不機嫌な早川さん
相談票を持って早川さんに渡すと、早川さんは、
「コピーは必要ですか?」
といった。
早川さんの目は、眼鏡の奥でにぶい、非難するような光を放っていた。
先ほど見た時は胸のブラウスのボタンは二つ外されていたが、今は一つしか空いていなかった。先ほどはたまたま外れていたのか、あるいは私向けのサービスショットだったのだろうか。暑さのせいか、私は要らないところばかり観察しているようであるが、そもそも、人間のいろいろなところを見てしまう癖のある40歳男が私なのだ。
「継続相談にしたのでコピーをください。」
私は顔色も変えずそういった。彼女の目のにぶい光をちらりと見たが、私自身、早川さんから非難される覚えはないはずだった。
早川さんは顔を少し寄せてきて、小声で
「すごい綺麗な人でしたね。芸能人みたい。綺麗な人だったし、真田先生もいつもより相談時間が長かったのじゃないかしら?真田先生は頭が切れるから、いつもは相談時間は短いですもんね。」
とささやいてきた。どうやら彼女の非難は私が美ぼうの相談者と長時間相談をしていたことにあるらしい。しかし、規定の相談時間をわずか5分ばかり過ぎたところで、このようないわれをされることはなかろう。
彼女は山名恵子とは違う種類の香水をつけているようで、その甘い、強い香りが近づいた時に私の方に漂ってきた。それは私の好きな香りではなかった。そもそも、私は犬ほどではないが、普通の人よりは鼻が利くので、強い香水の匂いは苦手だった。香水の香りが私を捉えられないよう、また、真夏の暑い昼下がりの弁護士会館の受付といういわば公共スペースにおいて、早川さんにこうした媚態を作らせないように、彼女が気を悪くしない程度に少し顔を離した。
「確かに綺麗な人だが、それだけだ。私の好みじゃないね。また、彼女は見かけ通りの女じゃないような気がする。」
「あら、そうなんですか。真田先生がそうおっしゃるのなら、きっとそうなんですね。」
そういうと、彼女はくるりと椅子を回すと、軽やかに奧のコピー機の方に小走りで駆けていった。
確か騒音レベルでいうと通常の業務をするには支障があるとの判定が出た大型コピー機でコピーを済ませ、相談票のコピーを持って戻ってくると、また、早川さんは私が避けようとする逆を衝いて顔を寄せてきて、
「また、飲みに連れて行ってくださいね。」
というと、何事もなかったかのように席に戻ってしまった。
返事をいう余裕もなく、私は馬鹿な顔をして(いたと思うのだが)一瞬呆然となってしまった。
それに対する返事を返そうかと思ったが、今受付で返事をすることもあるまいと思って、荷物を取りに相談室に戻り、荷物を鞄にいつものように適当に詰めこんで、受付に戻ると早川さんは接客中だった。
応対している相手の男性は、60歳から70歳くらいで、疲れ切ったような顔をして、目の下の皮膚がたるんでいた。頭は頭頂部の髪がほぼなくなりかけていて、髪の毛の色はほとんど白髪だった。無精ひげがまばらに生えていたが、そのひげもほとんどが白くなっていた。
その男性は、暑さのせいか、白地のTシャツに短いダークグレーのズボン姿で、足下はサンダルだった。
両手に古ぼけた紙袋を下げて、その中にファイルがたくさん詰まっていた。おそらく、最高裁まで行って敗訴したという事件か、現在高裁で継続していて、一審敗訴したような事件の相談であろうと推測がついた。彼にとってそのファイルは自分の戦いの全てであり、勝訴という夢が詰まっており、現在依頼している弁護士では敗訴したが、別の凄腕の弁護士がそのファイルを読めば、「絶対に勝てます。」と言ってくれると信じて、相談をはしごするタイプのように見えた。
しかし、多くの場合、その夢がかなうことはなく、彼は肩を落として帰路につくことになる。
早川さんが私の方をちらりと見た。しかし、これ以上本来の相談をさせられてはかなわない。
後ろの席にいる相談課のほかの職員に残りの待機時間中は4階で休憩していることを告げて、私はエレベーターでもう一度弁護士会館の4階に上がった。
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