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2011年1月

2011年1月24日 (月)

不機嫌な早川さん

 相談票を持って早川さんに渡すと、早川さんは、
「コピーは必要ですか?」
といった。
 早川さんの目は、眼鏡の奥でにぶい、非難するような光を放っていた。
 先ほど見た時は胸のブラウスのボタンは二つ外されていたが、今は一つしか空いていなかった。先ほどはたまたま外れていたのか、あるいは私向けのサービスショットだったのだろうか。暑さのせいか、私は要らないところばかり観察しているようであるが、そもそも、人間のいろいろなところを見てしまう癖のある40歳男が私なのだ。
 「継続相談にしたのでコピーをください。」
 私は顔色も変えずそういった。彼女の目のにぶい光をちらりと見たが、私自身、早川さんから非難される覚えはないはずだった。
 早川さんは顔を少し寄せてきて、小声で
「すごい綺麗な人でしたね。芸能人みたい。綺麗な人だったし、真田先生もいつもより相談時間が長かったのじゃないかしら?真田先生は頭が切れるから、いつもは相談時間は短いですもんね。」
 とささやいてきた。どうやら彼女の非難は私が美ぼうの相談者と長時間相談をしていたことにあるらしい。しかし、規定の相談時間をわずか5分ばかり過ぎたところで、このようないわれをされることはなかろう。
 彼女は山名恵子とは違う種類の香水をつけているようで、その甘い、強い香りが近づいた時に私の方に漂ってきた。それは私の好きな香りではなかった。そもそも、私は犬ほどではないが、普通の人よりは鼻が利くので、強い香水の匂いは苦手だった。香水の香りが私を捉えられないよう、また、真夏の暑い昼下がりの弁護士会館の受付といういわば公共スペースにおいて、早川さんにこうした媚態を作らせないように、彼女が気を悪くしない程度に少し顔を離した。
「確かに綺麗な人だが、それだけだ。私の好みじゃないね。また、彼女は見かけ通りの女じゃないような気がする。」
「あら、そうなんですか。真田先生がそうおっしゃるのなら、きっとそうなんですね。」
 そういうと、彼女はくるりと椅子を回すと、軽やかに奧のコピー機の方に小走りで駆けていった。
 確か騒音レベルでいうと通常の業務をするには支障があるとの判定が出た大型コピー機でコピーを済ませ、相談票のコピーを持って戻ってくると、また、早川さんは私が避けようとする逆を衝いて顔を寄せてきて、
 「また、飲みに連れて行ってくださいね。」
 というと、何事もなかったかのように席に戻ってしまった。
 返事をいう余裕もなく、私は馬鹿な顔をして(いたと思うのだが)一瞬呆然となってしまった。
 それに対する返事を返そうかと思ったが、今受付で返事をすることもあるまいと思って、荷物を取りに相談室に戻り、荷物を鞄にいつものように適当に詰めこんで、受付に戻ると早川さんは接客中だった。
 応対している相手の男性は、60歳から70歳くらいで、疲れ切ったような顔をして、目の下の皮膚がたるんでいた。頭は頭頂部の髪がほぼなくなりかけていて、髪の毛の色はほとんど白髪だった。無精ひげがまばらに生えていたが、そのひげもほとんどが白くなっていた。
 その男性は、暑さのせいか、白地のTシャツに短いダークグレーのズボン姿で、足下はサンダルだった。
 両手に古ぼけた紙袋を下げて、その中にファイルがたくさん詰まっていた。おそらく、最高裁まで行って敗訴したという事件か、現在高裁で継続していて、一審敗訴したような事件の相談であろうと推測がついた。彼にとってそのファイルは自分の戦いの全てであり、勝訴という夢が詰まっており、現在依頼している弁護士では敗訴したが、別の凄腕の弁護士がそのファイルを読めば、「絶対に勝てます。」と言ってくれると信じて、相談をはしごするタイプのように見えた。
 しかし、多くの場合、その夢がかなうことはなく、彼は肩を落として帰路につくことになる。
 早川さんが私の方をちらりと見た。しかし、これ以上本来の相談をさせられてはかなわない。
 後ろの席にいる相談課のほかの職員に残りの待機時間中は4階で休憩していることを告げて、私はエレベーターでもう一度弁護士会館の4階に上がった。

2011年1月17日 (月)

相談終了

 山名恵子が名刺を受け取るときに、少し彼女の指先が私の指先に触れた。
 彼女は小さく、
 「あ・・・。」
 と言ったが、私は特に何も言わなかった。私自身、名刺を渡すときに指先が触れて、どきまぎするような歳でもないし、山名恵子も結婚もしているのだからそのはずであった。
 私は奈良の大仏が顔色を変えないほどに、特に顔色も変えなかった。
 「私の方に依頼されたいときには、その名刺のところにお電話ください。」
 そういうと、ちらりと山名恵子の顔を見た。
 山名恵子は、
 「分かりました。数日中にはお電話させていただきます。」
 と頭を下げると、ハンドバッグの中にメモ帳などをしまい込み、席を立った。その立ち上がり方も私の気に入らなかった。男に見られているということを意識している素振りが私には分かるのだった。経験のない男性であれば、その立ち上がり方にも見とれたであろうが、私は少なくともそんな年齢ではない。
 おんどりが鳴き疲れた程度に、人生と仕事に少し疲れてはいるが、酒を飲み、葉巻を吸い、サッカーをこよなく愛し、読書を趣味としている40男だった。こうした女性の仕草にいちいち敏感になるような年齢でもないのだった。もちろん、女性に興味がない訳ではないが、山名恵子のうわべにとらわれるような年齢ではなかった。
 山名恵子は席を立ち、「失礼します」と言って出て行った。後の相談室には少し彼女の香りが残っていたが、私は女性のつける香水には全くといっていいほど無知なので、それがどこのブランドの香水かということにも気が回らなかった。
 私は胸のポケットに刺しているパーカーの白地に黒色の模様が入った、デュオフォールドの万年筆を取り出すと、簡単に相談票に相談内容と相談結果を書き込み、結果欄のところの「相談継続」に丸印をつけた。
 相談時間は弁護士会の相談時間の30分を少し過ぎて、35分となっていた。
 次の相談は入っていなかったはずなので、ダークブルーの万年筆のインクが乾いた頃を見計らって、その相談票を受付の方に持っていくと、受付の早川さんがこちらをちらりと見た。

2011年1月10日 (月)

依頼について検討すると言った山名恵子

      山名恵子は私の回答を聞いて、小首をかしげて右手をほおに当てて、どこを見ているのかわからないような、それでいて考えるような目をした。その目は私を見ていない。
      このような仕草は、彼女が男性に対して「見られている」ことを常に意識していることのあらわれではないのかという気持ちが私の頭によぎった。これは、私が疑り深すぎるだけかもしれないという気持ちもどこかにあったのだが、私のそんな考えは山名恵子の言葉で熟睡しているところをたたき起こされるかのように突如として遮られた。
      「一度、考えさせていただいてよろしいでしょうか。相談したい人もいますので。」
      「分かりました。私の方は全然結構です。」
      「先生にご依頼させていただきたいと思ったら、次はどうしたらよいのでしょうか。」
      「私の事務所に連絡をいただければ結構です。今日ここの相談で聞いた山名ということで。相談票には継続相談としておきますので、もし、私を依頼されない場合にはまたご連絡ください。弁護士会の方に事件を受任したかどうかの報告をする必要がありますので。」
      「分かりました。あの・・・、お名刺か何かをちょうだいすることは出来ますでしょうか?」
      そういうと、彼女はじっと私の目を見た。いや、見ているようなそぶりをした。私が経験のない弁護士であれば、こういう仕草にどきまぎしたかもしれない。しかし、彼女の瞳はブロンズ像の目のように一点を見つめて動いていなかった。人間の目は、猫と同様に、動いているものを追う習性がある。本当に相手の目を見つめていれば、見つめている人間の瞳も動くのだ。これは、目を見るそぶりをして、私の目の少し上あたりを見つめているにすぎない。
      (夜の仕事をしていたことがあるのか・・・?)
      瞬間、私はそう思ったが、それは私にとってどうでもいいことだった。隣国で餓死者が出ていても、街にあふれかえるコンビニでは弁当が捨てられ、拒食症に悩む人が多数居て、ダイエット本が飛ぶように売れ、カロリー計算ばかりをしているこの国の国民がそれを気にしないのと同様、山名恵子の過去について私が気にする必要はどこにもないのだった。
      私は、床に置いてあったバスファインダーというくたびれた黒色のナイロン製の鞄のジッパーを開けて、濃い藍色の名刺入れを取り出して、中から名刺を一枚取り出して、両手で山名恵子の方に差し出した。

2011年1月 3日 (月)

弁護士の費用

      「弁護士の費用は通常二段階に別れています。事件に着手する時に着手金をいただいて、事件が解決した時に解決の度合いに応じて成功報酬をいただくこととなります。時間制、いわゆるタイムチャージで弁護士報酬を計算するやり方もありますが、東京の企業から事件依頼を受ける大手の事務所以外はあまり採用していないのではないかと思います。今は、報酬の基準というものが廃止されたので、それぞれの事務所で基準が異なります。私の事務所で事件を受ける場合、離婚事件の場合は、着手金は20万円~50万円の範囲で、報酬もその範囲で決定することとなりますが、金銭請求や、DV特有の手続をする場合には、また協議させていただくこととなります。あと、費用の一括払いが難しい人で、所得が一定の基準以下の人の場合には、国が弁護士費用を立て替えてくれる制度もあります。具体的には、もっとお話を聞いて、依頼を受ける時でないと金額は出せませんが、まあおおむねそんなところです。」
      と、私はいつも説明している内容を話しをした。しかし、内心では、山名恵子という女性が若干わからなくなっていたので(女性がわかることなど星の数を数えられないのと同じくらい分からないことなのだろうが、依頼人として理解出来ないところがあるという意味において)、ここで受任して欲しいといわれた時、どうすればよいかという思いでいた。
      そんな私の思いに気付いているのか、気付いていないのか、山名恵子は、
      「費用は出てくる時にそれなりに現預金を持ち出したので、用意出来ます。もし、私が先生に依頼したいと思ったとして、依頼をするかどうか、今決めないといけないでしょうか?」
      といった。そういった時の彼女の目には、先ほど見せた猫のような色合いはやはり消えていた。まじめな、離婚に悩む女性の目のように見えた。小学校からずっと風紀委員を務めてきて、そろばん塾にまじめに通い、そろばんは一級を持っていて、おまけに習字まで習っていて、塾の帰りに歩きながらコンビニで買ったものを食べるなど思いもよらないというような目だった。
      「いや、今決められる必要はありません。大事なことですし、今さっきお会いしたばかりですから、帰られて決められても全然結構です。」
      「先生は、私が依頼をしたいといえば、お引き受け下さるのでしょうか?」
      私が心の中で逡巡していたことに対する質問が来た。しかし、私はその逡巡を表情にはきっと出さず、
      「私の方で依頼を断る理由は今お聞きした話からすると、どこにもありません。」
      と答えた。多忙であるとかという理由で断ることも出来たはずだった。しかし、この真夏日に、弁護士会まで日焼けすることも厭わずわざわざやってきて、しかも受付の早川さんが胸の谷間を見せながら私に本来の相談でないにも関わらず聞いて欲しいといわれた女性の相談者の依頼を断るということは出来ない相談だった。これは、私の性格なのである。この性格のため、時にはのっぴきならないはめに陥ったこともある男、真田隆一郎。きっと、今回もそんな嫌な予感は当たるのかもしれない。ただ、私が考えすぎているだけで、当たらないかもしれない。真夏日の日光が私の頭をうすらぼんやりとさせているだけかもしれない。しかし、それがどうであっても、私が断るという選択をすることは性格上出来ないのだった。

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