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2012年6月20日 (水)

死者と法律

 基本的に今の刑罰制度は、死者に冷たく、生者に優しいものになっている。
 人を1人殺したとしても、中々死刑にはならない。
 死んでしまった人には未来はないが、生者には未来があるし、反省して更正の可能性があるいうことなのだろう。
 しかし、その死者の未来を奪ったのは、刑罰に処せられるべきその生者なのである。
 死者からすれば、自分の未来を奪っておいて、なんでおまえには刑務所に行くとしても、未来があるのか、と言いたいであろう。しかし、死者はなにもいうことが出来ない。

 近代刑罰制度からすると、本人の責任を前提とするので、故意犯よりは過失犯の方が避難度合いが少ないということで、軽く処罰される。
 死者からすると、「自分の命を奪ったという点では同じだ」というところはあるだろうが、現代の刑罰制度がそのような考え方に立っている以上、それは仕方がないというほかないのだろう。しかし、過失にも度合いがあり、過失の度合いが大きければ、より責任非難をされて然るべきであるということもいえそうである。現代刑法を見ていても、そのようには規定されていないように見える。重罰化だけでは解決しないという声も上げられるだろう。

 故意による死亡事案でも、生きている人間の将来や反省などによって、中々死刑にはならないことは前述のとおりである。死んだ人間は、その時点ではそれに対しては何も物が言えない。遺族がいる場合には多くの場合代弁してくれるであろう。
 なお、死刑制度について議論するのが本稿の目的ではないので、死刑は誤っているとか、そうした類いの議論をするつもりはない。
 まとまりがないが、死んでしまった人間は権利主張も出来なければ、殺人犯のいうところの「事実は誤っている」ということもいえない。
 それが出来るのは、検察庁だけである。ことに、遺族もいない事件では、検察庁が公益の代表者として、追求していくしかないのが現在の日本の制度である。
 重い、重い責任がある仕事だといえるだろう。
 

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