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2016年3月31日 (木)

年度終わり

 弁護士会の年度も裁判所の年度も3月末日が最終日で、4月1日から新年度となる。
 弁護士会の役職の任期も4/1から翌年の3/31であり、裁判官の転勤も多くはこの時期である(部長クラスのエライ人になると、上に空きが出ると突然転勤されることもある)。

 私が弁護士になった頃は、この時期は裁判官の転勤前ということもあり、また、裁判所職員の転勤(書記官とか事務官)もあるため、あまり裁判も入らずゆったりとしていた記憶がある。
 当時は今のように新民事訴訟法ではなく旧民事訴訟法で計画審理などはあまり言われておらず、期日当日に法廷に準備書面を持参して、裁判官が「で、今回の書面はだいたい何を書いておられますか」などと聞いている場面も多かった。
 また、証人尋問も1日に何人も聞くのではなく、五月雨式に聞いていた記憶であり、尋問をしてから、尋問結果を聞いて新しい主張があるので出したいなどというのが普通に行われていた。
 ずいぶんゆったりした時代だったのである。

 より昔はもっとゆったりしていて、弁護士会館が裁判所と2階でつながっていて、そこが簡裁の調停の部屋の近くだったため、待ち時間に代理人が弁護士会に行ってくるといってそこで囲碁をしていて、自分の番になっても囲碁に白熱して中々調停の部屋に行かなかったという人もいたと聞いている(実話かどうかは知らない)。

 しかし最近はそういう感じで訴訟は進まないので(それでも依頼者からしたら「遅い!」となるかもしれないが)、3月の終わりでもすることが多々あったりする。
 また、昔はたいていの弁護士は書面は手書きでそれを事務員にワープロ打ちしてもらっていたので書面が短かったが、最近はたいていの弁護士はパソコンで書面を打つため、どうしても長くなりがちということもあり、タイムチャージだと1枚あたりいくらという取決めをしているとも聞くので、同じことを繰り返し書いている書面を読むのに時間が浪費させられるというところがある。

 昔は長年やっているうちに依頼者双方も紛争に疲れてきて、時の経過で和解ができたという事件もあったように思うが、計画審理の時代だと中々そうはいかないかもしれないと思いつつ、書面を書く予定の年度最終日である。

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2016年3月30日 (水)

東京出張

 昨日の夕方から日弁連の委員会で会議があり、本日も終日東京で終日委員会の会議である。

 出張する際は宿泊の用意が要るのだが、私の場合持病の喘息の薬をキャリーケースに入れたり、万年筆のインクをキャリーケースに入れたり、歯磨き粉をキャリーケースに入れたりと(ホテルの歯磨き粉だと喘息発作が出るのである)、人より余計なものを持っていかないといけないので、自宅のPCに持ち物リストを入れてあり、行く前はそれを見て忘れ物がないかチェックするようにしている。

 仕事を早くするためには、日常のルーティンの作業に対して時間をいかにかけないかということを書いた本があり、そこに持ち物リストは予め作っておくと、「何を持っていかないといけないか」を考える時間を短縮できるというのである。
 究極がフェイスブックの創立者のザッカーバーグ氏がいつも同じ服装をしているというものであるらしい(服装を考える時間がもったいない)。
 しかし、入れたつもりが忘れている時もあり、今回は万年筆のインクを忘れたため事務所のインクボトルを入れることにした(吸引式の万年筆は旅行には不向きですね)。

 1日半の会議というのは45歳の身にはつらいのだが(土曜日の夜サッカーをして、翌日割合早くから渓流釣りなんていくからというところもあるのだが)、委員長をされていたり日弁の副会長をされている方は60代なのに私よりも元気そうであり、どうやったらあんなに元気でいられるのか不思議な今日この頃である。

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2016年3月29日 (火)

20年のお祝い

14591477641541459147780563 先週の金曜日は懇意にしている法律事務所との食事会であったが、その席で事務所一同からお花をもらった(下の方)。
 ありがたいことである。
 私は今年弁護士20年目で、もうすぐ21年目に入るので、20年のお祝いをしてもらったのである。
 上のお花は、それを聞きつけたバーのオーナーから事務所に送ってもらったものである。
 両方とも綺麗であるが、私のスマホのカメラが悪くうまく写っていない。

 以前は酒見会では20年ということになると、みんなからお祝いをされて銀杯をもらえたのであるが、その分お祝い返しをしなければならず、めでたいことではあるが、双方に出費が相当必要なため、ある時期からやめになったのである。
 以前は弁護士の数が少なく、祝われる方も少なかったが、これだけ弁護士が増える傾向にあればやむを得ないであろう。

 21年目も依頼者のために誠実に努力していきたいと考えています。
 これからも中隆志法律事務所をどうぞよろしくお願いいたします。

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2016年3月28日 (月)

読書日記3月28日

「戦国時代の兵粮事情」吉川弘文館。久保健一郎。
 戦国時代兵粮とはどういうものであったのか。兵粮に関して残されている史料から兵粮に関する考察をした一冊。
 歴史好きであれば読む値打ちはあると思うが、一般向きではない本である。
 かなり私もマニアックになってきたもんである。

「やがて哀しき外国語」講談社文庫。村上春樹。
 村上春樹がアメリカで住んでいた時代のことを書いたエッセイ集。「ねじまき鳥クロニクル」と「国境の南、大陽の西」を書いていた時代のことである。
 日本語に対する思いやアメリカでのフェミニズム問題、海外で髪の毛を切ることの苦悩、大学で教えることについてなど、日々の中で村上春樹が感じたことがつづられている。
 だいぶ前に買っておいたのだが、手にとってみたのだが、村上春樹の文章は本当に読みやすい。
 小説は好きなものも嫌いなものもあるが、総じて村上春樹の書いたエッセイは共感できるところが多い。私にとって、ということであるが。

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2016年3月25日 (金)

記者会見

 記者会見を代理人弁護士として行うこともある。
 これよりも小さい規模だと記者レクチャーというのもある。
 記者レクチャーというのは、司法記者室に行って、こちらが記事に書いて欲しいことがある場合、事件や被害の中身を説明して、記事にしてもらうための活動である。司法記者が興味をもってくれないと、レクチャーしても全く書いてもらえないこともある。
 リース被害弁護団が結成された頃には、よくこの記者レクチャーを行っていた。

 記者会見は、こちらで開催する場合も希にあるが、たいていはマスコミからの要請である。
 これも裁判所での撮影同様、ニュースで画になる動画や写真を撮りたいということの要請からである。
 主人公は依頼者が出られている場合には依頼者であるから、我々弁護士はあくまで脇役なので、外側に座り、写っていないことも多いが、それは当たり前だと思っている。
 テレビや新聞の質問に代理人として法的なことを答えることもあるが、まあたいていは記事にもされないし、テレビでも取り上げられない。
 記者達が法的なことをあまり分かっておらず、その説明をさせられるという役回りであることが多いように思われる。
 事件に注目をしてもらわないと風化もいるので、大事な活動ではあるが、会見をしていても、やはり「もう少し勉強してきてよ」と思うことも多いのである。

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2016年3月24日 (木)

裁判所に入るところの撮影

 ニュースなどで裁判所にご遺族や代理人弁護士が入るところが撮影されているが、あの時もどこを見てよいのか分からないところがある。
 なお、これは、二ユースで使うため、マスコミから要請されて撮影をしているのであり、実際に依頼者と代理人が裁判所の外で待ち合わせて、たまたま裁判所に入るところをマスコミが撮影している訳ではない(そんなん知ってるわといわれるかもしれないが。。)。
 テレビでわかりやすい画を流すためにやらされている訳であるが、マスコミの伝播力というのはすごいものがあり、世間に訴えたい事件では、やはり有効な画ということになろうか。
 また、代理人弁護士が先頭を切って入っていくこともあるが、私は依頼者が主人公であると思っているので、私は依頼者が嫌がられない限り、依頼者の後ろにそっとついて歩くようにしている。主人公は弁護士ではないのである。

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2016年3月23日 (水)

法廷の撮影

 世間の耳目を集める事件を担当すると、裁判が始まる法廷内の模様を撮影されることがある。ニュースで使うためである。
 撮影は2分間であり、裁判所の職員さんがカウントダウンをしながら撮影される訳であるが、2分間は黙って撮影されているとけっこう長く感じるものである。
 どこを見ていればよいかよく分からないのだが、何回も撮影されるうち、座る位置にもよるが、今はだいたい証言席の少し下あたりを見ている。
 世間が注目する事件というのは、当事者にとって悲惨極まりない事件であることが多く、真正面を見据えるというのも少し違う気がしているためである。
 伏し目がちでいることが事件の内容からしてよいかと思うためである。

 
 マスコミも、ニュースの時だけやれ撮影させてくれなどと騒ぐのではなく、継続してその事件に取り組んで欲しいと思うのであるが、形式だけを整えればそれで足りるというような報道では、被害者の本当の気持ちを聞き出せることなどできないであろう。

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2016年3月22日 (火)

マスコミからの問い合わせ

 マスコミから裁判関係の問い合わせを受けることがある。
 マスコミも多数の事件を抱えているのであろうが、時に「もう少し勉強してからかけてこいよ」と思うことがある。
 こちらもマスコミの力を借りることもあるので取材されること自体はいいのであるが、マスコミが知りたい情報について問い合わせをしてきているのだが、何から何まで聞かれると、「いや、それくらいきちんと調べてからかけてきてよ」とムッとしてしまうことがある。
 記者もプロなのであるから、下調べをした上で、突っ込んだところを弁護士に聞いてくるというのが本来のあり方であると思っている。

 そこを手を抜かれると、こちらも情報を提供しようとする気が失せるのである。

 以上。

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2016年3月18日 (金)

読書日記3月18日

「真田昌幸」小学館。黒田基樹。
 大河ドラマ真田丸の時代考証を担当している筆者による真田昌幸の史伝。
 史料に基づいて、武田上滅亡から豊臣政権の下で大名となるまでの昌幸の行動を描いている。
 武田家滅亡後、織田信長に臣従した際に沼田城などを没収されたが、武田家が滅亡するまでの昌幸の武田家での地位を綿密に検討し、昌幸がなぜ北上野に勢力を伸ばそうとしたか、また、そのためにどのような外交努力をしたのか。さらに上田城が徳川、上杉の費用で建築せしめた戦略はどういうものであったか等々史料に基づいて綿密に書かれていく。
 豊臣政権下で、昌幸と長男の信幸(後に伸之)が大名となり、いわゆる幸村(史実では信繁)も独立の領地をもらうまでが書かれている。

 真田好きなら是非押さえておきい一冊である。

「日本語の本質 司馬遼太郎対話選集2」文春文庫。
 司馬遼太郎の対話選集で、日本語というものについて司馬が著名人と縦横無尽に語っている。
 特に司馬は大阪の人間であるので、母音を伸ばすのが大阪だということを繰り返し述べたり(関東人であれば、メヲミヒライテミロというところをメェミヒライテミロのように、目をメェというのである)、子音で終わる言葉が日本人は苦手だとか、俳句は読み上げるものか目でも見るべきものなのかとか、戦国時代によって地域の方言が決まったとかいうのはウソであるとか、種々議論が交わされる。
 本当におもしろい一冊である。

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2016年3月17日 (木)

多忙自慢

 若い弁護士が集まると、だいたい自分がどれほど大変かということで多忙自慢大会が始まる。
 若くない弁護士でも、Twitterやフェイスブック、ブログ等で多忙であることを告白していることが多い。

 そういう人にたまたま会って、どれくらい忙しいのか聞いてみると、さほどでもなく、私の方が手持ち事件も多いし、弁護士会の委員会の委員長もしているし、日弁連の委員会の役職もしているし・・・ということで、「忙しさ」というレベルでは私の方が上ですね、という話になることもあったりする。

 忙しさというのは、ある程度主観にも左右されるところであるし、その人の能力、仕事のやり方にも左右されるところであると思っている。

 昨日徹夜したという話があるが、ぎりぎりまで何もせず、普段はコーヒーを飲んでネットサーフィンをしているのだが、直前になりやったという話なのかもしれない。
 移動が多いとか大型事件が入ってきたとか、物理的忙しさというのはあるし、過労死しては何もならないので、実際に忙しい人がいることも分かるが、「忙しい」というのを聞いても人はあまりいい思いはしないとも思っている。

 忙しいと言ったところで、その忙しさが変わる訳でもないので、飲み仲間うちで愚痴をいうのはいいとしても、あまり全世界に向かって公開、宣言するのはどんなものなのであろうと思っているのである。

 昔読んだ漫画で、「忙」というのは「心」を「忘」れるという漢字であり(実際にそれが成り立ちとして正しいは調べていないが)、心を忘れている状態です、というのを自慢げにいうのは、あまり好ましいことではあるまいというのが私の最近の考えである。

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2016年3月16日 (水)

人間ウォッチャーその2

 電車に乗ったり町中を歩いていると、「人の視線を感じてます、オレ。」「オレ。カッコイイでしょ。」みたいに顔を作ったりしている男性を見かける。

 人間ウォッチャーである私は、そういう人を見ると反応してしまうのであるが、別段カッコイイから見ている訳ではなく、「そんなにかっこよくないのに、そんなにイキるなよ。」と冷たい目で見てしまうので見ているのである。
 多分、そういう人が視線を感じているとすれば、私と同じ冷たい視線ではなかろうか。

 カッコイイ人というのは格好をつけなくてもカッコイイのである。
 一般人の中でもそれはたまにカッコイイ人もいるかもしれないが、芸能人には負けるだろうし、カッコイイ人が格好をつけてない方がカッコイイのである。

 つづく。

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2016年3月15日 (火)

3年が経過しても請求の趣旨が特定されない・・・

 かなり昔のことだが、弁論で座っていると、前の事件でひととおり書面のやりとりが終わった時に期日の調整が入るのかと思って待っていると、おもむろに裁判官が、「あの~。前の期日もその前の期日でも申し上げたのですが、そろそろ請求の趣旨(この裁判でどういう請求をするのか)を特定していただかないと・・・」と話しだした。
 事件番号が法廷では読み上げられるので、その時点で既に提訴してから3年が経過している事件であった。
 そうしたところ、原告代理人はぱっと立ち上がり、早口で何を言っているのか事件の中身が分からないのでより分からなかったのだが、滔々ととそこについて話をし出したのである。
 当時は今よりも一般事件が多かったので、10時に4件程度裁判が入っていて、傍聴席では次の事件を待つ弁護士が複数いたので、裁判官は「原告代理人、わかりましたので、次回期日には必ず書面を出してください」ということになった。
 そして裁判官は、時計を気にしつつ、「あと、原告代理人、これも前から申し上げているのですが、本件では除斥期間が問題となっているので、その点についての見解を明らかにしてもらわないと・・・」と話し出した。
 除斥期間ということだと、不法行為だと20年前の話である。えらい話になってきたと思っていると、原告代理人は立ち上がり、再び早口で何を言っているのか分からないが、滔々と話出したのである。
 裁判官は、次に他の事件も入っているので、再び、「では、次回期日では書面で整理してください」という話で終了となった。
 この間、被告代理人はずっとうなだれたままであった。

 たまたま私の裁判の次回期日も上記の事件と同一の期日になり、法廷に行ったところ、前の期日と全く同じやりとりが繰り返された・・・。
 その間、被告代理人は一言も発せず、ずっとうなだれたままであったのも同じであった。

 私の事件が終わり、外に出たところ、当該原告代理人がスーツの上着を肩から後ろにかけて立っていて、私の事件の名称を見て、「中くん、ややこしそうな事件やなあ」と言ってきた。
 いやいや、アンタの方がややこしいやないかい・・・と思いながら、請求の趣旨が特定されていない点と、除斥期間の点を指摘したところ、その弁護士は、「この事件和解で終われる事件なんや。裁判官は分かってない」ということであった。

 半年ほどして、たまたまその弁護士と話をして「そういえば、あの事件どうなりました」と聞くと、「和解した」ということであった。
 被告代理人はうなだれていたので、原告代理人につき合うのに疲れたのかもしれない。
 こういう弁護士もいるということである。

 
 聞いたところでは、通常は1回結審するはずの手形訴訟で2年間事件を続けたという過去もあるということであり、弁護士も様々である。
 マネをしようとは全く思わないが。。。。
 以上です。

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2016年3月14日 (月)

何にでも反対する

 議論をしていると、何にでも反対したり、異なった意見を出したりする人がいるが、これはあまり効果的でない。

 そういう人というレッテルを貼られて、「どうせまた反対したいがために反対しているんやろ」と思われてしまい、話をまともに取り上げてもらえなくなるからである。

 反対したり、異なった角度からの意見を述べることは議論をする上で重要ではあるが、自分の意見を通したいのであれば、効果的な意見の言い方をすべきであると思っている。

 日常小さいことにはあまり反対しない人が、ここぞとばかりに強く反対意見をいえば、やはり周囲の人も、「普段あまり言わない人がいうのだから、何かあるのではなかろうか」となって聞く耳を持ってもらえるのである。

 常に反対意見や異なった意見をいう人は、たまにいいことやいい視点で指摘していることもあるのだが、もはや聞く耳をもってもらえないようになると、全て流されてしまうのである。

 もっとひどく状態になると、あの人が反対するのであるから賛成しようとかいう空気にもなり、同様の意見を持っている人も、「あの人の同じと思われてはかなわない」ということで意見の萎縮効果を生むこともあるように思われる。

 ここ一番でいう意見は聞いてもらえると思うのであるが、どうであろう。

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2016年3月11日 (金)

人間ウォッチャーその1

 私はいつの頃からか人間ウォッチャーになっていて、電車の中とか、その他様々なところで色々な人を見てはいろんなことを気づくようになってしまった。
 人間に興味があるからかもしれない。
 なくて七癖というが、きっと私自身も私のような人間ウォッチャーに見られると、いろいろとあるのであろうと思っている。

 どういうところに気がつくかというと、あるとき、裁判官の話し方と声色が誰かにそっくりだと気づいて、誰かと考えていたら、ある中堅弁護士と話し方と声色が全く一緒であるということが判明した。
 似ているということを見つけると、人間はなぜこれほど嬉しくなるのか何かで読んで忘れとしまったのだが、思わずそのことを朝から友人の弁護士数名にメールで送ったところ、ひどく怒られた。
 そんなことを聞いてしまうと、その裁判官とその弁護士が弁論で話をしている場面に出くわしたら(民事の法廷の場合、いくつか同時刻に入っていて、傍聴席で待っていることがあるためである)、笑ってしまうというのである。
 私はこういうことに気づいて面白いとは思うが、笑いがこらえられないということはないので、あまり気にしていなかったのだが、ある弁護士によると、その後その裁判官を見たり、あるいは弁護士の方を見たりすると、二人が話ししてたらどうなるんだろうと想像してしまうというのである。
 それはそれで面白いと思うのであるが、何かに気づくと面白くなってしまうのである。
 続く。

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2016年3月10日 (木)

わかっていない事務員

 滅多にないのだが、ごくたまに物凄く偉そうな法律事務所の事務局がいる。

  一つあるのは、大きい事務所で事務長的な立場にいる男性事務局で、たまたま酒を飲む席などに若い弁護士がいると、「弁護士とはな・・・」と弁護士に弁護士道を語り出すパターンである。
 私も若い頃一度やられたことがある。
 まあ、人生の先輩であるし、若い弁護士からしたら当然経験もあちらの方が豊富であるし、いいたいのは分からないではないし、その事務所の中ではエライのかもしれないが、私からしたら、「アンタ何モンやねん」という気持ちであった。
 その事務所の中で事務長として若手を指導する立場にあるのかもしれないが、私はアンタに何の世話にもなってないわいと思って聞いていた。
 ただ、その事務所の弁護士も同席していたので、場を荒げることも大人げないと思って、適当に相づちを打っていた。
 女性の事務局さんでも、電話をすると非常に偉そうな人もいる(弁護士の奥さんのこともあるだろうか)。 その事務所の中ではエライのであろう。

 しかし、事務所の中で偉そうにできる地位にあるとしても、それはその事務所の中だけのことであり、それを関係のないよその弁護士にも当然そうだという態度で接されてもこちらとしては困るのである。
 私は別にアンタに世話になってないし、これからもなることもないし、偉そうに言われる筋合いはないわいと思ってしまうのである。

 おそらくはその事務所の経営者も困っていることと思うのだが、きっと注意も様々なその事務所の歴史的経緯があり、できないのであろう。
 
 本当に偉い人は、私の親分の福井先生とか、故中村利雄先生とかのように、丁寧で全く偉そうにされないと思っている。
 私も偉そうだと言われないように気をつけよう。

 以上です。

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2016年3月 9日 (水)

講演

 講演をするときも聞くときもあるが、聞く気にならない講演がある。
 それは、詳細なレジュメを用意しており、それをただ読んでいるだけの講演の時である。
 こういう時は、時間の無駄だと考えてレジュメを後で読めばよいと思って、席を立つことが多い。

 一方、レジュメは用意されているのだが、レジュメはレジュメとして、時にはレジュメから膨らみ、時にはレジュメから離れて違う話をしたり、裏話をしてくれたり、あるいは講演者が話をしているだけではなく、会場に参加させるような講演であると飽きが来ないので、聞いていても苦にならない。
 もちろん話力もあるし、中身にもよるので一概には言えないが、そのように感じている。

 あとは、その日に何を話するのかを最初に簡単にポイントで説明されると、その日の講演が頭に入ってくることが多いように思われる。読書をするときに、目次を読んで全体の構成を見てから読むと頭に入りやすいといわれているのと同じであろう(文学作品などでは読まない方がいいかもしれないが)。

 これは自分が聞くときにそう感じるので、講演をする際には、自分が聞いていた時に飽きが来なかったような内容で講演をしようとできるだけ心がけている。
 しかし、何回やっても、講演というものは難しく、やる度に反省をするのだが、次にする頃には忘れていて、同じ失敗を繰り返したりしている。
 講演で飯を食べている人は天性のものをもっているか、陰ですさまじい努力をしているのであろう。

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2016年3月 8日 (火)

読書日記3月8日

「武田信玄」歴史文化ライブラリー。平山優。
 史実の武田信玄の一部に迫る一冊(本のボリュームから限界がある)。
 信玄に至るまでの武田氏と、武田家における自家意識の高さの由来や、信玄の戦略、そして軍団編成が整理されている。
 一般の人は読む必要はないが、歴史好きなら読んで損はない一冊である。

「獣の記憶」創元推理文庫。ニーナ・プラジョーン。
 ルイ15世統治下のフランスで現実に起こった物語を基に書かれた推理小説。
 獣の噛み傷がある首のない死体が次々に発見される。
 これ自体は史実に基づいており、その謎を解くという流れで物語が進んでいくが、恋あり、裏切りあり、どんでん返しありで、史実に基づいていることもあり、ボリュームはあったが中々楽しめた。

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2016年3月 7日 (月)

農耕民族弁護士と狩猟民族弁護士

 弁護士を分類すると、表題のように大まかに分けられると思っている。
 顧問先が多数あるような大型事務所は除いて、中小規模の事務所と考えてもらいたい。
 農耕民族弁護士というのは、一定の割合で定期的に事件が入ってくるような経営方式をとっている事務所である。
 損害保険会社の顧問とか、金融機関の顧問など、事務所の事件の時には90%が特定の顧客であるような事務所である。
 安定しているが、災害(たとえば特定の顧問から断られるとか、顧問先から事件数を減らされるとか)があると、経営に打撃を与えられてしまう。
 実は私も14年と少し前に独立した時、大手損害保険会社の顧問の話が3件ほどあり、また、相当な売上が見込める金融会社の顧問の話もあった。
 それだけで、多分左うちわで暮らせるほどの売上が見込めたのである。

 しかし、特定の顧問先だけの仕事をするというのは性に合わないし、加害者の代理人をしたくなかったのと、損保会社の決裁を取らないとできないというシステムがイヤで、狩猟民族弁護士として生きていくことにしたのである。

 狩猟民族弁護士は、顧問はあっても(私も顧問先はあります)、そこから毎月安定的に事件が来る訳ではなく、ありていに言えば、「あるかないか分からない」という状態の弁護士である。
 ただ、特定の事件に偏りがないので、たくさんの種類の事件をこなすようになる。
 低額または定額で依頼を受ける毎月多数の事件が来る先もない代わりに、時には多額の報酬を得ることもできる。
 大間のマグロ漁師のようなところがある。
 もちろん、着手金が1万円とか、3万円という事件もざらにある。
 狩猟民族弁護士は特定の顧問から切られるというような災害に遭うことがないと思っている。
 どちらを取るかは生き方であるが、個人的には狩猟民族弁護士の方が面白いと思っている。
 いろいろな過去の依頼者から紹介を受けて、細々とやっているが、ルーティンの仕事をするのは性に合っていないところもあり、一つ一つの事件が個別具体的で、考えないといけないことも多いが、その方がやりがいもあるのである。

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2016年3月 4日 (金)

2次会には行く

 2次会には行くなというタイトルの本が売っており、中身は読んでいないが、私は2次会には行くべしという考え方である。
 体調のこともあるし、懐具合もあるだろうし、全ての2次会に行くべしとまではいわないが、たいていの若手弁護士は2次会に来ず、帰ることが多い。

 若手とベテランを比較すると、ベテランの方が忙しいのであるが、ベテランの方が処理能力が早いため、若手が仕事に時間がかかるというところもあるだろうが、2次会に行って様々な人と話す方が、今後の仕事の財産になったりする。

 2次会で先輩方から聞いた話が事件処理の中で役立っていることは多々ある。危機管理の問題であるとか、あるいはゴシップ情報とか、笑い話とか、ベテランから話を聞くことができれば、今後の弁護士人生に役立つのである。

 司法修習生も同じで、私が修習生の時は1次会で帰るというようなことは考えられなかった。

 無理のない範囲ではあるが、私は2次会に行くべきであると思っている。
 2次会に行かずにお酒の入った状態で事務所に戻ってもたいした仕事はできない。
 それよりは、長い目で見て、「いい話」を聞くことができる2次会の方に顔を出す方がよぼいいのである。

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2016年3月 3日 (木)

ハメを外す

 いつも肩に力が入っていては疲れるばかりだと思うので、時にはバカになることも必要であると思っている。
 ハメを外すべき時に、ハメを外せることもまた大事だと思うのである。

 宴会などでは、私と私の親友の吉田誠司弁護士は、だいたい最後までつき合い、最終エントリー組に残ることになるが、彼も私も若いものよりもハメを外している。
 ある程度年齢がいった方がタガがゆるんでいいのかもしれず、若者よりもむしろ40代、50代がハメを外しているようである。

 

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2016年3月 2日 (水)

何よ~という感じの小次郎(二代目)

 朝から膝に乗せろ乗せろというので膝の上に乗せて首筋をもみもみしていると、「何よ~」という感じでちろっと見てくる小次郎(二代目)である。

 猫ブームということであり、私は猫も好きなのであるが、犬もかわいいのである。
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2016年3月 1日 (火)

書き言葉と話し言葉

 文章を添削していると、書き言葉と話し言葉が混在している文章に出会うことが多い。
 もちろん日本語も時の流れとともに変わっていくものであるとはいえ、やはり基本的なルールを守った方がよいと思っている。
 そうした場合、これは「話し言葉」であり、書き言葉ではこうした方がよいということを指導するようにしている。
 頭の中で考えているので、話し言葉になりがちなのであろう。

 事務所開設の案内や、お礼状で、先日、(笑)という言葉を使用している文章を見た。若者であるため、メールなどではそうした文章を使うのが日常化しているものと思われるが、やはりきちんとした文章を書かないと、「若いから仕方ない」では済まされず、「言葉の使い方も分かってない」弁護士であるという評価をされて、そうした弁護士に多忙であるときに事件を共同受任するときに声を掛けようとは思ってもらえないであろう。
 (笑)というのは、対談やインタビュー記事でその場の雰囲気を出すために使われる言葉であり、改まった文章で使うべきではなかろう。
 一つ一つの行動というのは中々難しいところがあるのだ。

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