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2015年6月30日 (火)

マメ

 庭でマメも育てていて、実がつきだした。
 この中に、小さいカマキリが隠れているが分かるだろうか。
 自宅の壁に産み落とされていたカマキリの卵がかえったようである。
 今週は終日尋問もあるので、頑張っていきたい。
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2015年6月29日 (月)

ネギ

 庭でネギを育てているが、ネギは栽培しやすいようで、初夏の大陽が出ると朝見た時よりも伸びている気がする。
 食べて見たが、普通にネギであった。

 じゃりんこチエの中でテツが花井先生に、「テツ、ネギ食え賢なる」と言われていたが、本等だろうか。
 しかし、これ以上庭で野菜を育てると、狭い庭であるためゴチャゴチャしてしまうであろう。
 何となく、歳がいくと野菜を育てようという気になることが分かるようになってきたものである。
 早く梅雨が明けて欲しい半面、明けたら明けたで猛暑がやってくると思うともう少し梅雨でもいいかとも思ったりする。
 今週1週間、また依頼者のために頑張っていこう。
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2015年6月26日 (金)

定期を忘れる

 先日、通勤定期を忘れた。
 スーツの胸ポケットに入れていたのであるが、スーツから出すのを忘れていたのである。

 いつもの鞄のポケットに定期が入っていない時の衝撃。財布を忘れるよりも衝撃である(事務所にいけば、とりあえず事務所のお金から借りられるので→事務所のお金は事業用なので、私のお金でありお金でないようなものである)。

 切符を買うのがこれほど面倒だとは思っていなかった。いつもは乗り越しがあってもICOCAで自動的に引き落とされるため、切符を買ったのは数年ぶりであろうか。

 小銭で支払うのが面倒なので、ICOCAにある程度のチャージをして、飲み物や雑誌を買うのは最近もっぱらICOCAでしていたので、これまた面倒である。
 新幹線に乗るときだと、ICOCAがなければ相当面倒なことになるところであった。
 便利になった半面、便利に慣れるとこれだけ不便を感じるのだということを気づかされた1日であった。

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2015年6月25日 (木)

本の購入

 弁護士稼業をしていると、調べ物をするために書籍を購入する必要に迫られる。
 この本ということで確定していれば、アマゾンで購入したり、紀伊國屋ブックウェブで注文する。
 また、定期的に弁護士会経由であったりファックス等で書籍の案内が送られてくる。

 内容的に、日常取り扱う分野の本であれば、出た時に買うようにしている。
 というのは、法律書というものは需要が限られているからその時に買わないと重版されないことが多く、市場で購入できなくなる可能性があるためである。
 事務所にも調べ物をするのに非常に活用している本と見るのは年に1回から数回という本、こういう事件が来た時のために買い置こうとして置いてあり開いたこともない本等があるが、いずれの書籍もこれから購入しようとしてネットで調べてみると在庫がなかったり、中古市場でたまたまあったとしても、プレミアがついて、5000円程度の本が2万、3万することも珍しくない。
 ということで本をせっせと買うのだが、たまたま近所の本屋に行くと非常にマニアックな本が置いてあったりして、マニアックではあるが、私が今している事件や事務所の事件でかなり使えそうであったりする。
 マニアックな本は、たいていかなり重たい本であるため、自宅から持っていくのも辛そうで、その場でスマホで検索したが在庫切れであったりするので、仕方なく近所の本屋でおそらく私以外は買わないであろう法律書を買っていたりするのである。
 そういうわけで、私の事務所は割合あらゆるジャンルの本が揃えてあり、また、たいていの事件はやっていたりするので、他の弁護士から問い合わせを受けて本を貸し出しすることもある(貸出簿がある)。

 ただし、本は法律事務所にとって財産であるため、二条界隈の弁護士であったり、かなり親しい人にしか貸しませんが。
 弁護士会に書籍が充実していればよいのだが、京都弁護士会の規模では限界もあるし、いざ手元で調べたいということもあるだろうから、即独する人のために、これは最低事務所に置いておいた方がいいという書籍なども一覧になっていると便利だろうと思うのであるが、おそらくそれだけ揃えるだけで相当な費用になるだろうから、そういう意味でも即独は大変だろうと思うのである。

この仕事をしている限り、本の山に埋もれて、調べ物をする日々が続くのである。

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2015年6月24日 (水)

本日は東京に出張です

 本日は(昨日の午後からも会議のため昨日から行っていますが)、日弁連で法律相談センターの会議のため東京に出張しております。
 連絡はつきますので、ご用の方は事務所までご連絡ください。

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2015年6月23日 (火)

手で書く文章

 ワープロが使えない弁護士は書面を手で書いているが、手で書くと文章が締まる。
 ワープロだとあちこち切り貼りするので、どうしても文章が長くなるし、特にローマ字打ちだと頭で考えたことを一度ばらばらにする必要があるので、何となく文章が締まらない気がしている。

 故・中村利雄弁護士も私の元ボスの福井啓介先生はワープロが使えないが、その分、文章が締まっていて、簡にして要を得たものとなっている。

 私はかな打ちなので、割合思考がそのまま文章に書くことが出来ると思っている。しかも、ほぼキーボードを見ないでも打てるようになっている。

 また、若い頃は長い準備書面を書くことがステータスみたいなところがあったが、裁判官とたくさん話をする中で、裁判所も長い書面は読みたくないし、長いだけで中身がなく、裁判所が知りたいところが書かれていない書面が多いというような話も聞く中で、最近は出来るだけ無駄をそぎ落とそうとしている。
 もちろん、どうしても長くなる書面はあるのだが(カルテに基づいた整理など)、普段書く準備書面は5頁から長くても10頁くらいを目標にしている。
 実は書面を短くする方が難しいと最近気づいており、手で書かれている先生は、書く際にものすごいエネルギーを短い文章の中に込められているのだと思っている。

 長い書面を書いて、喜んでいるうちは弁護士もまだまだということであろう。

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2015年6月22日 (月)

週末の昼寝

 土日が全て仕事で埋まることはまずないので、週末は1日は昼寝をするようにしている。
 事務所でも予定がなければ、午後から仕事が出来るように、昼休みはイスを倒して仮眠している。

 骨休めという言葉があるが、人間の身体は体重を支えているから、横になってゆっくりとすることが必要であり、まさに、「骨を休める」時間が必要なのだと思っている。

 ただし、週末寝過ぎると、日曜日の夜が寝つけず、月曜日の朝がつらいことになる。

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2015年6月19日 (金)

醸造酒と蒸留酒

 醸造とは、新明解国語辞典第6版によれば、「発酵作用を応用して酒類・醤油などを造ること」とされている。日本酒などがこれにあたる。
 これに対して蒸留とは、「液体を沸騰させ、出来た蒸気を冷やしてまた液体とすること」とされ、蒸留酒は「発酵した酒を蒸留してアルコール分を多くしたもの」とされている。ウイスキーがこれにあたる。
 若い頃は醸造酒の方が好きであったし、今も日本酒は嫌いではないのだが、今は蒸留酒が好きである。何となく、アルコールの純粋な部分だけを飲んでいるようであるし、少ししか取れないというところにも希少性を感じるのである。

東南アジアから中東で製造される蒸留酒はアラックと呼ばれている。糖蜜やヤシの実から造られるのである。
 今自宅で相当昔読んだ雑誌で掲載されていて、いつか飲みたいと思っていたアラック・オブ・バリというバリ島原産のアラック取り寄せて、これを寝酒に飲んでいるのだが、これはヤシの花蜜と米から作られている透明なアラックである。
 ほのかな甘みとヤシの香りがして、夏にふさわしいアラックである。
 花蜜は少ししか取れないだろうし、またそれを蒸留するから、一本のお酒を造るのに相当な手間がかかっているだろう。
 ほのかな甘みのあるアラックでカクテルを造ってもらえば美味しいかもしれない。

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2015年6月18日 (木)

手をかじる小次郎(2代目)

 2代目小次郎だが、ペットショップに居る時は大人しそうなやつであったが、日ごとに悪さが増している。
 出してよ出してよ、悪いことしないからさとキュンキュン鳴くので出してやると、「へっへっへ。もうこっちのもんだ」という具合にあちこちをかじっては悪さをし、座椅子の上から「とりゃー」という感じで飛んでいる。
 捕まえると、手をかじられます。
 以上です。
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2015年6月17日 (水)

カミキリムシ

 今年の夏も庭にカミキリムシがやってきた。

 飛んで来て植木の間に入ったので、撮影してみた。
 以前手で捕まえたら弱ったので、今回は触らないことにした。
 毎年虫たちが庭にやってきてくれるのも嬉しいことである。
 以上です。
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2015年6月16日 (火)

なすび

 庭のなすびが実をつけだした。
 先日もきゅうりが出来たのであるが、写真を撮るのを忘れていた。
 少しずつ育っていく野菜を見ているのは楽しいものである。

 以上です。
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2015年6月15日 (月)

カルテに埋もれた一週間

 先週はカルテばかり読んでいた。

1件は交通事故の被害者側で、保険会社の方の「それほど重傷ではない」「後遺症の程度はこの程度である」という主張に対して反論をするもの。
 1件は交通事故以外の事案で、相手から出されたカルテに基づいて、「そんな症状は出ていないか、別の原因である」という主張を整理するもの。
 1件は当時遺言能力があったかについて、カルテの中から拾い上げるもの。

 読むだけでなく、書面の形にしなければならない。カルテを引用しつつ、準備書面の形にしていくのであるが、これはけっこう大変な作業である。
 しかし、見落としていたところにこちらに有利な記載があるかもしれないので、1頁1頁目を通していくしかないのである。また、医者の字は汚いことが多く、判読に苦労することもしばしばである。
 弁護士というのは、依頼者との打合以外に、裏でこうした地道な作業をしているのであるが、これが中々依頼者にわかりにくいところでもある。

 ここまでまとめてカルテばかり見ていたことも珍しいので、今週はカルテは読みたくないくらいなのだが、事件は待ってくれないから、また、そのうちにカルテと格闘する時がやってくるのである。
 ただ、こちらにとってカルテにいい記載があることを見つけた時には、嬉しくなることもあるので、嫌なことばかりではない。
 普通の弁護士は依頼者にとって何がいいか、何か有利なことはないかと真剣に影で努力しているのだが、そういう弁護士ばかりでもなく、また、それが裁判官に伝わらないこともあるのが裁判の世界でもある。

 

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2015年6月12日 (金)

来客室の防音

 消防法の関係で、来客室は上まで仕切ることが出来ず、180㎝くらいのパーテーションで区切っている。
 私の事務所の来客室は2つで、来客室同士は事務所の端と端にあり、それぞれの声が他方の来客室に聞こえることはないので、来客同士のプライバシーが害されることはない。
 弁護士は4名いるが、それぞれ打合を入れたらすぐに事務所のスケジュールに入れるので、重なることはまずないので部屋数として足りないことはない。
 ただ、大きい方の来客室(椅子は10脚ある)は、私が執務しているスペースのすぐ横であり、声が大きい相談者が来て他の弁護士と打合をしていると、相当気が散ることになる。
 連絡書などを書いている時はよいのだが、カルテなどを引用しつつ書く準備書面などであると、やはり集中力が乱される。
 私の机が来客室に向かって解放されている(パーテーションで仕切られていない)のも一つの原因である。設置の仕方をもう少し考えるべきであったが、これは今更どうしようもない(動かすのは相当な労力である)。
 防音が出来ないか業者に聞いたが、消防法の関係もあり、完全に防音しようとすると物凄いお金がかかるようである。
 仕方がないので、吸音パネルで作られたパーテーションを今注文しているのだが、これがどの程度効果があるか未知数である。
 やはり、どの事務所でも複数弁護士がいると、防音は問題になっていると業者から聞いたが、完全に仕切ることの出来ない構造であったり、天井を音がつたうということもあり、防音は難しいらしい。
 複数弁護士がいる事務所では、事務所を設計する最初の時点で、こうした点は注意を払うべきであろう。
 オチもないが以上です。

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2015年6月11日 (木)

読書日記6月11日

「峠」(上)(中)(下)新潮文庫。司馬遼太郎。

 幕末の長岡藩で動乱期に家老となり、長岡藩を滅亡に追い込んだ河井継之助を描いた作品。
 司馬には同人を描いた短編もあり、そちらでは違う描かれ方をしているのだが、こちらは河井を最後の武士道を貫こうとした美しい人物として描こうとしている。
 歴史小説であって史実を敢えて書かないということもできることから、司馬が敢えて筆を取らなかったエピソードもいくつかあるようである。
 英雄の資質を持って生まれながら、その資質を生かすべきところに生まれた悲劇を描いている。
 我々は後の歴史を知っているから、彼がそのような行動をしたことでどのような結果が出ているかを知りつつ読むのだが、同時代に自分が産み落とされていた場合、勝者の側に立てるとは限らない。
 また、勝者の側につくことを潔しとしないという考え方もあり得るであろう。
 古来の英雄的気質を持つ人物で終わりを全うできた人物は数少ない。
 徳川家康がそうであるが、家康の作った幕府も幕末で泡のように消えてしまった。
 そうした幕末の中で、終わりを全うできなかった主人公に同一化しつつ、生き方というもの難しさを考えさせられる作品であった。
 こうした作品は18歳や20歳で読んでもわかりづらいところがあるだろう。
 40代からの読書を人に勧めるゆえんである。

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2015年6月10日 (水)

事件の本質

 事件の本質に迫るような検討というのは、中々出来ないことではあるが、それをするように心がけていないと、いい結果が出ないのもまた然りであると思う。

 事案によっては、事件の本質に迫る検討をしても、裁判所に理解してもらえないこともある(リース被害案件などは中々裁判所の理解を得られない)が、そのような姿勢で仕事をすることが大事だと思う。

 とりあえず形だけを整えた書面というのは、経験のある弁護士であれば直ぐに分かるから、当然裁判所にも分かるであろう。
 本質に迫った上で、分かったような分からないような書面を敢えて書く場合もあるだろうが、これなどは相当年期のいった弁護士のする高等テクニックであろう。

私なども心がけているつもりであるが、人間であるから、つい易きに流れたくなることもある。
 しかし、そもそも法律家の仕事というのは、きちんと証拠を見て、打合をして書面を作成してという流れがあるから、いくら仕事が速いといわれる人でも時間がかかるのであるから、易きに流れる気持ちをいかに抑えるかということもこれまた大事なことであろう。

 分かっていても出来ないことである。

 

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2015年6月 9日 (火)

中村利雄先生の腕時計

 中村利雄先生の形見分けを何かもらえないかとお願いしていたところ、先日、娘の映利子先生から腕時計をもらった。
 飲んでいる時もこれをされていたので、懐かしい時計である。

 内容は書けないが、映利子先生からも大変嬉しい内容の手紙もいただいた。
 読みながら色々な思い出がよみがえり、また涙が出てきた。
 この腕時計は、ここ一番の訴訟でつけていくことにしたい。
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2015年6月 8日 (月)

保険会社の対応

 交通事故の被害者側で示談をする際に、保険会社によって必要書類が違うのはまだよいのだが、担当者によってもいうことが変わることが多い。

 実印をついた委任状と私の弁護士会の印鑑証明まで要求されたので、「訴訟でも認め印でよいのに、それ以上のものを要求される理由は何か」というと、「では、委任状は認め印でかまいません」と態度を変えることもしばしばである。

 本人の署名押印を示談書に要求されることもあるが、何のために代理人として弁護士がついているのか分からない。
 本来であればマニュアルがあるのだろうが、各担当者によって独自のやり方をそのまま進めているのではなかろうか。
 合併によって、混乱が生じているのかもしれないが、現場レベルの手続についても、どちらの保険会社のやり方でいくのか統一してもらいたいものである。
 中身について議論するのはよいのだが、必要書類のやりとりで無用の時間が取られるのは苛正しいことこの上ない。

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2015年6月 5日 (金)

創作活動

 絵画や彫刻を見ていると、なぜ人はこういう創作活動をするのだろうという疑問がある。

 東山動物園のところに天を衝くように手を広げた金色の像があり、飲んだ帰りなどにタクシーで見ているが、あの作者はなぜこういうものを作ったのだろうと思っている。

 日々の満ち足りなさや人生における何かがそこに込められているのだろうとは思う。
 私も小説を書きたい思いがあるし(法律の初心者向けに書いたものはあるが)、小説を読むのも好きであるが、小説を読んでいると作者というものは自分の魂を削りながら書いているように思えてくる。
 自分というものの魂というものを削り、それを公開して世の中に何かを問うているように思われ、芸術作品もそういうもののように思っている。

 もちろん、取るに足りない小説もあまたあるから、そういう作品はまた別の話であるが。
 
 芸術で千年が過ぎても残っていく作品は、その作品の中にそうしたものが込められているのであろう。
逆に、そうしたものがない作品は、人の心を打たないと思うのである。
 またもや特に何もなく、以上です。

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2015年6月 4日 (木)

猿と自慰行為

 猿(であったかチンパンジーであったか)に自慰行為を教えると、衰弱死するまでしているというような話をどこかで読んだことがある。真偽のほどは定かではない。

結局のところ、猿というものは、快楽に負けてしまい、何もかも(生存することすらも)捨ててしまうということなのであろう。

 人間でも、やりたいことだけをやって生きていくという訳にはいかない。
 やりたいことをやっていれば、前述の猿のように生きていくことすらも出来なくなるであろう。

 海音寺潮五郎は、執筆中も読みたい本をちらちらと見ていて、奥さんがお茶を運んでいくと慌てて隠したというが、海音寺はある意味本を読むのが仕事の一部でもあったから、これなどはまた違う話であろう。

 私なども通勤電車で続きが気になる小説を読みたい欲求はあるが、仕事を放り出して好きなことをしていれば前述の猿に等しいと思うし、ありがたいことに私は弁護士という仕事が好きなので、仕事中は他のことをしようとは思わない。

仕事がそこまで好きでなくとも、生きていくためには自分の好きなことばかりするわけにもいかず、そういうことをしていれば待っているのは前述の猿と同様破滅であろう。

 人間が猿と違うのはそこのところであり、仕事で働くからこそ余暇が楽しいということなのではないかと思ったりする。
 お金が有り余って働かなくてもよい人は、その実、人生が充実しているかといえばそうでもないのではなかろうか。

 仕事に追いまくられてはいるものの、だからこそ余暇の楽しみがあると思うのである。

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2015年6月 3日 (水)

プレハブの焼酎屋さん

 自宅の近くに、プレハブの小さい焼酎専門の居酒屋がある。
 外から伺うに、カウンターだけでおそらく10席もないであろう。

 夜自宅に帰る時には、近所の人が来るのであろう、自転車がだいたい3~5台停まっている。

 何となく入ってみたいのだが、1人では入れないので、未だ入れずにいる。
 なじみのお客さんばかりであれば、より1人では入りづらい。

 父親でも誘って休みの日に行こうかとも思うが、中家でお酒を相当飲めるのは私と亡くなった父方の祖父(この人は酒の飲み過ぎで早死にした)だけで、母親の家系もほとんどお酒は飲めず、私の妹も飲めないから、父親といってもなあという気もする。

 何となく、こういう店にも惹かれるのである。

 オチもないが以上です。

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2015年6月 2日 (火)

冊子・法律相談の再生のために

 日弁連の法律相談センター委員会の中に設置されている法律相談センター再生PTの座長をこの1年務めてきたが、ようやく1年間かけて議論した内容が冊子として完成した(来年度も座長に内定しているが・・・)。
 各弁護士会には基本5冊ずつ届くが、要望があれば部数は増やしてもらえる。
 是非、弁護士会に届いた際には、手にとってお読みいただいて、各単位会の法律相談を考えるについての参考にしていただきたいし、また、忌憚のないご意見をちょうだいしたい。

 亡くなられた中村利雄先生は、私が日弁連でそれなりの重職についたことを喜んでくれていて、私が東京に行くというと、「頑張ってこい」と喜んでくれていた。
 最後に病室でお目にかかった時も、「明日は東京に行くから、来週来るわ」と言ったところ、「東京か」と嬉しそうに言ってくれ、「オウ」と手を挙げてくれた姿が忘れられない。
 なしうることなら、この冊子を中村利雄先生に読んでいただいて、意見を聞かせて欲しかった。
 切れ味鋭い本質をつく中村利雄先生であれば、「中、ここはこうやで」「中、これは間違っとるぞ」と言ってくれたであろう。
 それが心残りではあるが、一応座長(といっても名前ばかりで頑張っていただいたのはPTメンバーで私は適当に議事進行をしていただけであるが)を務めた冊子なので、是非読んでいただきたいのである。
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2015年6月 1日 (月)

二代目小次郎

 我が家に二代目小次郎がやってきた。

 初代小次郎の墓もまだ建てておらず、非常に彼を迎えることについては悩んだ。

 犬と別れてもう二度と飼えないという人もいるし、もう少し間を空けるべきではないかという思いもあったし、それは今でもある。

 初代小次郎の世話をしているつもりでいたが、その実、私は小次郎によって生かされていて、面倒をあの小さな初代小次郎に見てもらっていたのだということを痛感するようになった。夜にウイスキーを飲んでいる時も、私の横で見ていた黒い瞳はもう居ないのである。

 犬は、自分が亡くなった後の飼い主の幸せだけを願っていて、早く次の犬を迎えてあげることが亡くなった犬にとっての幸せという考え方もあった。
 初代小次郎が亡くなって数日して、初代小次郎に似たパピヨンを毎日ネットで探して「かわいいなあ」と思っていた。それで心の隙間を埋めていたところがある。
 関西ではあまりパピヨンの子犬は居なかったが、たまたまこやつが京都に居たのである。そして、色も顔つきも亡くなった初代小次郎に似ているのである。

 誕生日も初代小次郎と近い3月ということもあり、見に行くだけと思ったが、本人に会うと、そうはならなかった。

 名前は結局、小次郎(二代目)とした。

 まだ初代小次郎は自宅の中でうろうろとしていると思うし、ひょっとしたらすねているかもしれない。あるいは、「新しい子が来たね。」と喜んでくれているかもしれない。

 初代小次郎のお骨に朝晩話しかけているが、話しかけていると二代目はいるものの、じんわりと涙がにじんでくる。44歳にもなって情けないが。

 今になって思うと、初代小次郎にああしてやればよかった、あんなことをしなければよかったなど、様々な思いがある。
 二代目小次郎には、初代にしてあげられなかったことをしてあげて、しなければよかったことはしないで行こうと思う。
 新しい犬を飼えない人からすれば、私がこうして二代目を迎えることは理解出来ないかもしれないが、二代目とお別れの日が来るまで、初代同様、かわいがってあげたいと思うのである。
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