未処理の山
野原は自分の机から私のブースの方にのっそりと来ると、
「後でお時間いいですか。」
といった。
あまり相手の目を見ない、独特の彼の話し方だった。目を見ると、石化してしまうとでも考えているのかと時折思うことがある。
「今いいよ。」
今帰ってきたばかりで、急ぎの仕事があるかどうかも分からない。依頼者からすれば全て急ぎの仕事で、自分の事件は他人の事件よりも優先的に処理をし、解決して欲しいと思っている。しかし、同時に全ての事件処理をすることは出来ない。1日1日、あるいは、数日、場合によれば1週間と、そのターンの中で、我々弁護士は場面場面で優先的に処理する業務を選択していくしかない。私はちらりと未処理の書類が重ねてある箱の中を見たが、そこに書類が重ねてあるのはいつものことだし、未処理の書類が空になると次の瞬間には事務員が新たな書類や記録を持参してきてくれるので、あまり今はそのことを考えないことにした。
「いいですか。」
と野原はぼそりというと、
「田山さんの事件ですけど、事前に先生にも報告を上げている内容で、今日和解出来ました。」 といった。
長年紛争が続いていた親族間の紛争であった。確か、野原が勤務弁護士として事務所に入った頃に配点した事件だった。そうすると、既に4年近くになっているだろう。
「よかったな。家裁には田山さんも来てたのかな?」
「はい。まだ文句はあるみたいですけど、まあ仕方ないってことになりました。」
「了解。また調書が来たら見せてもらう。」
「はい。」
「後は何かある?」
「他の案件は、報告書で上げておいたので、それで何かあったらまた聞いて下さい。」
「わかった。」
野原は自分のブースに戻ると、パソコンを打ち出した。カタカタとキーを叩く音が響いている。
私は、未処理案件が入っている箱の中を空にするべきか、パソコンのメールをチェックすべきか、電話メモを見るべきか悩んだ。今日はこの後は特に打合などは入っていない。これらを処理すれば、裁判に出す書面を書く時間を作れるのだ。人に与えられている時間は同じであるので、その中でいかに効率よく仕事をするかということは弁護士のような職業にとっては重要だった。ここで、いつまでも悩んでいる弁護士もいるが、悩む前にどれかにとりかかるべきなのである。そうしなければ、時間はその間にも失われていくのである。
結局、私は電話メモから見ることにした。いつも一瞬悩むが、けっきょくいつも電話メモから見るのだった。電話が欲しいという人は私からの電話を待っているに違いないし、電話をくれた人はかけ直した時にいるかどうかも分からないからである。
名誉毀損の訴訟提起を依頼した人からのメモを取り上げると、内容を確認して、机の上の万年筆を取り出して、事務員に訴訟を出すようにという指示をメモ用紙に書いて処理済みの箱に入れた。
その時、内線が鳴った。
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