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2013年4月30日 (火)

メールによる問い合わせ

 メールによる問い合わせを受け付けることがある。
 相談の概要が書いてあり、事務所での来所相談を前提に連絡先を書いてくれていることがある。
 ここで困るのは、携帯のアドレスしかない場合である。
 携帯電話は、パソコンからのメールを迷惑メールとしてはじく場合があるので、こちらからはメールを送信しているのに、「いつまでも回答が来ない」と思われているのではないかと思うときがある。
 こちらは具体的に相談の日時を入れてメールしているが、返信がないことがあるのである。
 携帯電話番号が書いている時も、電話をしても出ないことが往々にしてある。
 見知らぬ固定電話からの電話ということで、警戒して出られないのかなと思う。
 留守電機能があれば、留守電に入れることも出来るが、そうではないとそのまま相談されず終わってしまう。
 相手方の方が、メールは入れたものの、「やっぱり相談はいいや」と思っていることもあるであろうが、もし相談の連絡を待っておられたらと思ってしまうのである。

 これを避けるには、私にメールしているのであるから、そのアドレスからのメールについてははじくのを解除してもらうことと、相談のメールを入れた場合に私の事務所の番号を携帯に登録してもらうことだと思うのであるが、中々そうはいかないであろう。
  やはりメールではなく、事務所に電話して貰うのが一番確実である。

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2013年4月26日 (金)

ゴールデンウィーク

 明日からゴールデンウィークであるが、我が事務所は例年通り暦通りである。
 ゴールデンウィークはたいていの弁護士にとって連休ではなく、「休みがたくさんあるので、ここで書面が書ける」期間となっていると思うのは私だけであろうか。

 3月末から最終準備書面1本を仕上げて、今までに難解な訴状1本書き上げ、交通事故のカルテを読んでの準備書面も2本書けた。控訴趣意書も1本書いた。
 あとはもう一つの難解な訴状1本と、別の控訴趣意書1本である(こう書くと負けてばかりいるようだが、実質勝訴判決を取って確定したものや、和解で落ちている事件もあり、決して負けばかりこんでいる訳ではない)。
 これがゴールデンウィークの私の宿題である。もちろんこの間、これだけをしていた訳ではなく、新件の相談や会務活動もしていたが。。。
 弁護士のみなさんも似たようなところであろうか。

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2013年4月25日 (木)

読書日記4月25日

「彼岸過迄」岩波文庫。夏目漱石。
 夏目漱石は日本語の基本的文体を完成させた偉人であると司馬遼太郎は繰り返し言っているが、まさにそうであろう。
 夏目漱石の文章を読んでいると、今の小説家の基本的な書き方はここに集約されていると言ってもいいような気がする。
 この小説は、新聞に連載された連作小説で、彼岸過迄書き続けようということでつけられた題名だそうである。
 漱石は、ある時期の作品からは人間の感情というか内奥の苦悩を書き続けたが、それぞれの登場人物が一つの人間のタイプとして完成されていて、読み手にその人柄が伝わってくる。
 登場人物のその後の顛末がどうなったのかものすごく気になるが、そこを書かずに想像に任せているところがまた作品に深みを与えている。
 夏目漱石を読まないのはもったいないと思うのである。

「幸村去影」徳間書店。津本陽。
 津本陽の最新作が本屋で出ていたので購入。大阪の陣における幸村の活躍を描いている。
 大阪夏の陣で、徳川家康の旗本勢に突撃をし、家康が二回も腹を切ろうとして止められたくだりの突撃のところは、いろいろな作品で描かれているが、何度読んでも痛快であり、また、涙を誘う。
 物語によっては、真田幸村のこのときの突撃によって家康は死に、家康が死ねば徳川幕府が崩壊すると考えた幕僚達により家康の影武者を立てて、その後ほどなく駿府城で死んだことにしたという内容のものもある。
 家康は、若い頃死に、入れ替わったとする説があり、関ヶ原の戦いの際に刺客によって殺されたとする説もあり、また、大坂の陣で真田幸村の激突により死んだという説がある不思議な武将である。
 それだけ、最後の大阪の陣における家康のやり口が汚く、後世に汚点を残したということだろうか。
 司馬遼太郎によれば、大阪の陣のあと、徳川勢は秀吉の墓所を暴いたとされているが、日本人があまりしないような行動であり、家康は実は影武者で、大陸からの帰化人であったという説が出てくる余地があるのだろうか(こういう観点で描かれた小説もある)。
 いずれにせよ、牢人勢を率いて、あれだけの戦果をあげた真田幸村が、「日本一の兵」といわれたのは当然のことであろう。

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2013年4月24日 (水)

傍聴マニア

 裁判所の喫煙室で葉巻をふかしていると、刑事事件の傍聴マニアのような人達が事件について意見交換をしていることがある。
 彼らは平日の昼間に何をしている人であろうかと思いながら葉巻をふかしている。

 冬場はコートを着ているので弁護士バッジが隠されているため声をかけられないが、コートを着なくなるシーズンになると、時々、こちらが弁護士ということが分かり、声をかけられることがある。しかし、声をかけられたところで、今やっていた事件について中身を知らなければ答えようもないし、自分が弁護人の事件ではよけいに何もいえない。
 民事事件でも声をかけられることがあり、尋問が終わってから、「先生、さっきの証人はウソつきでしたな。」などと言われたこともある。こちらの証人でなくてよかったのだが。
 彼らは彼らでたくさん事件を傍聴しているので、「あの検察官はヘタだ」とか、「さっきの事件の弁護人はイマイチだった」とか民事事件に対しても批評を繰り返している。
 量刑に対して意見を戦わしている時もある。
 下手に経験のない若手弁護士よりも量刑相場に詳しいかもわからない。

 事実は小説より奇なりとはよくいったもので、生の事件では予想もつかないような事実が出てきたりする。一度興味を持つとやみつきになる人が出るのもある意味当然なのかもしれない。
 確か裁判の傍聴記を書いた本がそれなりに売れたと記憶しているが、私などはそれを生業としているので、傍聴にいく暇もなければ、暇があったとしても他の事件を見に行こうという気にはなれないが、裁判が昔よりも一般の人に身近になったということなのであろうか。
 彼らに「中という弁護士はダメだったな」と言われていないかちょっと心配である。

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2013年4月23日 (火)

打合中の電話

 依頼者と打合をしている時は、基本的に電話には出ない。どうしてもつかまらない人や、その電話に出ないと大問題が発生するときには依頼者に予め断っておいて出る。
 しかし、依頼者の前では出ず、来客室から出て自分の席で電話に出る。
 年に1回あるかないかくらいである。

 依頼者の方はというと、携帯が鳴り出すと出る人がけっこういる。
 その間こちらをないがしろにするわけであり、私は来客中に電話に出る依頼者は嫌いである。
 一言、事前に電話がかかってきたら、どうしても出ないといけないんです、とでも言っておいてくれれば何の問題もないが、かかってきた電話に出るのは当然で、その間こちらを待たせてよいというのはあまりいい気分はしない。
 基本的なマナーのような気がするのだが、いかがなものであろうか。

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2013年4月22日 (月)

弁護士の体調管理

 弁護士を見ていると過労状態の人が多い。
 なので、事務所で一人が風邪を引くと、瞬く間に他の弁護士にうつったりする。

 体調が悪いと、いい仕事も出来ないので、体調を壊さない工夫が必要だと思うが、壊したくて体調を壊すわけではないから、基本的なことに気をつけるしかないだろう。

 よく寝る。ある程度の睡眠時間を取らなければ、成長ホルモンが分泌されず、身体の壊れた細胞が修復しないと聞いた。となれば、3時間睡眠法はウソだったのかとも思う。
 食生活に気をつける。ある程度、野菜や果物を取る必要もあるだろう。お酒を飲むときは出来るだけつまみとともに。コンビニ弁当ばかりは言語道断。
 適度な運動。私も運動不足だが、まだサッカーをしているからましであろう。
 適度なストレス発散。仕事ばかりしていてはやはり人間であるからストレスが溜まる。
 自分一人でため込まず、相談する仲間を持つ。一人で抱え込んで精神的に参ってしまうことがある。

 こんなところか。
 まあ、私も何回も仕事のしすぎで倒れているから、偉そうなことはいえないが。

 

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2013年4月19日 (金)

弁護士の横領

 弁護士の横領報道が多くなっているように思う。

 弁護士は破産すると資格を失うのだが、これは、人のお金を預かる職業であることからの当然の帰結である。他にも破産した場合につけない職業などはあるが。

 弁護士は預かり金口座を作り、そこに依頼者からの預かり金を入れることになっている。後見人の場合は、後見口座である。
 しかし、どちらも弁護士自身が管理している口座であるから、そのお金を引き出すかどうかということは、当該弁護士によって自由に出来る。

 私の記憶では、フランスでは弁護士は個人で依頼者から金銭を預かることが出来ず、弁護士会が預かり金を管理していたはずである。フランスでは弁護士会が預かり金を運用して、それで何かの経費に充てていたようである。
 ただ、この方式でも、何も知らない依頼者に自分の口座に送金させることは出来るだろうから、完全な解決とはいかないかと思う。
 弁護士会が預かるようにしなければ、これからも横領事件がはびこり、弁護士に対する信頼は地に墜ちてしまうであろう(既に墜ちていると考えている人も多数いるとは思うが)。
 過当競争時代に突入してしまっていることも一因であろうか。
 あるいは、昔ながらのぜいたくな暮らしをしているために、資金が枯渇してしまうのか。

 私は預かり金に入っているお金は、出来るだけもっていたくないので、1秒でも早く清算して依頼者に送金したいタイプなのであるが。

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2013年4月18日 (木)

読書日記4月18日

「サマータイム・ブルース」早川文庫。サラ・バレツキー。
 女性探偵が主人公のハードボイルド小説。フィリップ・マーロウを女性版で描こうとしたと思われるが、完全に失敗していると思う。チャンドラーの世界はチャンドラーのものなので、あの世界観を出せるのはチャンドラーだけである。
 何で買ってしまったのかと悔やんだが、貧乏性なので最後まで読み切る。
 最後まで読み切ったが、その思いは変わらなかった。
 あくまで私の個人的感想ですが。

「国境の南、太陽の西」講談社文庫。村上春樹。
 村上春樹の翻訳ものがいいので、ファンタジーなところがない小説であれば理解出来るかと考えて購入しておいたものを読んだ。
 村上春樹は自ら日本語をうまく紡ぐ能力があるというような趣旨をエッセイで書いているが、まさにそうであろうと思う。文章にリズムがあり、読んでいて心地よい。村上春樹は文章のリズムも大事だということもエッセイで言っていたはずである。
 私も準備書面などを書く時にはリズムに多少気をつけている。読んでみて、書いてあることはいいが何か読みづらいという文章に出会うことがあるが、それは言葉の持つリズムを活かせていないからであろう。
 主題としては取り立てて新しいものではないと思う。しかし、新しい主題というのは今の時代そうそうない。同じ主題で、いかに違った物語を書くかということが大事なのであろう。
 この作品は好きである。

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2013年4月17日 (水)

改札を出る前と出た後

 混んでいる電車の駅で、前を歩いている人が、改札の前で切符を探して突然立ち止まる。
 「出る前から用意しといてよ」
 そう思いませんか。

 また、改札を出てすぐ、後ろから人がたくさん来ているのに、行き先を探して立ち止まる人。
 「もう少し人が歩けるスペースを空けたところで行き先方向を探してよ」
 そう思いませんか。

 他人に小さい迷惑をかけるこういう行為が嫌いである。

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2013年4月16日 (火)

同じミス

 業務上で困るのは同じミスである。
 繰り返し同じミスをするというのは、その部分がその人にとって苦手なところだからであろう。
 ワープロで打って書面を作成するので、誤字脱字がどうしても出てくるので、私が作成した書面は裁判所に出す前に事務職員に見てもらうようにしている。これは、私が誤字脱字チェックが苦手というところもあるが、自分で書いたものは、「そう書いている」という思い込みがあるのでチェックしづらいためというところもある。
 書面は上書きで作成するので、よく事件番号が他の事件のままということがあり、事務員からよく修正される。

 勤務弁護士でも、各々ミスの傾向というのはあり、私がチェックをしている事件では同じミスをしていることが多い。時には、指導したことが守られておらず、書面自体をイチから書き直すよう突き返すこともある。
 事務職員もミスをすることがあるが、同じところでミスをすることが多い。
 最終的には、「自分がここでミスをしやすい」ということを認識して、その部分をよくよく注意するしか方法はないのだろうと思う。
 私の場合は、事務職員のチェックに頼っているところもあり、中々ミスは改善しないが。

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2013年4月15日 (月)

人をいじめるヤカラ

 子ども時代にいじめがあるというのは今も昔もそうだろうが、社会に入っても人をいじめるヤカラというのはいる。
 私は事務所の職員に「ためにするための怒り」などをすることはないつもりである。その人が嫌いだから、何かにつけて叱りつけるというのは上司としてもっともしてはいけないことだからである(嫌いな人もいないので、そもそもしようもないが)。
 気分次第で以前はよかったことを、違う場面では叱るというようなこともしてはいけない。
 だいたい、叱ることが好きな人は別として、私も人に怒ることが好きではない。出来るだけしたくない。それでも叱ることがあるのは、それが業務上必要だからである。それを越えて、個人的感情で叱るということはあってはいけないであろう。

 ただ、世の中では、その人のことが嫌いだから、叱る理由を見つけては叱りつけるということもままあるようである。
 その人のことが嫌いという理由が個人的な考えに基づいている場合もあるだろう。
 自分の持っているコンプレックスの解消のために人を叱る場合である。
 たとえば、学歴に対するコンプレックスがある場合に、自分よりも学歴のある人を叱る。
 また、女性から過去にひどい仕打ちを受けた男性が、地位を利用して女性を叱り優越感にひたる。
 精神分析を生業としているわけではないが、話を聞くと筋道が見えてくることがある。

 何回か書いたことだが、人間の心の中には闇の部分があり(私だってある)、そうした闇の部分を知らないと見えてこないことがあるように思うのである。

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2013年4月12日 (金)

自転車のサドルで

 先日、雨の日が続いた後、自転車のサドルをよく拭いて自転車に乗って通勤したところ、駅についた頃には、ズボンのお尻がぐっしょりと濡れていた。金田一耕助シリーズで、よく衣類が血でぐっしょりと濡れていたという表現があるが、まさに同じ状態であった。ただし、雨水でだが。

 私のサドルを駅の自転車置き場で強く押してみると、革製のせいか、雨水がしみこんでいたようである。一応、屋根があるところに置いてあるが、完全に囲われている訳ではないので、風が強く雨が吹き込んできたような場合には、サドルまで濡れるのである。
 

 朝からスボンのお尻がぐっしょりと濡れていても、弁護士は仕事に行かないといけないのである。着替えに帰っている暇はなく、濡れたまま事務所の椅子に座り、テンションが低い状態で仕事に向かった私であった。
 週末には、サドルカバーを買いに行こうと思っている。

 以上です。

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2013年4月11日 (木)

法律家としての緊張感

 弁護士というのは、一つのミスで資格を失いかねない職業である。
 いくら弁護士としてのノウハウがあったとしても、資格がなくなれば、法廷には立てないし、事務所も維持出来ない。

 こうした専門性からすると、常時緊張感が必要となる仕事である。
  時効の管理、控訴・上告期限の管理などはミスが許されない。もっとも、依頼された時点で時効が完成している危険性があるものは仕方がないが。
 法律を知らないばかりに、依頼者に迷惑をかけることも許されない。
 たとえば、一定の要件が整えば中途解約が出来ないとされているリース契約であっても、特定商取引法のクーリングオフを主張して、契約が白紙撤回出来る場合がある。
 このことは、知らない弁護士にあたると、「中途解約出来ないから、ダメだよ」といわれて終わりである。
 交通事故などでも、やり方を知らないばかりに、賠償金が数百万円から場合によれば数千万円かわることがある。
 あげればキリがないが、裁判官・検察官でもこの理は同様であろう。
 法律家を目指す人が減っているが、司法修習生にせよ、これから試験を受けられる人にせよ、こうした緊張感を持てない人は、法律家にならない方がよいであろう。
 まあ、こうした緊張感のない人は、そもそもどの仕事をしてもダメという気もするが。。。

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2013年4月10日 (水)

事件の筋

 受任した事件で、事実を曲げる訳にはいかないため、ある程度事件の筋というものが決まってくることがある。
 事実があいまいであったり、法的な問題で勝てる事件というのもあるが、受任した時に事件の筋を(ある程度)見立てて事件を始めるのが通常の弁護士であろう。もちろん、とりあえずやっているという弁護士も多いが。

 絶対に負ける事件を受けるかどうかという問題があるが、こちらから訴えを出す場合には、原則受任しない。
 訴えられた場合は、いろいろと主張することで和解出来る場合もあるので、これは敗訴が見えていても受任可能な場合がある。
 もちろん、受任する際に見通しを立てて、敗訴する可能性が極めて高いから、こういう和解を目指すということも説明する。
 しかし、主張というのは書いていると、何となくいけそうな気になってしまうもので、ことに依頼者は、「先生、これやったら勝てますやん」となってしまうことがある。
 その都度、主張ではこうは書いているが、裁判官の判断はこうはならないと説明するが、和解の時には依頼者が勝てるのではないかという気になっていて、和解しづらいことがあるのも実情である。
 「何か勝てた」「何か負けた」ではなく、ある程度筋読みして事件を受けて、自分が当初描いた範囲の中で事件が解決するというのが、その弁護士の力であると思うが、もちろん神ならぬ身であるから、時には想定の範囲を超えることもある。

 依頼者からどうなりますかといわれても、予測をいくつかいうことしか出来ないのが実情というところもあるが、ある程度やはり事件の筋は読んでやるのが本当だろうと思うのである。

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2013年4月 9日 (火)

自画自賛

 私も自慢してしまうことはあるが、自慢話というのは、度を超えると、聞いている人もしらけてしまうものであり、ある程度のところまでで押さえないといけない。
 自慢話だが、起承転結があってオチがあると聞いている方もおもしろいだろうが、単に自分がこれだけ出来るとか、相手方がこれだけダメだったというような話は、聞いている方もあまりいい気はしないであろう。

 もちろん、聞き手にもよるところがある。若手弁護士や修習生からすれば、ベテランや中堅弁護士の自慢話は、聞いていて勉強になるであろう。
 聞き手によって話の中身を変えるというのも、また話術の一つだろうと思うのである。

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2013年4月 8日 (月)

電話対応

 他の法律事務所に電話をかけることがあるが、電話対応がダメな事務員が出ると、「教育が出来ていないなぁ」と思う。
 私の事務所の事務職員にどこまで教育が出来ているかというところもあるし、職員がミスをすることはあるのだが(もちろん出来るだけミスは減らしてもらうよう指導はするが)、最初の対応は事務職員がするので、電話対応が出来ていない事務職員が出られるとげんなりとしてしまう。

 通常は、「弁護士の中ですが」というと、世話になっていなくても、「いつもお世話になっております。」という合いの手くらいは入れるものである。
 「ハイ」とだけ返事をされると、こっちも、想定されている応答ではないので、心の中で、「ハイ」で終わりかい!と一瞬突っ込んでしまう。
 それなりに気心が知れている事務所だと、私からその弁護士に注意喚起をしたりするが、あまりこちらとしても言いたい話ではない。
 叱るのが好きという人もいるだろうが、注意など出来ればしたくはないのが普通であろう。

 知り合いの司法書士事務所の事務員さんは、ものすごく愛想がよく、電話をするだけで幸せな気分にさせてくれる。ほめたくもなる。
 電話対応一つで、気分的なものがずいぶん変わるものだと思うのであるが、いかがであろうか。

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2013年4月 5日 (金)

読書日記4月5日

「冬の夢」村上春樹訳。スコット・フィッツジェラルド。
 フィッツジェラルドは今度「グレート・ギャツビー」が映画化されるそうであるが、ギャツビーの少し前の短編集である。
 作家は生きていた時代は不遇で、死んでから評価されることも多く、生きている時代に評価されていた流行作家は後生に生き残れない気がしているのだが、フィッツジェラルドの場合は、生きていた時代も時代の寵児のようにもてはやされて、その作品が今もなお新しいという意味で、希有な作家の一人であるといえる。
 また、フィッツジェラルドは評伝によると、極めて短期間で作品を仕上げて、時には酔った状態で作品を書いたそうであるが、天才というほかないだろう。
 その言葉のみずみずしさというか、他にマネの出来ない言葉の使いようというのは、チャンドラー以外にはいないのではないだろうか(チャンドラーとはまた違うところがあるが)。
 これだけ言葉を自由に使えれば楽しいだろうなと思う。
 準備書面を作るのに四苦八苦している身からすれば。。。

「日本剣客列伝」幕末編。朝日文庫。
 絶版となっていたものの復刻版。海音寺潮五郎が千葉周作を書いていたので買ってあったもの。
 意外に最初に収められている「音無の剣」の高柳又四郎が良かった。
 私もいつか読みたいと思っている大菩薩峠という小説の中で出てくる机竜之介(だったと思う)の音無の構え(だったと思う)のモデルとなった剣客で、竹刀で打ち合うこともなく、竹刀の音がしない間に相手を倒していたため、「音無しの剣」と呼ばれるようになった剣客である。今ではほとんど顧みられることもない剣客だが、ひょっとしたら幕末最強の剣士の一人といえるかもしれない。
 最後の沖田総司はいまいちだった。

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2013年4月 4日 (木)

桜の盆栽

 目覚ましテレビで桜の盆栽というのを特集していたので、事務所に置くために購入してみた。
 もっとも、世話をするのは事務員さんであるが。。。
 桜は咲いている期間が短いが、だからいいというところもある。

 20130329170413
 みなさんは、お花見に行かれましたか。

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2013年4月 3日 (水)

ギムレット

 ギムレットというカクテルは、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」(早川書房、村上春樹訳。清水俊二訳の「長いお別れ」という文庫版もある)の中で、主人公のマーロウがテリーという友人とバーで飲むカクテルである。

 テリーは突然マーロウの下を去り、そこからストーリーが展開していく。
 テリーが去ったあと、マーロウが一人でバーで飲んでいると、二人が通っていたバーのバーテンダーが、テリーが言っていた、「本当のギムレットはこう作るんだ」ということを覚えていて、テリーのレシピでギムレットを作ろうとしていたくだりが一つ好きである。お友達はどうしたのかというようなこともこのバーテンダーはいうのである。
 このバーテンはそのレシピに必要なジュースをわざわざ仕入れている。
 さりげないサービス精神というものがうかがえる。

 ロング・グッドバイの中で後に結婚することになるリンダ・ローリングと出会った時も、マーロウはギムレットでベロベロに昼間から酔ってしまう。後に絶筆となった「プードル・スプリングス物語」の中でも、ロス・マクドナルドが加筆したのか元々あったのかは分からないが、マーロウは使用人に冷えたギムレットを作らせて飲んでいる。

 チャンドラーの生涯を描いた作品を読んだが、特にチャンドラーがギムレットを好んだという記載はなかったが、ロング・グッドバイの中で重要な役割をこのギムレットというカクテルに果たさせていることからして、ギムレットはチャンドラーにとって特別なカクテルではなかったかと思うのである。

 テリーの名台詞がある。
 「ギムレットには早すぎるね」というもので、物語のどこで出てくるかはネタバレとなるので書けないが。

 私がバーで最初の一杯を頼むのはギムレットだが、まあこの程度の軽い理由である。
 みなさんも、今度バーに行った時に、是非最初の一杯はギムレットを飲んでみてはいかがだろうか。
 ただし、きついカクテルなので、飲み過ぎには要注意である。

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2013年4月 2日 (火)

プロに講釈をする

 私が嫌いなことの一つに、プロに対して講釈をするということがある。

 私は法律のプロなので、素人から分かっているように講評されたりするのは当然好きではない。もちろん、依頼者や相談者が分からないことや誤解をしている場合にこれを解きほぐす作業は仕事なので必要だが、たまに飲み屋などで、たまたま居た人からこちらが弁護士だとわかると、法律や紛争処理についてくどくどと自説を聞かされることがある。
 これは正直もっとも失礼な態度であると思っている。
 もちろん、こういう事件に対してこれだけの量刑しかされないのはおかしいという素朴な意見は市民感覚を知るので大歓迎だが、弁護士よりも自分が分かっているというような顔をされて、「先生も勉強しいや」と言われると、弁護士としての事件処理件数は18年という経験年数の中では件数が相当多い方だと思っているし、かつ、守秘義務があるので公開できないが、ものすごい大事件を影で処理したこともあるので、気分は悪い。

 これと同じで、酒のプロに酒を語るというのも飲み屋さんとかバーでしている人がいるが、これまた嫌いである。
 私は酒の種類としてワインがあまり好きではないのだが、やたらワイン好きを標榜して、ワインについて一家言あるような人が多いためそうなのかもしれないと思っている。
 酒のことはよく分からないけど、このお酒は美味しいとか、知識はないけどこのお酒は好きと言っている方がむしろカッコイイと思うのである。
 実際、私自身も酒はある程度飲むが、そんなに酒のことを知っている訳ではなく、好きか嫌いか、美味しいかそうでないか程度のことしか分からない。
 個人の好みもあるから、プロでない酒飲みは、それでよいと思うのである。

 むしろ、私はバーなどで、お酒についてお店の人から教えてもらうのが好きである。
 何でもプロには教えてもらうという態度の方が、好ましいと思うのである。

 以上です。

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2013年4月 1日 (月)

同じ本を買う

 同じ本を買ってしまうことがある。
 一つは、ハードカバーで出ていたものが文庫で出て、両方持っていたいので、分かっていて購入するパターンである。
 村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーシリーズがこれにあたる。

 もう一つは、買ったことを忘れていて、本屋でおもしろそうだと思って買ったところ、まだ読んでいない大量の本の中で同じ本が見つかるというものである。
 これなどは、読んでいないために自分の中で意識がないので仕方がないといえる。

 最悪なパターンは、ハードカバーから文庫版になるときに題名を大幅に変えてしまったがために、全くこちらとしては意識せず、違う本だと思って購入したところ、読み始めると「なんか読んだことある・・・」という気になりよくよく見て見ると、文庫化にあたり題名を完全に変えましたと書いてあるのである。
 これはある意味だましではなかろうか。。。

 先日も立花隆の本を買ったら、前に読んだ「田中真紀子」研究という本が完全に題名が変えられていただけのことであった。
 文庫化にあたり、大幅に改稿とかしてくれていたら再度読む気にもなるし、文学作品であれば、こちらの年齢が変わったために、読み返して新たな発見ということもあるのだが、ノンフィクンションだと中々そうはいかない。
 電車の中で読む本がなく、とても悲しい思いをした。
 同じ題名で出すか、きちんと消費者のために、改題したことを一見して分かるようにしてなさい。

 以上です。

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