も喘息発作が出ると苦しいが、鼻息は荒くならないから違うのかもしれない(喘息発作だと息がほんとうに出来ない)。

 今日から10月である。頑張っていきましょう。

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