無料ブログはココログ

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011年2月

2011年2月22日 (火)

未処理の山

 野原は自分の机から私のブースの方にのっそりと来ると、
「後でお時間いいですか。」
 といった。
 あまり相手の目を見ない、独特の彼の話し方だった。目を見ると、石化してしまうとでも考えているのかと時折思うことがある。
「今いいよ。」
 今帰ってきたばかりで、急ぎの仕事があるかどうかも分からない。依頼者からすれば全て急ぎの仕事で、自分の事件は他人の事件よりも優先的に処理をし、解決して欲しいと思っている。しかし、同時に全ての事件処理をすることは出来ない。1日1日、あるいは、数日、場合によれば1週間と、そのターンの中で、我々弁護士は場面場面で優先的に処理する業務を選択していくしかない。私はちらりと未処理の書類が重ねてある箱の中を見たが、そこに書類が重ねてあるのはいつものことだし、未処理の書類が空になると次の瞬間には事務員が新たな書類や記録を持参してきてくれるので、あまり今はそのことを考えないことにした。
「いいですか。」
 と野原はぼそりというと、
「田山さんの事件ですけど、事前に先生にも報告を上げている内容で、今日和解出来ました。」 といった。
 長年紛争が続いていた親族間の紛争であった。確か、野原が勤務弁護士として事務所に入った頃に配点した事件だった。そうすると、既に4年近くになっているだろう。
「よかったな。家裁には田山さんも来てたのかな?」
「はい。まだ文句はあるみたいですけど、まあ仕方ないってことになりました。」
「了解。また調書が来たら見せてもらう。」
「はい。」
「後は何かある?」
「他の案件は、報告書で上げておいたので、それで何かあったらまた聞いて下さい。」
「わかった。」
 野原は自分のブースに戻ると、パソコンを打ち出した。カタカタとキーを叩く音が響いている。
 私は、未処理案件が入っている箱の中を空にするべきか、パソコンのメールをチェックすべきか、電話メモを見るべきか悩んだ。今日はこの後は特に打合などは入っていない。これらを処理すれば、裁判に出す書面を書く時間を作れるのだ。人に与えられている時間は同じであるので、その中でいかに効率よく仕事をするかということは弁護士のような職業にとっては重要だった。ここで、いつまでも悩んでいる弁護士もいるが、悩む前にどれかにとりかかるべきなのである。そうしなければ、時間はその間にも失われていくのである。
 結局、私は電話メモから見ることにした。いつも一瞬悩むが、けっきょくいつも電話メモから見るのだった。電話が欲しいという人は私からの電話を待っているに違いないし、電話をくれた人はかけ直した時にいるかどうかも分からないからである。
 名誉毀損の訴訟提起を依頼した人からのメモを取り上げると、内容を確認して、机の上の万年筆を取り出して、事務員に訴訟を出すようにという指示をメモ用紙に書いて処理済みの箱に入れた。
 その時、内線が鳴った。

2011年2月14日 (月)

真田法律事務所

 竹屋町通りを東に進み、寺町を南へ下がった。日陰を出来るだけ探して歩く。若い頃には日陰を探して歩くなどということはなかったのだが、数年前からはこうして日陰を歩くようになった。
 学校が終わった小学生が4人でうだるような暑さの中を元気に駆けていく。男の子1人を女の子3人が追いかけている。男の子は子役のような整った顔立ちで、「やめてー。」と可愛らしい声を出している。
 可愛らしい声を出すその男の子を3人の女の子が追いかけては背中に手を触れて、ころころと笑っている。
 彼女達は、この男の子が好きなのだろうか。4人とも汗を流しながら、寺町通りを南へ下っていった。犬の子がじゃれているようだ。いつまでも純真な子どもであればいいのだが、そういう訳にもいくまい。あの男の子も「男」になり、あの女の子たちも、「女」になる時が来て、社会という枠の中で、無垢なままでは生きていけなくなるだろう。
 二条寺町通りを東に進んで、河原町通りの中程にある、1階に薬局があるビルの5階が私の事務所だった。
 エレベーターで5階まで上がり、鉄製のドアを開けて事務所に入った。
 「ただいま。」
 代わり映えのしない声でいつものように事務所に戻ったことを告げる。弁護士会から事務所まで歩いて、頭から汗が流れていたので、ハンカチで顔を拭った。
 「お帰りなさいませ。」
 3人の事務員は全員事務所に居た。外回りはもう済ませたのだろう。
 入口から近い順に、大分さん、山田さん、河西さんが座っている。
 大分さんは一度事務員として私が独立した時から事務所で働いてくれていたが、結婚を機に退職した女性で、子どもが生まれてからたまたまアルバイトで復帰してくれることになった。背が高く、スタイルがよく、甘い声をしている。ちょっといないくらいの美人で、事務所を開設した時、他の弁護士から「顔で選んだやろ」と言われたものだった。
 当然、私は、顔で選んだ訳ではなく、彼女の事務処理能力を見込んで採用したのであった。
 山田さんは小柄で可愛い女性で、女優の宮﨑あおいに似ている。彼女は正社員で、事務所を開設して数年が経過して勤務弁護士の野原悠一を採用した時に事務局員の人数を増やすために入ってもらったのだった。細かい仕事でも、適確にこなしてくれる女性だった。
 河西さんは年齢は私と近いはずであるが、どう見ても20台後半から30台前半にしか見えない女性だった。私も若く見えるといわれるが、彼女を採用した時には、「また若い事務員さんをとらはったなあ。」と言われたものである。笑顔が魅力的な可愛い女性で、彼女が筆頭事務員になってから、明らかに依頼者が増えたのだった。
 彼女達に挨拶をして、事務所の奥の机に歩いていくと、手前のブースで仕事をしていた勤務弁護士の野原悠一が机からのっそりと顔を上げた。
 「お帰りなさい。」
 「ただいま。」
 そういうと、私は野原君の前を通り過ぎて、鞄を自分の机の下に置いた。弁護士の鞄は一般的に重いのである。

2011年2月 8日 (火)

小森副会長

 携帯電話にはメールの受信が1件あった。事務所からのものだった。
 私の事務所では、私が不在の時間が3時間程度になるようであれば、その間に来た電話の概要やファックスの概要を私の携帯のメールに送るようになっている。
 メールを開くと、用件は4件だった。事務局の大分さんが打ってくれたものだった。
 2件は電話の報告で、名誉毀損の訴状案を送っていた依頼者から内容について了解したので提訴して欲しいというものだった。もう1件は、従前依頼を受けていた交通事故の被害者の方からの紹介の人から、新件の交通事故の相談をしたいというもので、死亡事故の事案だった。
 2件はファックスの報告で、先日新たに受けた離婚事件の着手金の入金があったというものだった。私の事務所では、着手金・報酬の入金口座と、預かり金の入金口座に入金があれば、自動的にファックスで銀行から知らせるサービスに入っていたので、ファックスが流れてくるのだった。
 もう1件は相手方から答弁書が出たというものだった。
 特に今事務局に連絡を返す必要もないものばかりだったので、ブラインドでやや薄暗い喫煙室から、外を見た。通りは太陽に照らされて、影1つなかった。道を歩く人も喘ぐように歩いている。
 鞄から文庫本(司馬遼太郎のエッセイ集)を取り出して、読み始めたが、早川さんのことを考えたり、山名恵子のことを考えたりして、最初はあまり集中出来なかった。
 少し集中して本が読めるようになって、ふと時計を見ると、時間は待機時間を2分過ぎていた。
 私は荷物をまとめ、階段で1階に降りて受付のところに歩いていった。先ほど早川さんを困らせているように見えた相談者が声を荒げていて、今年の副会長の小森副会長が対応していた。小森副会長は私と同期だが、私よりも年はだいぶ上だった。肥満体質で、半袖のシャツを着ていたが、お腹の部分のシャツが少しまくれて飛び出していた。少なくなった頭髪に汗が滲んでいて、黒縁の眼鏡の奥で小さい眼が困惑していた。
 小森副会長は私の方をちらりと見て救いを求めるような表情をしたが、弁護士会館に来てトラブルを起こす人物をうまく対応して帰ってもらうというのも副会長の重要な仕事であり、いくら同期とはいえ、私が助ける筋合いでもないので、その横をすり抜けて早川さんのところに行き、「相談は終了でいいのかな。」と聞いた。
 「はい。あれから飛び込みの方はおられませんでした。お疲れ様でした。」
 彼女はなぜか赤い眼鏡を今は外していたが、それを聞くことも余り意味はないだろうし、後ろで怒鳴り声が聞こえ続けていたので、このままここに居ては私も巻き込まれかねない。私は早々に弁護士会を退散することにした。
 どうも、相談料を支払うのが嫌なようで、それでごねているようだった。しかし、やはりこれは小森副会長の仕事なので、そこまで私が首を突っ込むこともないと考えて、うだるような富小路通りに出た。

2011年2月 1日 (火)

蝉の鳴き声

 弁護士会の4階に上がると、相変わらず人は居なかった。今日の暑さでは、外に出る気も失せるのかもしれない。裁判所は夏期休廷期間で、半分しか裁判は入っていないので、裁判に出てくる弁護士も少ないのだろう。また、司法改革の流れの中で弁護士が大増員され、1人1人の弁護士が持っている事件数も減っているといわれていた。
 こんな暑い日に、外に出るのは、クマゼミくらいのものだろう。相変わらず、周囲の木ではクマゼミが鳴き続けている。
 うろ覚えの私の知識によれば、彼ら(彼女もいるだろうが)は成虫になると、1週間程度しか生きていられないはずだった。地中で数年を過ごし、外に出て1週間程度で死んでいくのだった。
 小学生の頃、私は田舎で蝉を捕ることにはまり、近くの木にとまっている蝉という蝉を取り尽くして、それでも飽きたらず、夕方蛹から成虫になるところの蝉を捕ったりしたものだが、今から思うと残酷なことをしたものである。
 子どもは純真だが、純真であるからこそ、残酷でもある。バッタやコオロギをカマキリと同じ虫かごで飼って、カマキリのエサにしてしまったこともあった。いったい彼らの命はどこに消えたのというのだろう。
 口の中が苦い気がしたので、お茶が無料で出てくる機械の前に歩いて行き、冷たい緑茶のボタンを押して一息に飲み干した。無人の4階に私の革靴の足音とクーラーの音だけが響いていた。
 山名恵子という女性には、何かある。それが何であるか、そこまでは私にも分からなかったが、彼女が見せている外面の仕草や話し方、それ以外に何かがあるということしか分からなかった。
 しかし、彼女が私に事件の依頼をするかどうかも分からない状況で、そんなことを考えることが無駄なことも分かっていた。現実に事務所に電話があり、私に依頼をしたいという意向を告げ、事務所で打合をするまではそのことを考えることは無駄なことは十分分かっていた。私は山名恵子のことを考えることを辞めることにした。
 苦い口の中は緑茶を飲んだことで少しさっぱりとしたが、次には受付の早川さんのことを考えていた。
 彼女は私と飲みに行きたがっていて、それは私に対する好意から来ていることは明らかであったし、以前副会長をしていた時、帰り道が一緒だったのでタクシーに乗った時に彼女が私にしてきた行動からも私に好意を持っていることは明らかだった。それも、私を1人の男性として見ているという意味でのそれだった。
 彼女は帰り道のタクシーで私の手を握ると自分の胸の中にその手を持っていき、私にキスをしてきたのだった。降りる際に彼女は一人暮らしで、自宅には誰もいないといわれたが、副会長がそんなことをするわけにはいかないとやんわりと断ったのだった。
 彼女は、「誰にでもこんなことさせませんから」
 といって軽やかに自宅に入っていったが、私は何もしておらず、何と答えていいか分からなかった。
 彼女は若く、美しく、性的な魅力に富んでいるが、しかし、私が彼女を飲みに誘うことはないだろう。
 真田隆一郎は40歳で、仕事が忙しく、そうした暇がないことにすればいいだろうし、そうしている間に彼女は他に好きな男性を見つけることだろう。
 相談の待機時間はまだ後30分近くあったので、私はもう一度喫煙スペースに入り、携帯を取り出しながらコヒーバのシガレットに火をつけた。

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

最近のトラックバック

最近のコメント

2021年1月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31