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2014年7月31日 (木)

改札にて-その1

 遠方からチケットを買って京都駅で乗り換えて自宅近くの駅まで戻ってきた時、精算する機会でチケットと定期を入れると、だいたい「係員のいる改札へ」といわれてしまう。
 そのため、そうした時には係員のいるところに行くのであるが、たいてい一人くらいしか通れないにもかかわらず、世の中には自分だけしかいないというような顔をして通行出来ないようにしているヤカラがいる。
 当然のことながら、そうしたヤカラは大嫌いである。
 少し前に、何かそこで書類を書いている女性が居たが、前屈みになっているので、通路を完全にふさいでいた。
 気の利いた係員であれば、「お客さまがお通りになられるので、少し譲っていただいてよろしいでしょうか」とでも言ってくれるが、気の利かない係員だと、私が通れないのに黙ってそれを見ている(割合としては黙っている方が多いが)。
 すいません、通してもらえますか。と言って通ろうとするが、中にはあからさまに迷惑そうな顔をするヤカラもいる。
 普通は、自分が通路をふさいでいるのであるから、こちらが低調に頼んでいたら、「あっ。すいません」と言ってこの女性の場合であればお尻を引っ込めると思うのである。
 人間の身体はある程度たたんだりしてどうにかなるのである。
 この女性の場合、あからさまに、「私が書いてるのに、なんやのん。この黒いオッサン」のような目で見られたのである。
 こんな人間が日本中にいるようになると、日本という国はダメになってしまうわなと思う夏のひとときであった。

 以上。
 

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2014年7月30日 (水)

バイキング

 ホテルに宿泊すると朝食がバイキングのことがあるが、近眼ではないが、止まっているものは近くしか見えない私はバイキングが苦手である。
 どのお皿に、どの食事を入れてよいか悩むのである。
 先日東京に宿泊した時も、いいお皿が見つけられず、仕方がないので漬け物を入れるような小鉢にウインナーやらハムやらを一つ一つ入れていた。
 斜め後ろを振り向いた時、そこには大きい白い皿があった。

 以前サッカー大会で宿泊した時には、コーヒーの受け皿にウインナー等を入れていて、爆笑されたこともある。

 お皿に、「これにはこれを入れましょう」とか、壁に盛り合わせ例とか書いて欲しいもんである。

以上。

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2014年7月29日 (火)

加齢臭に関する実証的研究

 ある会議。
 隣に座った人が扇子を使われると得も言われぬ臭いがしてくる。

 これが加齢臭か。

 喘息持ちの私は耐えられず席を移動した。

 事務員に、私に加齢臭がしている時には、付箋で机の上にそっと貼って欲しいと伝えた。

  今のところ貼られていない。

 以上。

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2014年7月28日 (月)

電車の中にて-おもしろくない話

 電車の中で知り合いの大学生の男の子と、女の子が出会ったようで、私の横でそれなりに大きい声で話をしている。
 二人とも嬉しそうである。
 たいへん盛り上がって話をしているのであるが、二人は楽しそうであるけれど、全く中身がなく、オチもなく、おもしろくない。
 バイトいった。すごいね。すごいやろ。バイトの後寝倒した・・・そんなどうでもいい会話が続く。
 関西の人間やったら、話に起承転結つけんかい、と思っていたのは私だけではないはずである。
 以上。

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2014年7月25日 (金)

ウインナーの串揚

 安い居酒屋に行くとウインナーの串揚げがあるが、絶対に頼んでしまう。
 先日もウインナーの串揚げがあったので、一人で3本食べてしまった。

 小学生の頃、遊びに行っていた友達の家の近くに肉屋さんがあり、そこで揚げ物を売っていたのであるが、ウインナーの串揚げが美味しく、子ども心にたらふく食べたかったのであるが、小学生の小遣いでは毎回1本買うのが精一杯で、その頃のウインナーの串揚げを食べられなかった思いが40年近く経過した今も心に残っているのである。近所の金持ちの子は、いつも串カツを数本買っていて、それを見て、いつか自分も数本串カツを買えるようになりたいと思ったものである。

 小さい頃、食べたかったものを大人になってからも食べたいと思い、大量に食べるという現象はいくつもあり、板東英二が子どもの頃は卵は貴重で、たらふく食べたかったがたべられなかったので、新幹線でゆで卵を4つも5つも食べるという話を聞いたことがあるが、それと私のウインナーの串揚げも同じようなものであろう。
 その頃の気持ちでは、お金があればウインナーを10本、15本と食べてやると思っていたが、さすがに今は3本食べると飽きてしまい、いくら食べたいものでも、そんなにたくさんは食べられないことに気づかされるのである。

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2014年7月24日 (木)

セミナーの案内

 コンサルタントがやっている「これさえやれば売上アップ」などというセミナーの案内がファックスで流れてきたり、ダイレクトメールで来たりする。
 まず、当該コンサルタントがどんな人かも分からないのに参加しようとも思わないし、次にその人が超有名な人であっても参加しようと思わない。
 ファックスの場合は、こちらのファックス用紙を使って案内しようとするその魂胆がイヤなので参加しようとも思わないというところもあるが、ダイレクトメールでもこれは同じである。
 有名なコンサルタントだと、数時間で一人数十万円も取っているようである。
 コンサルタントという何をしてくれるのかよく分からないような人にはすっと数十万円を支払うのに、紛争を解決してくれる弁護士の費用に数十万円支払うことには「高い」という気になられるというのも正直腹が立つ。

 ビジネス書を見ていると、たいてい同じようなことが書いてある。
 おそらくは、一番大事なところは本には書かないで、自分だけのノウハウにしているというところがあるだろうし、その人がやるからうまくいくというところもあり、万人に通じるかといえばそうではないところもあるだろう。私も、弁護士として本当に大事なノウハウは弟子にしか教えていない。

 結局は、セミナーに行くということが大事なのではなく、セミナーに行ったことを実践してみて自分に合うものを取り入れていくことが大事なのだと思うが、この実践を続けるということが難しいのである。

 「顧客獲得のためにはブログが大事。ブログを毎日更新しましょう。ブログを毎日更新した●●さんは、1年後にこのような業績アップを達成しました」
 というような話はよくあるが、毎日ブログを更新出来る人は一握りであろうし、結局は実践を続けられる能力があるかどうかに帰着するような気がする。
 セミナーにたくさん行くのは無駄であろうというのが私の見解だし、ありていに言えば一度も行ったこともないし、これからも行くつもりもない。

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2014年7月23日 (水)

読書日記7月23日

「おそらくは夢を」ハヤカワ文庫。ロバート・B・パーカー。
 筆者がチャンドラーの遺作を完成させたプードル・スプリングス物語に次いで完成させたフィリップ・マーロウが主人公の物語。
 作品としてはマーロウが初登場した「おおいなる眠り」の続編となっていて、その作品で出てきた登場人物が多数登場する。
 マーロウファンならニヤリとさせられる場面が多数ある。作品としての完成度はそれほど高いとはいえないが、独特のマーロウの言い回しやマーロウらしさが随所に出てくる。マーロウ好きであれば是非読んで欲しい一冊。

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2014年7月22日 (火)

葉巻の吸い口を切ろうとして

 カッターで手を切ったことはありませんか。

 私はあります。

 以上です。

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2014年7月18日 (金)

暑さ対策

 これを書いている時点で九州は梅雨が明けたようで、いよいよ夏本番である。
 今年は冷夏と聞いていたが、どうやら冷夏は関東以北のようで、西日本は暑いらしい。
 報道はどうしても関東というか東京中心にされるので、ぼんやりとニュースを見ていて「冷夏」というフレーズが頭に残って居たのであるが、どこが冷夏やねん、と思っていたところ、関西は相も変わらず暑いようである。

 暑さ対策として、色々と考えるが、昨年は水に冷やすとひんやりするタオルのようなものを首に巻いていた気がする。探してみたが、とにかくモノを片付けてはそのありかを忘れる私(森のリスがドングリを保存食として埋めてどこに埋めたか忘れるようなものである。そのおかげで、リスの居る森ではドングリの木が育つようであるが)にとって、そのありかを探すことは非常に難しい。
 新しいものを買うという選択肢もあるはずであるが、新しいものを買った途端に前のものが出てきたりするので、もう少し探そうと思っている。
 私などは基本的にはデスクワークであり、裁判所への行き帰りや、現場に行く時に我慢をすればよいのだが、外などで作業をする人にとっては地獄であろう。
 扇風機付の作業着が爆発的に売れて、25万着を売り上げたようであるが、さすがに扇風機付のスーツは売り出さないであろうから、ビジネスマンは半袖シャツに首に冷えるタオルを巻いて、帽子をかぶるというくらいが暑さ対策のせいぜいというところであろう。

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2014年7月17日 (木)

依頼者と一体化する弁護士

 依頼者と一体化して、ほぼ当事者のようになってしまう弁護士がたまにいる。
 私自身は、事案に対して冷静な判断力を失ってしまうので、これはよくない傾向だと思っているし、私のスタンスはあくまでプロとして依頼者とは別個に判断し、距離をおくようにしている。
 こうしたからといって、事件に対して一生懸命にやらないということにはならず、むしろ冷静であるからこそ、いい解決が目指せるというところがあると思っている。
 弁護士が関わる紛争は多数あり、その全てにおいて当事者と一体化しなくとも、一部でも一体化すれば身体が保たないのではないか。
 依頼者が抱える紛争は通常は1件であったりするが、それでも事件のことばかり考えて、つらい思いをされていることがほとんどだからである。
 中には依頼者よりも代理人の弁護士が怒っている場合もある。正義感の強い曲がったことの嫌いな弁護士でそういう風になってしまっている人がいる。
 誰の事件かということもあるし、紛争の解決は証拠の優劣で常に正しい方が勝つとも限らないし、正しいかどうかを最終的に決めるのは誰かというような問題もあり、中々難しいところがある。
 事件に対して一生懸命になることと、一体化することはまた別だと思うのである。

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2014年7月16日 (水)

死亡・高次脳機能障害専門など

 ホームページで検索をしたりする際に、有料広告欄に交通事故の死亡・高次脳機能障害専門とか、あるいはそうしたことに特化したサイトの広告が掲載されていることがある。
 一般の人は、こうしたホームページを見て、専門だからいいのでは、と思ってしまうのであろうか。依頼があるから有料のところにこうした広告をしているのであろう。
 実際にすごい技能があるのかもしれないし、どんな弁護士かも分からないが、同業の弁護士の印象としては、「金になる事件がしたいだけ違うのか」と思ってしまうのは致し方ないところがある。
 等級にもよるが、高次脳機能障害の後遺症を負った事案では賠償金は高額化する傾向にあるため、当然、弁護士報酬も高額になる。
 死亡事案でも一般的には賠償金は高額化する(過失相殺なとがある場合で相当に減額される場合もあるが)。全国の案件対応といわれると、そんなに暇なのかと思ってもしまう。
 14級でも12級でも普通に受けているという事務所のホームページと比較すると、なぜ低い等級はやらないのだと思ってしまうのである。

 取扱分野で、犯罪被害者支援を上の方にあげているホームページも少ないように思う。犯罪被害者支援は、ほとんどの事件はお金にはならないからであろう。適正なお金を支払っていい仕事をしてもらえばよいのであるが、高額化する賠償金を狙ってそうした分野に特化しようとしているとすれば、そういう弁護士にいい仕事が出来るのかと一般的には頭をひねってしまう。

 過払いの時もそうであったが、過払いが少なくなった今、次の「お金になる」事件として、高額化する交通事故の案件だけをやろうとしているように見えてしまうのである。

 これは私の印象であり、意見であり、そうした事務所が全てそうであると断定するつもりもない。ただ、依頼するときには、依頼者の方も漫然と依頼するのではなく、そうした目を持つことも必要な時代ではないかという気がするのである。広告だけにとらわれず、本当にいい弁護士に巡り会えるよう依頼者もそういう視点を持って欲しいのである。

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2014年7月15日 (火)

読書日記7月15日

「関ヶ原合戦と石田三成 敗者の日本史12」吉川弘文館。矢部健太郎。
 関ヶ原合戦前の豊臣秀吉の権力の源を「家格」に求めるという新説を出し、徳川家康と前田利家について、豊臣秀吉が特別扱いをしたことはなかったという立場から秀吉の権力が隔絶したものであったこと、秀吉が亡くなった後の関ヶ原の戦いへ向かう家康が盤石の体制でなかったこと、豊臣秀吉に対する三成の反逆という印象付をするために総大将でもない三成を成敗されたことなど、新説が展開される。

「捕食者なき世界」文春文庫。ウイリアム・ソウルゼンバーグ。
 生物の多様性がなくなっている原因として、捕食者を人間が絶滅させてしまったことに原因を認める一冊。
 捕食者を地域から絶滅させてしまうと、捕食者によって食べられていた生物が大きく増えてしまい、そのエサとなる生物もいなくなり、多様性がなくなり、いずれ生物が絶滅してしまうのではないかという観点で書かれている。
 実例が豊富で、こうした本に出会えると嬉しくなる。
 ラッコが増えると海藻が増えて海藻で暮らす生物が多様化して増えて行く。ラッコは海藻を食べるウニを好んで食べるからである。
 ところが、ラッコが減っていっているという報告がされている。仮説ではあるが、鯨が激減したためにシャチがラッコを食べてしまうというのである。これから、こうした仮説が検証されることを期待する。
 今年読んだ中でベスト10には入る好著。

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2014年7月14日 (月)

懇意にしていた先輩の弁護士が亡くなられました

 先日、懇意にしていた先輩の弁護士が亡くなられた。まだ、63歳の若さでの病死だった。
 弁護士になってほどなく仲良くさせていただいて、独立後はたくさん事件を紹介してもらい、数多くの事件を共同でさせていただいた。
 私が今日あるのは、その先生に負うところが非常に大きい。
 私が今仕事で使っている背もたれ式のイスは、その先生が開業祝いに買ってくれたものである。使い始めて12年近くになる。一度壊れたが、高額なイスなので修理して問題なく使えている。
 そのイスを見ていると、その先生のことを思い出す。
 事務所に来るときには、気さくに事務員さん達に、ドーナツなどを買ってきてくれた。
 誰に対しても偉ぶらず、優しく、丁寧で、正義感の強い人だった。仕事が好きで、プロ意識の高い人で、病室でもノートに事件のことを書いておられた。
 今はただ、喪失感があるだけであり、本当に悲しくなるのはこれからなのだろう。

 19世紀の英国作家のウイリアム・M・サッカレーという人の言葉で、「愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことはその次によい」というものがあるが、今はよいなどとはとてもいえない。
 ただ、先生の仕事の姿勢を学んだ私からすれば、先生の死を乗り越えて、さらにいい仕事をしていかなければ、先生からどやされるであろう。

 今はただ、先生のご冥福をお祈りするばかりであるが、先生の仕事の姿勢を思い出して、これからも出来る限りいい仕事が出来るよう心がけていきたい。

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2014年7月11日 (金)

ある分野に詳しいとされる弁護士

 こうした弁護士がまま陥りがちなのが、自分が得意、詳しいと考えている事件の筋に事件を引っ張っていってしまうことである。
 事実というものがあり、その事実を前提にして規範を立てて、そしてあてはめをして結論を出すという判断過程を経る必要があるのだが、先に規範を立てて、これに合うように事実を曲げるか、都合の悪いところはカットしてしまうことがある。
 依頼者の話を聞いて、自分の得意分野の型枠にはめてしまい、「この事件はこうなんです」「あなたはこれこれという状態にある」というように当てはめをしてしまうことがある。

 司法試験の受験の際に、自分の都合のよいように事実を曲げて規範にあてはめるということは最もしてはいけないことだ、そういう答案は落第すると言われていたが、人間というものは、自分の得意分野で勝負をしたくなる傾向にあるものなのであろうか。

 人間の行動にレッテルを貼って、あるカテゴリーに分類するということはよくされているが、その場合に、そのレッテルやカテゴリーに分類するについて、外れた行動を取っている場合には、そうした行動はレッテルを貼ることによって、全て割愛されてしまいがちなのではないか、という思いを抱くことがある。
 池波正太郎の小説を読んでいると、「人間というものはわからないものだ」という主題が貫かれていて、池波正太郎が人間についていえることは、「生まれて、最後に死が待っている」ということだけだとよく書かれているが、人間をよく知る池波正太郎ですら「わからない」と繰り返し述べていたのであり、レッテルを貼ってカテゴライズばかりすることに対しては何か違和感を感じてしまうところがある。

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2014年7月10日 (木)

短くなったタバコ(葉巻)に火を付けようとして

 ライターの火が意外に強くて、自分の鼻の頭をあぶってしまったことはありませんか?

 僕はあります。

 以上です。

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2014年7月 9日 (水)

土色のバッタ

非常にこれまた分かりづらいが、中央あたりにバッタがいる。毎年夏前になると幼生が出てくる。イボバッタというバッタである。
 石の色と同化していて、非常に見づらい。時々思い出したように動く。あまりに動いては、鳥などに捕食されるからであろう。

 調べてみるとこやつはトノサマバッタ科ということである。画面では分かりづらいが、形状はトノサマバッタそのものである。少しイボがあるが。鳥などに捕食されずに、成虫になって欲しいものである。
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2014年7月 8日 (火)

読書日記7月8日

「聖書考古学」中公新書。長谷川修一。
 旧約聖書に描かれたユダヤ民族の物語は史実であるのかについて、現在分かっている範囲での考古学的結論を書いたもの。
 キリスト教成立の前夜を歴史的事実として描くものとして、非常に興味深く読んだ。
 民族成立の族長時代のことや、なぜユダヤ教が一神教なのか等々。
 エルサレムが考古学的に発掘されれば、より詳しいことが分かるであろうが、現実には難しく、なかなかここに記載した以上に考察が進むのは難しそうである。

「新潟少女監禁事件」朝日文庫。松田美智子。
 9年以上にわたり誘拐してきた女児を自宅の2階の部屋で監禁した事件の裁判ルポ。
 新聞報道以上のことは知らず、当時は量刑について、一審が高裁で破棄され、最高裁で再度破棄されて一審が維持されたという記憶が残っていた。
 今回、この本を読んで、どのようにして犯人が女児に恐怖を植え付けて、2階の部屋から出られないようにしたのか、どのようにして少女の自由を奪っていたかが分かり、このような犯行に及んだ犯人に対しては怒りしかわかない。
 模倣犯のような事案が後にも発生しており、このような事件が発生しないためにどうすればよいのかについて考えさせられる。

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2014年7月 7日 (月)

偉そうな弁護士の類型

 相手方の弁護士で、妙に偉そうな弁護士がいることがある。
 誰にも頼まれていないが類型化すると、

1、ベテラン弁護士で偉そうである。
 これは、長年の経験で醸し出すオーラや威厳で偉そうに(いや、こういう弁護士は本当に偉いのだが)、見えてしまうという類型は除く。そのような弁護士は、話をしてみると威厳はあるが、非常に丁寧であり、若手にも偉そうにしない。
 ここでいう類型は、たいした仕事もしていないのに、単に長年やっているというだけで偉そうな口ぶりをしている、あるいは態度を取るベテランである。
 弁護士の数が少なかった頃は弁護士というだけでステイタスであり、偉そうにしていても問題がなかったところ、そのままとなっている類型である。
 ただし、この手の弁護士のほとんどはたいした仕事はしていないし、出来ないし、弁護士会の会務でも活躍出来ないし、していない。

2、少し経験を積んで偉そうである。
 弁護士になって数年経って、経験を積んで「自分は出来る」と思って偉そうな態度に出る類型である。しかし、これもまたその自信はエセであり、トレーニングを積んだ弁護士からするとちゃんちゃらおかしい自信であり、「よくあれで偉そうな態度取れるよな」と周囲から思われている類型である。
 中堅にも同様なタイプは存在する。
 鼻をへし折られることが多いが、偉そうなのは自分のアイデンティティだったりするので、間違っているのは自分ではないと思い、小さなプライドにしがみつくことも多い。
3、全く経験もないのに偉そうである。
 これは、小心者の犬がキャンキャン吠えているのと同じである。経験がなく、また大して優秀でもないのに、根本的に間違った自信を持っているか、あるいは自信のなさの裏づけで、とにかく態度はでかく、話しぶりも偉そうという類型である。
 このような態度を取っていると、裁判官や相手方のトレーニングを積んでいる弁護士からすると、心の中を見透かされる。
 本当に有能で出来る弁護士は総じて態度は穏やかで、若手にも優しく話しかけるものである。
 相手方弁護士に対しても品位を重んじて(いや、こいつには品位は重んじなくていいやろという相手もいるけど、そこはグッと我慢して)接しなければならないのである。
 私は私の元ボスから偉そうに言われたことは一度もないし、自分もかくありたいと思っている。
 かなり親しくなった若手との間では偉そうにすることもあるが、そこは仕事上とプライベートでまた違う話である。

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2014年7月 4日 (金)

なぜキレているのか分からない相手方

 こちらが被害者の代理人をしている時に、加害者本人から連絡をもらうことがある。加害者側には弁護士が就いていない場合である。

 明らかに加害者側に非があることは明白な事案でも、なぜかキレている加害者がいる。
 それは逆だろうと思うのであるが、こちらが淡々と対応していると、こちらの対応にケチをつけてきたりすることがある。

 自分が悪い時にはまずは謝罪して下手に出るのが当たり前だと思っているのであるが、そういう常識が通用しない人がいるのである。

 こちらがキレたいわ・・・と思いながら、仕事であるので、淡々とこなすしかないが、訳の分からない人がいる時代である。

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2014年7月 2日 (水)

医師の意見書

 事件の関係で医師に意見書を書いてもらうことがあるが、話を聞いているうちはいろいろと話をしてくれるのであるが、いざ署名押印のある意見書を書いてもらおうとすると、ちゅうちょされたり、非協力的になられてしまうことがある。

 医学的に確実なことしか書けないということであったり、一般的な知識なので専門外ということで拒否されたり、あるいは単にその言い方から事件に巻き込まれたくないということがこちらには明らかであることがある。

 まあ立場的にわからなくもないこともないが、事件をやっている弁護士の側からすると、「書いてくれてもいいのに」と思うことでも書いてくれないこともあり、依頼者は予め聞いていた話を書けないとなると医師に対する不信感がつのったり、落胆されることが多い。
 中には患者のために非常に親身になって書いてくれる医師も当然おられるのだが、そうした医師の先生にあたるかあたらないかはこちらは選べないので、意見書がないことで事件の進行が不利になったり滞ることがあるのはやむを得ないとはいえ、非協力的な場合には暗澹たる気分にさせられる。

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2014年7月 1日 (火)

読書日記7月1日

「ロング・グットバイ」映画鑑賞。
 レイモンド・チャンドラーのロンググッドバイの映画化作品であるが、内容は全く改変されており、イマイチの出来。DVDを買おうかどうか悩んでいたのであるが、WOWOWで放映されていたので、買っていたらものすごくむなしかったであろう。

「高血圧はほっとくのが一番」講談社+α新書。松本光正。
 降圧剤を売るために国民を一人でも多く高血圧にしようとする製薬会社の意図のままに御用学者が血圧について間違った基準を打ち立てているという前提のもとに書かれている。
 私も血圧が高めであるといわれているが、これを読んでいると全然大丈夫な範囲である。私の主治医は降圧剤など勧めないが。
 高血圧の基準も最近また147まで大丈夫とされていて(変更前は130)、昔は180だったということであり、筆者の見解が正しいように思われる。
 降圧剤を服用すると、脳梗塞の可能性が高まるともいわれていて、薬を服用するのにも、病気を治すのにも、自らが様々な情報を得て理論武装しなければいけないという思いにさせられる1冊。

「仏教の思想 1 知恵と慈悲 ブッダ」角川ソフィア文庫。丸谷文雄。梅原猛。
 仏教を一つの思想として捉えて整理を試みるシリーズ。
 私は特に何かの宗教を信じている訳ではないが、仏教の思想を一度体系的に整理してみたいと思っていたので購入。
 仏教の思想本ばかり読んでいると息も詰まりそうなので、少しずつこのシリーズを読んでいきたい。
 ブッダと大乗仏教とは何のつながりもないというのが司馬遼太郎のエッセイの中に書かれていたが、本当にそうなのか、あるいは違うのか等々、興味は尽きない。

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