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2010年2月26日 (金)

読書日記2月26日

 「決定力不足でもゴールは奪える」 双葉親書。杉山重喜。
 日本代表がなぜゴールを奪えないのか、決定力不足とは何か。世界のサッカーではポジションから動くのではなく、固定され、自由な動きをすることは制限されている。ヨーロッパサッカーは極めてシステマティックになっている。自由なサッカーというのは個人技が勝ってのことであり、個人技で劣る日本人が自由なサッカーをするということはあり得ない選択だというのである。著者によるとブラジルよりも日本のサッカーは自由度が高いという。
 サイドバックの責任はあるのか、その前でサイドハーフであるのに真ん中によってしまいサイドバックに全ての負担を科している選手の責任はないのか等々、非常に勉強になった。サッカー好きなら一読の価値あり。

「功名が辻」(一)~(四)。文春文庫。司馬遼太郎。
 低い身分から土佐一国の大名になった山内一豊の物語。他の司馬の小説ではあまり書いていない、秀吉の悪行を多々書いているところが特徴的。国持ち大名になる為に努力してきたが、国持ち大名となったが為に失われたものもあったことを司馬は書いている。山内一豊の一大叙事詩であるが、時に場面場面で主人公は変わるように見えるところが特徴的でもある。

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2010年2月25日 (木)

衆愚政治

 政治というものは全ての人を満足させることは出来ず、全員に満足させようとすれば国会財政は破たんし、国が滅ぶ。
 古代ローマが滅んだのも衆愚政治に堕したからである。
  国民の声は重要だが、ある程度は取捨選択しないといけないし、確固たる方針というものが必要であろう。

 織田信長は、中世の悪習を打破した。それは自由経済であり、楽市楽座であった。そして関所を廃止して、人の行き来を自由にした。当時は座が商品経済を握っていて、そこから上がる収益で寺院などは潤っていた。司馬遼太郎の国盗り物語の中に、斎藤道三が経営していた油屋が、座のおきてに反したということで、よってたかって店を打ち壊されるシーンが出てくるが、これが典型であろう。ここでは信長の政治家としての真骨頂が示されているといえる。中世の座という権力を破壊し、新たな国のあり方を作ろうとしたのである。そのために、彼はそうした既得権益とつながった勢力といつ終わるとも入れない戦いに入っていくことになる。その最たるものが一向宗との戦いであった。

 その一方で完全な自由経済がよいかといえば、新自由主義がアメリカで大失敗をし、それを受け継いだ小泉政権の政策によって大量の失業者が出ていて、長期間の不況に日本は喘いでいる。アダムスミスがいうところの神の手というものは幻想で、ある程度は国家による統制も必要ではあろうかとも思う。

 先日の地方選で民主党は敗退したが、政治とカネの問題もさることながら、右往左往するその政策と、その政策の裏付けというか信念のなさにもその理由を見いだす事が出来るのではないか。
 菅直人財務大臣は所得税の最高税率を引き上げることを検討しているというが、まともに税金を納めているものからしたら、やっていられないと思うであろう。私もそうである。
 一般的に高収入を得ている人は努力をしている人が多いといえるだろう。努力をして高収入を得ている人材のやる気をそぐというのは、目先の収入確保という目的と比してどちらが将来の日本の為になるであろうか。人材の海外流出もあり得るのではないか。

 次の参院選で、国民の巻き返しがくれば、民主党は三日天下ということになりかねない。目先のことや支持母体のことだけを考えた政策ではなく、長期的な政策を立て、そこに向かってまい進するという政治家の出現が待たれるところである。

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2010年2月24日 (水)

人を批判する前に自分でする

 弁護士会で会務活動をしていると、文句ばかり言っている人がいる。
 他人の批判ばかりしているのである。

 そうした弁護士は、積極的に何かが出来る訳ではなく、批判をして自分がさも有能であるかのごとき印象を与えようとしているように見える。
 批判は楽である。まずいところを指摘するというのは、もっとも楽な仕事かもしれない。

 批判だけしている人はだめで、批判した上、さらに「こうした方がいい」という具体的意見というか反対提案をもっていなければいけないと思うのである。
 「では先生はどう考えられるのですか」と聞くと、「いや、ここがおかしいと思うだけで、後は理事者の方で考えてくれたらいいので」と逃げる人がいる。

 批判するのであれば、自分で出来るというだけの意見というか反対提案をもっていなければいけない。
 他者を批判ばかりしている人は、他人からも認められない。

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2010年2月23日 (火)

連絡がつかない弁護士

 弁護士会の市民窓口や、現在依頼している弁護士、あるいは解任した弁護士に対する苦情として多いのが、「連絡がつかない」である。
 事務所には事務員さんがいる為、事務員さんに伝言は出来るが、弁護士からは電話がないというものである。
 多くは一人でしている弁護士に多い。

 私は独立開業をするとき、事務員一人では私自身が出ていることも多い為、事務員が外回りなどに行った時に事務所で電話を受けられるよう、アルバイト職員を採用した(後に正社員となったが)。途中、電話が全く鳴らずに冷や汗をかいたこともあったが(最近も暇で会務の仕事はあるが私自身の仕事はあまりないのであるが)、やはり連絡がつくようにしておくということは大事なことだと思う。

 今は弁護士も3名いるため、どの弁護士にも連絡がつかないということもないし、私自身のポリシーとして依頼者からの電話は真っ先にレスポンスをすべきと思っているので、依頼者から連絡があれば、出来るだけ早く回答を返すようにしている。依頼者あっての弁護士だからである。簡単な連絡事項は事務員に依頼することも多いが(日程の調整など)、基本的には中身に関わることは私の口から連絡している。
 問い合わせても弁護士は出ずに、事務員から又聞きの話しかなく、自分は事務員さんに依頼したのではなく、弁護士に依頼したのだと怒っておられる人も割合いるものである。そうした事務所の事務員さんはいつも依頼者と経営弁護士との間に板挟みになって気の毒だと思うのであるが・・。

 苦情を聞いていると、弁護士の方から電話がかかってきたことは一度もなかった、と言われることがあり、私自身の感覚からすると驚くのであるが、別件でその弁護士に連絡をして「連絡が欲しい」と数回伝言したり、ファックスしたりしても回答が全くなかったことがあったりすると、やはりそうしう弁護士はいるのだと思わざるを得ないのである。
 弁護士からの連絡も出来るだけ早く回答するようにしている。
 

 他の連絡がつかない、あるいはつきにくい弁護士に相談していた依頼者からは、「先生からこんなに早く連絡をいただけるなんて」と言われることがあるが、むしろ私が普通であり、そうした連絡がつかない弁護士の方が異常なのであると思っている。

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2010年2月22日 (月)

控訴審の期限は怖い

 控訴審の期限のみならず、上告とか、法律で定められた期限は恐ろしい。
 期限を過ぎたら、問答無用で判決が確定してしまうような時は、思いこみで決めつけないで調べた方がいい。
 弁護士の懲戒事例でもそうした案件はよく出てくる。

 ただ、多忙であるため、依頼者からは手続きを執って欲しいといわれていたにも関わらず忘れる場合もあるであろうし、依頼者に通知だけして、期限が迫っているのに弁護士側から注意喚起をしないままに、意思確認が出来ないで手続きが出来なかったという事例もあるであろう。

 私は、まず判決を貰ったら控訴や異議申立などの期限を手帳に書き込む。こちらが勝訴した場合も同様である。
 そして、依頼者には、敗訴した場合であれば、申立の期限と、申立てた後の手続き、費用、見通し等を説明した文書とともに判決等を送付し、直接面談して説明をする。その上で、依頼者の意志を確認して控訴などの異議申し立て手続きを執るのかどうかを決めてもらうのである。依頼者は控訴の期限のことなど知らないのが普通であるから、弁護士は専門家として説明をする義務があると思うのである。
 勝訴した場合には、確定したと思われる時期に裁判所に連絡を入れて、控訴や異議が出ていないかを問い合わせをして、確定していれば確定証明を取る。

 期限は言い逃れの出来ないものであるから、絶対に以上のようなことはしている。時効の問題か発生しうる場合も手帳に書いておく。
 手帳には時効の期限を書き、その上で、少し前に時効完成間近などと書いて、直前になって慌てないようにしている。

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2010年2月19日 (金)

道を知らないタクシーの運転手

 先日朝寝坊をしたので、京都駅から直接裁判所までタクシーに乗ったのだが、「竹屋町の富小路」と言ったところ、運転手が相づちも打たず挙動不審であった。
 「朝から愛想の悪い運転手やなあ」と思っていたが、信号待ちをしている時に、必至で市内の通り名が書かれた図面を見ている。

 京都はタクシーが多く、他の地域から運転手となるために引越をしてくる人も多い。タクシー会社の中には、地理不案内ということがわかっているであろうのに現場に放り込む会社もある。
 この運転手のタクシーもそうした会社の運転手さんなのであろう。

 仕方がないので、道順を順次教えて、どの信号で右に曲がって欲しいから右のレーンによっておいて欲しい等、何から何まで指図しなければならなかった。
 タクシーに乗っている間も仕事の準備をしている。事件の段取りを考えたり、手帳を見て段取りを考えたり、事務所に電話をして指示をしたりする。タクシーに乗っている間はそういう風に時間を使っている。
 話しかけてくる運転手さんや、道を知らない運転手さんは正直私のような仕事の者には困るのである。
 1日の終わりに仕事で遅くなってタクシーに乗る時には、話をする仕事であるので正直人と話をしたくない時の方が多いものである。

 そうした時に運転手さんから話しかけられると正直イラッとくる。
 黙っていて、道をしっかりわかっている運転手さんがいいのである。

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2010年2月18日 (木)

特急電車にて

 先日出張で岐阜に行った際に、ワイドビューひだという特急に乗った。
 少し背もたれを倒そうとして、レバーを引いて背もたれを倒すと、どこまでも背もたれが倒れて行くのである。

 「またやん・・・」と心の中で舌打ち。席を替わろうかと思って指定席を見回すが、空いている席はない。
 特急に乗ると、偶にこのように背もたれが止まらない席にあたることがある。
 特に京都の北の方に行く特急は車両が古いのか、背もたれがどこまでもいってしまう。
 後ろに席がない場合にはまだいいのだが、ものすごいふんぞり返ってしまうので逆にしんどい。席が空いている時は車掌さんに言って替わらせてもらうが、空いていない時にはそういうわけにもいかない。
 席がくるりと回るタイプのイスの場合、かちっとイスがはまっていないときに背もたれが止まらないことがあり、一度はかちっとはめこむのだが、たいてい背もたれが壊れているためである。

 先日は後ろに人も座っていてやむを得ないので、結局垂直の背もたれの状態で、体重をかけると倒れていくので、なるべくイスの背に体重をかけないようにして岐阜まで1時間強乗るはめになった。何の為の指定席かわからない。
 JRもこういうところも企業努力をしてもらいたいものである。

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2010年2月17日 (水)

臭い相談者

 レイモンド・チャンドラーの名作に「雨の殺人者」というのがあったかと思うが、それとは似ても似つかわしくない「臭い相談者」というタイトルである。
 私も時々ニンニクを食べるので臭い時があるので人のことはいえないのだか(最近は金曜日に食べるようにしています・・・)、事務所の相談室だとまだ相当広いのでいいのだか(前の事務所では狭かったが、移転後は相談室をかなり広く取ったのである)、法律相談だとこれは相当つらいことになる。

 臭いにもいろいろ理由がある。
 酒臭い。これは相談に行くのに景気をつけたのか、あるいはつらくて飲み過ぎたのかであろう。
 たばこ臭い。たばこの吸い過ぎで脂臭いのである。
 体が臭い。これは風呂に長らく入っていないか、単に体が臭いのである。
 息が臭い。臭う物を昨日か今日食べたか、内臓が悪いのである。
 とにかく臭い。今まで述べたすべてを兼ね備えている人がたまにいる。

 臭いエチケット、大切に。

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2010年2月16日 (火)

蜂を食べる

 といっても私が蜂を食べた訳ではないのだが、日曜日の昼間に昼寝をしそうになりつつテレビのチャンネルを変えていたら、黄金伝説という番組の再放送をしていた。あだ名付け芸人の猿岩石の有吉が、「蜂だけを食べて数日過ごす」というような内容で蜂を毎日取りに行っていた。

 私は蜂の子を食べるだけかと思って見ていたのだが、番組では、最初はクロスズメバチ、次がキイロスズメバチ、最後が超凶悪な顔をしているオオスズメバチ(絶対オオスズメバチは皆前世で人殺しをしていると思われるほど凶悪な顔つきである)の巣を取り、蜂を素揚げにして塩を振って食べたり、蜂の子を甘露煮にして食べたり、蜂の子からスズメバチになりかけのさなぎを刺身(醤油だけをつけて食べていたと思う)という、一般的にはゲテモノ食いのようなことをしていた。
 その前に巣を取るのも大変で、有吉は強運なのかテレビであらかじめ探していたのかはわからないが、次々に中々見つからないと言われるような巨大な巣を発見していくのである。
 蜂は有吉は美味だと言って次々に食して行き、その中でもオオスズメバチがもっとも美味だというのである。

 一般的には、蜂などの昆虫を食べる習性があるのは、内陸部の冬場に川魚も捕れなくなった時のためのタンパク質補給のためのやむを得ない代替措置であったと言われている。鯉を食べるのも内陸部な限られていて、海が近いところでは鯉が捕れても鯉には見向きをしない。鮒寿司をはじめとしたいわゆるなれ鮨も、内陸部で発達した保存食であり、代替措置であると言われている。
 しかし、数が少ないものは珍重されるのが世間の常で、蜂の子やイナゴ、鯉や鮒寿司をはじめとしたなれ鮨も元々は代替食料であったはずが、今では珍味となっている。
 私は蜂や蜂の子は食べる気もしないし食べたくもないが、蜂を食べると体が火照って強壮効果があるといわれていて、確かに蜂取り名人と呼ばれて出てきていたご高齢の男性たちは、皆それなりに歳がいっていると思われるが、ものすごく元気であった。

 結論めいたものもないが、蜂を捕っている有吉たちは楽しそうで、何かうらやましい気持ちになったのだが、最後の方は寝てしまったので、たいしてうらやましくもなかったのかもしれない。

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2010年2月15日 (月)

読書日記2月15日

「諸葛孔明」(上)(下)中公文庫。陳舜臣。
 秘本三国志で、曹操を初めて悪役としてではなく、英雄として描いた陳舜臣氏が描く諸葛孔明。史実に基づいた諸葛孔明を描いている。
 孔明は、局地戦で鬼謀極まりない軍師として描かれる三国志演義での姿よりは、政治家・政略家である。局地戦での軍師というのは、むしろ法正という武将の方が似つかわしい(漢中王になった戦いで曹操軍を苦しめるのはこの法正である。しかし、夭折している。彼が長命していれば、後の蜀もまた変わっていたであろう)。
 孔明の局地戦での戦略は、正攻法であり、奇抜な手は使わない。そのため、魏側では、孔明が遠征軍で補給が必要であるという弱点を、また、乾坤一擲の賭博的な戦いをしないという孔明の特質をも見抜いて、持久戦に持ち込んでいる。

「寒山剣」光文社文庫。戸部新十郎。
 前田利家など、北陸の武将や富田景政などの剣豪を描いた秀逸な作品を残している戸部新十郎の作品で、表題作は今まで公刊されていなかったという。誰かの代わりに穴埋めの為に書いたが、掲載されず、戸部氏の手文庫の中で眠っていたということである。
 兵法天下一とされる中条流の富田重政を手玉に取る異形の小男。彼の正体とは・・・。
 表題作が秀逸である。なぜこれが未発表であったかは、解説に詳しい。

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2010年2月12日 (金)

宮本武蔵(3)

 吉岡側の記録では、吉岡清十郎と京都所司代にて立会い、武蔵と清十郎は相打ちで、伝七郎との勝負の前に武蔵は京から逃亡してしまったという。
 武蔵の養子の宮本伊織によると、吉岡一門は滅亡したとされるが、1614年に猿楽の講演がされている場で、吉岡又三郎なるものが警護のものと争いを起こし、数名を斬った後自身も殺されるという事件があったということが、「本朝武芸小伝」にある。
 これを前提にすれば、吉岡家はその後も続いているので、伊織が吉岡家が滅亡したとしているのは誤りであるということになるが、係累が多数いたということも考えられるので、どちらが正しいかということは断定出来ない。武蔵の系譜は養子の伊織や二天一流の後継者によって伝わったが、吉岡家の系譜は伝わっていないことから、個人的には武蔵の方の主張を容れたいという気もする。なお、吉岡家は染物屋も兼ねていたという説もあり、五味康祐「二人の武蔵」では、吉岡清十郎は兵法家というよりは、染物屋の旦那として描かれている。

 武蔵が五輪の書を書いた時期は死期を悟った頃であり、既に後に出てくる細川忠利の知遇を得て、静謐な暮らしをしていたのであって、若い頃の名声を売ろうとしていた時期とは異なり、過去に倒した有名な剣豪達を敢えて指摘するということをしなかったのかもわからない。

 その後の武蔵の足取りで言われているのは以下のようなものである。
 伊賀にて鎖ガマを使う宍戸某と戦い勝利する。
 江戸にて柳生新陰流の剣士2人をあしらって倒す。

 武蔵の人生のハイライトともいえる巌流島の決闘についても、様々な異説がある。
 まず、佐々木小次郎の人となりからして不明である。
 一般に言われているのは、佐々木小次郎は中条流を習い、富田勢源の弟子で、勢源の小太刀の打ち手を長大な太刀でつとめるうち、18歳にて悟るところがあり、一流を立てて巌流と称し、細川家の剣術指南役を務めるようになったところ、武蔵が小倉に来た際、藩主の声かがりで対決することになり、巌流島(当時は船島)で戦い、武蔵が勝利を収めたというものである。ただ、富田勢源では時代が合わないため、勢源の弟子の鐘捲自斎の弟子とする説もある。なお、自斎は伊藤一刀斎の師匠でもある。

 これに対し、武蔵側は多勢で船島に渡り、武蔵が小次郎を倒した後、武蔵の弟子がよってたかって小次郎を打ち倒したという説もある。
 小次郎は、細川家が治めていた小倉豊前の地元の豪族で、剣術をよくし、地元との融和策で剣術指南役として細川家で召し抱えたが、傲岸不遜で人を人とも思わない人物であったため、武蔵をして決闘という形で小次郎を成敗させたという説もある。これによれば、武蔵は決闘という形をもって政治の道具に使われたわけであり、小次郎が倒れた時に打ち倒した弟子とされる人物達は、小次郎に平静恨みを持っていた者達ではないかという思いもある。武蔵は多人数の弟子を取ったことはなく、生涯放浪していたので、豊前小倉にそのような多人数の弟子がいたとは考えがたい。
 武蔵は決闘のつもりで船島に渡り、小次郎を打ち倒したが、小次郎の命まで取るつもりはなかったところ、検視役として来ていた藩士たちが突如として小次郎をよってたかって打ち倒したので、自らが小次郎成敗のための道具として使われたことを悟り、苦々しい思いを持った戦いであったのではないか。
 この説を採れば、武蔵が後半生で船島の対決をあまり語らなかったということもうなづけるのであるが、どうであろうか。

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2010年2月10日 (水)

宮本武蔵(2)

 武蔵は自ら習った剣であるという説と、父親の無二斎から武芸をしこまれたという説などがあるが、父親が武芸者であるのであれば、普通は子にその流儀を伝えるため鍛えたであろうから、完全に独習ではなかったのではないかというのが私の見方である。

 また、武蔵は複数いたという説もあるが、武蔵のような特異な人物が同時代に複数いるというのは考えがたく(司馬はその説を採っていて、全面的に賛成したい)、武蔵の名声を借りて武蔵を騙ったものはいたかもしれないが、武蔵自身はやはり一人であったと見るのが妥当であろう。

 武蔵の最初の試合の相手は有馬喜兵衛である。13歳の時に有馬喜兵衛が高札を掲げて対戦相手を求めていた時に、武蔵が相手となると墨書し、寺の住職が「子どものしたことであるので」と謝罪したが、有馬喜兵衛は「子どものしたことであってもこのままでは自分の沽券に関わるから、試合の場に来させて謝罪させるように」ということであり、当日住職が連れて行くと、武蔵は謝罪するどころか戦い、勝利をおさめるのである。
 ただ力の強い、体の大きい13歳では旅から旅に自分を売り込むべく放浪している兵法者を倒すことは出来ず、やはり兵法の基礎を武蔵は身につけていたというべきであろう。
 その後、秋山某という兵法者も倒している。

 吉岡一門との戦いは、武蔵は五輪書でも詳らかに書いていない。
 武蔵側の記録と、吉岡側の記録では違いがある。
 武蔵側の記録は、よく知るところであるが、蓮台野にて当主の吉岡清十郎を倒し、三十三間堂にてその弟の吉岡伝七郎をも倒している。その後、一乗寺下り松での吉岡一門との決闘になり、武蔵は今度は遅参せずに早々と現地に着き、敵の総大将である幼少の名目人を斬るーというストーリーであり、吉岡一門には全くいいところはない。
 しかし、吉岡側の記録では全く異なっているのである。

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2010年2月 9日 (火)

宮本武蔵(1)

 宮本武蔵といえば吉川英治の宮本武蔵を連想するのが一般であろうが(モーニングで好評連載中のバガボンドの原作でもある)、もちろん吉川英治の作品は小説であり、その多くはフィクションである。
 あれが史実だと誤解している人もいるようであるが、武蔵に関してわかっていることは極めて少ない。
 武蔵ほど作家の興味を引くというか、吉川作品があまりにも日本人に与えた影響が大きかったためかはわからないが、歴史・時代小説家によって書かれている剣豪もいないのでないか。武蔵の人生は謎に満ちており、それが故に自由に描くことが出来るということも理由かもしれない。

 宮本武蔵を描いた作品で私が読んだのは、吉川英治「宮本武蔵」、司馬遼太郎「真説宮本武蔵」「宮本武蔵」、津本陽「宮本武蔵」、五味康祐「二人の武蔵」、藤沢周平「二天の窟」などがあるが、隆慶一郎が描いた「かくれ里苦会行」の主人公は武蔵に育てられたことになっていて、武蔵がところどころでいい活躍をする。その他、武蔵が脇役で出てきて「ニヤリ」とさせられる小説はあまたある(五味康祐の柳生武芸帳や、津本陽の柳生兵庫介にも名脇役として出てくる)。

 吉川英治が宮本武蔵を書くことになったのは、直木三十五と菊池寛の武蔵名人・非名人の対決に対する結論を出すためであったとというのは有名な話である。直木賞の直木三十五である。

 後生の作家は、おおむね武蔵の剣技が剣豪と呼べるレベルに達していたことを前提に、その精神がどうであったかを書いているように思われる。

 武蔵の剣が同時代で突出した技前であったことは、同時代に生きた渡辺幸庵という人物の証言に見ることが出来る。渡辺幸庵は、柳生宗矩の高弟で柳生新隂流の印可もとった腕前であった人物で、主家が取りつぶしにあった後、中国に渡ったり様々な経験をして、晩年は加賀の前田家で過ごしていた。130歳まで生きたので、その話を加賀藩の藩士が聞き取った内容が「渡辺幸庵対話」という書物として残っている。
 その中に、「竹村武蔵は、但馬に比べれば、碁にていえば井目も武蔵強し。」という記述がある。
 但馬とは柳生但馬守宗矩であり、大阪の陣では秀忠の陣を奇襲してきた大阪方の攻撃に際し、7名の武者を切って捨てたほどの腕前である。柳生新隂流の継承者は甥の柳生兵庫だとはいえ、その宗規をして、「井目」も差があるというのであるから、武蔵の強さがわかる。
 なお、武蔵は江戸にいた時に竹村姓を名乗っていたことがあるので、竹村武蔵は宮本武蔵のことである。

 武蔵の出生地については播磨であったり作州であったりと争いがあるが、武蔵は別離した母親に逢うために山を越えて播磨まで行っていたという説があり、どちらであってもよいといえばいえる。
 後に武蔵の養子である小笠原忠政に仕えて家老にまで出世しているとからして、武蔵の出自は卑しからぬものがあったと私は推測しているのだがどうであろうか。

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2010年2月 8日 (月)

和解の進め方が下手な裁判官

 和解の進め方は裁判官によって差がある。
 それぞれの当事者に和解をする方がよいと思わせるように持って行かないと和解はまとまらない。
 たとえば、「あなたは判決では全面的に勝ちますが、譲歩して和解しませんか」と言われたら、和解などしないであろう。
 それぞれの当事者に、「負ける」と言って和解させる裁判官もいると聞くが、ここまで馬鹿正直に心証を開示すれば、当事者は和解などしない。

 和解をさせるには、判決を貰うより和解した方がいいと思わせないといけない。
 裁判官のアタリが悪く、和解出来ないケースがある。
 和解相当事案で、弁護士同士で話をした方がまとまるケースもあり、裁判官が信用できない場合には、弁護士同士判決の行く末を予想することが出来ないので、その恐怖心から和解するケースもある。
 それぞれの当事者にはっきりとは言わず、「現時点では原告が有利のように考えているが、まだ詰めている訳ではないので、最終的なものではない」と言われると、ひっくり返る可能性だってあるということになり、原告側も「和解した方がいいかな・・・」となる。被告側がお金を払うケースでは、判決より有利な数字を出して「判決だと不利になる可能性もある」ということくらい言わないと、「和解しようかな」という気にはならないであろう。

 裁判官の失敗で事件が壊れることがあるが、裁判官にとっては一つの失敗で、「次に活かそう」となればよいのだが、当事者にとっては事件はたいてい生涯でその一つであり、失敗したでは済まないのである。
 弁護士はそうしたその人の人生を賭けている事件を受任し、依頼人の為に最大限の努力をしようとしている(普通は。全ての弁護士がそうだというつもりはない。)。
 事件を多数していると慣れてしまうというところはあるかもしれないが、そうした重みを受け止めて和解は進めてもらいたいものである。

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2010年2月 5日 (金)

債務整理・過払いで依頼者に合意書の控えも送らない弁護士がいる

 債務整理・過払いで多額の売上を上げている事務所があり、過払いが何かビジネスのような風潮を帯びてしまった。

 事件処理についても、ずさんにしている弁護士が見受けられる(大きく広告を出している事務所がそうだと言っている訳ではなく、過払いをする弁護士の中にそうした弁護士がいるという趣旨である)。

 私などは、消費者金融から過払いを取り戻す合意をした場合には、必ず合意書の写しを依頼者に送付する。そして、その中から、報酬と経費を差し引いたものの明細を文書で書いて、依頼者の指定口座に送金する。
 

 しかし、この間、合意書の控えを送っていない弁護士が何人かいるということを知った。法律相談などでそうした事実を聞いたのである。
 結論だけを教えられて、お金は送金してもらっているが、本当のところ、どういう合意をしたのか分からないのである。
 依頼者には100万円で和解したと言っておいて、実は200万円を回収しているという可能性だってあるのである。

 まさか弁護士が・・・とも思うが、国選弁護人として接見回数を偽って接見報酬を多く受領した弁護士(ただし、本人は故意を否認しているので、確定ではない。あくまで報道による)もいるといわれる時代であるから、そのようなことはあり得ない話ではない。司法書士でも合意書の控えを送っていないケースもあった。

 過払いで合意書の控えを送って来られていなければ、疑った方がいいし、そのような事務所は事件処理がずさんな可能性だってある。
 依頼者に報告・連絡・相談をきちんとする弁護士に依頼しなければならない。

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2010年2月 4日 (木)

見つめてる?

 昨日のブログで、人間は動く物を見る習性があると書いたが、水商売の女性にじっと目を見つめられて困ったとか、「俺に気があるのでは・・・」と思った経験がある男性は少なからずいるであろう。

 しかし、だいたいは彼女達も仕事であるので、あれは目を見ているのではなく眉間かその少し上くらいを見ているのである。
 人間は動く物を追う習性があるため、眼は常に動いている。
 目と目を見つめ合うと、どうしても相手の目の動きに合わせて、こちらの目が動いてしまうのである。
 むしろ、見つめられて目が動かない方が実は見つめていないということになる。

 思い当たる節はないであろうか。

 

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2010年2月 3日 (水)

食事が出てきて待つ

 複数で食事をしに行って、違う品物を頼んだ時、先にある人のものが出てきた時に、たいていの人は他の人に気兼ねをして待っている。
 そうした時に、冷めるからなどという理由で先に食べるように、食事が出てきていない人が勧めることが多い。
 2度ほど遠慮して、食べ始めるというのがだいたいのところであろうか。
 ただし、人間は動く物を見つめる習性があるため、先に食べ始めた人の手元や口元を見てしまうことになるのだが・・・。

 体育会系だと、先輩の頼んだものが出てくるまで食べられないことが普通であるが、弁護士の世界だと、そのあたりは気兼ねなく勧められたら食べることが出来る。
 中には、自分のが出てきたら何にもいわず食べる人もいるが・・・。

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2010年2月 2日 (火)

二日酔い

 酒が好きなので二日酔いになる。
 ひどい二日酔いになった時には「もう酒はやめよう」と思う。
 しかしやめられず19年間来ている(本当は16くらいから飲んでいたけど)。

 しかし、仕事柄やストレス発散のために飲んでしまう。
 最初はピッチをゆったりとして飲もうと決めていてもそのうちにだんだんピッチがあがる。
 また、祇園などに飲みに行くと、最初は水割りやロックも薄い目で作るが、だんだんと濃くしていくというテクニックで酔いが回る時もある。

 二日酔いの時は、ただただおさまるのを待つほかない。
 頭が痛い時、吐き気がするとき、症状は様々であるが、本当につらい。
 
 ふう。

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2010年2月 1日 (月)

読書日記2月1日

「蛍」 中公文庫。吉村昭。
 休暇という映画の原作となった「休暇」が収められている短編集。死と隣り合わせであったり、現実に死が描かれる暗い短編集だが、終わり方に余韻を残す作品ばかりなので、いろいろと想像力をかき立てられる。

「劔岳ー点の記ー」 文春文庫。新田次郎。
武田信玄で有名な新田次郎であるが、実は山岳小説もたくさん書いている。これは映画化された原作小説であり、そのときに本屋で何気なく購入して机の上につくねておいた。
 私は山登りはほとんどしないが、こういう山岳小説を読むのは好きである。
 昭和初期にほとんどろくな装備もなく剣岳に登る主人公たち。
 人の意志の強さを感じされられる一遍である。

「宮本武蔵とは何か」 角川文庫。縄田一男。
 モーニングで連載されているパガボンドが好調であるが、各歴史・時代小説家が書いた宮本武蔵を一つ一つ分析している作品。
 宮本武蔵といえば、吉川英治が書いた「宮本武蔵」が歴史上の事実と誤認している人もいるという具合で、吉川英治を意識せずには書けない作品である。
 私自身、複数の武蔵を描いた作品を読んでいるが、私も知らなかった武蔵作品が多数あるのには驚かされた。
 それだけ、武蔵は作家にとって食指が動く剣豪なのであろう。
 私もブログで武蔵のことを書いてみたいとは思っているが、歴史についてのブログは書くのに非常に時間がかかるため、中々果たせていない。

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